サムシングニュー

2022年5月15日主日礼拝 メッセンジャー:小田シェリー姉

"サムシング ニュー"

聖書の朗読 使徒言行録11: 1-18 詩篇148篇

黙示録21: 1-6 ヨハネ13:31-35

 皆さん、おはようございます。皆さんの前に立ち、本日のメッセージを分かち合うことがで き、嬉しく思います。主の御霊が私たちの心を開いてくださり、このメッセージを通して主の教え を受け取ることができますように、お祈りいたします。

 私がメッセージで何を話したら良いのかについて祈っていた時、あることを思い出しました。 それは、ルーテル教会でずうっと用いられてきた慣習についてです。全てのルーテル教会におい て、教会年度のカレンダーに基づいて、毎週日曜日に共通の聖書の箇所を朗読をするという習慣が あります。

 この慣習は、"聖書日課 “に基づいたものです。そこで少し調べてみると、1992年以降、ルーテ ル派やバプティスト派を含む世界中のさまざまな教派の教会で、『改訂版共通聖書日課』 (RCL)というものが使われていることを知りました。4箇所の聖書の朗読が日曜日ごとの礼拝で 共有されています。旧約聖書の朗読(イースター後の数週間は使徒言行録の朗読に置き換わる)、 詩篇、新約聖書の「福音書以外の」朗読、そして最後に福音書の朗読という構成です。通常これ らのレッスンは何らかのテーマと結びついており、レッスンを結びつけ、理解し、記憶するのに役 立つテーマとなっています。

 共通聖書日課は、三つからなる年間朗読サイクルに基づいています。A年:毎週日曜日にマタイ による福音書が読まれ、B年:マルコによる福音書が読まれ、C年:ルカによる福音書が読まれま す。ヨハネによる福音書は、待降節、クリスマス、イースターの特別な季節を通して読まれます。 旧約聖書、詩編、新約聖書の朗読は、各サイクルごとに異なります。

 この共通聖書日課によると、今はサイクルCで、今日2022年5月15日はイースターの第5主日で す。素晴らしいことだと思いませんか?イースターは一日だけの日曜日ではなく、イエス様の復活 と、復活後の弟子たちの人生に起こったことを心に留めておく時期として認識されているのです。 イースターの日曜日は、イエス様が復活されてから50日後の第8週目、つまり弟子たちに聖霊が注 がれたペンテコステのお祝いまで続きます。

 では、なぜ共通聖書日課を使うのでしょうか。新約聖書によると、初期のユダヤ人クリスチャ ンは、安息日の礼拝に集まったとき、ユダヤ教の聖典を読む習慣を続けていました。このユダヤ 教の聖典は、私たちが "旧約聖書 “と呼ぶものです。ユダヤ人クリスチャンは、安息日ごとにモー セやダビデ、預言者たちの話を聞くことに慣れていたのです。イエス様がシナゴーグを訪問された とき、預言者たちの言葉を読まれたのを覚えていますか?その後、使徒たちの手紙や4つの福音書 が加わり、現在の「新約聖書」となりました。おそらく、初期の教会指導者たちは、人々が信仰 を深めるためには、定期的に主の言葉を伝えるという一貫性が重要であると考えたのでしょう。

 

 イエス様についての大切な話があり、使徒たちの手紙には、信仰を深めるための大切な教えが 書かれていたのです。また、当時から何世紀にもわたって、多くの人々は印刷された聖書を読むこ とができなかったことを思い出してください。イエスが約束のメシアであることを証するユダヤ教 の聖書を共有し、初期の教会指導者たち(使徒たち)の著作を共有することは、イエス・キリス トとその救いのメッセージに焦点を当て続けるために重要なことだったのです。当時は個人で持 つことのできる聖書がなかったので、弟子たちが直に見た真理を伝えるために、礼拝で共有され る朗読が非常に重要だったのです。

 そのため、ユダヤ教会と初代キリスト教会の基礎となる重要な聖書の朗読を、すべての信者が 聞くことができるように、いくつかの教会で共通聖書日課が決められるようになりました。

 今日は、この日のために選ばれた朗読を見てみたいと思います。今日、世界中のクリスチャン が同じ箇所を分かち合うと思うと、さらに喜びが増すと思います。

 まだイースターの日曜日なので、旧約聖書の朗読箇所は使徒行伝の箇所に変わっています。ここ で4つの箇所を見てみましょう。

 今日の朗読、使徒行伝11章1-18節は、ペテロが宣教の初期に見た重要な幻と体験を思い起こさ せるために、かなり長い文章になっています。 これは、ペテロが主からの幻視を通して、イエス の福音のメッセージがユダヤ人だけのものではなく、ユダヤ人以外の人々、つまり異邦人のため のものであることを知ったときのことです。この11章では、ペテロがエルサレムにいるユダヤ人 クリスチャンに、ユダヤ教の律法では「汚れた人」である異邦人を訪問することになったいきさ つを説明しています。

 ここで重要なのは、この出来事がペテロに起こる前、イエスに従う人々は割礼を受けたユダヤ 人であり、イエスを信じてはいても、"清いもの "と "汚れたもの “を区別する規則に従っていまし た。ペテロもまたこのユダヤ人の習慣に従っていました。イエスが彼らの中におられたときにも 実践してきた文化的・宗教的習慣でした。イエス自身もその文化や習慣の中にありました。

 ペテロは、主の声が幻の中で、ユダヤの律法では禁じられている目の前のシーツに包まれた生 き物を食べるように言われたとき、ショックを受けました。どうしてそんな反抗的なことができ るのだろう?しかし、彼は「神が清くされたものを、不浄と呼んではならない」(9節)と言わ れ、シーツの中の生き物を食べるように、三度も強く言われたのでした。

 幻によりペテロはカイザリヤに住む異邦人の家を訪ねるように言われました。その異邦人も幻 を見て、「あなたとあなたの家族の者すべてを救う言葉をを話してくれる」ペテロを誘うように言 われていたのです。(14節)。ペテロは、これが自分の幻の意味であることに気がついたのだ。 ペテロは、これが自分の見た幻の意味であることに気がつきました。神は、自分が「汚れた」人 を訪ね、イエスを信じる信仰による救いのメッセージを伝えるための準備をしておられたのです。

 そして、ペテロはそれに従い、行って救いのメッセージを伝えました。そのとき、奇跡的なこ とが起こりました。その人とその家族は皆、聖霊の賜物を受けたのです。彼らは聖霊のバプテス マを受けたのです。それまで弟子たちは、聖霊が注がれるのはユダヤ人の信者たちだけだと考えて いました。そして今、ペテロはエルサレムに戻った弟子たちに、異邦人に聖霊が注がれたことを説明しなければなりません。17節で、ペテロはこう言いました「だから、もし神が、主イエス・ キリストを信じた人々に私たちと同じ賜物を与えたのなら、私は神に逆らうことはできません」 と。このようなエルサレム信者の宣言で朗読は終わります。ですから、「神は異邦人にもいのち に至る悔い改めをお与えになったのです」(18節)。

 これは、ユダヤ人信者にとって大きな変革であす。メシアを遣わされた神が、自分たちのユダ ヤ教の信仰よりも偉大な神であることを告げられたのであす。メシアを遣わした神は、自分たち のユダヤの信仰よりも偉大な神であることを告げました。神は被造物すべてを気にかけ、イエスの 生涯、死、復活を学ぶことによって、すべての人が救われることを望む神なのです。イエスは、ユ ダヤ人の世界だけでなく、神の被造物すべて、全世界のための救い主だったのです。そして、聖霊 の贈り物は、すべての人が受け取るべき贈り物でした。

 もちろん、あなたも私もすべて異邦人であり、このことは私たちにとって素晴らしいことです。 イエスはユダヤ人だけの救い主ではないのです。この考え方の変化によって、ペテロはイエスの メッセージに対する自分自身の態度や理解を変えなければならなくなったのです。そして、この物 語は、イエスが全世界のためのメシアであるということ以外に、私たちに考えるべきことを与えて くれるのです。ペテロが辿った変化を考えると、私が自分の文化的慣習や理解のせいで、イエスが 彼らのためにもおられることを理解するのを邪魔したことがあるかどうかを考えさせられます。

 私自身の神に対する理解、あるいは礼拝が、自分の文化によって形作られ、神が彼らを創られ 愛していることを理解するのを邪魔してきたことはないだろうか。音楽、礼拝、言葉の使い方、 相手に対する期待など、文化的にかなり特殊なものではないのだろうか? 神への愛を表現した り、示したりするのに別の方法があるかもしれません。私の方法が邪魔になることはないので しょうか?神はペテロに語りかけ、「神が清くされたものを、不浄なものと呼んではならない」 と念を押されました。

 私たちの神は、大小すべての被造物の創造主であり、清くされるチャンスを与える愛の神とし て、すべての人が神を知ることを望んでおられます。神はどんな文化よりも、ちっぽけな人間の理 解よりも大きな存在です。私たちの文化や理解に邪魔されることなく、神が私たちを用いてくだ さることをを理解すると謙虚な気持ちになります。ペテロや初期の信者たちが自分たちの考え方 を変えさせられたように、私たちの態度や習慣がより完全に神を反映するために変わる必要があ るかどうか、神様が知らせてくださるように祈ります。神様は、一つの文化や考え方よりもずっと 大きな存在なのです。 主が聖霊を通して私たちに教えようとしておられる新しい理解の仕方はあ るのでしょうか?

 このイースター第5主日の残りの3つの朗読も、この「何か新しいもの」という考えを反映してい ます。詩篇148篇は、すべての被造物が創造主である主をほめたたえるようにと呼びかけていま す。10節に「野生の動物、すべての家畜、小さな生き物、空を飛ぶ鳥」が主をほめたたえるよう にと書かれているのことに気づきました。ペテロがシーツの中でいろいろな生き物を見たという 話を読んでからこの詩篇を読むと、すべての生き物が主をほめたたえるように言われていることと 関係があるように思えます。確かに、この詩篇は、主がこの宇宙の唯一の創造主であり、私たち は主を賛美するよう求められていることを、私たちに気づかせてくれる素晴らしい詩篇です。

 

  この日曜日の新約聖書の朗読はヨハネの黙示録の21章1節から6節までです。神が再び私たちの 間に戻って住まわれる時、神が新しい地と天を創造し、古いものは過ぎ去るという、驚くべき約 束が記されています。私たちの古い文化や理解はすべて過ぎ去ります。私たちの古い考え方、従わ なければならないと考えている規則や律法なども。4節では、「死、嘆き、叫び、痛みも含めて旧 体制・道理は無くなる」と書いてあります。それは、なんと輝かしいことでしょう。神様はすべて を新しくしてくださいます。まだ起きてはいませんが、ヨハネの幻を通して神様がおっしゃってい るように、それは必ず起きます。 「この言葉を書き留めておきなさい。私はすべてを新しくす る。わたしはアルファであり、オメガであり、始まりであり、終わりである。渇いている者に は、いのちの水の泉から、代価なしに飲ませよう」(5-6節)。

 そう、ペテロが言われていたように、イエスの福音はすべての人、すべての被造物のためのもの であり、実際、神が私たちの間に住まわれるようになれば、すべてを新しくしてくださるのです。 この言葉は信頼に足るもので真実である。「書留よ」とヨハネに言われました。主は私たちに、 命の水を飲み、新しい命が主とともに宿るというこの素晴らしい約束を信じることを望まれてい ます。この良い知らせは、神の被造物すべてが聞き、知り、信じるべきものなのです。それは "新 しい何か “の素晴らしい約束なのです。

 そして最後に、この日曜日の最後の朗読です。この日の福音書の朗読は、ヨハネによる福音書 13:31-35からです。この朗読の中でも、私たちは「何か新しいこと」について聞かされます。イ エス様は弟子たちに "新しい命令 "を出されます。その命令とは何でしょうか? "互いに愛し合いなさい "という短い言葉です。"互いに愛し合いなさい" イエスは、これを新しい「言いつけ・戒め」だと言っています。この時まで、イエスは最も重要な 戒めは神を愛することであり、第二の戒めは自分のように隣人を愛することであると言っていま した。弟子たちは、たくさんの戒めに慣れています。彼らは十戒やたくさんの守るべき規則にと ても慣れていたはずです(ペテロが知っていた「清い」生き方と「汚れた」生き方を覚えていま すか)。しかし、今回イエス様は、それを新しい戒めだとおっしゃいます。この言い付けのどこ が新しいのでしょうか?イエスはこのように続けます。「私があなたがたを愛したように、あなた がたも互いに愛し合いなさい。古いやり方は マルコ12:31にあるように、「あなたの隣人をあなた 自身のように愛せよ」でした。この新しい戒めは、「わたしがあなたがたを愛したように、互い に愛し合いなさい」です。

 イエスが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合わなければなりません。こ の言葉を少し心に刻んでみてください。イエス様は私たちをどのように愛してくださっているので しょう?イエス様はあなたをどのように愛しておられますか? 条件付きで私たちを愛しているのでしょうか?いいえ、無条件に私たちを愛しています。イエスは 失われた者のために来たと言い、 "失われた者 "である私たちを愛しているのです。愛に値しない 私たちを愛してくださるのです。 裁きをもって私たちを愛しているのでしょうか?いいえ!憐れみと恵みに満ち、完全な赦しで私 たちを包んでくださいます。 その愛のために、私たちに何かを要求するのでしょうか?いいえ!主は仕えるために来られ、最 終的に十字架上で命を捧げられました。主は私たちに、ご自分のように仕える者となるようにと 呼びかけておられるのです。

 

  このような愛を、私たちは互いに示し合うようにと言われたのです。これはまさに新しい戒め です。すべての規則や規制は、そのような愛の方法を示していませんよね?どうしたら、そのよう に愛することができるのでしょうか? それは、私たちのうちに働いておられる聖霊の力によるのです。私たちの心の中におられる聖霊 は、私たち一人ひとりに対するイエスの驚くべき愛に気づき、そのような愛で私たちを満たしてく ださるのです。

 しかし、イエス様はそこで終わりではありません。イエスは続けます。「互いに愛し合うなら ば、それによって、 あなた方が私の弟子であることを、すべての人が知るであろう」 すごい!この新しい種類の愛は、私たちがイエスの道に従う人々であることを人々に確信させる 力を持っているのです。それは私たちの文化的な慣習や信念でも、派手な説明の仕方でもなく、 私たちが互いに示す主の愛の力が、他の人々の心に語りかけ、主について語るのです。これは本 当に聖霊の力が私たちの心に働きかけ、私たちをイエスのように愛せるように変えてくださること によるのです。

 30年ほど前、アメリカで、文字入りのクリスチャングッズが大人気で売られていたことがありま す。WWJD "という文字が入ったクリスチャン・グッズです。コップやブレスレット、しおりや鉛 筆にも書かれていました。 W(What)W(would)J(Jesus)D(do)"イエス様ならどうす るか?"という意味です。この4文字は、イエス様が私たちを愛してくださったように、愛すること を思い起こすためのシンプルな方法だったのです。問題に直面した時、主の愛はどのようなもの だろうか。"What would Jesus do? “と立ち止まるきっかけになりました。「どうしたら、イエス 様のように愛することができるのだろう?イエスが弟子たちに与えたこの新しい戒めに、私はど のように従えばよいのでしょうか。

 今日のイースター第5日曜日の朗読を通して、私たちは、ペテロが福音を伝えた経験、すべての 被造物が創造主を賛美するように求められた経験、古い秩序がすべて終わり、新しい地と天がで きて神が被造物と共に住むという未来のビジョン、そして最後に私たちが進むべき道を示す新し い戒め、「イエスが私たちを愛してくださったように互いに愛せよ」を与えられてきたのでし た。

 これらの朗読があなたを祝福してくれることを願っています。もしかしたら、改訂版共通聖書日 課を使うことが、あなたにとって毎週個人的に聖書を読むためのツールとして「何か新しい」も のになるかもしれません。 私たちが信仰を深め、主とともに歩み、主が私たちを愛してくださったように互いに愛し合うよ うに、主が私たち一人一人を導き続けてくださるよう祈りましょう。

 天の父なる神様、あなたは私たちのために「何か新しいもの」を創造し、いつかあなたが私た ちの間に住まわれるとき、すべてを新しく創造されると約束されました。あなたの御子はこの新 しい戒めを明らかにし、ご自分のように愛するように命じました。私たちは、あなたがこの地上 に、私たちの心に、あなたの霊を注ぎ続け、すべての人々が、あなたの被造物すべてに対する大き な愛の力と、あなたがすべての人に与える新しい命を知るようになることを求めます。

 イエスの御名において、私たちは祈ります。アーメン。