へりくだりは創造の力

2022年5月8日主日礼拝「へりくだりは創造の力」Ⅰペテロ5:5~7佐々木俊一牧師

■今日は母の日です。イエス様の母親への思いやりは、私たちにとって良き模範です。十字架上で苦しみの極みにあったにもかかわらず、イエス様は母マリヤへの思いを弟子の一人、ヨハネに託しました。また、イエス様ほど女性蔑視や差別をしなかった方は他にはいません。イエス様はけっして女性に対して支配的ではありませんでした。イエス様のことばや行動からは支配的な姿勢を一切感じられないのです。21世紀になっても、日本ではまだ女性への差別的な言動が残っています。2000年前すでに、イエス様の女性への態度は現代の日本よりも先進的でした。と言うよりも、イエス様をとおして、神様の考えは創造の初めから今に至るまで何も変わってはいないことを証明しています。創世記3章で、神様がエバに対して、「彼はあなたを支配することになる。」と言われたので、それが神様の御心であるという勘違いがあります。しかし、それは、罪の結果であり、当然の罪の報いであったわけです。罪が人間に入る前は、男性は女性に対して支配的ではなかったし、支配的でないことが神様のもともとの計画であったのです。罪によって男性と女性の関係が狂ってしまったのでしょう。

 今日は、「へりくだりは創造の力」というタイトルでお話をしていきたいと思います。「へりくだる」と言うことばを聞いて、みなさん、どうでしょうか。あまり聞きたくないことばでしょうか。「へりくだる」ではなくて、「へりくだりなさい」になると、これはもうはっきりしています。そんな言葉は聞きたくありません。私も同感です。けれども、私自身、人生をふり返ると、特に、クリスチャンになってからのことを考えると、へりくだることは、人生に与えられた神様からのとても大切な訓練であったと感じます。へりくだることは好き好んでできることではありませんが、しかし、その訓練を通して身につけさせられたへりくだりは、生きる上で大きな恵みをもたらしてくれるものだと思います。かと言って、私が申し分なくへりくだっていると言うことではありません。このへりくだりの訓練は、死ぬまで続くことであると思います。

■今日のメッセージの聖書箇所は、ペテロの手紙第一からです。Ⅰペテロ5:1~4は長老へ向けて語られています。長老とは、教会の指導的立場にある人々のことです。長老であっても欠点のない人は誰もいません。しかし、それでも、人として、信仰者として、ある程度の成熟さと経験を要する立場であると言えます。この時、ペテロは長老の一人でした。長老は、特に年齢制限があるわけではありません。若い長老がいても良いですし、高齢の長老がいても良いのです。この時ペテロは、もはや年齢的に若いとは言えない年であったと思われます。ペテロはこのところで、牧会についての助言をしています。

 次に、Ⅰペテロ5:5~7を見てみましょう。ここからは、若い人たちに向けて語っています。今日は、このところから見ていきたいと思います。

■5節 ペテロは、「若い人たちよ」と呼びかけています。この「若い人たちよ」が意味することは、字のごとく、年齢的に若い人たちのことです。しかし、それだけではありません。年齢にかかわらず、クリスチャンになったばかりの人も含んでいるように思われます。 

 ペテロはここで、「長老たちに従いなさい」と言っています。従うには、謙遜が必要です。つまり、へりくだることです。ペテロは、「みな互いに謙遜を身につけなさい」と言っています。「みな互いに」と言っていますから、謙遜を身に着けるのは、若い人たちだけではありません。長老も同じです。若い人同士お互いに、長老同士お互いに、若い人と長老もお互いに、謙遜を身に着けるようにペテロは言っています。

 また、ペテロは、「身につけなさい」と言っています。身に着けるとは、着ることです。ですから、謙遜を身に着けるとは、謙遜を着ることです。謙遜やへりくだりが、まるで服であるかのようです。私たちはこの服をどのように着ることができるのでしょうか。私たちの口から出る言葉や態度が、私たちの謙遜を表す服であると言えるでしょう。ですから、謙遜やへりくだりが言葉や態度を通して表されるならば、よほどのことがない限り、人は私たちを受け入れてくれます。

 私たちはお互いに、神様によって召し集められた者です。その意味で私たちは仲間なのです。それゆえに、私たちはお互いに大切に思い、尊重したいと思います。その思いがあるならば、その気持ちを言葉や態度で表すことは、私たちにとってそんなに難しいことではありません。けれども、時として、そうすることが難しいと感じる場合もあることでしょう。そのような時にこそ、へりくだることの訓練があるのです。否定的な気持ちに打ち勝って、言葉と態度でもって相手の人を尊重するのなら、そのことを通して、神様は働かれます。神様は相手の人に働かれ、そして、私たちの心にも働かれます。私たちの心のあり方が私たちの言葉や態度に働きかけ、私たちの言葉や態度が私たちの心のあり方に働きかけます。このようなことを繰り返し練習する中で、私たちの心も言葉や態度も訓練されて、私たちはもっと形の良いへりくだりの服を着ることができるようになります。

■何度も言いますが、この手紙はペテロによるものです。ペテロと言えば、福音書を読めば想像がつくと思いますが、従うのもへりくだるのも得意ではありませんでした。ペテロはいつも自分を認めてほしいと思っているような人で、弟子の誰よりもイエス様に認められて、人の上に立ちたいと思っていました。イエス様がイスラエルの王様になった暁には、自分がその次の位に着きたいと夢見ていたのだと思います。ペテロの若い時はそんな風でした。

 しかし、ペテロは神様によって変えられました。ペテロは自分でも言っていますが、神は高ぶる者に敵対する方であることを、自身の体験を通して学び、イエス様を通して学びました。また、神様はへりくだる者に恵みを与えるお方であることを、同じように、自身の体験を通して学び、イエス様を通して学びました。ペテロは自身の人生に許された多くの困難の中で、おおいにへりくだったのだと思います。その時に、ペテロは神様の助け、守り、備え、導き、いやしなど、これらの恵みを体験したのでしょう。だから、ペテロは、神様はへりくだる者に恵みを与えられるのだ、と確信をもって語っているのです。

■6節 「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」

 この箇所も、ペテロ自身の体験によって得た教訓ではないでしょうか。イエス様から、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間を獲る漁師にしてあげよう。」と言われてから3年半の間、ずっとイエス様に従ってと共に過ごしました。ペテロがイエス様に従い続けた動機の一つは、自分自身が偉くなる、ということがあったのではないでしょうか。けれども、いつになってもイエス様はイスラエルの王様にならないし、自分はいつになったら偉くなれるのだろうか、と思いつつ、つい弟子たちの間で、だれが一番偉いのか、なんて言うつまらない論争をしてしまいました。イエス様に自分の人生を賭けているのに、自分はいつになっても偉くなれない、というペテロの焦りと言うか、悩みがあったのです。結局、ペテロの夢はかなうことなく、イエス様は十字架にかかって死んでしまいました。ペテロの夢ははかなくも完全に壊れてしまいました。ペテロは失望しました。自分たちもイエス様と同様に捕らえられて殺されてしまうのではないだろうか、という恐怖がありました。だから、ペテロは隠れていたのです。

 しかし、イエス様は三日目によみがえられました。そして、弟子たちの前に現れてくださったのです。イエス様はご自身が死から復活して生きておられることを弟子たちの前で証明しました。弟子たちは失望から希望へと導かれ、おおいにへりくだってイエス様が言われたとおりに、エルサレムにとどまって約束の聖霊を待ち続けました。弟子たちが約束の聖霊を受けてから、その力を受けて神の救いを宣べ伝え始めました。

 こうして、ペテロは初代教会の指導者として立てられ、神の使徒として活躍しました。ペテロは神様の力強い御手の下にへりくだり、ちょうど良い時に初代教会の指導者として立てられたのです。

■先週、ユースメッセージの中でマナセ王の事についてお話しました。マナセ王はユダ王国の悪い王様でした。異教の神々であるバアルやモレクを礼拝し、幼児をいけにえとして捧げたり、罪のない人々を殺したりしていました。預言者イザヤを殺したのもマナセ王ではないか、と言われています。しかし、ある時、エルサレムはアッシリヤ帝国の軍隊に攻め入られ、マナセ王は捕らえられてバビロンに連れて行かれました。そこで初めて、マナセは真の神のみ前におおいにへりくだり、エルサレムに戻れるように祈ったのです。すると、マナセの祈りは神様に聞かれました。これを機に、マナセは真の神様を信じて、良い王様としての歩みを始めたのです。あれほどまでに悪事を行なっていたマナセ王でしたが、神様のみ前におおいにへりくだったことで新たな人生を始めることができました。このように、へりくだりは、私たちの人生に新たな始まりの機会を与えてくれるのです。そして、それからは、180度変えられた新たな人生を造り上げて行くことが可能となるのです。

■へりくだりは、私たちに新たな人生を造り上げる力があります。へりくだりは創造の力をもたらしてくれます。なぜならば、へりくだりを通して神様が働かれるからです。神様は創造の神様です。神様はへりくだる者を用いてご自身の働きをなし、ご自身の計画を進めていきます。神様の創造の力は私たち人間がへりくだることを通して現わされます。神様の創造の力はへりくだる者を通して現わされるのです。へりくだりは、人と人、国と国、民族と民族の関係をも修復し、和解をもたらし、平和を造り上げます。これらのこともみな、へりくだる者たちを通して働かれる神様の力によるのです。

 ロシアのプーチン大統領のような高慢な人間は創造ではなく、ただ破壊をもたらすだけです。彼ははロシア正教のキリル総主教と組んで、イエス・キリストの御名の下にウクライナでの残虐な行為を行っています。真の神様はけっしてそのようなことを許可する神様ではありません。これは、イエス・キリストの御名と神の御名の悪用・乱用です。十戒は、「主の御名をみだりに唱えてはならない。主はみだりに御名を唱える者を罰せずにはおかない」、と言っています。

■7節にこのように書かれています。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

 神様の力強い御手の下にへりくだる者は安心してください。神様がその人のことを心配してくださるからです。ペテロはいつも偉くなりたいと思っていた人です。マナセはユダ王国で最悪の王様でした。しかし、ペテロにしても、マナセにしても、神様の力強い御手の下にへりくだった時に、神様は彼らの祈りに応えてくださり、ちょうど良い時に彼らを高くしてくださいました。もしかしたら、ある人はとても傷ついているかもしれません。また、ある人は将来に希望を持てないでいるかもしれません。また、ある人は病気で苦しんでいるかもしれません。まずは、真の神様の力強い御手の下にへりくだりましょう。そして、祈りましょう。へりくだりは創造の力です。そこに創造の神様が働いてくださるからです。そのことを期待しましょう。それではお祈りします。