あなたは、わたしに従いなさい

2020年9月13日主日礼拝「あなたは、わたしに従いなさい」ヨハネ21:20~25

佐々木俊一牧師

■聖書には4つの福音書があります。マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、そして、ヨハネの福音書です。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、内容的に非常に近いです。同じ記事がよく見られます。そのため、これらは共観福音書と言われています。しかし、ヨハネの福音書だけは、内容的に他の福音書とは異なった記事や事柄が多く見られます。

私はヨハネの福音書を読むとき、ヨハネがイエス様をとても近い位置から観察し、イエス様の心遣いや心模様まで伝えようとしているところがあるように思います。そういうこともあって、ヨハネの福音書は私たちをイエス様の近くへと導き、より親しい関わりを持たせてくれる福音書であると私は思います。

 実際に、ヨハネと言う人は弟子の中でもイエス様のことが大好きであり、いつもイエス様のそばで行動し、そして、イエス様もヨハネに対してご自身の愛を豊かに表し、ヨハネはその愛を受けて3年半の時を過ごしたのではないかと思います。ヨハネは福音書の他にヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、そして、黙示録を書いています。その中でも、ヨハネは神の愛と、そして、イエス様からの強いメッセージである、「互いに愛し合いなさい。」ということを誰よりも多く語っています。

 そんなイエス様の愛を体験したヨハネがどうしてこのような福音書を書いたのか、その理由がはっきりと書かれているところがあります。ヨハネ20:31を見てみましょう。「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」と書かれています。あなたがたとは、誰のことでしょうか。イエス様や弟子たちの時代に生きていた人々だけを指しているのでしょうか。そうではありません。イエス様や弟子たちをまったく見たことのない、地理的にも時間的にもまったく異なる人々をも含んだあなたがた、私たちのことをも指しています。2020年、この時代に生きている世界中の人々、すべての人々に向けて、イエス様が神の子、キリスト、救い主であることを信じるために、そして、永遠のいのちを得るために、ヨハネはこの福音書を書いたのだと言っているのです。

■20節~21節 「ペテロは振り向いて」、とありますが、このところはどのような場面だったのでしょうか。前の文脈を見ると、これは、イエス様が死からよみがえられた後の出来事です。イエス様はよみがえられて後、40日の間、地上にいて弟子たちの前に現れました。ある日、ティベリヤのガリラヤ湖畔で弟子たちは漁をしていました。時は夜明け頃でした。イエス様が弟子たちの前に現れました。彼らは獲った魚を焼いて、わいわい言いながらイエス様と一緒に朝食を食べたのでしょう。

 みんなが朝食を食べ終わると、イエス様はみんなの前でペテロに質問をしました。「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエス様に言いました。「はい。主よ。わたしがあなたを愛することはあなたがご存知です。」まるで、結婚式の誓約のようです。それから、イエス様とペテロはガリラヤ湖畔を一緒に歩き始めました。すると、イエス様はまた同じ質問をしました。「あなたはわたしを愛しますか。」結局、全部で3回同じ質問をしました。3度も「あなたはわたしを愛しますか。」と聞かれるものですから、ペテロの心は痛みました。愛しているということを何度言っても信じてもらえない、とペテロは思ったのではないでしょうか。しかし、それは当然かもしれません。なぜならば、ペテロは3度イエス様を裏切ったのですから。イエス様が十字架に架けられる前に、ペテロは自分を守るために3度、「私はイエスなんて知らない、何の関係もない」と言って、イエス様のことを否定しました。信用してもらえなくても、文句は言えません。しかし、イエス様はペテロに言いました。「わたしの羊を飼いなさい。」つまり、それは、イエス様を信じる人々を導いて助けてあげなさいということです。イエス様は、イエス様が今まで地上で行なってきたことをペテロにゆだねようとしていました。でも、それはまた、大変厳しくて危ない仕事でもありました。ですから、イエス様は、ペテロが将来、捕らえられて殺されることになることをあらかじめペテロに告げたのです。イエス様を愛しますと言った以上、それだけの覚悟が必要であるということをイエス様はペテロに言いたかったのでしょう。そして、念を押すように、「わたしに従いなさい。」とイエス様はペテロに言いました。

 そこへ、誰かが後からついて来ました。それに気付いたペテロは振り向いて、「それじゃ、この人はどうですか。どんな死に方をするのですか。」とイエス様に尋ねました。ペテロは、どうして自分だけがそんな最期を遂げなければならないのか、自分だけが酷い目に会うのは納得がいかないと思ったのではないでしょうか。自分だけでなくて、他の弟子たちも同じように困難な目に会うのであれば、少しは気持ちが軽くなって受け入れられたのかもしれません。

 ちょっと話がそれますが、20節の書き方が面白いと思います。これを書いているのは誰でしょうか。ヨハネです。「イエスが愛された弟子」とは誰のことですか。ヨハネです。ヨハネは20節のところで自分の名前を明らかにしていません。自分の名前を伏せて、その代わりに、「イエスが愛された弟子」と言っているのです。他の福音書では、ヨハネのことを「イエスが愛された弟子」などと一言も言っていません。しかし、ヨハネは自分のことを、「イエスが愛された弟子」、と大胆に言っているのです。とても興味深いことです。確かに、ヨハネは弟子たちの中でもイエス様から信頼されていたのかもしれません。と言うのは、イエス様は十字架上でイエス様の母マリヤのことをヨハネに託しました。ヨハネ19:26にそのことが書かれています。そして、そこでもヨハネは、自分のことを「愛する弟子」と言っています。

 また、ヨハネは自分のことを、「この弟子は晩餐のとき、イエスの右側にいて、『主よ。あなたを裏切るのはだれですか。』と言った者である。」と書いています。イエス様が十字架にかかる前日に弟子たちと一緒に最後の晩餐の時を持ちました。その時に、イエス様の背中に横になって寄りかかっていたのはヨハネです。イエス様の左側にはユダがいました。一番離れた隅っにはペテロがいました。ペテロはヨハネに、裏切者が誰なのかをイエス様に聞くように合図を送ったのです。

このように、ヨハネは、この福音書の中で自分の名前を明かさずに、しかし、いかにも「イエスに愛された弟子」として語っています。ヨハネは、自分自身がイエスに愛された弟子であることをさらっと語るだけで、どちらかと言うと、他の弟子や人物、たとえば、ペテロの失敗や弱さを結構はっきりと語りながら、しかし、その中にイエス様の愛と優しさが光るように書いているように思います。

■22節 イエス様はペテロに言いました。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従いなさい。」イエス様はよみがえられてから40日の間、地上にいて弟子たちの前に現れました。けれども、その後、使徒の働き1章にあるように再び地上に戻って来ることを約束して天に戻って行かれました。イエス様が戻って来るまでヨハネが生きていたとしても、それがあなたと何のかかわりがありますか。ありません。あなたはただわたしに従って、あなたに与えられた人生と使命をまっとうしなさい、とイエス様はペテロに言ったのだと思います。

 神様はそれぞれの人にそれぞれの人生と使命(召命)を与えています。誰からもあこがれるような人生もあれば、注目されない平凡な人生もあります。お金のある人生もあれば、お金のない人生もあります。夢がかなった人生もあれば、夢がかなわなかった人生もあります。成功した人生もあれば、失敗した人生もあります。幸せな家庭に育った人生もあれば、不幸せな家庭に育った人生もあります。そういう意味で、人生とは不公平なものかもしれません。

 私が聖書学院で学んでいた時のことを思い出します。私は自分でお金を貯めて聖書学院に入りました。入学した後も、午後からアルバイトをしたり、あるいは、ワークスカラーシップと言って、学内で月曜日から金曜日まで4時間働くことによって学費と食費が免除される制度を受けたりしました。しかし、学生のほとんどは、教会や親からサポートを受けていました。彼らは、午後の活動にも参加できましたし、時間に余裕があって遊びにも行けました。私にはそういう時間があまりありませんでした。体調が悪い時もあり、熱があっても働かなければなりません。教会や親からサポートを受けている学生が、正直なところ、とてもうらやましかったです。

 人それぞれに、神様は異なる人生や境遇を許しておられます。しかし、どんな人生においてもイエス様が大切なこととしていることが22節に書かれています。それは、「あなたは、わたしに従いなさい。」ということです。わたしとは、もちろん、イエス様のことです。それぞれの人生の中で大切なこと、それは、イエス様に従うと言うことです。従うことがどうして大切なのでしょうか。19節にこのように書かれています。「これは、どのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話になってから、ペテロに言われた。『わたしに従いなさい。』」ここでは、ペテロの死に方をとおして神様の栄光が現されることが言われていますが、死ぬことをとおしてだけ神様の栄光が現されるわけではありません。私たちの人生のいろいろなことをとおして神様は栄光を現されるのです。どうしたら、栄光が現されるのですか。それは、イエス様に従うことをとおして現わされるのです。それが、「あなたは、わたしに従いなさい。」と言った理由です。イエス様に従うとき、従うものをとおして神の栄光が現されるのです。そして、現された神の栄光は、さらに多くの人々に神の愛と救いを広げていくのです。

 それでは、イエス様に従うことの例として、その一つを聖書から説明しましょう。ヨハネ14:21に、「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。私を愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、私自身を彼に現します。」とあります。イエス様の戒めを守る人とは、イエス様に従う人です。イエス様の戒めとして有名なのが、「互いに愛し合いなさい。」です。これは、ヨハネの福音書や書簡の特徴的なテーマです。この戒めに従う人は、イエス様を愛する人です。イエス様を愛する人は、互いに愛し合うことを大切なこととして考え、そのために努力します。

 私たちが互いに愛し合うことをとおして、神の栄光を現すことができます。そのことを覚えなければなりません。私たちの人生が過去においてどのようなものであったとしても、現在においてどのようなものであったとしても、私たちの使命は互いに愛し合うことにあります。ですから、私はイエス様を愛しています、と言う人は、互いに愛し合うことを目指すべきです。今一度、私たちはそのことを覚えて決心をしたいと思います。

 口で言うのは簡単ですが、行うのは難しいことも事実です。イエス様のそばで直接イエス様から学びと訓練を受けた弟子たちにとってさえ、これは難しいことでした。弟子たちの間で互いに愛し合うことは不可能に近かったのです。愛し合うどころか、誰が一番偉いか、誰が一番優れているか、いつも競い合ったりもめたりしていました。それぞれに、気に入らない弟子もいましたし、言い方やふるまいに腹を立てたりもしました。しかし、人がどうであろうと、まずは各自がイエス様に従う決心をすることが大切なことなのです。それは、家庭の中でも、教会の中でも、どこでも同じです。特に、クリスチャン同士の間ではそうなのです。

■ヨハネの福音書の次に使徒の働きが続きますが、使徒の働きを見ると、ペテロとヨハネはよく二人で行動していたのがわかります。その時には、どちらかと言うとペテロがリーダーであり、目立った働きをしていました。ペテロが説教をしたり、病をいやしてあげたりしていました。ヨハネが説教をしたとか、病をいやしてあげたとか、そういった記述はほとんどありません。しかし、彼に与えられた聖霊の賜物は、出来事を見分ける観察力であったり、それを言葉に表すことであったのかもしれません。福音書の他に、ヨハネによる手紙は3つありますし、最後の書である黙示録もヨハネによるものです。ペテロにはペテロの人生と使命があり、ヨハネにはヨハネの人生と使命があったのでしょう。どちらにしても、彼らは、最後の最後までイエス様に従いました。彼らには弱さも失敗もありましたが、しかし、彼らがイエス様に従う時に彼らをとおして神の栄光が豊かに現されたのです。

 私たちは、ペテロでもなければヨハネでもありません。しかし、イエス様はすべての弟子たちに向けて、「あなたは、わたしに従いなさい。」というメッセージを送っているのです。イエス様を愛している人はみな、イエス様の弟子です。私たちもイエス様の弟子です。私たちには、弱さや失敗があります。それについて神様は承知しています。それでも、私たちがイエス様に従う時、私たちをとおして神様の栄光が豊かに現されます。そのことを信じて進んで行きたいと思います。「あなたは、わたしに従いなさい。」イエス様のこのことばに素直に応答しましょう。それではお祈りします。