いつまでもイエス様と一緒!

2020年8月9日主日礼拝(召天者記念礼拝)

「いつまでもイエス様と一緒!」Ⅰテサロニケ4:13~18 佐々木俊一牧師

 

■今日は召天者記念礼拝があります。いつもでしたら幕で覆われているはずの絵ですが、今日は幕が上がっているので皆さんの目にはっきりと見えていると思います。富田敬二先生の傑作です。私はこの絵が大好きです。少なくとも1年に1度は見るべき絵であると思っています。私たちクリスチャンが目指すところはここにあるのだと思います。この絵によって、とても祝福されます。信仰に堅く立つように促されますし、希望がここにあるのだと再認識させられます。実物のイエス様にお会いするのは、私たちにとって最大の喜びではないでしょうか。

  イエス様は地上に再び来ると言って、天に昇って行きました。今から1990年くらい前の出来事です。イエス様のことばのとおりに、イエス様は再びこの地上に戻って来ます。2度目の来臨、あるいは、再臨と言われている出来事です。

皆さんは、この絵の秘密を知っているでしょうか。富田先生がこの絵を描いた時は、私はいませんでしたから、これは聞いた話です。実は、この絵のあるところは、以前、大きな窓があったそうです。ある事情があって、窓を塞ぐためにベニヤ板を貼りました。その内側と外側に富田先生が絵を描きました。皆さんは、外側にも絵があることを知っていましたか。外側にはどんな絵が描かれていますか。・・・大荒れのガリラヤ湖で舟に乗ったイエス様が風を叱りつけると嵐が止んだ。それを見た弟子たちが驚いた。そんな様子を描いた絵だと思います。

  舟と言うと、旧約聖書で一番最初に出てくる舟は何の舟でしたか。・・・ノアの箱舟ですね。ノアは神様から、長さ300キュビト(約132m)、幅50キュビト(約22m)、高さ30キュビト(約13m)の船を造るように言われて、100年かけて巨大な船を造りました。この長さ、幅、高さの比率は30:5:3です。これは、タンカーなどの大型船を造る際の最も高い安定性と強度を持たせることのできる比率だそうです。船の「黄金比」と呼ばれているそうです。実は、これを発見したのは真藤恒と言う日本人です。そういうことで、この30:5:3の比率は「真藤比」とも呼ばれているそうです。戦後、アメリカの造船会社と共同でタンカーを造る時に発見したそうです。でも、実際は、もっと大昔から知られていたのですから、神様の比率と言うか、ノアの箱舟の比率と言ってもよいですね。

  ところで、イエス・キリストの再臨とノアの箱舟は共通の真理を表しています。マタイの福音書24章を読んでみてください。マタイ24:37から見てみると、「人の子(イエス様)が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」と書いてあります。そして、「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子(イエス様)が来るのも、そのとおりです。」とイエス様は言っています。

  箱舟は英語で「ark」です。モーセの幕屋にあった契約の箱も「ark」です。原語では別のことばですが、「箱」と言う同じ意味を持っています。そして、ノアの箱舟も契約の箱も、イエス・キリストの救いを表しています。私たちにとってイエス・キリストが、私たちを救ってくれる箱舟のようなものだと言うことです。ですから、自分の罪を認め、イエス・キリストを自分の救い主として信じることは、人間にとってとても大事なことなのです。

■13節~14節 「眠った人々」とは、亡くなった人々、あるいは、死んだ人々のことです。イエス・キリストを信じていても、死にます。それだったら、信じていても信じていなくても同じじゃないかと言うことになります。この手紙を書いたパウロも死にました。パウロがこの手紙を送ったテサロニケのクリスチャンも、みな死にました。でも、イエス様は言いました。救い主を信じる者は、死んでも生きるのだと。また、救い主を信じる者をみな終わりの日によみがえらせるのだ、とイエス様は言っています。

  パウロの時代のクリスチャンは、イエス様が死んで復活されたことを信じていました。それから2000年後に生きる私たちクリスチャンも、イエス様が死んで復活されたことを信じています。「それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです」とパウロは言っています。つまり、死んだ人々もイエス様と同じように復活させられて、イエス様といっしょに来るはずだと言っているのです。

■15節 そして、パウロは、「主のみことばのとおりに言いますが」、と前置きして、イエス様が再び来られるまで生き残っているパウロとその当時のクリスチャンが、すでに死んでいる人々に優先するようなことはけっしてありません、と言っています。何について優先することがないと言っているのかと言うと、復活すると言うことについて優先することはない、つまり、死んだ人々が先に復活するのだと言うことを言っていのです。

  このところを読んでパウロの考えていたことがわかります。それは、パウロが生きている間にイエス様は自分たちのところに戻って来られると信じていたことです。

■16節~17節 テサロニケ人への手紙第一を読むと、1章の終わり、2章の終わり、3章の終わり、4章の終わり、そして、5章の初めと終わりで、イエス・キリストの再臨について語っています。パウロはこれほどまでに、イエス・キリストの再臨を意識していました。テサロニケ人への手紙は、自分たちが生きている間にイエス・キリストの再臨があることを前提に書かれています。

  パウロはローマ帝国の時代の中に、終わりの時代のしるしを見出していたのではないでしょうか。迫害というきびしい中を生きるテサロニケのクリスチャンたちを励ますために、イエス・キリストの再臨の希望をこの手紙の中で幾度となく示し 、思い起こさせていたのだと思います。

  「主は、号令と、み使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり」とあります。このところはⅠコリント15:51~52でパウロが書いていることと似ています。イエス様が天から地上に戻って来ると、まず初めに死んだ者たちがよみがえって、そして、イエス様と共に来られるのだと言うことです。

  「次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ空中で主と会うのです。」このところにある「引き上げられる」と言うことばが、英語で「rapture」、ラテン語で「ラプチュス」、このラテン語がラプチャー(携挙)の元になった言葉です。ギリシャ語では、「ハーパーゾ」だそうです。Ⅰコリント15:52を見ると、生き残っている人々は引き上げられる時に一瞬にして朽ちない体に変えられると言うことなのでしょう。そして、それからはいつまでもイエス様と共にいると言うことです。

■18節 テサロニケと言う都市は現在も存在します。ギリシャの大きな都市の一つです。初代教会時代、テサロニケでは本当に迫害が激しかったようです。そのような中で、イエス様が再び戻って来られる、そして、この苦しい状態から解放し、イエス様と共にあって安心して生きて行けるのだと言う希望が彼らにとっての励ましであり慰めであったのでしょう。

  イエス様が、私たちが生きている間に戻って来られるかどうかは、私たちが断言できることではありません。このことについては、父なる神様だけが知っていることなのだ、とイエス様がはっきり言っています。しかしながら、イエス・キリストの再臨を待ち望み、いつ来られてもよいように、神様に喜ばれる生き方をこころがけることは私たちにとってよいことです。とは言うものの、再臨信仰は、過去において、また、現在においてもそうですが、時には選民的で攻撃的なカルト信仰に豹変することがあることを、十分に気をつけていかなければいけないことでもあると思います。

■今日の聖書箇所を通して、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちは、終わりの時代に生きる者として、神に喜ばれる生き方をいつも覚えるべきです。終わりの時代と言ってしまうと、何もかも捨てて特別な生き方をしなければならないような印象がありますが、そんな事はありません。パウロ自身が彼の生きた時代を見て終わりの時を意識していました。しかし、だからと言って何か特別なことを信者に命じているわけではありません。ただ、イエス・キリストを信じ、新しく生まれた者として、自分を聖く保ち、互いに愛し合い、秩序と常識のある落ち着いた生活をするように言っています。

  Ⅰテサロニケ4:11~12にこう書かれています。「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」

  ここでパウロは、日常生活のあり方についてどうあるべきかを勧めています。 ただ、落ち着いた生活をするように助言しているだけです。クリスチャンでない人々に対しても良い証しとなるように生きるように言っているだけです。何か特別なことを行なうようには求めてはいません。

  私たちが地上にいる間は、大変厳しいところを通らされることがあるかもしれません。でも、大変であるならばそれだけに、実物のイエス様にお会いすることの喜びも大きくなるのではないでしょうか。イエス様が再びこの地上に来られた時には、まずは、死んだ人々がよみがえり、続いて生き残っている人々が変えられるのです。そして、私たちはいつまでもイエス様といっしょにいることになります。それが、私たちの一番の希望であり、喜びなのです。それではお祈りします。