キリストの福音と人種差別との戦い

2020年6月21日英語礼拝 メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

マタイによる福音書 7章12節

“ キリストの福音と人種差別との戦い。”

 

  実を言いますと、今日何を話すかを決める際、私は本当に苦労しました。私の心に残っているのは、私達も聞いていますが、私の母国であるアメリカで続いている人種問題による暴力についての酷いニュースです。私はこのことを聖書のメッセージとして語るように取り上げるのをためらっていました。それはおもに、私達が日本にいるということのためです。私がここにいる目的は、私の国やその問題について話すことではないからです。私達は、神様が日本にいる人々やここにいる私達が直接知っている人々に何を語っているかにより集中すべきだと思います。

 また、このことを話したり叫んだりしている大きな怒りの声が既にあることも私を躊躇させることでした。

 事態を悪化させずに済むために私は一体何を加えることができるのでしょう? このような事態の殆どの状況では話す以上に聞く方がより賢明なことと思えるのです。 私はほとんど、今日は別のメッセージしようと決めるところでした(古いファイルからすでにしたことのある「経験豊かな」メッセージを引き出して)。 何故なら、人種差別について言うべきことはすでに1000回も言われているように思えるからです。

 

 それでは、今本当に必要な言葉はもっとあるのでしょうか? それについて話すことが具体的で効果的な行動につながらないなら、なぜ私達の時間とエネルギーを無駄にするのでしょうか?  オンラインで発言したり、ツイートしたり、ビデオを投稿したりを沢山して、何か徳の高い事をしたと思い自分で得意になることはできますが、私には、それは罪の誘惑のように感じます。 皆さんが高潔さを感じるために「美徳シグナリング(徳を公衆に極端な形で伝えるパフォーマンス)」ことを始めなければならないのなら、イエス様は皆さんの美徳感覚について疑問を投げかけるでしょう。何か良い事をしている自分を人に見せるために人種差別に抗議している自分の写真を撮って、そのセルフィーをフェイスブックに投稿している人は一体何人いることでしょう? 

 

 また、本当に役に立つためには、どんな行動があるのでしょうか?

 数週間前に私がした子供のメッセージを覚えておられるでしょうか。コップ一杯の混じりけのない水が必要であって、そのコップに石が入っていたらという話です。それは問題に対するかなり簡単でわかりやすい解決策でしょう!その石を取り除くということです。 人種差別という古くからの問題に対する戦いの中で、私達はしばしばこの問題をあまりにも単純に考えるという失敗をおかしてきました。 適切な法律を適切な場所で整えることさえできれば、指導者をより良いものに変えることさえできれば、(正しく考えることができる人々で、私達もそう思うような)物事は違ってくる、もし十分な数の人々が十分に長い期間に渡って、十分激しく抗議活動をしていたとしたら、人々に良い世界を作らせることができる、警察予算から十分な額を取りさることができたら、警察の活動を完全に抑えることができれば、状況は好転する、等々。

 しかし、問題は解消されていません。 私達は解決する試みに失敗しました。 それほど簡単ではありませんよね。 それはインクが入った水を入れたコップのようなものです。 それを取り出して水を飲めるようにする簡単な方法はありません。 家族と個人の心を作り直すことなしに(私達の文化自身が私達の文化を作り直すことなしに)、私達は人種差別の悪から解放されません。

 

 そして、個人的なレベルのこととして、私が白人男性であるという事実もあります。

私の国の酷い人種差別の歴史の多くは、このカテゴリーの人々から来ているのですから、私がこの種の問題について話す資格を得なければならないと言う方がいるかもしれません。このような人々は、私達が何を言おうとそれは否定的なものとして聞こえることになると感じているでしょう。

 

 このように、私は今日のメッセージでこのことを取り上げないと決めるところだったのです。 しかし、私が祈り、神様の導きの声に耳を傾けようとしたとき、深い分裂の時代における神様の平和のメッセージは、私の文化や特定のグループに属する人々だけではなく、全ての生い立ちを持った人々にとっても聞く必要のあることだと思ったのです。それに、私にとっては人種差別という明らかな悪に直面して沈黙を続けることがある時点において容認できないことになるとはっきりと明らかになったのです。それは、いつの間にか、そうすることを選ぶ、つまり積極的にそうすると言うよりは、事実上、受動的にではありますがそうできるようになるということです。

 

 人種差別は神様の民にとっての選択肢ではありません。 何故なら神様は、この世の初めから、神様がご自身に似せて人を造ったと教えているからです。

 創世記1章27節で、” 神は人をご自分の形に創造された。神の形にこれを創造し、男と女に創造された。”とあります。  ここでは、神様はある人種を他の人種よりご自分の形に似せて造られたとは言っていません。私達は皆、神様の前に同じです。そして、キングジェームズ訳の聖書が言うように、神様が私達を「ご自身のイメージ」に造られたのであれば、私にとっては、他の人をその肌の色のせいで、またはその他の理由で、悪く見ることは、どんな理由であれ、その人を造られた神様を深く怒らせることになるのです。遅かれ早かれ、神様は悪を罰するでしょう。 もし私が人を人種差別的に見るなら、その人との関係が損なわれますが、それだけでなく、神様との関係が切られてしまうのです。 

 

 私達が他の人よりも劣っている(または優れている)と考える基を人々の民族的な背景とするとき、私達は本質的に精神的な根本問題を抱えることになります。 その政治的、経済的、その他の社会的側面は、私達がニュースで最もよく耳にするものです。 それらはすべて、それらの分野自体の事で重要です。 しかし、私はそれらの分野の専門家ではありません。私達は神様について、神様に近づくことについて学ぶために教会にいます。ですから、限られた時間の中で、福音のメッセージと、それが私達とは異なる背景を持つ人々との私達の関係について教えてくれることに焦点を当てて行きましょう。

 

 人間がそもそも福音を必要とする基本的な理由は、私達の全ての心の中に罪があるということです。 人種差別は罪の一種です。人々は、クリスチャンがそのような否定的なことについて何度も何度も話すのを聞きたくないかもしれません。” ただ前向きに、積極的に、人が善を行う力を信じて。” と人々は私達に言うかもしれません。しかし、私達が自分の真の状態を正直に直視しようとするなら、私達は罪に対処しなければなりません。私達はさまざまな社会の中で、私達が個人的に行った、また私達が参加している悪いシステムが行った悪について神様とそしてお互いの赦しを求めて進んできたでしょうか? 私達がそうして来たと言うのは本当に難しいと思います。 私達がそのようにしたいと思わないということは、平和に共に生きることを学ぶのに失敗した私達のこの何100年と無関係ではありません。

 

 キリスト教の福音は悔い改めを主張します。神様は私達が真に罪を悔い改めることによってそのドアを通って入ることなしに救いの希望を私達に与えられません。  キリストによる福音とは、私達が間違った方向に進んでいることを認め、振り向いて、正しいとわかっている方向に進むことができるということです。 そのような悔い改めが聖書で説明するものです。

 

 また、悔い改めることはたくさんありますね、そうではありませんか?

 

 子供の頃の思い出の一つに、9歳の夏休に叔母が住んでいた米国テネシー州メンフィスを訪れたことがあります。 マーティン・ルーサー・キング・ジュニアがそこで殺された数週間後でした。 彼が暗殺されたロレインモーテルに行ったのを覚えています。私達は暴動で焼け崩れたその建物を見ました。ある人々は、殺人という悪に焦点を合わせ、その後の暴動という暴力に目を向けた人々もいました。人々はそれらを少なくとも悪として見ていたのです。今日、ジョージ・フロイドの殺害の後及び彼以前の(そしてその後も続く)白人警官による一連の他のアフリカ系アメリカ人の被害を見るにつけ、人々の反応は、私が少年の時に見たものといかに似通っていることかと驚いています。それは私を深く失望させ、私は落ち込んでさえいます。私達の多くは、私達が多くの進歩を遂げたと思っていますが 、今やそのようには思えません。

 

 私が育ったアーカンソー州の町には当時黒人はいませんでした。 しかし州の他の一般的な地域には多くいて、人種差別の問題が最も深刻な場所の一つとして知られていました。 私が生まれるわずか2年前、州知事は米国の法律に従うことを拒否し、州都のリトルロックにある中央高校で黒人の生徒が白人の生徒と一緒に勉強することを許可していました。 アメリカ大統領はその法律を執行するために州軍を使わなければなりませんでした。

 

  私が住んでいたところでも、私はそのような話を聞きましたが、私達の周りにはアフリカ系アメリカ人が見えないので、そのような問題はことさら私達と関連しているようには思えませんでした。 私達は人種差別という問題がないと想像することができたのです。なぜなら、実際に私達の周囲にいる人の全てが同じ人種であったからです。 住んでいる私達のほぼ全員が白人だという理由が何なのかと不思議に思ったことはありませんでした。 

 ここで他の人種の人達はどのように受け入れられてるのか? もし引っ越しを考えた場合、どれだけ承認されるのか?  就職しようとしたり、入学したいと思う学校への入学、地元の男女と結婚したいといった場合、他の人と同じように扱われるのか?  そのような疑問は私の心にはほとんど入ってきませんでした。 私達は人種差別が存在することは知っていましたが、それは誰か他の人の問題であると思いました。  “ ここではそのような問題はありません。私達は皆ほとんど同じなのですから。”  

 

  次に私が人々がそのように言うのを聞いたのは日本に来てからです。 いまだにそのようなコメントを時々聞くことがあります。 ですが私は、アイヌの人々から、日本で生まれた韓国人、そして自国の危険を逃れるために日本に入国しようとする難民からは聞いたことがありません。

 

  私の経験を振り返り、私が属する文化の、その物語の大きな部分を占めてきた人種に関するすべての問題を振り返ると、誰もが人種差別から完全に自由になれると考えるのは非常に単純で無邪気(ナイーブ)なことだと思います。

 私はそれが(差別意識)私自身の一部分であると思います、もし私がそんなものは自分にないと思うなら、それはおそらく私に最も衝撃を与えるものでしょう。 人が自分のことを、自分の権利、特権、自分と関係のある人々を、自分の権力の立場を第一に考えるという傾向は、私達の心に深く形作られ、そこから完全に逃げることはほとんど不可能のようです。 私は裁く立場にはありませんが、それはすべての文化と時代に生きる人々にとって少なくともある程度は真実だと思います。

 では、私達の内側、外側を問わず私達が人種差別を見つけた時、クリスチャンとして私達はどのように相対しますか?

 私は、私達の神様がご自身の言葉を通して私達の時代そしてすべての時代の人々に語り続けているいくつかの重要なことを指摘していきたいと思います。

 人種差別がどのように私達の神様を深く怒らせるかについてはすでに見てきました。 神様はそれを憎み、それが私達の内にあるとき、永遠に黙ってはおられません。 遅かれ早かれ、神様は正義を守るためにすべての罪を罰するでしょう。

 

 また、神様は和解を深く約束されています。 神様は人種の違いを含む多くの事柄で分断された人々に平和に取り戻したいと思っておられます。 そのために、神様は天国の安らぎと特権に腰を下ろしているだけでなく、私達が平和に暮らせるように一人子のイエス様を私達の壊れた分裂した世界に送って下さいました。私達はその事を受肉と呼びます。 イエス様は実際に、” 肉体をとられ”  不正と圧迫に苦しんでいる人々の一人、ローマ人の下で苦しんでいるユダヤ人の一人になられました。 イエス様は、抑圧されている人々の痛みの中に入り、人々と共に立ち、そして人々と共に苦しまれました。イエス様の時代の政府の警察やその他の官僚のような人々は、イエス様の権利を侵害し、何も悪いことをしていない時に逮捕し、残忍な暴力(身体的な力)を行使し、最終的に殺したのです。

 

 それが私達の主です。 そのようにして、人と人、そして神と人を隔てた憎しみの壁を打ち破ったのです(エペソ2章14節)。 そしてイエス様はそのことをご自身だけでされませんでした。 人々を「和解のための宣教(ミニストリー)」(IIコリント人への手紙5章18節 NIV)に加わるよう呼びかけられました。 私達は、個人、家族、教会、そしてより大きな社会の一員として、より良い世界を構築するための活動的な部品となることができる具体的な方法を見つける必要があります。 

 

 人種差別の問題はしばしば私には圧倒的(対処が難しい)なことに思えます。 それはしばしば、出て来る前に長い間人の心の中に隠されているものです。 それは、社会のシステムや組織と複雑な方法で絡みあって結びついています。 それでも、それを克服するイエス様の教えは驚くほど簡単です。 人々との健全な関係についてのイエス様の教えの中心にあるのは、この概念です。 それは子供であっても理解できるほど簡単なものです。

 “ 何をするにしても、あなたがしてもらいたいと思うことを他の人にもしなさい。” 

 

 私は、自分の肌の色の故に他の人から判断されたくありません。 ですから私は、人々の心の中に何があるか私は知っていると仮定するのではなく、オープンマインド(偏見なく)で人々を見る必要があります。 私は自分のことを人々に聞いてもらいたいです。なので 、たとえ他の人々が間違っている方法で自分を表現しているとしても、私は他の人々がそのままに言っていることを聞く必要があります。 私は、誰もが常に同じお金や地位などを持たなければならないとは言いません。 しかし、私は公平なチャンス、平等な機会を持ちたいと思っています。 だから私は、私が部分的に責任を負う法律や組織が人々にそれら(公平なチャンス、平等な機会)を否定することについて拒否することから始めなければならないのです。 私達全員がきちんとした、安全で平和な生活を享受できることを確かにするため、私は自分の役割を果たさなければなりません。

 

 そして、神様の助けによって、天の父の御前に “ あらゆる部族、言語、人々、国(黙示録5章9節後段)” にある兄弟姉妹と私が一緒にいるある日、すべての人々は私が喜んでいることの理由となります。 私はこの世界にいる私とは完全に違う人にはなれません。 私の人生は、私がすでに皆さんと一緒にこの人生で始めた、キリストにある平和と一致へと成長させる過程を継性し、そして実現することです。それが私の心の中にある祈りです。 この祈りは皆さんの中にあるでしょうか? 私と一緒に今こそ、神様にそれを提供して下さいませんか?

 

 あらゆる人種の人々が、私達の主と呼ぶ、天にいらっしゃいますお父様、イエス様は十字架に行かれる前に、弟子達のために” 皆が一つになるように” とあなたに祈られらたことを知っています(ヨハネ17章21節後段)。 それが今日の私達の壊れた、分裂した世界のために祈ることです。 私達が許される必要があるところで私達を許してください。私達が常に私達の罪を悔い改め、あなたの恵みによってのみ可能となる、新しい人生の中で生きることができますように助けて下さい。 私達があなたからすでに受けている寛容と親切を私達の周りのすべての人々に分かち与えることができますように助けてください。 私達の世界を癒してください。 愛する主よ、私たちの世界を癒してください。 そして、私達一人ひとりに、キリストの平和の中で人々を結びつけるあなたの御業の一部となることができる方法をもっと示してください。 キリストのお名前によってお願いします。アーメン。