最後に勝つ者~勝利者の特徴

2020年2月9日主日礼拝「最後に勝つ者~勝利者の特徴」<ヨシュア記1:9>佐々木俊一牧師

■旧約聖書の登場人物の中で、ヨシュアはとても親しみのある名前ではないかと思います。ダビデと同じように、とても強そうな名前です。今の時代にも、英語でJoshuaという名前の人がいます。その意味は、「救い」という意味です。ヨシュアもイェシュアもイエスもみな「救い」という意味です。

  ヨシュアは、モーセの次に神が選んだイスラエルの指導者でした。申命記34章を読むと、イスラエルの民を約束の地に導くために、そのバトンはモーセからヨシュアに渡されたことがわかります。モーセとイスラエルの民は、現在のヨルダンにあるネボ山の頂上まで登り、神が彼らに与えた約束の地を見渡しました。眼下にはエリコの町と広々とした平野、ネゲブの沙漠や地中海まで見えたようです。モーセは約束の地を眺めはしましたが、神様に、「あなたは約束の地に入って行くことはできない。」と言われてしまいました。モーセは、残念ながらここで天に召されました。なぜでしょうか。神は言われました。「あなたは荒野で不信の罪を犯したからだ。」と。神様に最も信頼され、評価されていたモーセが、「あなたは罪を犯したので約束の地に入って行くことはできない。」と言われてしまったのです。これにはとても深い理由があると私は思います。それは、モーセという人が律法の象徴的な存在だったからです。つまり、律法によっては約束の地に入ることはできないと言うことを意味しているのです。次の指導者がヨシュアであることを考えると、そのことがさらにうなずけると思います。ヨシュアの意味は救いです。律法の象徴的な人物であるモーセが約束の地の手前までイスラエルの民を導いて来ました。しかし、約束の地の中へ導くのはモーセではなくてヨシュアでした。それは、約束の地に導き入れることができるのは、律法ではなくて救いであるということです。神の御国に入る条件は、行ないによる義ではなくて、救い主イエス・キリストを信じる信仰による義なのだということです。

  実は、モーセはこの時から数えて約40年前に、エジプトの地を出てカナンの地まですでにイスラエルの民を連れて来ていたのです。エジプトからカナンの地まで直線距離で300キロメートルくらいです。それは、2、3カ月あれば十分に到達できる距離です。40年もかかってしまったのには理由がありました。それについて、民数記13章に書かれています。この時、モーセは12の部族から一人ずつ選んでカナンの地を探らせました。彼らは40日の間、カナンの地の様子を探りました。どんな作物や果物がとれるのか、どんな人々がどれくらい住んでいるのか、町のつくりはどうなっているのかなど、その土地の情報を収集しました。そして、40日後に戻って来てモーセに報告しました。12人のうち10人は、カナンの地はとても豊かな土地でいろいろな作物や果物がとれる、ただ問題なのは、そこに住む人々はとても大きくて強そうだし、町は城壁に囲まれているし、戦っても勝ち目はない、とただ諦めるばかりで、挙句の果てには、こんなだったらわざわざこんなところまで来ないでエジプトにいた方がまだましだった、とぶつぶつ言い始めました。けれども、12人中2人、ヨシュアとカレブだけは、主が共におられるのだから大丈夫、主が必ず勝利を与えてくれる、恐れてはならない、戦うべきだと言いました。しかし、結果は、戦うのを止めて再び荒野をさまようことになりました。ところが、一度は戦うのを止めて神様を怒らせてしまった者たちが、荒野をさまよいながら考え直したのか、やっぱり戦おうと言い始めたのです。でも、それはもう時遅しです。モーセは言いました。「戦いに行ってはならない。それは成功しない。あなたがたが主に従わなかったので主はあなたがたと共におられない。だから、戦いに出て行ってもあなたがたは勝利できない。」と。主が共にいなければ、イスラエルの民には勝利はありませんでした。

  ここで断っておきたいことがあります。イスラエル人にとっては神が与えた約束の地であるカナン、現在のパレスチナを、武力で略奪することを肯定するつもりはありません。ただ、私が言いたいのは、霊的な事がらへの適用です。クリスチャンにとって、この地上で生きることは、ある意味戦いです。いろいろな困難が許されて、それらと格闘しなければならないことがあります。信仰上の事もあれば、人間であれば誰でもぶつかるいろいろな問題もあります。主が共にいてくださるならば、私たちはどんな問題の中にあっても、勝利の道はあるということです。

■私たちの人生において、成功もあれば失敗もあり、楽しいこともあれば苦しいこともあり、嬉しいこともあれば悲しいこともあります。それぞれにいろいろなことを経験したり体験したり、そしてやがて、年を経て老いを迎え、この地上を去って行きます。そのことで空しく寂しい気持ちになることがありますが、しかし、確かなことは、人生がどのようなものであったとしても、イエス・キリストが救い主であることを心から信じている者は、必ず約束の地、神の御国に入るのだと言うことです。これこそが私たちにとっての最大の勝利なのです。私たちが最後には必ず勝つ者であると言うことは、クリスチャンなら誰もが知っていることだと思います。

  問題なのは、この地上でも勝利者として歩みたいけれども、それがなかなかうまくいかないように思われることです。あまりにもそのことが難しいために、約束の地である神の御国に入るということすら、もうどうでもよいことのように思えたり、重要なことではないと思えたりしてしまうことさえあります。しかし、私たちはそのような思いや感情に欺かれないように気をつけなければなりません。私たちはそのようなものにだまされて、最も大切なものを捨ててしまわないようにしなければならないのです。

■先ほど、主が共にいてくださるならば、私たちはどんな問題の中にあっても、勝利の道はあるのだと言いました。モーセがイスラエルの民をカナンの地まで導いた時、一回目、彼らは目に見える状況に恐れをなして神様に従うことができませんでした。彼らは神様の約束を神様の約束として受け取れずに、目に見える状況にもろに影響を受けて否定的になり、不平不満を言い、モーセに責任転嫁し、結局、そんなところには神様は共にいることはありませんでした。にもかかわらず、しばらくすると、やっぱり戦おうと言ってモーセの言うことを聞かずに勝手に戦いに出て行くと、案の定、やられてしまうと言う始末でした。自分の力では私たちは勝てません。神様が共にいなければ、霊的な戦いには勝てないのです。

  勝利の道を行きたいのであれば、私たちは神様のおられるところにいなければなりません。神様のおられるところはどこかというと、神様のみこころです。私たちは神様のみこころのところに立つべきですし、神様の側に立たなければいけません。神様のおられるところから離れては、私たちには勝利もなければ、祝福もないのです。

  子どもがまだ小さかったころ、よく風邪をひいたりインフルエンザにかかったりして高熱を出しました。かなりの頻度で病院に行っていたような気がします。40度近くの熱になると死んでしまうのではないだろうかと大変心配したのを覚えています。というのも、私の姉の子どもが2才くらいの時に水ぼうそうにかかり、朝は元気だったのにその夜中には意識不明になって亡くなってしまったということがあったのです。髄膜炎でした。急な出来事で、姉はひどくショックを受けていました。私もショックでした。そんな事があったものですから、子どもの高熱=死という恐怖感があったのです。そんな私の恐怖感の矛先が妻への怒りとなって、妻の子どもの健康管理のあり方を責めたりもしました。私たち夫婦の喧嘩のおもな原因は子どもの健康の事でした。喧嘩の原因はもう一つありました。それは教会の事です。子どもの事については私が妻を責めることが多かったですが、教会の事についてはそれぞれにこだわりがありましたからお互いに言い合うことがありました。常にと言うわけではありません。今はほとんどしなくなりました。喧嘩は疲れます。そんな体力はありません。先日、妻がメッセージの中で私たちの家のルールについてお話ししたかと思います。喧嘩をしても次の日まで長引かせないということでした。私がまだ30代のころは、次の日まで長引かせていました。自分の方が絶対に正しい。妻が間違っている。それを認めない限り、絶対に赦さない。あれだけ酷いことを言われて、どうして赦せるだろかと思いました。妻が謝ってくるまで絶対に口を利かないぞ、という思いでした。けれども、人を責める思いに満たされていると、気分がとても悪いのです。平安がありません。喜びもありません。楽しくありません。眠れません。赦せない思いや怒りの思いは大変疲れます。体に悪いと思います。早くこの緊張状態から自由になりたい、楽になりたいと思いました。どうしたら楽になれるのでしょうか。私は神様に自分のありのままの気持ちをぶちまけました。妻がどんなに悪いのかを祈りの中で神様に訴えました。ところが、そんな祈りの中で、神様は私の心を照らし始めるのです。そして、私が神様のみこころでないことをやっていることに気づかせてくれるのです。頑なな思いに縛られていた私の心はだんだん自由になって楽になってゆきました。そして、妻と和解すると喜びが湧いてきて、完全に楽になりました。平安な気持ちになりました。神様のみこころに従うと、主の平安が私たちの心を満たします。けれども、神様のみこころに従っていないと、主の平安は私の心から去って行きます。平安は勝利者の心の特徴です。私たちがどのような状況にあっても、主の平安が心にあるのなら、その人は勝利者なのです。主の平安がないならば、その人は敗北者の道を歩んでいるのです。

■詩篇32篇にこういうことばがあります。「わたしはあなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしは、あなたがたに目を留めて、助言を与えよう。あなたがたは、悟りのない馬やらばのようであってはならない。それは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない。」

  問題の原因が自分自身にある場合、神様は私たちに悟りを与えるために何度も同じレッスンを与えるかもしれません。イスラエルの民は、つぶやかないで主に従えるようになるまで荒野の中を40年間さまよい歩きました。それは、言うことの聞かない馬やらばをくつわや馬具で押さえて言うことを聞くように訓練するようなものであったと思います。非常に苦しく痛みを伴うのです。しかし、それは、イスラエルの民が次の戦いに備えるために必要な訓練であったと言えます。もしかすると、私たちにもこのタイプの神様からの訓練が許されることがあるかもしれません。すべての困難がそうだと言うのではありません。そう言う場合もあると言うことです。私自身、神様からそのような訓練を受けたことがありました。それも、数回ではなくて何度もです。必要とあらば、神様はクリアできるまで何度でも同じレッスンを与え続けたと私は記憶しています。それによって、私は自分の心や性格が矯正されたと思いますし、多少なりとも神様に従えるようになったと思います。そして、それは私にとって祝福であり感謝なことだと思っています。また、それによって周りの人々にとっても祝福となっていると思っています。

■次に問題の原因が自分ではなくて、自分と関わっている人にある場合もあります。このような場合は、本当に不幸としか言いようがありません。なぜなら、問題を作り出している本人が変わらないかぎり、大変なところをいつまでも通らなければならないからです。このような場合、相手ではなくて自分が変わる良い機会だと助言されることもあります。確かに、それも大事なことです。しかしながら、それにしても、大変な状況がずっと続くと思うと絶望的になってしまっても仕方がないことがあります。

  時にはその状況から避難することが導きの場合があるかもしれません。しかし、それは、ただ逃げるのではありません。次の機会に備えるためです。休むことが必要ですし、自分を取り戻し、自分を立て直すことも必要です。自分の力には限界がります。戦いを避け、逃げて神様にゆだねることが必要なこともあるのです。そして、このような時に一番大事なことは祈ることです。祈ることによって、主の平安をいただきましょう。祈ることによって、見えないけれども確かにある神様の力が働くのを期待しましょう。それについて書かれた聖書箇所があります。読んでみましょう。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6~7)

「私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のみ前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」(Ⅱコリント10:4~5)

  みなさん、神に祈る者となりましょう。神に祈る者は神の側に立つものであり、その人と共に神はおられるのです。勝利は神と共にあるのですから、勝利者とは神の側につく者です。ですから、神様に祈り、神様のみこころに従う者となりましょう。そのような人のために、今日のみことば、ヨシュア1:9のことばはあるのです。「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行くところどこにでも、あなたとおもにおられるからである。」

■今年に入って思うことは、いま教会の若い方も大人の方も、以前にはなかったほどに、いろいろな問題がそれぞれに許されて大変苦労されている状況です。これは、個人としても、教会としても、信仰のステップアップ、次の段階に行くために与えられた神様からの訓練であるととらえることができるかもしれません。許されている問題の中で、若い方も大人の方も翻弄されないようにしましょう。もうだめだ、というあきらめの中で、さらにその失望のゆえに、自暴自棄になったり、誰かのせいにしてみたり、不平や不満をいつまでも言い続けたりする者には、神の勝利はありません。なぜならば、そんなところには神様は共におられないからです。だめでもともと、しかし、神様に祈れば何とかなるかもしれない、と小さな神様への信仰をとおして神様は働かれます。ですから、神様に祈りましょう。そうするならば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。神の平安は、勝利者の特徴です。そして、神様のみこころに従いましょう。神様のみこころに従うこと、これも勝利者の特徴です。神様のみこころはどっちでしょうか。だいたい心の平安がある方です。平安のある方に従いましょう。そうしたら、神のみ前で、要塞をも破るほどの神様の大いなる力によって、いつかきっと、勝利と祝福を見ることになります。それでは、お祈りします。