あなたがたも、互いに足を洗い合いなさい

2026年10月11日(日)  牧師 李活理

あなたがたも、互いに足を洗い合いなさい ヨハネ 13_1-8,12-15 .pdf ダウンロード

イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」ヨハネによる福音書13章は、イエス様がつかまえられる直前、最後に弟子たちと食事をする場面です。ですから、イエス様が弟子たちに大切な教えを伝えている内容です。そして、13章だけでなく、14章から17章までは、イエス様のお別れの説教が書かれていて、18章ではイエス様がつかまえられる内容となっています。

今日の本文1節を見ると、イエス様が弟子たちをどれほど愛されたかが、次のように書かれています。一緒に読んでみましょう。「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」

「その愛を残るところなく、示された。」と書かれていますが、韓国語の聖書や英語の聖書では、「最後まで愛された」と翻訳されています。どちらの翻訳も、正しいと思います。イエス様が弟子たちへの愛を残さずすべて見せてくださった、あるいは、イエス様が弟子たちを最後まで愛してくださった、ということです。では、イエス様の愛は、どのような愛だったのでしょうか。

まず、弟子たちの弱さを知っていながらも、愛してくださいました。2節を読んでみましょう。「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、」ユダの話が出てきます。悪魔が、ユダの心にイエス様を売ろうとする思いを入れた、ということです。

イエス様はつかまえられる前に、弟子たちと食事をし、一人ひとりの足を洗おうとされました。しかし弟子たちの中でユダは、イエス様を裏切る考えを持っていたのです。皆さん、見近い人が自分を裏切ろうとしているのは、とてもつらいことですね。イエス様は、ユダが自分を売ることを知っていました。しかし、ユダだけではないです。この13章の最後の節を見ると、ペテロがイエス様を3回も否定することについて書かれています。ペテロは「イエス様のためなら命も捨てます」と言いますが、イエス様は「ニワトリが鳴く前に、あなたは私を3回否定する」とおっしゃいます。イエス様のお言葉のとおり、その後、ペテロはイエス様が捕らえられたとき、イエス様を三度も否定してしまいます。

ユダはイエス様を売ってしまい、ペテロはイエス様の前で3回も否定することを、イエス様はすべて知っておられたのです。ユダとペテロが裏切ることを知っておられたなら、他の弟子たちもイエス様がつかまえられたとき、怖くて逃げてしまうことを、イエス様はすべて知っておられたはずです。

ですから、イエス様が今、弟子たちの一人ひとりの足を洗ってあげますが、その弟子たちは、これからイエス様を売り、否定し、逃げる者たちであることを知っていながらも、足を洗ってくださったのです。

もちろん、弟子たちは、最初からこのような人たちではありませんでした。ユダも、最初からイエス様を売ろうとしていたわけではなかったです。悪魔がその心にそのような考えを入れ、結局、倒れてしまったのです。ペテロも、心ではイエス様のために命を捨てるつもりでした。しかし、現実的に自分もつかまるのではないかという恐れで、ついに3回も否定してしまったのです。このような弱さの多い弟子たちでしたが、イエス様はその弱さを知っていながらも、足を洗ってくださいました。

今、ヨハネによる福音書13章に出てくる弱い弟子たちの姿は、実は私たちの中にもあります。ユダは、罪のないイエス様を銀貨30枚で売ってしまった間違いに気づきます。しかし、悔い改めて、イエス様のもとへ行くことができませんでした。その理由は聖書に書かれていないのでわからないですが、おそらく自分がしたことへの大きな絶望感から、イエス様の前へ行けなかったのではないかと私は思います。私たちも、自分自身に絶望したとき、神様の前になかなか行くのが難しい時があるからです。

結局、ユダは自分で責任をとってしまいました。絶望していたユダに、悪魔はどれほど否定的な考えを入れたでしょうか。イエス様を売る考えまで入れた悪魔ですから、どれほど嘘の考えをユダに入れたでしょうか。「お前がしたことを見なさい。お前は絶対に許されない。イエス様に従う弟子なのに、そんなことをするのか。恥ずかしいと思わないのか。周りの弟子たちにも、どれほど迷惑か。」などなど、そのような、嘘や否定的な思いに入れ込んで、ユダがイエス様の前に行けないようにしたはずです。

私たちにも、悪魔はそのような考えを入れてきます。ある出来事によって自分に絶望し、信仰を捨てたくなるような考えを入れます。さらに、命を捨てたくなるような考えを与えることもあります。神様が喜ばれない考え、神様の御心とは反対の考えを持たせ、神様から離れさせようとするのです。

以前、北海道連合牧師セミナーが札幌教会でありました。閉会礼拝のとき、平岸教会の全(チョン)先生が御言葉を伝えてくださいましたが、その中で心に残っている話があります。

約40年間、牧会をしながら、変わらない現実に落胆し、あきらめたくなるときが一度や二度ではなかった、と言われました。本当に最善を尽くして、尽くして、牧会をしても実がなく、さまざまな難しいことで、あきらめたくなるときが何度もあったということです。しかし、神様が大きな御腕で自分を抱きしめてくださり、振り返ってみたら、このように40年間、務めを果たせているという内容でした。

牧師だけではなく、誰でも、ある出来事で落胆し、あきらめたくなる気持ちになるときがあります。教会で奉仕することは、いつも感謝で嬉しいことばかりではないです。ときには、その重荷がつらくて疲れてしまい、すべてを手放して楽になりたいと思う気持ちもあります。自分がクリスチャンであることを周りの人に言うと、少し難しさが生じるのではないかと心配で、堂々と言えないときもあります。私たちにも、そのような弱さがあります。イエス様のもとへ行くべきだと分かっていても、神様の御言葉が何の意味なのか、分かっていても、そのとおりにできないときがたくさんあるのではないでしょうか。だからといって、イエス様は私たちをあきらめられるでしょうか。いいえ、違います。もしイエス様が私たちをあきらめておられたなら、私たちは誰一人、今ここに座っていることさえできなかったでしょう。

弟子たちと同じように、私たちにもそのような弱さがあります。しかし、イエス様が先に近づいてくださり、まるで汚れた私たちの足を洗ってくださる恵みと愛を、日々新たに与えてくださっているからこそ、弱さの多い私たちが、このように礼拝を捧げているのです。私の弱さよりも、神様の憐れみのほうがはるかに大きかったのです。私の熱心さよりも、神様の助けと導きのほうがずっと大きかったのです。

イエス様は、私たち一人ひとりに弱さや足りなさがあっても、あわれみと愛で包み込んでくださる方です。「罪を犯しても大丈夫だ」ということではないです。ユダがイエス様を売ることを知っていながらも、足を洗い、語り続けられました。「この中に、私を売る者がいる」と知らせて、立ち返る機会を与えてくださったのです。ペテロがイエス様を否定することを知っていても、足を洗い、あらかじめ教えてくださいました。それでも気づかずに倒れてしまう、その弱い者を、最後まで包み込んでくださる方なのです。


2. イエス様は、弟子たちのために犠牲を払い、低くなって仕えられました

イエス様は、弟子たちの足を洗われ、そして、ペテロの足を洗おうとされます。すると、ペテロは、「イエス様、どうして私の汚れた足を洗ってくださるのですか。私の足を洗うことは、いけないです」と言いました。すると、イエス様は、「わたしがあなたの足を洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と言われました。

8節を、一緒に読みましょう。『ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」』

イエス様が弟子たちの足を洗われたことは、これからイエス様が、罪人のために十字架で死なれ、ご自分の命をささげて、私たちの罪をきよめてくださることを表しています。だから、イエス様はペテロに、「わたしがあなたの足を洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と話されたわけです。

イエス様は、弟子たちのために犠牲を払われました。そして、ご自分を低くされました。弟子たちの汚れた足を洗うために、水を用意し、タオルを持ってそして、ひざまずいて、一人一人の足をきれいに洗われました。さらに、十字架で、ご自分の命までささげるほど、弟子たちを愛してくださったのです。神様であるイエス様が、ご自分の権威や立場を手放し、しもべのように低くなって、弟子たちに仕えてくださったのです。イエス様の犠牲、低くなり、仕える姿は、ほかの聖書の箇所にも、書かれています。

ヨハネの福音書21章には復活されたイエス様は、ご自分を裏切り、逃げて行った弟子たちのところへ、会いに行きます。皆さん、さきに会いに行くことも、先に手を差し伸べることも、犠牲であり、低くなって仕えることです。低くならないと、犠牲なしでは、先にできないからです。

弟子たちは、一晩中、魚を捕ろうとしましたが、一匹も捕れませんでした。そのとき、イエス様は、「網を右側に投げなさい」と言われました。すると、たくさんの魚が捕れました。実はこれが、二回目です。ルカの福音書5章にも、弟子たちは一晩中、魚を捕ろうとしましたが、何も捕れませんでした。しかし、イエス様の言葉に従うと、たくさんの魚が捕れたのです。つまり、ヨハネの21章の出来事は、二度目です。イエス様は、もう一度、弟子たちを助けてくださったのです。

それだけではないです。その後、イエス様は、弟子たちのために、朝ごはんまで用意してくださいました。21章9節を見ると、そこには、炭火で焼いた魚とパンが書かれています。イエス様自分を裏切った弟子たちが一晩中、魚を捕ろうとして、おなかをすかせている弟子たちのため、朝ご飯まで、用意してくださったのです。しかも、炭火で焼いた魚とパンです。どれほどおいしかったでしょうか。そして、イエス様は、直接弟子たちに魚とパンを配ってくださいました。イエス様は、弟子たちの必要を満たすために、犠牲を払い、低くなられ、仕えてくださったのです。本文の1節のように、本当にその愛を残るところなく、示されたのです。そのようなイエス様が、弟子たちに次のように話されます。14節と15節をお読みします。

「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」

「私があなたがたの足を洗ったように、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」ということです。これと同じように、34節と35節では次のように話されています。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい!」とおっしゃっています。

まず「新しい戒め」についてですが、旧約聖書にも「あなたの隣人を、自分自身のように愛しなさい」という言葉がありました。「自分自身のように隣人を愛しなさい」というのは、自分が基準です。しかし、イエス様がくださった新しい戒めは、イエス様が私を愛してくださったように、イエス様の基準で相手を愛するということです。

ここで、大事なのは、イエス様は、「互いに足を洗い合いなさい」「互いに愛し合いなさい」を先に言われなかったということです。「私があなたの足を洗ったように」「私があなたがたを愛したように」が先です。

私たちは、自分の力で、自分を苦しめ、傷つける人を包み込み、先に、近づいて手を差し伸べることは、ほとんど不可能です。その人の足を洗ってあげること、とんでもないことです。私たちは、人のために自分が犠牲になり、低くなって仕えることは、そもそもやりたくないです。私たちは仕えてもらいたいし、仕えたくないです。仕えていても、相手が感謝せず当たり前のように思うと、腹が立ってしまうのが私たちです。子供たちのために、親は犠牲になり、低くなって仕えます。しかし時々、子供たちがそれを当たり前だと思って感謝しないと、自分の子供に対しても腹が立つことがありますよね。それが私たちなのです。

ですから、私たちの力ではできないです。イエス様は「私があなたがたを愛したように」「私があなたがたの足を洗ったように」それが先で、その後、「互いに愛し合いなさい、互いに足を洗い合いなさい」と話してくだったのです。

まず、私がイエス様から恵みと愛を受けたなら、その恵みと愛を持って、隣の人に示すこと、それをイエス様は、願っておられます。とくに信じている共同体の中で、です。

では、私たちはどのようにして、実際に互いにイエス様から受けた恵と愛を持って、愛し合うことができるでしょうか。なぜかというと教会というのは、色々な人が集まっているところです。私と合わない人、苦手な人います。どうすればいいでしようか。それは、相手の弱さや足りなさが見えても、お互いのために心から祈り続けることです。教会で私たちがよく会い、一緒に何かをしてみると、相手の弱さが見えてきます。その弱さや足りなさが見えたとき、「あの人は、どうしてああなんだろう」と思っているだけではなく、心からその人のために祈ることです。お互いに弱さの多い私たちですが、互いに心を込め祈り合うことで、その弱さを包み込み、愛する思いが与えられるのです。

私たちは火曜日と水曜日に、教会の皆さんのすべての祈りの課題のために祈っています。一緒に一人一人のために祈ると、その人に対する、よい思いが湧いてくるのです。そして、その人の祈り課題が答えられたという話を聞くと、本当にうれしいです。私たちがどうやって互いに愛することができるのか、心を込め、互いに祈り合うことです。

また、私たちはどのようにして、イエス様のように仕えることができるでしょうか。それは、その人の必要なものを満たしてあげることです。その人の必要なものを満たすことの中で、お互いに負担にならず、それでも感謝を感じられるものが、「食べ物」です。私たちは毎日、食べないといけないので、食べ物は、いつも必要なものです。なので、その人のために食べ物でもてなすことも、仕えることです。イエス様を見てください。裏切った弟子たちにイエス様は、炭火で焼いた魚とパンを用意してあげました。とても美味しかったと思いますよ。感動もうけたでしょう。

私たちは、高級なレストランでご飯をおごらなくても大丈夫です。本当にその人のことを考えて、時にはコーヒー一杯でも、ありがたく思われるし、心が温かくなります。

私が以前、日本で信仰生活をしていた時に、その共同体はとても暖かい共同体でした。平日の夜、祈り会がありましたが、当時、私は新聞配達をしていたので、祈り会が終わると仕事に行かなければなりませんでした。個人祈りをして、新聞用のバイクを乗って仕事に行こうとすると、バイクのカゴに缶コーヒーが一つ、置いてあったのです。誰が入れてくれたのかは分からいです。しかし、これからアルバイトに行く私のために、缶コーヒーを買って入れておいてくれたのです。100円ぐらいの缶コーヒーですが、とても私はとても感動しました。それが、一回だけではなく、何回もそうだったです。

そのような意味で、私たちの教会は食べ物で仕えることが上手だと思います。

宣教チームが来たとき、私たちは料理を作ってあげました。スープカレー、味噌汁、野菜の料理など、宣教チームがどれほど感謝したか分かりません。それだけではなく、よく食べ物で仕えている姿が見られます。毎週日曜日ごとに、甘い缶コーヒーを用意して、くださる方がいます。また、毎月第三主日には食料支援を行っていますが、コピー機の隣においてある箱に、食べ物が入っているし、パンや美味しいものをくださる方がいます。この間は、ジャガイモを一箱持ってきてくださったのです。おかけ様でジャガイモの料理をたくさん食べました。温かいのではないでしようか。韓国から私たちの教会に来られた方々が、「温かい教会ですね」と何度も言われました。

食べ物を通して、仕えることができるのす。

御言葉をまとめます。

メッセージのあとに、主の晩餐式を行います。皆さん、私たちはパンとぶどう酒をいただくことになりますが、まず、私たちが覚えておくべきことは、イエス様は私のために犠牲になり、低くなり、仕えてくださいました。これまでたくさんの弱さや足りなさがあったにもかかわらず、私をあきらめず、あわれみと愛で今まで導いてくださったことを覚え、感謝して受けていただきたいと思います。

それだけでなく、イエス様は「私があなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい」と言われました。


「私がイエス様から受けた恵みと愛を、私は教会の中でどれほど示していただろうか。相手に弱さや足りなさがあっても、私がイエス様から受けた恵みと愛のように、私もその人を包み込んでいただろうか。私がその人のために、心から祈っていただろうか。」と自分を振り返りながら、神様の前で悔い改め、そして、新たな決心をもって、主の晩餐式にあずかりたいと思います。

イエス様は言われました。私たちが互いに愛し合っていくとき、すべての人が「あなたがたが私の弟子であること」を知るようになると。

私たちがこれからも互いのために心から祈り合い、たとえ、コーヒー一杯でも、食べ物でも、互いに仕えようとする愛の共同体となるなら、私たちの教会に来られる方々が、「わあ、本当に温かい教会だな。また来たいな。私もイエス様について学びたいな。信じてみたい」と思われる人々が現れてくるでしょう。

まず、私たちがイエス様にとどまり、イエス様の恵みと愛をたくさん受けていただきたいと思います。と同時に、その恵みと愛を隣にいる人々に示していく私たちとなりましょう。

参照聖句

ヨハネの福音書 13:1-8

1.さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

2.夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、

3.イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、

4.夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

5.それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

6.こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」

7.イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

8.ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

ヨハネの福音書 13:12-15

12. イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。

13.あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。

14.それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

15.わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。