私たちの最後は“死”ではない

2026年10月4日(日)  牧師 李活理

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今日の聖書本文を読むと、少し分かりにくい部分があります。おそらく、いつもこの箇所を読むと、「どういう意味だろう?」と考えたことがあるはずです。なぜなら、33節にイエス様が霊に憤りを覚えたと書いてあるからです。

ヨハネの11章には、イエス様が愛しておられた兄弟がいました。マルタ、マリア、ラザロです。イエス様は彼らを愛しておられ、何度も会って交わりを持たれたようです。しかし、ラザロが病気になり、亡くなってしまいました。ラザロが亡くなってから数日後、イエス様はマルタとマリアに会いに行かれます。イエス様が来られるという話を聞き、まずマルタがイエス様を迎えに行きました。そしてイエス様と出会い、「もしイエス様がここにいてくださったら、ラザロは死ななかったのに」という切ない言葉を残して戻ります。そして続いて、妹のマリアがイエス様のところへ迎えに出て、また、同じことを言うのです。「もしイエス様がここにいてくださったら、お兄さんは死ななかったのに」と言いながら泣き始めるのです.。イエス様は、マリアが泣いているのを見て、どんなお気持ちだったでしょうか?それが33節に出ています。一緒に読んでみましょう。[そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、]と書いてあります。

「憤りを覚え」という言葉が、ここだけではなく、38節を見てみるとまた、でます。「そこでイエスは、また心のうちに憤りを覚えながら」と書いてあります。この「憤りを覚え」という単語の原語をみると、「エンブリマオマイ(embrimāomai)」という言葉が使われています。この言葉が少し面白いです。なぜかというと、馬が鼻をフンフンと鼻息を荒くしているように、人の激しい感情、息を荒くしているように怒りと憤りを意味しているのです。なので、イエス様が泣いている人々を見て、単に悲しんで涙を流す程度ではなく、憤りを感じている。つまり誰かにものすごく怒りを  感じていることです。

では、イエス様は誰にこんなに怒りを感じているのでしようか。泣いている人ではありません。それは、「死」という敵に向かって怒っていらっしゃるのです。
皆さん、人が生まれ、そして死ぬことは、私たちが生きる世において自然なことのように見えます。しかし聖書は、死をそのようには見ないです。

神様が世界を創造された時、創世記1章と2章を見れば、創造の姿には、死や病気、そして別れはありませんでした。神様が造られたすべてのものを見て、「非常に良かった」と言われました。
主なる神様は命の神様です。神様がお造りになった創造の世の本来の姿は命でした。しかし、人間が神様に罪を犯したことで、死が人間の生活の中に入ってきたのです。ローマ人への手紙5:12私がお読みします。聞いてみてください。「 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった」

「死」というのは、神様が私たちに与えてくださったこの肉体的な命を終わらせます。また、「死」というのは、隣人との関係を断ち切ってしまいます。例えば、「死」が私たちの人生に突然やって来て、私たちが愛する人を奪い去ります。愛する人の手を離れ離れにし、親のふところから子供を奪い去りま す。一緒に笑い、一緒に温かいご飯を食べた人と、ある日突然別れさせます。

罪の結果として人間を支配する力となったため、死は敵なのです。ですから、「死」というのは神様が人間のために最初から設計された「本来の創造の姿」ではないです。罪によって世に入ってきた悲劇的な結果です。私たちの人生への侵入者であり、敵なのです。

パウロはコリント人への手紙一15章26節でこう宣言しています。「最後の敵である死も滅ぼされます。」敵である死だと言っています。今は死が人間を支配していますが、イエス・キリストの復活と再臨を通して、その死さえも完全に滅ぼされるという福音の最終的な勝利を語っているのです。

イエス様がラザロの死を悲しんでいる人々を見て怒っておられるのは、彼らに信仰がないから怒っているのではなく、神さまのかたちに造られた人間が罪と死の下に置かれているこの現実、イエス様が愛する者が敵によってその人生と家庭を踏みにじられていることに対する怒りなのです。

それだけでなく、35節を見ると、イエス様は涙を流されました。今、ラザロの死によって苦しんでいる人々の悲しみに、イエス様は、共にして涙を流しています。イエス様はラザロが再び生き返ることを 知っていました。  だらかと言って、「また会えるから、泣くな」ではなかったです。彼らの悲しみに共感し、涙を流してくださるお方なのです。

ですから、ヨハネの福音書11章は、死がわれらの運命であり、死という絶対権力であるこの世にイエス様が来られて、その権力を打ち砕かれた事件です。主なる神様は、イエス様を通して、死が人間の最終的な運命ではなく、命、そして永遠の命こそが私たちの最終的な行き先であることを示してくださっています。イエス様がどのようにそれを成し遂げられていくのかを、本文を通して確認してみると、

 1.イエス様は人々にとても変な目で見られます。

イエス様はラザロが死んでいるその現場、お墓に向かわれます。そして、そのお墓に置かれている石をとりのけなさいと言われます。39節のみことばを一緒に読んでみましょう。イエスは言われた。
「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
イエス様は今、石を動かすように命じられましたが、聖書は正確に語っています。ラザロが死んでからすでに4日も経っているということです。しかもマルタがイエス様を止めようとしています。

「イエス様、石を動かしてどうするのですか?」「もう遺体の腐った臭いもしますよ」「石を取りのけても無駄です」――そのように、そこにいる人々の中でも、特に身近な人でさえ、イエス様がなさろうとしていることを理解していなかったのです。理解していなかっただけではなく、おそらく、「なぜそんなことをするのだろう」と意味が分からない、もしくは、変な目でイエス様をみることもあったでしょう。

周りの人々から変な目で見られながら、何かをやり続けることは、決して簡単なことではありません。別に悪いことをしているわけではないのに、人々から「変な人だ」と思われたり、変な目で見られたりすると、やはりつらいです。

うちの教会で4月から語学のクラスを始めました。その前に、私はチラシを配っていました。高校生にもチラシを配ってみたくて、北星女子高の学校の前ではなく、学校から少し離れた場所に立って配ってみました。でも、ものすごく変な目で見られました。さすがに心細くなって、長く続けることができませんでした。それほど、人から変な目で見られながら何かを続けるということは、大変なことなのです

しかし、イエス様は、人々から変な目で見られても、理解されなくても、ラザロを生かそうとされたのです。ラザロを支配していた罪と死の力を打ち砕き、死の中にいるラザロに命を与えようとされました。

実は、イエス様は私たちを生かすためにもそうだったです。イエス様が、私たちを生かすために、肉体的な苦しみだけ受けられたのではなく、人々の前で恥と侮辱(ぶじょく)をたくさん受けられました。

何の罪もないイエス様が、人々の前で罪人扱いをされました。そして、ローマ兵士たちがイエス様の服を脱がせ、下着は自分たちでくじ引きをして持っていくという嘲り(あざけり)と恥を受けられたのです。十字架の上にイエス様は、ほぼ裸で釘付けにされていたのです。十字架につけられているだけでも、恥じですが、ほぼ裸です。そうようにイエス様は肉体的な苦しみだけでなく、人々の前での恥をすべて受けられたのです。イエス様は私を生かすために、そのような苦しみ、恥、嘲りまでをも引き受けてくださったのです。

私たちは救いをあまりにも簡単に受けたと思いがちですが、実はイエス様は私たちを救うために、あまりにも大きな犠牲を払われたのです。皆さん、今日の聖書は語っています。イエス様が死んでいるだラザロを生かすために、周囲の人々にさえ理解されず、変な目で見られました。
それは、ラザロだけではなく、イエス様は、罪と死の下に生きている私たちを救い出すために、たくさんの苦しみと恥じを受けられたのです。イエス様は顔に唾を吐きかけられ、頬(ほお)を打たれ、人々の前で恥と侮辱を受けながらも、私を生かしてくださったのです。私のために、私を生かすために、私を救い出すために、私を死から命へと移すために、イエス様は心身を引き裂かれながら、救ってくださいました。それほど私を生かしたいと願ってくださったし、それほど、私を愛してくださったのです。愛していなければ、そんなことまでできないです。

 1.イエス様はラザロの名前を大声で呼ばれます。

43節のみことばを一緒に読んでみましょう。[そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。]
イエス様は、死んでいるラザロに向かって名前を呼びます。「ラザロ!出てきなさい」と命じると、死んでいたラザロが生き返りました。イエス様の権威を見てください。死んだ者に向かって名前を呼び、出てきなさいと命令すると、その言葉に従って、死んだ者が生き返ったのです。イエス様の権威は、いったいどんな権威なんでしょうか。言葉によって死んだ人を生き返らせるお方です。

社会でも高い権威者の一言でその通りになることがあります。私が軍隊に入り、軍隊で権威者の力を初めて経験しました。軍隊でも最も高い人の言葉一言で、できなさそうなことも、実現します。
軍隊の中で一番偉い人が「明日サッカーをするよ」と言えば、その時間になると皆、サッカーをやっているのです。サッカーをしたくないとか、体が良くないとか関係なく、すべての人がその一言でサッカーをすることになるのです。また、「今日の夕方にラーメンを食べよう」と言えば、今ラーメンがなくても何とかしてラーメンを手に入れ、すべての人がラーメンを食べることになります。小さな集団において権威ある者の一言でその通りになるものだなぁと思いました。

イエス様が死んで数日経ったラザロに向かって、「ラザロよ、出てきなさい!」と命じられた時にラザロが生き返って出てきたことは、イエス様の権威を示す出来事です。そして、これはイエス様が今後示されるしるしでもあります。
イエス様が実際に人間の罪を背負って十字架で亡くなられた後、復活なさることで決定的に罪と死の権力を打ち破ってくださるのです。

イエス様は十字架で私たちの罪のすべての問題を解決してくださいました。イエス様が十字架の上で、「全部、成し遂げた。」とおっしゃいました。すべての支払いを終わったという意味です。私たちの罪はイエス様が十字架で死なれることで、解決してくださったのです。そして、イエス様が死んで、イエス様も墓に葬られました。イエス様も死の権力の下に入られたのです。しかし、復活なさることで死の権力を打ち砕いて勝利されたのです。そして、そのイエス様が再臨される時に死というものが完全に滅びます。
コリント人への手紙一15章26節もう一回、読んでみたいと思います。「最後の敵である死も滅ぼされます。」イエス様の再臨を通してその死さえも完全に滅ぼされるという、最終的な勝利を語っているのです。
ですから、まだ、イエス様が再臨してないので、イエス様が死に勝利されたからといって、この世から死がなくなったわけではないです。私たちは今も、死を経験します。しかし、イエス様がよみがえられたことによって、死というのが終わりを意味するものではなくなったのです。

イエス様はマルタにヨハネの福音書11章25節、26節で次のように語られました。[イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とは、イエス様を信じて、すでに亡くなった者が、将来復活するという意味です。そして、「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはない」とは、イエス様を信じれば、肉体的に絶対に死なないという意味ではないです。たとえ、イエス様を信じている者が、これから肉体的な死を迎えたとしても、その人は永遠の命を失うことはない、という意味です。

ラザロは今、死んで、葬られていましたが、「わたしを信じる者は、たとえ肉体が死を迎えて土に帰ったとしても、再び生き返るだろう」ということです。死という凶悪な敵が人を踏みにじり、命を断ち切ったかのように見えても、「命そのもの」であられるイエス様につながっている人は、死が決して彼を永遠に閉じ込めておくことはできません。敵が勝ったかのように見えても、イエス様がその死を突き破って再び生かしてくださるのだ、と語っておられるのです。

なので、イエス様が語られた「わたしはよみがえりであり、命である!」という言葉のように、信じる者にとって最後の単語は「死」ではなく、イエス様の言葉通り「よみがえりと命」が私たちの最後の単語になるのです。

ラザロはイエス様でなければ生き返ることができませんでした。イエス様でなければ、愛する人たちと再び出会うこともできたのです。しかし、イエス様によって彼は生き返り、再び家族と会うことになったのです。

まとめ

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」
私たちが信じる福音とは、「クリスチャンは死なない」ということではありません。
クリスチャンも肉体的に死を迎えます。しかし、死が私たちの最後ではないということです。死が最後であれば、それほど、むなしいことがどこにあるのでしょうか。結局、死ぬのに、何のために頑張る必要があり、結局、死ぬ人生であるなら、生きる意味も希望がないです。

しかし、イエス様の中に、死の後によみがえりがあります。死の後に永遠の命があります。なぜなら、命であられるイエス様に私たちがつながっているからです。
ラザロは自分の力で墓から出てきたのではなく、イエス様が彼の名前を呼んでくださったのです。「ラザロよ、出てきなさい」そして、彼は出てきました。

いつか私たちの肉体が土に帰る日が来るでしょう。人々が私たちを見送って悲しむ日も来るでしょ う。しかし、それが私たちの最後の場面ではないです。命であられるイエス様が、再び私たちを呼んでくださるからです。私たちがいつかこの地上で目を閉じる時が来ても、しかし、命の主であり、死の権力も打ち砕かれた力あるお方が私たちを呼び、起こしてくださるなら、私たちは再び立ち上がることができます。そして、再び愛する人と主の中で会える日が待っているのです。

ですから、もし死を考えると、時には、恐れを感じる時があります。その時に、イエス様を見上げてください。愛する人を失った悲しみがあるなら、私たちと共に泣いてくださるイエス様を見上げてください。歳をだんだん取っていく悲しみや虚しさを感じる時も、ありますが、その時も、イエス様の言葉を握りしめてください。「わたしはよみがえりであり、命である」と
死が私たちの人生を終わらせるかのように見えても、死が最後の単語ではないです。イエス様が最後の単語なのです。死は最後に滅ぼされる敵です。

ですから今日も、私たちは死を見つめる人々ではなく、復活と命を見つめる人々です。イエス様を信じる私たちにとって、最後の単語は死ではなく命です。私たちの最後は絶望ではなく復活です。
私たちの最後は別れではなく、イエス様の中で再会です。

イエス様によって私の最後がこのように変えられることって、どれほど感謝なことですか。どれほど、希望が満ちているでしょうか。イエス様がラザロを呼んでくださったように、イエス様が、いつの日か、眠っている私たちを呼び、起こしてくださることを信じて、今週も歩んでいきましょう

参照聖句

ヨハネの福音書 11:33-40

33.そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、

34.言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」

35.イエスは涙を流された。

36.そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」

37.しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。

38. そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。

39.イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」

40.イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」