ごくせんという(ドラマ)をご存知ですか。かなり昔に放送された日本のドラマです。ヤクザの孫として生まれましたが、ヤクザの跡を継ぐ道を選ばず、自分が本当にやりたかった教師になった物語です。初めて担任となったクラスには、不良の生徒たちが集まっていました。学校側は、このクラスの生徒たちが問題を起こせば、学校の名誉のためにいつでも退学させようとしています。しかし、担任の先生は生徒たちを絶対に諦めません。
生徒たちが自分のことを先生として認めてくれなくても、とことん付き合うし、困難なことが起きれば生徒たちと共にその試練を乗り越え、生徒たちの言葉を誰よりも信頼してあげます。時には、生徒たちにとって本当に大切なことが何であるかを教えてくれます。勉強ができず、さまざまな問題を起こす不良の生徒たちですが、先生はその中にある良い姿を一つずつ見出していきます。そうして生徒たちは、真の先生の姿にだんだん心を開き始めます。
学校をやめようとしていた生徒たちも、この先生のおかげで再び学校に通うようになり、以前は「先生」という人間自体を信じなかった生徒たちも、初めて先生を信じるようになります。私はこのドラマを見ながら、真の先生の姿に感動して何度も涙をぬぎながら見ていました。
学生が良い先生に出会うということが、どれほど大きな祝福なんでしょうかか。
そういえば、セジンも、日本語が全く分からない状態で小学校に通い始めましたが、最初の担任の先生が本当に素晴らしい方でした。セジンが友達の名前をよく覚えられるように、子どもたちの机に名前のシールを貼ってくださったです。それで、まず、友達の名前を早く覚えることができました。そして、授業の内容もセジンが少しでも理解できるように韓国語に翻訳してきてくださいました。先生がセジンを温かく配慮してくださる姿を見て、クラスの子どもたちも先生と一緒にセジンを気遣ってくれたおかげで、セジンが学校に慣れることができたのです。
残念ながらその先生は今年、他の学校へ異動されてしまって妻と私は悲しかったです。何よりもセジンもその先生にとても会いたがっているのです。そういう姿を見ると、セジンにとってその先生がどれほど大きな力になっていたのかが分かります。
生徒が良い先生に出会うことだけでなく、患者を心から思ってくれる真実の医者に出会うことができたら、どれほどありがたく感謝なことでしょうか。真実の警察官、真実の牧師、私たちが生きていく中でそのような方々に出会えることは、どれほど大きな祝福でしょうか。しかし反対に、そうではない人に出会ったり見たりする場合、とても残念で、時には腹が立ちます。先生らしくない先生、医者らしくない医者、牧師らしくない牧師に出会ったり、それに関する話を聞いたりすると、本当に胸が痛くなり、怒りが込み上げてきます。
今日私たちが読んだ本文の内容も、それとよく似ています。イエス様は羊と羊飼いのたとえを話されながら、ご自分こそが「良い羊飼い」だと言われました。羊飼いと羊の関係を語りながら、羊飼いではない盗人や、雇い人が羊に近づいてくることも語っています。真の羊飼いだけが、羊を生かし、守り、その人生を豊かにするのだと話しています。
まず、イエス様は「わたしは羊の門である」と言われます。7節の言葉を一緒に読んでみましょう。[そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。]「わたしは羊の門である」と言われましたが、当時の羊飼いは羊を連れて歩き、日が暮れ始めると羊たちを囲いへと案内します。周辺が石で囲まれているため、羊たちがその囲いの中に入れば、真夜中に野獣から守られるのです。しかし、時々その囲いに門がない場所がありました。すると、羊飼いは羊たちをすべて囲いに入れた後、羊飼い自身が門のところに座り、一晩中「門」の役割をするのです。羊たちが夜中に勝手に出ていかないようにし、野獣が囲いの中に入ってきて羊たちを食べないように、一晩中見張り(門番)の役割をするのです。
それで、9節の言葉にあるように、その羊飼いを通して羊たちが囲いに入れば救われ、また出入りしながら牧草を得ることができると言っています。9節の言葉を一緒に読んでみましょう。[わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。]
羊飼いが羊の囲いの門となって、羊の一匹一匹を中へと通してあげるのですが、羊たちはその羊飼いを通して囲いに入れば、真夜中であっても安全に過ごすことができるのです。羊飼いが羊の門を守っているので、羊たちが勝手に出て行こうとしても「ダメ、ダメ」と言って囲いの中に留め、外から野獣たちが羊たちを襲おうと近づいてくると、羊飼いが野獣を追い払うのです。また、日が明るくなると再び羊たちを外へ連れ出し、羊たちが食べることのできる牧草地へと導いていくのです。つまり、その羊飼いの保護の下で、羊たちが安全に暮らしながら、必要な糧を供給してもらえるということです。
先週の月曜日から木曜日まで、聖徒大会が日高青少年自然の家で開かれました。到着して私たちの部屋に荷物を置いてこなければならなかったのですが、集まって礼拝する場所から宿泊棟までかなり遠くて、階段も多くて複雑でした。それで、荷物を置いてから再び礼拝する場所に戻らなければならないのですが、道が分からなかったのです。ただ勘で「ここかな」と思いながら歩いて歩いて行ったのですが、違っていました。5分ほど迷って迷って、ようやく見つけました。ほんの5分ほど迷っただけでも、すごく疲れたのです。階段を何回も上ったり下ったりしていたし、行くべき場所に行けずに迷うそのこと自体が、とても疲れました。
羊たちが新しい場所に行っても、羊飼いが囲いの中に導いてくれるので、夜も平安で安全に過ごすことができるのです。しかし、羊が囲いに入りたくないと言って、夜に一人で、さまよい歩いたり、食べ物を探そうとあちこち歩き回ったりすると、野獣に捕らえて食べられてしまったり、崖から落ちて死んでしまったりするのです。当時のイスラエルの地形は、私たちの教会の近くにある羊ヶ丘展望台のように草原が広がっている環境ではなく、岩の多い山地や険しい谷が多かったのです。そのため、草のある場所を見つけることも難しいし、岩から落ちる危険もかなり大きかったのです。羊飼いを通して囲いに入り、羊飼いを通して草原へと導かれることが、羊にとっては命を得るようなものだったのです。
イエス様が「わたしは羊の門である。わたしを通って入るなら、救われる」と言われているのは、自分の人生にイエス様を受け入れたら、そこで終わりではなく、私たちの人生の中でその方の保護と導きの中に生きるようになるということです。ですから、実際にイエス様に頼って歩んでいく人は、それを体験するのです。危険な状況の中で神様が自分を守ってくださり、自分の必要も神様が思いもよらない方法で満たしてくださることを、イエス様を信頼して歩んだ人は、本当に自分の口でそのように告白するようになるのです。
前回も羊について分かち合いました。羊は転ぶと自分の力では立ち上がることができないと。転んだら立ち上がろうともがいていても、体が重くて1人で起き上がれないのです。しかし、そうやって転んだ羊をそのままにしておくと体重で窒息(ちっそく)して死んでしまうことがあるのですが、その時に羊飼いがやって来て、羊を起こしてあげるのです。
聖書のなかの羊の比喩は私たちのことです。私たちも時には自分の力で立ち上がるのが難しい時があります。人生を諦めたくなる時があります。どうしても自分の力で立ち上がるのが難しい時、そんな時に羊飼いであられるイエス様が、私の人生に立ち上がる力を与えてくださるのです。その方の愛と恵みによって。ですから、自分の内側では立ち上がる力も意志もないのですが、その方によって与えられるのです。再び立ち上がって信仰を持って進む力が与えられるし、再び誰かを許し、憐れむ心も与えられて、無条件にまず手を差し伸べる力が湧いてくることを、私たちはイエス様の中で日々経験しているのです。
2)イエス様は、羊たちに対して不純な動機で近づく者がいると言われています。8節です。[わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼の言うことを聞かなかったのです。]「盗人、強者」と言われていますが、文脈上、パリサイ人たちのことを指しています。ヨハネの福音書10章の直前の9章では、生まれつきの盲人だった人をイエス様が癒やしてくださいました。しかし問題は、イエス様がその人を癒やされた日が安息日だったということです。イエス様が泥をこねて盲人の目に塗られたのですが、当時のパリサイ人たちは泥をこねる行為を労働と見なしました。したがって、イエス様が安息日に労働をし、結局安息日を守らなかったので神から来た人ではなく、罪人であると判断したのです。しかし、盲人がイエス様を認めると、パリサイ人たちは彼を共同体から追い出してしまったのです。
当時のパリサイ人たちは、律法を教え、人々の生活の方向性を指し示す宗教指導者たちでした。本来ならば民を神へと導くべき人々でした。しかし、イエス様を認めれば自分たちの律法の解釈や権威が揺らいでしまう可能性があったのです。そのため、イエス様を認めるよりもイエス様を罪人と規定し、イエス様を認めた盲人まで共同体から追い出したのです。
結局、自分たちの権威と地位を守るために、一人の人を犠牲にしたのです。
だからイエス様は本文の8節で「わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗だ」と言われているのですが、時間的に前に来たすべての人を言っているのではなく、自称、霊的・道徳的指導者であるパリサイ人たちが盗人であり、強者であると言われているのです。なぜなら、その動機が羊飼いとは異なるからです。
10節を読んでみましょう。[盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。]
彼らは羊のためではありません。盗人は自分の益のために近づいてくるのです。ですから、自分に不利になると逃げてしまうのです。12節によく出ています。[牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで狼は羊を奪い、また散らすのです]決して自分を犠牲にしません。動機が羊のためではなく自分自身であるため、羊のことを気にせずに、置き去りにして逃げてしまうのです。しかし、羊飼いは自分よりも羊です。羊を保護し、羊を食べさせるために、進んで犠牲を惜しまないのです。羊の門となって一晩中羊を守り、羊たちが休める場所、食べ物がある場所へと導いていくのです。ですから、羊が真の羊飼いを通して命を得、羊飼いを通してさらに豊かな人生を送ることができるのです。
3)最後は、イエス様をご自身を「良い羊飼い」だと言われます。11節の言葉を一緒に読んでみましょう。[わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。]
羊たちのために命を捨てるというのです。羊たちを本当に生かすことができ、羊たちのためになら自分の命さえも惜しまないということです。イエス様は言葉だけではありませんでした。実際的に、罪人である私たちのために十字架の上で身代わりに死んでくださったのです。誰かが自分のために命を投げ出すほど自分を思ってくれている人がいるとしたら、どう感じるでしょうか。私たちは、誰かが自分のために小さな準備をしてくれただけでも驚き、ありがたみを感じます。
私がここオープン・ドア・チャペルに来ることが決まり、私たちの家族が去年の10月に新千歳空港に到着しました。ところが、空港に非常に多くの方々が来てくださっていたのです。平日の日中ということもあり、ジム牧師だけがいらっしゃっていると思っていたのですが、多くの方々が来てくださり、とても感動しました。そして、もう一つ感動したのが、歓迎の絵と文字を書いて持って迎えてくださったことです。田村さんがアンパンマンの絵と一緒にハングルでも「ようこそ」と書いて持ってくださっていて、あまりにも大きな感動を受け、今でもその絵を大切に保管しています。そこを見ると、まず鉛筆で下描きをして消した跡が残っているのです。私たちのためにこれを準備してくださるのに、どれほどの真心が込められていたでしょうか。また、誕生日の人たちへ綺麗に葉書を作って送ってくださる江利子さんの葉書にも、御言葉と祝福の言葉が綴られています。この間、ひョスクさんが誕生日だったですが、はがきが届けていて、とても喜んでいました。
自分のために誰かが、このように、心を込めて、贈り物や準備だけでも、本当にありがたく感動的なのに、神であられるイエス様が命さえも惜しまず自分のために捨ててくださった。イエス様が自分のために身代わりに死んでくださった意味を知るならば、そして自分の人生に良い羊飼いがおられるということに気づくならば、どれほど喜び、感謝することでしょうか。また、私たちが生きていく中でどれほど大きな力を得るでしょうか。
イエスさまが、羊たちのために命を捨てるというのは、何かの条件があるからではありません。羊たちがとても可愛いからとか、羊たちが羊飼いに本当によく従ってくれるからとか、こんにちなら、羊たちを飼っていたら、結局、ジンギスカンのお肉をいつでも食べられるから)とか、暖かい衣の材料を持ってきてくれるから、私が羊たちのために命も捨てるというわけではないのです。どんな条件もありません。羊たちが勝手に別の道へ行こうとしても、自分で転んで羊飼いが何度も世話をしなければならないとしても、羊の良き羊飼いであるゆえに、命を投げ出してでも羊たちを守り、生かすのです。
時には私たちも、私たちを大切にしているふりをしながら盗人や強盗のような人に出会い、傷つくことがあります。人を頼って傷ついたり、騙されたりすると、これ以上誰も頼らなくなってしまいます。ただ自分自身だけを信じて進むようになります。受けた傷と痛みが大きいからです。しかし、誰も頼らず、自分だけを信じて進む人生は本当に孤独で、時には大変なものです。
そして、どうにかしてこの地上で生きていくことはできても、救いを得ることはできません。羊が目が悪くて前をよく見えないように、人間も一寸先を知ることができません。羊が自分で立ち上がることができないように、時には自分の力で立ち上がることができない時もあります。それなのに、どうして自分自身が自分を救うことができるでしょうか。
イエス様は、「わたしは羊の門である。わたしは良い羊飼いだ。わたしを通して羊は命を得、豊かな人生を送る。わたしは羊たちのために命を捨てるほどに羊たちを大切に思っている者だ」と、ご自身について語っておられるのです。
まとめ
私は今、誰について行っているでしょうか。世間の声を追いかけているでしょうか。それとも、自分の考えや経験だけを頼りに生きているでしょうか。人を信頼して従っているでしょうか。それとも、私を最もよくご存じで、私のために命まで捨ててくださった良い羊飼いに従っているでしょうか。
聖書には、羊飼いであられる神様を一生涯従い続けた人の告白が出てきます。それはダビデです。ダビデ自身が羊飼いだったため、羊飼いと羊の関係をよく知っていました。そのダビデが、神様を自分の羊飼いだと告白しているのです。詩篇23篇1、2節を読んでみましょう。[1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。]5節もです。[私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。「私の敵の前で、あなたは私のために食事の備えをしてくださり」という言葉は、敵が相変わらず周りにいるのに、神様が安全に食事のできる場所を備えてくださるということです。つまり、敵が私を脅かしていても、神様は私を放っておかず、守って平安にしてくださるのです。そして「私の頭に油を注がれて、私の杯はあふれています」という意味は、古代イスラエルでは客を手厚くもてなす時に油を頭に塗る風習があったということです。つまり、敵の前でも神様は私を尊び、豊かにもてなしてくださるのです。だから私の杯があふれているのです。敵に取り囲まれていても、神様は私を安全に守り、大切な客人のように豊かにもてなしてくださるので、神様の恵みが満ちあふれていると告白しているのです。
ダビデは羊飼いから一国の王になった人です。数々の敵や危機のなかでも、本当に神様だけを頼りにした人でした。それなのに、そのダビデが「神様は私の羊飼いだ。神様はいつも私を守り、尊び、導いてくださった。その恵みが私に満ちあふれている」と言っているのです。そして、詩篇23篇の最後の節、6節のように告白しているのです。みんなで読んでみましょう。[まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう]いつくしみと恵みが追ってくると言っています。私が神様の慈しみと恵みを追いかけていくのではなく、羊飼いであられる神様の中にいれば、いつも神様のそのような変わらない愛と、その真実さが私から離れないということです。いつも私の人生に与えられるということです。そして、神様の家に永遠に住みますと告白して締めくくっているのです。
それほど、羊飼いであられる神様がダビデにとって本当に素晴らしいお方だったのです。本当に感謝だったのです。神様を長年、頼って生きてみた人の告白です。ダビデの人生には、良い時もあれば大変な時もあり、理由の分からない困難もたくさんありました。それなのに、人間を頼って進むことはせず、世間の声に従うこともせず、自分の考えや経験を頼りにすることもせず、ただ羊飼いであられる神様を頼りにして、その御声に従って進んでいきました。その告白が23篇ではありませんか。
誰かを頼り、信頼して生きることは、決して弱いことではありません。しかし、その対象が誰であるかをよく見なければなりません。偽りの羊飼いのような方を頼りにしたりすると傷が大きくなるだけであり、誰も頼らずに自分ひとりで頼って生きていくということは、あまりにも孤独で大変なことです。
イエス様は良い羊飼いと言われました。イエス様を信頼し、頼る人生は損ではなく祝福です。その方によって救われ、その方によって生かされ、その方によって豊かな人生を歩んでいくことができるのです。イエス様が私の良い羊飼いであられるので、私たちは実際、必要以上に思い煩う必要がありません。なぜなら、羊飼いが進むべき道を導いてくださり、困難の中にある私を守ってくださるからです。必要な部分は羊飼いが満たしてくださるのです。ですから、思い煩うことが起きるたびに、羊飼いをもっと見つめ、羊飼いの御声に耳を傾けて進んでいけばよいのです。それが羊にとって最も重要な役割です。羊飼いをさらに信頼し、羊飼いによく従って行けばよいのです。
私たちの人生を振り返ってみると、良い先生一人、良いお医者さん一人に出会うことが、私たちの人生に大きな影響を与えることがあります。どのような先生に出会うかによって私たちの考えや人生の方向性が変わり、どのようなお医者さんに出会うかによって私たちの健康や人生が変わることもあります。
それと同じく、私たちの人生を最もよくご存じで、私たちを正しい道へと導いてくださり、私たちのためにご自分の命まで差し出してくださった良い羊飼いであられるイエス様との出会いは、きっと私の人生は変わるのです。人生の方向性が変わり、人生が変わります。良い意味で、そして、その方を信頼して進むとき、私たちの人生に、私たちの魂に、真の喜び、満足、感謝が満ちあふれてきます。ですので、世間の声ではなく、どのような優れた人間でもなく、自分の経験や考えでもなく、私の羊飼いであられる、私の救い主であられるイエス様に、これからもずっと従っていきましょう。