神の家族における礼拝

2023年4月16日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

歴代誌Ⅰ 16章23〜34節

 

神の家族における礼拝

 

 ここオープンドアとオンラインでともにおられる皆さん、イースターの後の日曜日、おめでとうございます。私たちは最近、礼拝について、また、毎週この場所に集いながら、どうすれば最善の礼拝を行うことができるかについて、たくさん話し、祈ってきました。ですから今日のメッセージについて祈る中で、礼拝の実践について共に学ぶには大変良い機会になると感じました。それは私たちが誰であるか、そして何をするためにここにいるかの核心にあるものですが、それでもその意味や目的、あるいは形式について深く考えるのを決してやめることはないかもしれません。

今日はそのことに焦点を絞る時間を、しばし過ごしましょう。

 

 礼拝は聖書の至るところに出てきます。しかし、今日の朗読箇所にある言葉は、クリスチャンの礼拝の本質と意味において、とりわけはっきりとした見識を与えてくれます。それは時の流れとともに変化するものではありません。その背景に関するいくつかの物事を理解することから始めていきましょう。

 

 歴代誌ⅠとⅡは、おそらく紀元前450年頃、エズラによって1冊の本として書かれました。それはイスラエルの人々が祖国から連れ去られ、バビロンでの暮らしを余儀なくされてから約70年を経て解放された後のことです。彼らが戻ってきたとき、そこには何も残されていなかったと言えるでしょう。その地域は別の民族の何者かに支配され、最大都市の周りを取り囲む壁は、彼らの礼拝の中心である神殿とともになくなっていました。彼らは軍事的にも、経済的にも、政治的にも弱かった上に、落胆もしていました。彼らにとって、自国が約500年前にダビデ王の下で持っていた偉大さを取り戻すことを想像するのは難しいことでした。

 

 ですから、このイスラエルの歴史は、ひとつには国民を励ますために書かれました。書き手は、導いてくださる神に人々が信頼を置くとき、彼らの国における生活の中で既に神が何をなさってこられたかを振り返ることへと、道案内したいと思っているのです。作者は、エルサレムに契約の箱が運ばれてくることを祝って神の民が共に主を礼拝したときの、まことに素晴らしい1日の物語を伝えることによって、これを行います。最近のメッセージから覚えておられるかもしれませんが、この箱の中には旧約聖書の律法の中核で神の御言葉(聖書)の重要な一部である十戒と、彼らの神となり、ご自分の民としての彼らを導くという神のお約束があります。簡単に言えば、これは神が特別な方法でおられる場所——つまり神の家なのです。

 

 ですから、ここにある言葉は人々を礼拝に導きます。それらは段落(通常の書式)から詩篇の書式へと移行します。特に詩篇105篇、また95、96篇などを読むならば、ここで読むのと同じ言葉をたくさん見つけることでしょう。私たちが読んでいるのは、この章の8節から始まるもっと長いものの一部ですが、鍵となるこの部分に注目してみましょう。それをするために、誰が、何を、いつ、どこで、なぜ、どのようにという、礼拝についての問いを投げかける手法をとることにしましょう。

 

誰が: 28節で「主を賛美せよ…」(新改訳では「主にささげよ」)、また33節では「…主に歌え」とあります。神がここで起こっていることの中心になります。 私たちは他の場所へ行き、誰かがステージ上でマイク越しに話したり歌ったりするのを聞くことができますが、ここには根本的に異なる何かがあります。 私たちは、私たちに御言葉を伝えようとなさっている神様に対するほどの熱心さで、自分の耳に言葉を届ける人達に注意を払ってはいません。 私たちは主として神様に耳を傾けるため、また祈りや賛美、告白などによって神様に応答するためにここにいます。 もしも私たちが自分の目の前の人々に注意を払い始めるなら、私たちは礼拝から滑り落ち、意義や価値をはるかに欠く何ものかに入り込んでしまう危険性を常に伴います。

 

「私たち」とは誰のことでしょう。 礼拝するのは誰ですか? 23節30節は、「全地(の人々)よ・・・ 」と語ります。それは、プロの礼拝者同様にメンバーに賃金を払って、彼らに私たちの代表者として礼拝してもらうようなものではありません。聖書によれば、それが神のご計画ではないのです。真の礼拝は、特別に熟練したリーダー達だけによってなされるのではありません。主の御旨は、信仰の共同体全体が礼拝せよというものです。ご自身の被造物が神を礼拝するとき、神様はそれをお喜びになります。それは私たちにとって最も自然な生き方であり、神様が私たちを設計された方法に合致するものなのです。

 

事実、礼拝は人間だけにとどまらず、神の被造物すべてに及んで行きます。 ですから御言葉は、「海とそこに満ちるものは、とどろけ。野とそこにあるものも皆、喜び勇め」(32節))「…森の木々も、喜び歌おう。…」(33節)のように言うのです。それをするようにと意図されていることを行うことによって、それらは神に喜びを与え、神の栄光を現し、そうやって神を礼拝するのです。 すべての人とすべてのものがこれを行うときのみ、礼拝は完全な意味を持ちます。ですから私たちは、31節が「天は喜べ。地は喜び躍れ。」と教えているように祈るのです。

 

 何を: 礼拝とは何でしょう。 聖書は単一の定義を与えていませんが、英語の単語worshipが理解を助けてくれるでしょう。(もちろん英語だから間違っていない、というわけではありませんが、覚えておくと役立つかもしれません。)  worth(価値のある)という単語をご存じですよね? Worship(ワーシップ)とは、価値や値打ち、もしくは意義のあるものを、言葉や思考、または行動で表すことです。これが真実であるがゆえに、人間である私たちとその世界に関する最も深い真理に触れるのです。

 

 礼拝をこのように理解するとき、それが特定の場所と時間で私たちが行う、計画的かつ構造化された儀式をはるかに超越して行くものであるとわかります。 この意味では、誰もが何かを「礼拝」しています。神を礼拝することを拒むならば、私たちは神を何か他のもの——しばしば私たち自身——に置き換えることになります。 私が最近話題にしたアンディ・クラウチという作家は、「ワーシップは、私たちを世界に関する本当の真理、その本来の目的と究極の意味、またその中にある私たちの責任へと連れて行く。」と述べています。

 

 ですから聖書の神による人々へのメッセージは、ほとんどの場合、「礼拝を生活の一部にしなければならない」ではありません。 もしも私たちが神を礼拝しないならば、自分たち自身が、あるいは自分たちを取り巻く文化から受けたかもしれないものが真実であるべきだと確信する誤った考え方に、結局は従うことになります。 神様は、私たちがある種の信仰において、何かあるいは何者かに従うであろうことをご存知です。 私たちに対する神様のご指示は、真実の神であるご自身に従い、ご自分が私たちと結ばれた契約において神に忠実であれということです。

 

 最近私たちが話題にしたように、礼拝と家族は密接に結びついています。

家族は人を形作るためにあることを忘れないでください。そして、礼拝は人々を形作るのです。それは私たちに人生の旅に出るための目的を与えてくれます。私たちを正しい方向に向かわせ、正しい道筋の中に送り込みます。旅の完了まで、日々旅を続ける力を与えてくれます。それらの理由により、私たちはクラウチと共にこのように言うことができます。「家庭は真実なる神への礼拝が始まる場所である…」(p.161)

 

 礼拝は人格を発達させるひとつの方法です。その中には訓練の側面があります。 真の礼拝は、それが本質的にキリストに似た者となるための私たちの心の変化を含むときに限り、完全かつ最も自然に起こります。それこそが——スクリーン上のプログラムやソングブックの中に印刷されたものの中からではない——真の礼拝が生まれる場所なのです。 また、真の礼拝が現実的かつ完全な表情を持つようになるためには、それが行動に及ぶものでなければなりません。私たちは、ただ教会の建物の中、定まったプログラムの中だけでなく、生涯をかけて礼拝します。 私たちの人格の成長はもちろん、私たちの交わりや奉仕、伝道は、神がそこに意図しておられる意義を持つように、私たちの礼拝から生じる必要があるのです。

 

 ですから、「知恵や勇気のようなものを大切にするすべての家族は、それ自体よりも大きなコミュニティの一員である必要があります。」(p.157) クラウチが言うように、「・・・礼拝はひとつの家族ができる最も重要なことです。それは子供たちに教えることの最重要事項であり、私たちの人生を通して練習すべき最も重要なことです。」(p.160)

 

 私たちは最近この場所で、テクノロジーが私たちの信仰生活にどのように影響し得るかを共に学びました。私たちはそれを、偉大な神の知識に自分たちを導くために使うことができる一方、妨げになるようにすることもできます。 クラウチはここで礼拝との関連を指摘しています。(p.160)

 

 テクノロジーは私たちを最善に満たない何ものかに容易に妥協させることで、信仰においてさえ脅かす可能性があります。 私たちは、どういう人生を自分の子供たちに望みますか? 最終的に本当の成果を生み出す厳しい人生を選びますか? それとも、痛みや苦難を避けるために、簡単で安全で便利な生活を選びますか? テクノロジーは、後者のルートを選択することをおそろしく簡単にしてくれます。

 

    礼拝は、安易でどこにでもある小さな喜びの世界の外へと、私たちを招きます。そこには簡単なものなど何ひとつなく、すべてが壊れてはいてもまだ回復が可能な世界の中で、神の似姿を背負う重荷と本当の喜びがあります。

 

いつ、どこで: この2つは実質的に結びついています。 私たちは(23節と、再度詩篇96篇2節で)「日ごとに救いの良い知らせを告げよ」と教えられています。 礼拝はライフスタイルであり、週に一度の日曜日の朝の活動ではないことを、すでに見てきました。 最上の礼拝とは、神の栄光を現し、神を喜ばせ、そして讃える人生を毎日生きることです。 公の礼拝のために集まるとき、私たちは日常の暮らしに戻り、不変の目的として神の栄光を現しながら生きるよう導かれます。 その上で、礼拝は神様が私たちの中で、また私たちを通して、望むことを行われるものなのです。 礼拝の順序の一部として、次のような言葉が礼拝プログラムに印刷されているのを見たことがあります。(最初に)「礼拝へと入りなさい。」 そして(最後に)「奉仕のために出ていきなさい。」です。 それは神様のメッセージをよく表していると、私は思います。

 

 もう一つ留意すべきことがあります。 教会にいる人たちにとって、どのようなタイプの音楽を礼拝に取り入れるかに関して意見が食い違うことは珍しくありません。それらの感覚や意見の違いは、「賛美戦争」と呼ばれるくらい深刻に続いています。 しかし、あなたが週の毎日、自分のスケジュールの中に組み込んで礼拝の時間を持つならば、あなたにとってこれらの問題がかなり重要性の小さいものに見える助けとなります。 もしも週に6日、あなたの音楽スタイルで礼拝することができれば、他の人がより快適でいられるスタイルで行う1日が、さほど大きなストレスのように感じないかもしれません。

 

 礼拝はいつするのでしょうか。 ダビデはこう続けます(33節)「森の木々も、喜び歌え、主の前に。地を裁くために主は来られる。」「それから。」作者は、はるか先の未来を見据えています。そして、礼拝は彼が見ているものです。礼拝は私たちの旅の目的地なのです。 私たちは実際に、礼拝の未来に備えています。 私たちが世界をありのままに見ることを学ぶとき、私たちがしようとすることこそ礼拝です。 それは私たちが自身の最善の学びに対して持つ、自然な応答になることでしょう。また、それは私たちの肉体が滅んだ後も長く続くでしょう——天国で、神様の御前で、果てしなく。 ですから、私たちがここオープンドアで行う礼拝もまた(クラウチがこう呼ぶように)「・・・すべてのスピーチが歌になり、宇宙全体が賛美に満ちるとき、すべての物語の終わりのためのリハーサル」なのです。(p.163)

 

 礼拝はどこでするのでしょうか。27節はこう告げます。「尊厳と威光は御前にあり、力と歓喜はみもとにある。」ですから私たちは、神様がおられるところならどこでも礼拝し、神様とともにいることになります。つまり、どこででもです。礼拝は人生です。だから、作者が礼拝のための特定の場所に私たちを送らないのは理にかなっています。 彼は私たちにただこう言います(29節後半)、「ささげ物を携えて、御前に行け。」

 

 主よ、私たちの生活のすべての部分があなたの栄光を現し、あなたが喜んで受け取ってくださる礼拝となりますように。

 

 何故: 私たちが礼拝するのは(25節)「まことに主は大いなる方、大いに賛美される方。すべての神々にまさり畏れ敬われる方。」だからです。ダビデは26節にこう付け加えています。「・・・主は天を造られた。」 私たちがニュースで見ることが増えている宇宙からの驚くほど美しい写真は、そのすべてを創造されたお方である神を賛美することに新鮮な理由を与えてくれます。「威厳と輝きは主の前にあり、力と喜びは主のもとにある。」(27節。28節後半と29節前半に類似)。 それから(29節後半)「聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。」 そして最後は、34節に礼拝をすべき否応なしの理由:「主に感謝せよ。まことに主は恵み深い。その慈しみはとこしえに。」です。

 

 もしも皆さんが礼拝する理由に関する聖書の試験を受けなければならない場合、それらが答えです。 しかし、それらに完全な意味を見出すためには、私たち自身の人生とその周りに目を向ける必要があります。 私たちはどこで神様の偉大さ、栄光、威厳、強さ、喜び、善性、美しさ、そして神聖さを目にしてきたのでしょう。  私たちがこれら主の御業に思いを巡らすとき、神様に捧げる私たちの礼拝に対する特別で唯一の理由を見つけるでしょう。

 

 どのようにして: 私たちにとって最も良い礼拝のあり方とは何でしょうか。ある意味、神様は技術や手法について驚くほど沈黙されています。 「ささげ物を携えて…」(29節)のような、かなり明確な教えもあります。 私たちが持つもの(金銭、時間、才能、その他の資産)から捧げることは、単に良いことというだけでなく、礼拝の一つの形式です。

 

ヨハネの福音書4章24節のような一般的な教えもあります。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 

 そこにはまた、神様が教えておられるように、礼拝の宣言的側面もあります。23節で、私たちは礼拝の一環として「日ごとに救いの良い知らせを告げよ。」と指示さます。24節でも同様に「国々に、主の栄光を、すべての民にその奇しき業を語り伝えよ。」とあり、同じく31節後半にも「国々で告げ知らせよ。主が王であると。」とあります。 適切な方法とタイミングで、神様の言葉を伝えるために、私たちは直接人々と話す必要があります。しかし、それには神様のメッセージを宣べ伝える上での重要な形があります。私たちが礼拝の習慣を続けることにより、それが簡単になるのです。人々は見て、気づきます。そして、神様はご自身の救いの愛についてのメッセージを広める道を見出すことがお出来になります。

 

 礼拝の方法として最後に注目すべき点は、歌うことです。 私たちが「…主に向かって歌え」(23節)という教えに従うのを助けてくれる音楽の賜物を持つメンバーがいる教会のグループがあることは、恵まれています。28と29節の「主にささげよ」、同様に34節にある「主に感謝せよ・・」は、すべて歌うことを含んでいます。

 

 事実、私たちはかなり頻繁に、話すことを通じてより、歌うことを通して賞賛と感謝を捧げているのではないでしょうか。 私は、神学校の先生が学生に対して、我々の教会のほとんどの人たちは、彼らが聞く説教よりも歌う賛美歌を通して、より多くの神学を学ぶだろうと語るのを覚えています。(彼らはおそらく説教の中でより多くを聞くでしょうが、歌うことを通してより多く記憶するのです。この事実には、説教者を謙虚に保つというおまけの恩恵もあるはずです。)

 

最近、私たちはここで次のようなイエス様の教えを学んでいました。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マルコ12章30節) クラウチは「・・・歌うことは、心、精神、魂、力を最も完璧に結びつける唯一の人間活動かもしれない。」と言っています。 神様は明らかに私たちが上手に歌うことを望んでおられます。 それは「・・・完璧な旋律で、あるいはプロのように歌うという意味ではなく、私たちの歌に心、精神、魂、力を込めるという意味です。」(p.161)

 

 私は美しい音楽を作り出すための声と音響設備の両方があることに感謝しています。しかし、私たちはまた、賛美リーダーに自分達のために歌わせておくという、普通の教会員にとっての現実の誘惑に気づく必要があります。テクノロジーは、そのことが起こるのを非常に容易にしました。私たちは、過去の人々よりもはるかに多くの音楽を簡単に消費することができますが、平均的な人々は音楽を生み出すこととは程遠く、また多くの人が歌う能力を向上させていません。 それは過去の多くの人たちが一般的にしていたことです。 私たち自身が主に向かって歌うことをやめるとき、私たちの礼拝からは本質的な何かが失われるのです。

 

 どのように礼拝するかについては、これらの幾分はっきりした教えがある一方、答えるのがもっと難しい問題がたくさんあります。 礼拝が長すぎる(または短すぎる)のはどれぐらいの時間でしょうか。 静かに礼拝するべき、それとも大音量でするべきでしょうか。  もっと理性的あるいは感情的な雰囲気で行われるべきでしょうか。 30節前半は、「全地よ、主の御前におののけ。」と言います。より感情に訴えるもののように聞こえます。しかし、第一コリント14章40節は、「…すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。」と述べています。それは、より思慮深く計画され、構築されているものに思えます。

 

 私の最善の理解は、神様は私たちの心の中にあるものをご覧になるということです。また、多種多様な人々が心の中にたくさんの異なるものを持っており、そのことは神様が喜んで受け取ってくださる礼拝へと導く可能性があるということです。 物静かな人もいれば、雄弁な人もいます。ある人はより思慮深いトラックを走り、他の人は感受性豊かなトラックを走るといった具合です。 これらの違いは、個人の間のみならず、教会や宗派や文化の間にも発生し得るものです。 私たちはたぶん皆、周りの人たちが様々なスタイルの音楽や説教、服装、礼拝のその他の部分について、どのように異なった感情を抱く可能性があるかを心に留める必要があります。そこには信仰におけるいくつかの重要な違いがあります。しかし、善いか悪いか、正しいか間違っているかの闘争に突入する前に、当然ながら私たちは、個別の疑問や問題点が単にスタイルや好みの問題ではなく、それらの類型にあることを確認するよう気をつけるべきです。

 

 わたしたちの信仰生活のすべての部分の中で、礼拝はおそらく他の何よりもそれらすべてと結びついているものです。 私たちの信仰、交わり、奉仕、伝道のすべては、それらが完全で適切な意味を持つならば、神様に賛美を捧げることへと私たちを導くに違いありません。私たちは今日、主が幾世紀にもわたる礼拝を通して、どのように主を知り、愛するようにとご自分の民を召されたかを見てきました。神様の世界での私たちの個別の時間と場所において、その召しに答えるのを助けてくださるよう、今から神様にお願いしましょう。

 

 神様、あなたは私たちに「だから、食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31、新国際版)と教えてくださいました。 私たちの一生があなたを称えるためのものであるように助けてください。あなたを私たちの生活の中心に置き、あなたにふさわしい賛美を捧げることを教えてください。私たちの心、魂、精神、力を尽くしてあなたを愛することが私たちのすべてであるように、またあなたが喜んで受け取ってくださる賛美となるように導いてください。

キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

参考

 

Crouch, A. (2017). The Tech-Wise Family: Everyday Steps for Putting Technology in Its          Proper Place. Baker Books.

MacArthur, J. (2011, January 12). “A Model for Giving Thanks.” Grace to You.               Retrieved April 9, 2023 from https://www.youtube.com/watch?v=jX3o6ZT116w