天国への道、イエス・キリスト

2023年4月9日(日)イースター礼拝 「天国への道、イエス・キリスト」ヨハネ14:6 佐々木俊一牧師

■イエス・キリストは、よみがえられました。今も生きておられます。私たちの罪を贖うために、十字架にかかって死にましたが、死の力を打ち破りよみがえられたのです。イエス・キリストはきのうもきょうもいつまでも、私たちの希望です。それは変わることがありません。 

 イースターの時に夜空を見上げるといつも満月です。イースターの時は満月と決まっているのです。なぜならば、春分の日が過ぎて、最初の満月の後の日曜日がイースターの日と決められているからです。ですから、今回もイースターは満月です。完全な満月ではありませんが、ほぼ満月です。イースターは毎年日にちが変わります。ある年は4月中旬になったり、ある年は3月下旬になったりします。春分の日が過ぎて、最初の満月の後の日曜日がイースターの日と決められているのです。今年のイースターは4月9日です。3月21日の春分の日から最初の満月は4月6日でした。その後の日曜日が4月9日だから、この日がイースターになります。

■弟子たちはイースターのこの出来事について、イエス様から直接説明を受けていました。イエス様は弟子たちに、旧約聖書にご自分についてどのように書かれてあるのかを何度も教えたはずです。1回や2回ではないと思います。「キリストは十字架につけられて死んで、3日目によみがえられなければならない。」ということを弟子たちは教えられていたのです。にもかかわらず、十字架にかかって死んでしまったイエス様の最期を目撃した弟子たちは、イエス様がよみがえられたということを容易に受け入れることはできませんでした。しかし、復活のイエス様が幾度となく弟子たちの前に現れ、弟子たちはその体にふれ、イエス様と語り、イエス様と食べ、イエス様が神の御国について語られるのを聞いたのです。それによって、疑いははれ、現実のこととして受け止めることができたのです。

 弟子のリーダー的存在であったペテロがこのように言っています。「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」(Ⅱペテロ1:16)

 イエス・キリストの復活はうまく考え出した作り話ではない、とペテロは言っています。そして、自分のことをキリストの威光の目撃者だ、とも言っています。ペテロはイエス様と三年半一緒に行動を共にしました。それは弟子としての訓練と学びの時であり、福音伝道の実践的な旅でもありました。その中で、ペテロはキリストをとおして神の真実と愛と力あるみわざを体験しました。ペテロはキリストが多くの病人をいやし、多くの奇蹟を行なうのを目撃しました。また、ペテロ自身がキリストをとおして神の愛と赦しといやしを体験しました。しかし、ペテロはキリストの十字架の死によってすべてを失ったとき、彼は失望し、これでもう終わりだと思いました。ところが、復活のイエス様がペテロのもとに現れてくださいました。ペテロは復活のイエス様の目撃者となったのです。

 ペテロの生き様は、イエス・キリストの復活と聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事の後、大きく変化しました。以前は、口ではイエス様の行くところならどこへでもおともしますと大口を叩いていたのですが、いざ自分の命が危うくなると、イエスなんて知らない、と3度も否定してしまうような卑怯な男でした。そんなペテロが、イエス・キリストの救いを伝えるためなら自分の命をも惜しまないという力強い人に変えられていったのです。そして、ペテロはイエス・キリストへの信仰のゆえに、ローマ皇帝ネロによって殉教したと言われています。それほどまでに、イエス・キリストというお方は、ペテロにとって重要なお方だったということを証明しています。イエス・キリストというお方は、私たちにとっても、同様に、重要なお方なのです。イエス・キリストというお方が、私たちにとってどのように重要なお方であるのかを見てゆきたいと思います。

■ヨハネ11:25「わたし(イエス・キリスト)は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」

 イエス・キリストがよみがえられたように、イエス・キリストを信じる者は死んでもよみがえるのです。イエス・キリストを信じる者は永遠の命が与えられると、イエス様ご自身が言っておられます。

 聖書はこのようにも言っています。「神は主(イエス・キリスト)をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。」

 そして、このようにも言っています。「しかし、今やキリストは、眠った(死んだ)者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

 「死」というのは、人間の歴史の中で、悲しみと絶望を与え続けてきました。しかし、イエス様が、人間が背負ってきた「死」という運命を180度大きく変えました。イエス様によって、「死」は、終わりでもなく、絶望でもないことが示されたのです。イエス様は、復活しました。けっして、朽ちることのない、死ぬことのない体で復活したのはイエス様が初めてです。イエス様は、死んだ者の初穂として死者の中からよみがえられました。神はイエス・キリストをよみがえらせたように、その力によって私たちをもよみがえらせてくださるのです。

■ヨハネ8:30~31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 真理は私たちを自由にします。真理とは、イエス・キリストご自身のことであり、また、そのことばです。真理は、私たちをいろいろな束縛から自由にすることができるのです。

 罪により、人間に死が入って来ました。しかし、イエス・キリストにより、信じる者は死の力から自由にされています。イエス・キリストを信じる者は神の御力の中にあって、罪から来る死の力が及ばなくされているのです。ですから、私たちは、「死」から自由にされています。

 私たちが自由にされているのは、「死」だけではありません。この地上にいる間も罪のもたらすいろいろな束縛から自由になることができます。イエス・キリストへの信仰とそのことばには、私たちを自由にする力があります。時には、自由にされるために時間が必要なこともあります。私たちが生きている間、それはずっと続くことでもあります。救いは、イエス・キリストを信じた瞬間にもたらされます。しかし、罪の影響を受けてきた私たちの肉の部分、つまり、私たちの体や心、脳に刻み込まれた古い習慣、それを古い自分とでもいうことができると思いますが、その部分は時間をかけて徐々に徐々に変えられていくものです。しかし、救いは信じた時に確実に成し遂げられているのです。

■『牧師さんになったお坊さんの話』という本があります。この本を読んだことがありますか。とても良い本です。著者の松岡広和さんは、以前、お坊さんでした。けれども、今は、牧師です。この本には、キリスト教と仏教の違いについて書かれてありますが、キリスト教と仏教の共通点も書かれています。

 仏教の始まりは、「釈迦」ですが、釈迦の世界観は、キリスト教の世界観と重なるところがあるようです。釈迦の世界観・人生観とは、「人は生まれてからあらゆる苦痛、苦しみを経験しながら、やがて、老い、病にかかり、死んでいく。これは人間の存在の法則であるから、誰ひとりとして、この法則から逃れられない。そこから逃れようともがいて苦しみを受けるのではなく、静かに滅びを受け入れることにより、平安のある人生を送るように教えるものである。」というものです。もともと、釈迦の教えには、死んだ後のことについては、何一つ語られていませんでした。神とか創造主、罪とか裁き、救いとか永遠の命、そのような概念はありません。しかし、釈迦の死後、その弟子たちは、特に、ヒンズー教の影響を受けながら、死後の世界や死からの救いについての教え(お経)なるものを作り上げ、釈迦の教えに付け加えていきました。釈迦の教えでないことまでもが、釈迦の教えであるかのように、中国を経て日本へと伝えられたようです。

■私が子どもの頃、母は時々こんなことを言いました。地獄にはエンマ大王がいて、うそをついたら舌を抜かれるとか、悪いことをしたら針の山の上を歩かされるとか、石を積んで遊んでいると鬼がやってきてすぐに積んだ石を崩してしまうとかです。母は私が悪いことをしないためにそのような古い知恵を用いていたのだと思います。子供心には結構恐くて効果があったように思います。「エンマ大王」とは、ヒンズー教から来ているようです。

あるいは、人によっては、『南無阿弥陀仏』とか、『南無妙法蓮華経』などと、念仏やお題目を唱えれば極楽(天国)に行ける、と主張する人もいます。けれども、概して、日本人の多くは、明確な根拠となるものを持たずに、何となく、死ねばみな天国へ行けるという希望を持っているように思います。しかし、仏教の元祖である釈迦は、死後のことについては何も言っていません。

 聖書には、明確な希望が語られています。イエス様は言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 イエス様が天国への道なのです。イエス様はよみがえられました。この出来事は、私たちにとって重要であり、大きな意味があります。死の向こう側には、絶望ではなく、明確な希望があることを、イエス様が示して下さっています。

■イエス様が十字架上で大声で叫んで息を引き取られたとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けました。神殿の幕とは、聖所と至聖所を仕切る幕のことです。その幕が上から下に向けて裂けたということは、その出来事が人の手によるのではないということです。 

 へブル10:20にこのように書かれています。「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」と。以前は、神殿の奥にある聖所と至聖所を仕切る垂れ幕を通り抜けて、自由に神様に近づくことはできませんでした。年にたった一度だけ、大祭司が民の罪を赦してもらうために、小羊の血をたずさえて入ることができただけです。イエス様が息を引き取られたとき、神と人とを隔てていた神殿の幕は、上から下まで真二つに引き裂かれました。それは、イエス・キリストのからだを象徴的に表している出来事です。イエス・キリストのからだが引き裂かれ、打ち砕かれることによって、神と人とを隔てていた垂れ幕が取り除かれたことを意味しているのです。そして、イエス・キリストによって、いつでも自由に神様に近づくことができるようにされたのです。それは、私たちがイエス様をとおして、父なる神のおられる天の御国に入ることができることをも意味しています。そういうことで、イエス様は天国への道と言えるのです。

■終わりに、私たちを神様から遠ざけてきた罪は、私たちの救い主イエス・キリストが罪そのものとなって十字架の上で処分されました。

 イエス様は、神と人との間に立って、両者の和解を成し遂げてくださいました。十字架は、神の怒りと責め、そして、人の怒りと責めが爆発したところです。神は人間の罪に対する怒りとその責任をイエス・キリストに負わせました。そして、人間は自分たちの怒りと罪の責任をイエス・キリストになすりつけました。責任転嫁です。こうして、イエス様は罪の後始末を人間に代わってしてくださったのです。しかし、罪の後始末をして死んで終わったのではありません。三日目によみがえられました。そのことを信じる人は、同じように終わりの日によみがえります、とイエス様は言っています。イエス様のことばをそのまま信じましょう。天国への道、それは、イエス・キリストです。それでは、お祈りします。