テクワイズなキリスト信徒たち

2023年2月19日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

創世記1章26〜31節

 

テクワイズなキリスト信徒たち       

 

  私たちは最近の英語礼拝で、聖書の神様が強固で健全な関わりを持つ家族を築くことについて、何を教えておられるのかを学んでいます。先月は親子の関係に焦点を当てました。今日は皆さんと、私たちの家族に強い影響を与えている一方で、ほとんどすべての分野にも影響が及んでいる現代生活の一部分——テクノロジーに目を向けたいと思います。

ご一緒に何を学べるか、見てみましょう。

 聖書の神様から、自分たちが置かれた家族の中こそが最高の人生を体験する場所であると、私たちは学びます。私たちにとって家庭とは、仕事や学校の後などに燃料の補給や充電をして、翌日「現実世界」に戻って行くためだけの場所ではありません。神様は、人間としての成長という継続的な取り組みの中で、私たちが理解され、愛され、支えられるための最初の場所になるように、家族を設計されました。アンディ・クラウチがその著書『The Tech-Wise Family』(p.38)で書いているように、「家族は人格の形成のためにある。」のです。

 ですから、テクノロジーが今日の私たちの生活にどのような影響を及ぼしているかに目を向ける際、注視する必要があるのは、それが健全に繫栄する人類を形成し続けることにどう影響するかということです。私たちがテクノロジーについて耳にする多くの意見は、非常に肯定的か非常に否定的かのどちらかであるように思います。「スマートフォンのない人生なんて想像できない。スマホが大好きだし、次のアップグレードが待ちきれない!」 あるいは、「こんなものは何ひとつ発明されなければよかったのに。これは社会を堕落に導く悪魔の仕業だ。」と。

 

 しかし、聖書を注意深く見るとき、白でも黒でもない——より興味深い見識を得られると、私は考えています。神様は、テクノロジーが悪いとも、良くも悪くもないとさえも言ってはおられません。それはご自身の「非常に良い」創造の一部なのです(31節)。 しかし、テクノロジーは代償を伴います。暮らしにおける他の本当に優れた部分同様、簡単に誤用されてしまう可能性があります。そのようなことが起こるとき、それは良さ以上に大きな損害を与え得るのです。ですから、クリスチャンとしての私たちの召しの一部は——私たちが持つ他のすべてのものと同様に——神様の栄光のためにテクノロジーを使うということです。それは、ひとつに、神様が喜ばれる方法でテクノロジーを使うことを意味します。

 聖書の記述に戻って、それが意味することをもう少し見てみましょう。 27節に、 

 『神は人をご自身の似姿に創造された。神の似姿として彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』とあります。 人々は神の似姿に、あるいは他のいくつかの翻訳によれば「神のイメージ(姿形)」に造られたのです。  (※日本語訳聖書では「かたち」)

 

   アンディ・クラウチの解説(47~48ページ):

 

 テクノロジーは最新です・・・果物の例から私たちがイメージする結実とは、生産することを意味しました。

しかし、テクノロジーは、私たちがなるべき人になる手助けができる場合にのみ、非常に優れているのです。・・・紛れもなく、たった1世紀前の人間と比べて私たちはより地球規模でつながっています。世界のたくさんの局面についての情報に通じ、特定の点に関してはより生産的で——GPSとGoogleマップに感謝ですが——確かに道に迷うことが減っています。とは言え、私たちは以前と比べて忍耐強く、親切で、寛容で、恐れがなく、献身的で、創造的なのでしょうか。

  ・・・数え切れない面で、私たちの生活は祖父母たちの頃よりも楽です。しかし、本当に重要な事柄——たとえば知恵や勇気——において、全面的に私たちの生活の方が良いと主張するのはかなり難しいように思えます。ですが、もし人となる上で本当に重要なことが、いかに生活が容易であるかということと無関係なものであるなら——そして、私たちの行く先に訪れる困難に対処する方法と大いに関係しているものならば、このことはまさに私たちが期待するものです。

 私たちは皆、日常的にテクノロジーを使用していて、単純にそれを脇に置き、それなしで生活するという選択の余地がありません。 しかし、クラウチが言うように(p.12)、「・・・もしも私たちがテクノロジーを適切な場所に置くことを学ばなければ、家族生活の最高の部分をたくさん失うでしょう。」 私たちは、自分がデバイス(機器)を所有していると考え、やがてデバイス(機器)が私たちを所有していることを発見し得ます。それらのデバイスが私たちを人々と結びつけるだろうと思って買ったかもしれませんが、後に、それらは私たちが分離と孤独を感じる理由の大きな一部であると気づかされるのです。

(聖書を)読み続けていくと、私たち人間が「神のかたち」に創造された人々として生きるとはどういうことなのかを、さらに学びます。 28節はこう述べます。

 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。

地を従えよ。海の魚、空の鳥、地を這う全ての生き物を支配せよ。」

 

 神のかたちに造られた人々として生きることの一部は、神ご自身がそうであるように、

創造的であることです。 神は全世界の創造において、そのご性質を見事にお示しになり

ます。 神はまた、文化を創り出すこと——形成することにも人々を招いておられます。

このことの一部が、美しいものを作ることです。

 

 聖書のいたるところで、創造的な手法により道具(「技術」)を使っている人々の例を目にします。モーセの物語に至ると、ベツァルエルという名の男について読むことができます。彼は礼拝のための道具を素材から加工することに自分の技術を使い、また同じようにすることへと他の人たちを導くために選ばれます(出エジプト記31:3と35:10, 25)。これらは、神がご自分の民に与えられた創造性を示す、この時代のハイテク製品です。

 

 私は最近、長野県出身の堀内さんという男性のことを知りました。 定年退職後、彼は絵を描くことを学びたいと思ったそうです。そこで彼は、絵の具も絵筆も、さらにはコンピュータグラフィックスのソフトウェアさえも使わない方法での絵画制作を、独学で学んだのです。彼はすでに自分が持っているもの——Microsoftのエクセル(Excel)を使いました。スプレッドシートのようなもののために設計されたソフトウェアを、絵を描くために使うなんて、奇妙に思われるかもしれませんが、堀内さんが制作したものを見てください。とても良いと思いませんか?  彼は世界中の人の心の中にある創造的な精神の一例です。なぜなら、私たちは皆、創造するのが大好きな神様によって作られたのですから。

 

   《参考画像①~⑤あり》

 

 神の似姿、あるいはかたちに造られるということは、同時に役に立つものを作るための能力を持つことをも意味します。本日の朗読箇所の28節で、主は自然について、「あなたの管理下に置く」と最初の人に告げられます。それは、たとえば自然を破壊することで大金を稼ぐような、自分たちが望むやり方で単に自然を利用できるという意味ではありません。事実、私たちが自然を保つつもりなら、持続可能な方法でそれを活用することを学ばねばなりません。地球を私たちの管理下に置くという命令に従うためには、正常に機能するものを発明することが不可欠です。そのようにするために、私たちはテクノロジーを

含むツールを使用する必要があります。

 

 神様は、ご自身の似姿として造られ、その似姿を担う人々に、どのようなものを作ることを望んでおられるのでしょう。そう、当然のことながら、善いものです。神様はその本質において善です。従って、私たちが1章31節前半に見る「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」に適っています。 それは電子と、この礼拝のライブ配信を助けてくれているコンピューターやプロジェクター、カメラのようなものを作るために使用するすべての材料を含みます。エペソ人への手紙2章10節で、神の作品である私たちがどのように設計され、どのように神を褒めたたえることを意図されているかを読み取れます。 「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。」(N.I.V新国際版 ※日本語は聖書協会共同訳)。 これらの善い行いは、神様に喜ばれ、栄光を帰すために、善いかたちで用いる技術を作り出すことを含んでいるのです。

 

 私たちはすでに礼拝で使用される道具を製作する例を見ました。このような道具ひとつは、単に作業をより簡単で便利にする機器ひとつをはるかに超える価値があります。どなたかが水を非常に高い純度にろ過することのできるストローを紹介するのを聞きました。きれいな水の恵みのない国に暮らしている人にそれを提供するのは、素晴らしい方法です。人々は神様が与えてくださった創造の精神を、神様を大いに喜ばせる技術志向の手法で使っているのです。

 神様ご自身が、非常に実用的でより霊的な必要を満たす製品開発の例を、私たちに与えてくださいます。 創世記3章で、最初の二人の人が禁断の果実を食べて裸でいることを恥ずかしいと感じ始めると、神は彼らが自分の身体を覆う役割をする初めての動物の皮の着衣を、彼らのために開発なさいます。これを可能にするためには、動物たちが殺され、その血が流されなければならなかったでしょう。多くの聖書学者たちは、特に旧約聖書の中で習慣とされていた動物の犠牲というシステムを、ここで神が定められたものと見ています。しかし、これはまた、キリストが十字架上でなされる犠牲を前もって示すかたちであるようにも思われます。キリストはご自分の血を流されて、人間の罪を覆う犠牲としての命をお捧げになります。 この福音の初期の型の中に私たちが見るのは、神様はそれを喜んで受け取る人々に対して、救いと命をもたらすためにおつくりになったものを使っておられるということです。そのメッセージと呼びかけは、今日の私たちのために、まだそこにあります。

 神の栄光を讃えるためにテクノロジーを使っている例はいくつかあります。 しかし、今日のテクノロジーは、しばしば神様のために生きることをより困難にしたり、私たちを神様から積極的に引き離したりする形で使われるのを私たちは知っています。しまいには、私たちが神様の代わりに技術を崇拝することがあり得るのです。 バベルの塔を建設するためにレンガとモルタルといった創世記11章の頃のハイテクグッズを用いている人々の姿を、聖書の中に見ます。 彼らは神を敬うことを望まず、どうやら神が成すようにと言われることに従うより、むしろ自分たちの努力で天国に到達しようと試みているようなのです。そののち、エジプトを離れた後のことですが、神の民の何人かは、初めの方で聞いたように道具を用いることに自分たちの技術を使います。しかし、この時は礼拝するための黄金の子牛を作ることに使ったのです。

 それなら、神を喜ばせ、神の善性を示す創造的、建設的な方法において、私たちはテクノロジーをどのように使うことができるでしょうか。 ここにアンディ・クラウチが示すいくつかの問いがあります。その質問に答えることは、私たちを手助けする指標となり得ます。

 

 私たちはこのテクノロジーというものを、以下のどの方法で使っているでしょうか。

 A. 人々を結びつける、それとも引き離す?

       テクノロジーは、愛するようにと与えられている現実の人々と私たちを結びつけ

る助けになるとき、適切な場所にあり、私たちが決して会うことのない有名人のような、遠くにいる人々と結びつくだけで終わるとき、適切な場所から外れています。

テクノロジーは、素晴らしい会話のきっかけになるとき、適切な場所にあり、私たちが互いに話したり聞いたりすることを妨げるとき、適切な場所から外れています。  (14~15ページ)

B. 私たちをより賢くする、それともより愚かにする?

C. たとえば勇気など、私たちの人格や美徳を構築する、それとも私たちを未成熟で 

未発達な人間のままにしておく?

D. 私たちが生産的な仕事をするのを助ける、それともより多くの労苦へと導く?

   文化構築の仕事(創世記1:28)は、罪が世に入り込む以前に人間に与えられました。後になって、食べ物を得るために「労苦」(創世記3:17)しなければならないという呪いが与えられました。 

E. より大きな健康に導く、それともそれを損なう?

F.私たちがその一員であり、持続的に使用する責任がある自然界への感謝を促す、

  それともさらに自然とつながりを困難にする?

G. 能動的にものを創り出す方へ私たちを導く、それとも受動的に消費する方へ導 

く?

H. 私たちをより善い人々にする、それともただ単に私たちの生活を容易にする?

I. 私たちをより神に近づける、それとも神を知ることを一層困難にする?

 

 メッセージを締めくくる前に、アンディ・クラウチが彼の家族と一緒に生活の中でテクノロジーの課題に対処する方法について、非常に実用的なリストを提示していますので、お伝えしたいと思います。これらは、私たちもまた、神の御姿を映しながら、神様や他者との関係の中で成長することへと私たちを導く方法でテクノロジーを使うことができるというものです。彼は言います、

 

A.私たちは消費する以上のものを創り出したいと思う。だから、私たちは家庭の中心を 

技能と積極的な関与に報いるもので満たす。子供たちが10歳になるまでは、テレビを持たないことを選択する。リビングルームに楽器を置き、テーブルには手工芸品とボードゲームを置いておく。録音されてスピーカーで増幅された音楽に私たちの生活と礼拝を奪われるより、一緒に歌うことを学ぶ。私は画面が見えない場所に座ることを選択する——とりわけ私の十分な注目を受けるに値する人が一緒にいるときには。

B.私たちはデバイスが目覚める前に起き、デバイスは私たちが寝る前に「寝床につ 

く」。

C.私たちはひとつの目的のために画面情報を使用し、無目的に一人きりで使用するの 

ではなく、一緒に使う。配偶者はパスワードを共有し、両親は子供のデバイスに完全にアクセスできる。

D.私たちは仕事と休息のリズムを持って設計されている。 だから、1日1時間、週に

1日、年に1週間、デバイスの電源を切って一緒に礼拝し、ご馳走を食べ、遊び、 休息する。これら安息日の習慣、または安息日的な休息は、依存症を防ぐ働きをする。

E.しばしば、キャンドルを灯して家庭料理を食べる。

F. 人生のビッグイベントには直接顔を出す。私たちは、自分たちの(最も重要な)節目の 

時に完全に存在することで、人間になる方法を学ぶ。 私たちは互いの腕の中で死ぬことを願っている。

 

 さて、これらの考えを念頭に置いて、神様がそれらのことを自分たちの生活に適用するよう導いておられると感じる方法を探りつつ、祈りましょう。

 創造と存続と愛の神様、知恵と人格において成長することが、私たちの家族全員が一丸となって取り組む目標となるように助けてください。私たちが気晴らしや娯楽を愛する以上に、友情や対話、とりわけあなたとの対話を愛するように力を貸してください。あなたの善性によって私たちの手に置いてくださった想像力や能力、また機会という贈り物を、私たちが創造性と注意深さを持って使うように助けてください。これらの方法によって、あなたに喜んでいただき、あなたの栄光のために生きることができるように、私たちを支えてください。キリストの御名によって祈ります。アーメン