お酒について考える

2023年1月8日主日礼拝「お酒について考える」エペソ5:18~21佐々木俊一牧師

■最近は、ノンカフェインのコーヒーとかノンカフェインのティーがお店で容易に買えるようになりました。私は大変助かっています。カフェイン入りのコーヒーやティーを午後2時以降に飲むとまったく眠れません。ですが、ノンカフェインであれば大丈夫です。

 また、ノンアルコールのビールも当たり前になってきました。ビールだけではなくて、ノンアルコールのワインもあるようです。ノンアルコールのワインは発酵したものなので、ぶどうジュースとは味が違うようです。

 クリスチャンのアルコールに対する意識は昔に比べると随分変わってきているように思います。私がクリスチャンになった頃、今から40年くらい前は、お酒は飲んではいけないもの、という意識が多くのクリスチャンの間で共有されていたように思います。そういうこともあって、私たちの結婚式ではお酒は出さないことにしました。そうしたら、親や兄弟からは、どうして酒を出さないのか、とバッシングを受けました。と言うのも、私の両親の兄弟は酒飲みが多かったですから、結婚式のような祝いの時にお酒を出さないことが非常識であったのです。日本と言う国はまた、男は酒が飲めて一人前みたいなところもあったように思います。

 カトリックかプロテスタントか、またプロテスタントでもどの教派かによっても考え方がいろいろあるようですが、現在、昔に比べると、お酒に関しては全体的に寛容になって来ているように思います。

 今日は、エペソ5章18節でお酒について触れているので、聖書ではお酒についてどのように言っているのかを見て行きたいと思います。

■18節 「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。」

 ここを読む限り、パウロはぶどう酒を飲むことについては反対の立場なのだ、と誰もが思うのではないでしょうか。ぶどう酒はアルコールを含んでいますから、飲めば必ず酔います。飲んでも酔わないでいることは、大変難しいことです。ぶどう酒に酔ってはいけません、ということは、つまり、飲んではいけません、と判断してもおかしくはありません。

 しかし、あるところでは、パウロは少量のぶどう酒を勧めているところがあります。Ⅰテモテ5:23に、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい。」とあります。当時の状況は、飲み水に細菌や不純物が含まれていることが多かったのでしょう。そのために、よく胃炎を起こしてしまったのかもしれません。水分を取るために水を飲むよりも、ぶどう酒を飲む方がまだ安全だったのです。ですから、少量のぶどう酒を用いなさい、とパウロは言っています。ところで、少量とはどれくらいの量までなら少量なのでしょうか。養命酒を飲むような感じで飲むのでしょうか。50ccぐらいまでだったら少量と言えるでしょう。一度に50ccでも、1日に複数回飲めば結構な量になります。パウロにとっては、お酒を飲む場合、その目的や動機や程度が問題となっているように思います。

 罪のリストに、酩酊と言うのがあります。酩酊とは、ひどく酒に酔うことです。ひどく酒に酔うのは、あまりにもたくさんの酒を飲むからでしょう。ひどく酒に酔うと、理性が働かなくなりますし、判断力が鈍くなりますし、自分をコントロールすることが難しくなります。このようなことを続けて行くと、酒を飲むことが習慣化し、人によってはアルコール依存症になってしまうかもしれません。さらにエスカレートすると、人格を破壊したり、家庭を破壊したり、賭け事にはまったり、争そいごとが増えたり、仕事が出来なくなったり、と状態がますます悪化します。その結果、多くの人々が不幸になってしまうことにもなりかねません。パウロはそのようなことを懸念して、「ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」と言っているのだと思います。

 酒を飲めばみんながそうなるわけではありません。たぶん、酒で放蕩に走ってしまいそうな、そういった弱さをかかえた人々がエペソの教会には多くいたのかもしれません。エペソという大都市は、女神アルテミスと言う偶像の影響を強く受けていたところです。淫らな行いや不道徳な行いが日常茶飯事であったことを思うと、そのようなところでは、飲酒に関する悪い習慣も生活の中に浸透していたとしてもおかしくありません。エペソの人々に対しては、「ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」と強い口調で忠告する必要があったのだと思います。

 しかし、テモテに対しては、これと同じ忠告が必要だとはパウロは考えてはいなかったと思います。テモテには飲酒の習慣はありませんでした。また、彼の人間性や霊性からしても、きちんとした判断力のあるキリスト者として信頼していたと思います。ですから、水でお腹を壊すよりも、ぶどう酒で水分補給をする方が賢明であると考えたのではないでしょうか。もしも、テモテが以前アルコール依存症であったならば、パウロはけっして、お腹のために少量のぶどう酒を勧めるようなアドバイスはしなかったでしょう。

■次に、お酒について言及されているところを旧約聖書と新約聖書から見てみたいと思います。旧約聖書では、ぶどう酒のことを、「ヤイン(ヘブル語)」、と言っています。ヤインには、どことなく、ワインの響きがありますよね。新約聖書では、「オイノス(ギリシャ語)」です。現代では、イノスとかクラシと言うようです。

 旧約聖書で、初めてのぶどう酒についての言及はどこだと思いますか。ノアですね。創世記9:20~21を見ると、こう書かれています。「ノアは農夫となり、ぶどう畑を作り始めた。彼はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕で裸になった。」ノアがぶどう畑を作り始めたとあり、そして、ぶどう酒を飲んで酔っ払ってしまい、自分の天幕の中で、裸で寝てしまったことが書かれてあります。自分で作ったぶどう酒があまりにも美味しくて、ついたくさん飲んでしまったのかもしれません。酔っぱらってしまったノアは、自分の天幕で裸で寝てしまいました。そんな様子を子どもたちに見られてしまったことは、ノアにとって、相当自尊心が傷つけられる出来事であったと思われます。

■ノアの酔っ払い事件からその後、ぶどう酒はどのような扱いを受けていったのでしょうか。旧約聖書は、意外にも、ぶどう酒は神様からの祝福であると言っています。たとえば、創世記27:28では、イサクがヤコブを祝福するときに、「神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。」と祈っています。これらの祈りの前に、イサク自身も、ぶどう酒を持って来させて、ぶどう酒を飲んだことが書かれています。

 民数記18:12では、オリーブ油や穀物と同様に、ぶどう酒も神様への奉献物であり、それらは祭司たちの物となることが定められています。

 申命記7:13と申命記11:14では、ぶどう酒がたくさんできるようにと、神様からの祝福のことばが語られています。

 詩篇104:15には、「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、パンは人の心を支えます。」とあります。このように、ぶどう酒に対する肯定的なことばは、旧約聖書の他の所にも多く見つけることが出来ます。

 それでは、新約聖書ではどうでしょうか。マタイ9:17でイエス様が、ぶどう酒とその入れ物である皮袋の話をしています。その内容を見ると、イエス様はぶどう酒の存在を否定的にはとらえていないことがわかります。

 また、ヨハネ2章に出てくるカナでの結婚式の話の中でも、ぶどう酒は間違いなく肯定的に語られています。

■今日の聖書箇所を見ると、パウロはお酒に対して、どちらかと言うと、否定的な立場であると思います。この箇所以外にも、お酒について否定的な箇所はあるでしょうか。見てみましょう。

 レビ10:9にこう書かれています。「会見の天幕に入る時には、あなたも、あなたとともにいる息子たちも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。あなたがたが死ぬことのないようにするためである。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。」

 神様は大祭司であるアロンにこのように告げられました。幕屋に入って神様に仕えるときに、酒を飲んで酔っ払った状態であってはならないと言うことです。常識的に考えて、それは当たり前のことです。酒を飲んで酔っ払った状態で仕事に行けば、どんな仕事であっても、誰でも罰は逃れられません。しかし、それ以外の時であれば、たとえ大祭司のアロンであっても、祭司のアロンの息子たちであっても、飲むこと自体は問題ありませんでした。

 次に、ナジル人という、神様のために特別に選び分けられた人の飲酒について語っている箇所があります。民数記6章です。ナジル人としての聖別期間の禁止事項が何項目か書かれてあります。その中に、ぶどう酒や強い酒をその期間断たなければならないということがあります。けれども、その聖別の期間が終わったのなら、ぶどう酒や強い酒を飲んでもよかったのです。ですから、たとえ、特別に聖別された者であったとしても、定められた期間に飲むことは許されませんが、期間が過ぎれば飲むことが許されたのです。

 では、新約聖書では何と言っているでしょうか。ルカ1:15に、バプテスマのヨハネのことが書かれています。彼はナジル人と呼ばれ、ぶどう酒も強い酒もまったく飲みませんでした。

 Ⅰテモテ3章では、牧師や長老、あるいは、執事や役員の適正について書かれています。牧師に関しては酒飲みではないと言うことが一つの条件です。酒飲みではないと言うことは、まったく飲まないと言うことではありません。飲み過ぎることのないように、適度に自制できるかどうかが問題なのだと思います。また、長老や執事、役員と言った人々に対しては、大酒飲みでなく、とあります。牧師に対してと同様に飲み過ぎることなく適度にではありますが、しかし、牧師に要求されているほど厳しいものではないように思われます。

■私が20代の頃、当時勤めていた会社で、こんなことを言う人が何人かいました。「クリスチャンは酒も駄目だし、タバコも駄目なんだよね?だから、自分は無理。」

 今思うと、ただそれだけのことで、イエス様の救いから遠ざけていたとしたら、大変残念なことだと思います。実際に、そのような誤解が、クリスチャンにもノンクリスチャンにもあったのだと思います。もしも、今もあるのなら、それを取り除く必要があると思います。もちろん、酒を飲むにもタバコを吸うにも、ルールをわきまえなければなりません。それは、教会に限られたことではなくて、社会のどこにおいても同じです。お酒を飲む・飲まない、タバコを吸う・吸わないについては、各個人に選択の自由があります。私たちは、その自由をお互いに妨げるようなことがあってはなりません。しかし、そのことで、お互いに迷惑をかけるようなことがあってはなりません。何よりも、私たちクリスチャンは、神様が喜ばれることを選択するために自由を用いていきたいと思います。

■18節の終わりに、「むしろ、御霊に満たされなさい。」とあります。お酒を飲む人も、飲まない人も、神様が望んでおられることは、御霊に満たされることです。御霊に満たされるために、私たちはどうしたらよいのでしょうか。

 エペソ5:19に、「詩と賛美と霊の歌を持って互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」とあります。今日のように、対面でもオンラインでも、共に集まって礼拝の時を持っています。今私たちがしていることは、とても大切なことです。

 私たちは、一緒に詩篇のことばを読みました。共に讃美歌を歌い、ワーシップソングを歌いました。私たちは主に向かって一緒になって賛美をささげました。主は賛美を受けるにふさわしいお方です。ある人は神様がしてくださった素晴らしいみわざを語ってくれました。それは、私たちの信仰を強めてくれます。私たちはお互いの必要や問題を語り、そのために心を合わせて祈る時を持ちました。聖書から神様の教えが語られました。礼拝の中で、いろいろな奉仕があり、お互いに仕え合うことにより、今日も礼拝の時を持つことができました。感謝なことです。これらのことを用いて、神様は私たちを御霊に満たしてくださるのです。ですから、これからも、このようにともに集まって礼拝をささげることを大切にしていきたいと思います。

 使徒の働き2:13に書かれてありますが、聖霊に満たされた弟子たちがあまりにも解放的に、自由に、大胆に、自信をもって神のことば語るものですから、その様子を見ていた人々は、彼らが新しいぶどう酒に酔っているのだと思うほどでした。弟子たちを、解放的に、自由に、大胆に、自信をもって神のことばを語らせた力は、お酒ではありません。聖霊から来る力でした。私たちも弟子たちと同じように、聖霊に満たされていきたいと思います。それではお祈りします。