神に愛されている子どもらしく!

2022年10月23日主日礼拝「神に愛されている子どもらしく!」エペソ5:1~7 佐々木俊一牧師

■1節 この箇所を通して、クリスチャンのあり方として大切なことが二つ語られています。一つは、私たちは神に愛されていると言う事実です。「愛されている子どもらしく」とあります。イエス・キリストの十字架を信じ、罪赦された者たちはみな、神の子どもです。ですから、私たちは神の子どもであり、神は私たちの父なのです。「愛されている子どもらしく」とありますから、神様は私たち一人一人のことを愛しておられます。ほんとかな、と思われる方もいるでしょう。神様が私のことを本当に愛しておられるなら、どうしてこんなに大変なことが次から次へと起こるのだろうか。神様が私のことを本当に愛しておられるなら、どうしてこんなふうに生まれて来たのだろうか。神様が私たちのことを本当に愛しておられるなら、どうして終わりの見えない戦争や新型コロナ感染や自然災害の中でこんなに多くの人々が死んでいくのだろうか。

 実は、神様の愛を疑わせる理由は、この世界には数えきれないほどあります。そのような中にあって、神様は愛です、と堅く信じ続けることは、正直大変難しいことだと思います。そこにはいつも誘惑との戦いがあるのです。イエス様も誘惑を受けました。イエス様がサタンから誘惑を受けた時、イエス様はどうしたでしょうか。イエス様は、聖書にこのように書いてある、と言って聖書のことばを用いてサタンを退けました。そのように、聖書に何と書いてあるのか、その書いてある言葉に堅く立つことこそが、誘惑に打ち勝つ方法なのです。

 神様は私たちのことを本当に愛しているのです。だからこそ、私たちを救い出すために神の御子なるキリストがこの地上に来て十字架で死なれたのです。Ⅰヨハネ4:9にこのように書かれています。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 神様は、私たち人間がどうなっても構わないと思っているのでしょうか。もしそうなら、神の御子なるキリストをこの地上に送るようなことはしなかったでしょう。神様の正しさと裁きは、すべての者に対して公平です。ある者をその罪のために罰していながら、ある者は自分のお気に入りだからと言ってその罪を見逃してあげようなんてことは出来ません。罪に対する神様の裁きは、サタンに対しても、人間に対しても、公平でなければならないのです。罪を悔い改めて、神の示された愛を受け入れる者たちがその救いに与ることが出来るように、神様は道を備えてくださいました。これこそが何にもまさる神様の愛なのです。その愛に応える者は神様の備えた救いの道へと入って行きます。ですから、たとえ、今この世界で起きているいろいろな出来事によって神の愛を感じることが難しいとしても、私たちは、それでも神様は愛であることを聖書のことばによって信じ続けることが大切です。私たちが天の御国に行った時、その時にこそ私たちは、神様の愛をひしひしと感じるに違いありません。イエス様を信じて、本当に良かった、と私たちは喜びと感謝と安堵で満たされることでしょう。

 この1節を通して、私たちが語られているもう一つのことは、「愛されている子どもらしく、神に倣うものとなりなさい。」とあるように、私たちは神に倣う者となると言うことです。口で言うのは簡単ですが、実際に行なうとなると、それは簡単なことではありません。けれども、私たちがそれは簡単なことではないと感じるのは、ノーミス・完璧でなければならないと思うからではないでしょうか。神様は私たちに、ノーミス・完璧を求めているのでしょうか。そうではありません。

 以前、私は、「私のフポグラモス」というタイトルでメッセージを語ったことがあります。Ⅰペテロ2:21にあることばですが、そこに、模範ということばが出て来ます。この模範ということばが、ギリシャ語で「フポグラモス」です。文字の書き方を練習する時に、先生が書いた模範とすべき文字の事を指すことばです。生徒はその文字に従って上からなぞります。その通りに書こうとするのですが、うまく行かないことがあります。その文字からはみ出したり、曲がったり、上手に書きたいのだけれども思うようにできません。でも、大丈夫です。何度でも練習ができるようになっているのです。表面がロウでできている板なので、間違ったところを削って何度でも書き直せるようになっているのです。指導している先生も、ノーミス・完璧を求めているわけではありません。その子の上達のスピードに合わせて指導しているのです。

 神様と私たちは父と子の関係にあります。もしも神様がノーミス・完璧を求める父親ならば、私たちはいつもびくびくし、緊張していなければなりません。幸いにも、神様はそのような父親ではありません。失敗した時にはいつでもやり直すチャンスを与えてくださるお方です。クリスチャンが神様の喜ばれない罪に陥ってしまった場合、それによって、父と子の関係が解消されるわけではありません。が、しかし、親として子に対して必要な矯正や訓練を課すことはあるのだと思います。

 私たちの模範はイエス様です。私たちはイエス様の考え方や行動を真似るのです。私たちは今、キリストに似た者に変えられる過程にあります。そのことを私たちは学び、訓練を受けているのです。

■2節「また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りをささげてくださいました。」

 私たちが神様に愛されていることは確かなことです。なぜならば、神様は私たちを救い出すためにキリストをこの地上に送ってくださり、十字架で死んでくださったからです。神の御子なるイエス・キリストも私たちを愛して、私たちの罪の赦しのために、ご自分を神へのささげ物とされました。それは、神の御前にささげられた芳ばしい香りなのです。

 クリスチャンのあり方として、一つ目は、私たちは神様に愛されている存在であると言うことであり、二つ目は、私たちは神様に愛されている者らしく神に倣う者になると言うことです。そして、三つ目は、愛のうちを歩むと言うことです。キリストに倣う者として、愛のうちを歩むことは、とても大切なポイントです。愛のうちを歩む者は、まず、互いに赦し合うことを学び、訓練される必要があります。なぜならば、神様の愛は、まず、私たちを赦してくださったことから始まったからです。神様はキリストの十字架のゆえに私たちを赦してくださいました。私たちはキリストに倣う者です。ですから、私たちも人の罪を赦し、人にやり直すチャンスを与える者になりたいと思います。そのようにして、私たちは互いに愛のうちを歩んで行きたいと思います。

■3節~4節 「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。」

まず、このところに、「聖徒」と言う言葉が出てきます。「聖徒」とは、選び分けられた人、と言う意味です。聖徒について詩篇4:3ではこのように言っています。

「知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いて下さる。」

 これを書いたのはダビデです。ダビデの人生はなんと多くの困難があったでしょうか。そして、妬まれてなんと多くのいじめにあって来た事でしょうか。あるいは、なんと大きな罪をおかしてしまったことでしょうか。しかし、それでも、ダビデは神様から離れることはありませんでした。命を奪われるようないじめにあっても、また、大変な罪をおかしてそれが暴かれてしまった時にも、ダビデはけっして、神様から離れようとはしませんでした。それは、神様が愛のお方であることを知っていたからでしょう。ダビデは言っています。「神様はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。」と。ダビデは、神様と親しい交わりを持っていた人でした。神様を賛美し、礼拝し、祈り、神様に頼り、神様を尊ぶ人でした。ダビデは自分の事を聖徒と言っています。聖徒とは、聖別された人、神様のために特別に分けられた人です。私たちクリスチャンも同じです。私たちも聖徒なのです。ですから、私たちは神様によって特別に扱われているのです。

 聖徒は、聖徒にふさわしく振舞うように聖書は言っています。特にここでは、性的な罪について触れています。淫らな行いや汚れた行ない、また、物欲に身をゆだねるような行ないをしないことはもちろんのこと、そのような話題を口にするのもいけないと言っています。

 ところで、この手紙はエペソに住むクリスチャンに向けてパウロが書いた手紙です。ここで、エペソの町がどういう町であったのかを少しお話ししたいと思います。当時、エペソはエーゲ海沿岸にあった小アジアの中心都市であり、貿易と商業で大変栄えていました。そこは、世界の七不思議の一つにもなっているアルテミス神殿があった場所です。アルテミス神殿には繁栄の女神が祭られていました。毎年、世界中から多くの人々が祭りに参加するためにやってきました。その祭りごとの中で、わいせつで淫らな行為が行われていたようです。人々はそのような不品行を楽しんでいました。アルテミス信仰は、このような不道徳や不品行を伴う慣習を良しとする宗教でした。それは、また、大きな経済効果を産む力がありました。アルテミス神殿や女神像の模型等を売って儲けていた人がたくさんいたのです。

 エペソの人々は、このような環境の中で生活していますから、嫌でもその影響を受けています。クリスチャンも例外ではありません。今日の聖書箇所からも、そのことが伺えます。実際に、その影響を受けたキリスト教の異端がすでにあったようです。黙示録2章に出てきますが、ニコライ派というのがその一つです。彼らは、クリスチャンの自由を自らの欲望のために利用したのかもしれません。クリスチャンは罪赦されているので律法に縛られる必要はない、だから不品行も貪りもまったく問題はない、そう考えたのかもしれません。

確かに、救いは行いによるのではなく、信仰によるのです。クリスチャンは律法によって裁かれることはありません。しかし、だからと言って、律法を無視して良いと言うことではありません。律法の守るべきところは保持すべきなのです。

 パウロは、ニコライ派の偽りの教えに騙されないように、騙されて彼らの仲間にならないように警告しています。また、エペソの教会のクリスチャンの中には、長い間、不道徳な町で生きてきたわけですから、そこから抜けきれないでいた人々もいたのではないでしょうか。そのような人々は、パウロがこの手紙の中で、「淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者たちはだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことが出来ません。」と言うのを聞いた時、自分の救いに危機感を持ったのではないでしょうか。しかし、パウロはそのようなクリスチャンを罪に定めるつもりでそのようなことを言ったのではありません。その罪を悟らせるために、そして、悔い改めてやり直す機会を与えるために、パウロはそういったに違いありません。

 私たちは聖書を読んでいて、時として、非常に厳しい神様の言葉に出会うことがあるのではないかと思います。しかし、それは、私たちを罪に定めることが目的ではありません。気づいて、悔い改めて、やり直すことが目的であることを、私たちは知らなければなりません。自分に対してそのような見方が必要ですし、また、人に対してもそのような見方が必要です。私たち人間は誰でも、ノーミス・完璧な歩みはできません。赦されること、そして、やり直すこと、そのようなチャンスが必要な者であることを互いに覚えたいと思います。

■Ⅰヨハネ2:1~2を読んで終わりたいと思います。

「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もし、だれかが罪を犯したなら、私たちは、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪のため、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」

 神様の愛はこんなにも大きいのです。神様の愛は尽きることがありません。私たちはこんなに父なる神様からも、イエス様からも愛されています。ですから、私たちは、神に愛されている子どもらしく、また、聖徒にふさわしく、神に倣う者として生きて行きたいと思います。それではお祈りします。