私たちの交わりを通して神の誠実さを見出す

2022年10月16日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

ヨハネの福音書17章20~26節

私たちの交わりを通して神の誠実さを見出す

 

 私たちの主イエス・キリストの御名において、対面とオンラインでご一緒する皆さんに、恵みと平安がありますように。 今日私たちが焦点を当てていく聖書朗読は、真に『主の祈り』と呼ぶことのできる部分です。 『主の祈り』と聞くとき、私たちはふつうマタイの6章9~10節にあるものを思い浮かべます。「天にいますわれらの父よ、御名をあがめさせたまえ」から続くものです。(キング・ジェームズ版) しかし、もっと正確に言うなら、それは『模範的な祈り』と呼んでよいものです。なぜなら、聖書はそれをキリストが弟子たちに祈るよう教えたものとして紹介しているからです。 ひとつに、「われらの罪を赦したまえ」(12節)は、一度も罪を犯したことのないイエス様が祈る必要のないことです。 私たちにはそうすることが必要だから、赦しを求めるようにとイエスは教えておられるのです。

 

 イエスがヨハネ17章を通して祈っておられる祈りは、主であるキリストが父なる神に対して心から語られるという意味で、『主の祈り』そのものです。1~5節では、イエスはご自身のために祈り、6~19節では、十字架に向かわれる前夜のご自身と共に階上の部屋にいる弟子たちを助けてくださるよう、神に頼んでおられます。最後に20~26節で、イエスは、現在ご自分に従っている者の集団のみならず、将来ご自身の御言葉を聞いて受け入れることになる人々をも主の御前に連れて行くのです。

 

 『神の無意識の証人』という最近の連続メッセージの中で、私たちは神様が預言を成就なさる様々な方法や機会を目にしてきました。 かなり具体的なものもいくつかあります。 今日の物語では、イエスは祈りの中で、将来についてのもっと一般的な約束をなさいます。「わたしは彼らにあなたを示し続けます。」 イエスは、信徒たちに対し、現在も未来も、神を明らかにし続けられることでしょう。文字通り、「彼らにあなたの御名を知らせ続ける。」と、イエスは言っておられます。「御名」というのは、神の身分を示す公式の書類上の言葉のようなものを意味しているのではありません。神とは実際にどんなお方であるかを、イエスが彼らにお示しになるという意味です。 それは、神の御心やご性質、何を喜ばれ、何を大切になさるのか等を含んでいます。 しかし、イエスはそこで終わりにはなさいません。イエスはとりわけ、ご自身がなぜこれを行なおうとしておられるのかを語り続けられます。「わたしを愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」 それこそが、イエス様がここでご自身の祈りの中に込めて約束をし、守るために定めておられる目的なのです。

 

 神様は、私たちが神様ご自身とひとつになること、神の教会にいる人々、そして神様と結ばれることになる人々とひとつになることを望んでおられます。 もしも米国で使用されているコインを詳しく見たことがあるなら(少なくともキャッシュレス化が進む今の世の中で)、ラテン語が書かれているのに気づいたかもしれません。たとえば、10セント硬貨には、「E pluribus unum.」と書かれています。英語では「たくさんの中から、1つ」という意味です。 その考え方は、一つの国にさまざまな州があり、異なる背景や考えを持つさまざまな人々がいるが、私たちは集まって共通の生活を形成しているというものです。(実際に、私たちが目にし続けるすべての不一致のせいで、国名を‟The Divided(*分断された) States of America”に変えなくてはならなくなるのではと疑念がわきます。) *The United(一致した)Statesの対義語として使用。

 

 聖書の神様がご自身の民に生き方を教える方法には、「E pluribus unum.」のようなものがあります。 私たちは、いくつかの重要で価値のある意味において、異なった、無二の存在です。 しかし、神様は私たちに対し、その愛の中で共に結び合うよう意図しています。孤立や分断の中ではなく、共同体の中で生きることを望んでおられるのです。 聖書はそのような結びつきを「交わり」と呼びますが、イエスはここで、神がその民とご自身の関係、また相互の関わりにおいて持つことを望んでおられる一致を説明するために、「一つになる」という言葉をお使いになります。

 

 私たちに対するイエスの祈りの内側にあるメッセージを探るため、次の5つの質問に対する神様の答えを見つけましょう。

(1)クリスチャンの一致とは何か。

(2)どうすれば真の一致の中で生きることができるのか。

(3)福音の物語の中で、キリストはどのように一致を築かれるのか。

(4)キリストは今日における一致をどのように築かれるのか。

(5)クリスチャンの一致がもたらす効果は何か。

 

 最初に、クリスチャンの一致とは何でしょうか。 一つになるということは、すべての重要な問題に対して同じ意見を持つことを意味するのでしょうか。 いいえ、それはカルトの性質です。強制的された一致は、グループ内外の人々の間にある関係性に不誠実を焼成します。 イエスが私たちのために持つことを祈られたのは、画一性ではなく一致です。

 

 私たちがキリスト教会と呼ぶ一つの世界組織という意味において一致することをイエスが祈っておられると理解するのは、間違いであろうと私は考えます。私たちは、教会生活の最初の数世紀で実際にそれを試みましたが、控えめに言ってもうまくいきませんでした。

 

 もうひとつ、私たちが安易に持ってしまいがちな誤解は、神様はすべての信徒に同じ信仰を持つことを期待しておられるというものです。 もしも私たちが皆罪のない者だったら、そうなるかもしれません。しかし、私たちは未だかつて、一度としてそういう状態になったことがありません。 現実は、パウロが言うとおり(第1コリント13章12節冒頭)、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ています」なのです。 神様は常に正しく、真実のまま私たちに教えておられますが、どんな時も神様をきちんと理解していると主張できる人は誰もいません。 私たちは世界的な一致を持とうと試みますが、それはしばしばクリスチャンがいくつかの非常に重要な事柄において意見を異にすることを明らかします。 世界教会主義は、私たちが賛同できるわずかな事柄だけのものに容易に陥ってしまうのです。 近い将来、私たちには「最小公倍数の一致」しかなくなってしまいます。 同意できない部分を取り除いた後には、ほとんど残っていないかもしれません。 しかし、神様は私たちにもっと大きな希望を持ち続けておられます。

 

 誰かが言ったように、悪魔はあなたが落ちる限りにおいては、馬のどちら側に落ちるかを気にかけはしません。 私たちは、自分たちの基準を放棄して何も持たないという理由で「一致」できるのでしょうか。 それは結局、ほとんど、あるいはまったく意味のない、浅薄な偽物の一致です。もしくは一致することができません。いずれにしろ、キリストがここでそうあるようにと祈っておられる人々として生きてはいないのです。

 

 キリストが祈っておられる一致とは、私たちがあらゆる意見や人格において一つになることではありません。 私たちは皆、神の似姿に造られ、どこへ行き、どのような人生経験を積もうとも、神の似姿を身に帯びているという点で一つなのです。 その意味で、私たちは本質において、また誓約において一つです。 私たちは皆、古い自分を脇に置いて、新しい、最高の、キリストに似た自分へと向かう旅の途上です。 その視点で、私たちは皆、新しい心を持ちます。 私たちは全員、同じ方向――神様と神様の家である天国を目指しています。 私たち全員が、神様の御前で、神様と共に、神様の臨在の中で生きることを最高の褒賞とする者として、そこに永遠に住まう準備を整える過程に全力を傾けています。 言葉や作法、表現が違っていても、同じ中心にある愛――つまり神様の愛、神様からの愛を持っています。 文化が異なっていても、私たちは皆、すべての文化を支配し、あらゆる文化の人々を深く愛しておられる同じ主に属しているのです。

 

 キリスト教の一致は、(a)神様との一致 (b)人々との一致 を含むものだということがおわかりになると思います。 ヨハネの手紙第一1章3節は、「私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせるのは、あなたがたも、私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。 」と述べています。 同様に、エペソ人への手紙4章12〜13節の筆者は、神の民がさまざまな霊的賜物を用いて仕えることを説明しています。

 

   こうして、…キリストの身体を作り上げ、ついには、わたしたちすべてが、信仰と神の子の知識において一つとなり、完全な者となって、キリストの満ち溢れる成熟した年齢に達するのです。

 

 言い換えれば、あなたと私、そしてあの夜以来イエスに従ってきたすべての人のためのイエスの祈りのように、私たちに対するイエス様の大きな願いは、私たちがご自身の愛の中で生きることです。 愛こそが答えです。 クリスチャン生活においては、すべてが愛に行き着きます。 愛を持っていれば、私たちはどんなことも乗り越えられるという希望を持ちます。 愛を持っていなければ、私たちは基本的に何も持っていないのです。 愛なしには、私たちの喜びは肉の喜び――快楽主義以上の何ものでもなくなります。 神聖さから愛を取り除けば、私たちは独善的になり、本当に聖い者ではなくなります。 もしもあなたが真理を持っているとしても、愛が空になってしまうなら、そこには命のない正説以外何も残りません。任務を負って始めることも、その中に愛を見失うなら、結果的に征服に終わり、善いもの以上に損害を多く与えてしまう可能性があります。一致をもって始めるとしても、愛がなければ、自由が欠乏し、最終的には独裁になってしまいます。 私たちの神はすべて愛なのです。

 

 第二に、私たちはどうすれば本当に一致して生きることができるのでしょうか。それは、神様ご自身が持っておられる一致によって始める場合にのみ可能です。 私たちは聖書の教えにより、神は三位一体として存在すると理解しています。 父と子と聖霊の関係の内側にあるのは、純粋で、完全で、深い愛です。それは、共同体の交わりにおける私たちの生活にとって、単なるお手本ではなく、力でもあります。 たとえば、イエスは「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14章9節)と教えておられます。 それからヨハネ17章11節では、イエスは残っている11人の弟子たちのために、「彼らを守ってください。それはわたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」と祈られます。  ところで、今日の聖書箇所である21節では、イエスはすべての時代の信徒たちのために祈っておられます。イエスはこのように願われます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。」 22節で続けて、イエスは言われます。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」 ですから、キリストはただ私たちが「一つ」になることを祈っておられるのではありません。 いや、それ以上のこと:「わたしたちが一つであるように、一つ」になるということです。

 

 私たちの一致は、神様の一致—―つまり三位一体の三つの位格の間にある壊れることのない絆と共に始まります。 これに基づいて、私たちはまず、神と共にある一致という貴重な贈り物を与えられます。 私たちは第一コリント6章17節から、「しかし主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。」と学びます。 信じる者の間にある一致は、聖霊が私たちの心に来て下さり、そこを住みかとしてくださるから可能になるのです。 神様との縦軸の繋がりが堅固で完全なものであるとき、人々との横軸の関係は、他の方法では決して得られなかった栄養と保護の源を持つことになります。 エペソ人への手紙4章3節は、「平和の絆で結ばれて霊による一致を保つよう熱心に努めなさい。」と教えています。 お分かりになりましたか? 神様は「一つになりなさい」ではなく、「一つのままでいなさい」と教えておられるのです。 御恵みにより、神様はすでに私たちを神の家族の一員としてくださいました。 私たちの使命は、その関係を大切にし、それが私たちに与えてくれる力の中で生きるよう学ぶことです。

 

 第三に、キリストは福音の物語の中で、どのように一致を築かれるのでしょう。イエスはヨハネ 17章26節で約束して(預言して)おられます。 「わたしは彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。」 イエスはこの約束をどのように守られるのでしょうか。もちろん、ご自分の言動のすべてにおいてです。イエス様はいつでも愛によって突き動かされておられるからです。しかし、物語が進むにつれ、いくつかの具体的な例を目にします。

 

 ひとつは次の章にあります。 イエスと弟子たちがゲツセマネの園に行くときのことです。祈りの時間の後に、ユダが宗教指導者から派遣された役人たちを、武装した兵士を伴って連れて来て、彼らはイエスを逮捕します。イエスは逃げも抵抗もせず、自分が連れて行かれることを許されます。 けれども、イエスは一つのことを要求なさいます。 イエスはご自分を捕らえに来た者たちに、「私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」と言われるのです。その後、ヨハネは物語を中断して、私たちにこう言います。(18章9節)「それは、『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』(ヨハネ6:39)とイエスが言われた言葉が実現するためであった。」

 

 その後ヨハネ17章12節にイエスは祈ります。

 

 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、誰も滅びませんでした。聖書が実現するためです。

 

 キリストは、神がどのようなお方であるかを――つまり危険なときでさえ、信徒の群れをまとめ、安全に保たれることを信徒たちに示しておられるのです。 彼らの一致と安全は、たとえご自分の無事と安全が奪われつつある今でも、キリストにとって覚えておくべき重要事項リストの頂点にあります。 これが神――献身的で、自己犠牲の愛によって導かれ、力を与えられた神です。 そして弟子たちに神の心、その人格、神の愛をお示しになる過程で、イエスはご自分がなされた預言を成就されるのです。

 

 イエスの逮捕に関するマタイの福音書 (26章52〜56節) で、イエスはご自分のところに来た者たちに、このような方法で迫害されることは預言の成就であると言われます。 この意味において、イエスは彼らに、神がどのようなお方であるか――ご自分の民のために不正をも耐え忍ぶほどに愛するお方であると示しておられるのです。 イエスは、ご自分がしておられることの中にある、壮大で変わることのない意図に焦点を当てておられます。 ヨハネもまた間違いなくそれを信じていますが、彼が物語を止めて、読者である私たちにはっきりと注目させるのは、今ここでの個人的な意味です。 「イエスはご自身と一緒に逮捕されることから私たちをお救いになった。」 ヨハネはそのようなことを言っているのです。 彼はそれを決して忘れられないのです。 そのようにして、ヨハネは自分がイエスの共同体の一員であることを、魂の奥底で知るのです。 キリストはご自身にしかできない方法で、ご自身、神様、そしてご自分に従う者たちとの一致を明確にされます。

 

 ところで、今しがた想起したユダに関する話の部分で、神様が前章の別の預言を実現させようとしているのがわかります。 17章12 節で、イエスは次のように言われました。

 

わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、誰も滅びませんでした。聖書が実現するためです。

 

イエスが捕らえられることから弟子たちを守った直後に続く物語は、次のとおりです。 (ヨハネ18章10〜11節)

 

   シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の僕に打ちかかり、その右の耳を切り落とした。 僕の名前はマルコスであった。イエスはペテロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

 

 ここに、イエスの神への揺るぎない献身と、ご自分の日々の生活の中で神のご計画と指示に従っておられることが見て取れます。 イエスは再び、信仰の模範によって――つまり、私たちの信頼に値するお方である神に信頼して生きることによって、弟子たちに御父を示しておられるのです。 これがクリスチャンの交わりの核心です。

 

 次にイエスは、ご自分がローマ総督ピラトの前に連れて行かれるとき、神がどのようなお方であるかを従う者たちに示されます。 ここで、イエスの生死が決定されることになります。 イエスが属する国の指導者たちは彼の処刑を望んでいますが、ピラトにはその理由が見当たりません。(ヨハネ18章31〜32節)

 

   ピラトが 「あなたがたが引き取って、自分たちの律法に従って裁くがよい。」と言うと、ユダヤ人たちは、「私たちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、ご自分がどのような死を遂げることになるのかを示して語られた、イエスの言葉が実現するためであった。

 

 その後ヨハネは、聖書の預言にある神の約束を成就するイエスの死をめぐって起こったことについて、ここで説明できるよりもっと詳細に踏み込んでいます。 私たちはこれを、兵士たちがイエスの服をめぐって賭けをすること、イエスが死んだのを見たためイエスの足を折らない選択をし、剣でわき腹を突き刺したことの中に見ることができます。(ヨハネ19:23〜24、32〜37)  イエスは、ご自分の愛がどれほど深いか――私たちのために死をも厭わないものであることを実演されることにより、弟子たちに御父を示しておられます。ご自身の死を通して、イエスはまた、命への道、救いへの道を開かれます。(ヨハネ19:23〜24)。 イエスは、ご自分がよみがえり、弟子たちの元に戻って、彼らの心と身体の内側に神の臨在である聖霊を受け入れる手助けをされることで、父なる神がどのようなお方であるかを示し続けておられます。 イエスはこれらすべての方法で、生きておられ、力あるまことの神を彼らにお示しになります。 この双方が、過去になされた神の約束を守り、生きている主に仕えるという冒険に満ちた未来に向けて、弟子たちを整えるのです。

 

 第四に、キリストは今日、どのようにして一致を築かれるのでしょうか。 聖書の時代やどの時代であれ、キリストが行われる方法に基本的な違いはありません。 しかし、いくつかの特定の事柄に留意しておくことができます。 一つに、私たちが実際に共同体で生活することを学び始めるとき、お互いの間にトラブルが生じることになるでしょう。 お互いの気分を害することがあるでしょう。 私たちを傷つけることを言う人がいるでしょう。 私たちが傷ついているとき、必要としているような家族になれず、私たちが聞く必要のある言葉を言うのを忘れてしまう人もいるでしょう。 最初からこれでうまくいくという方法などありません。 神様の助けを借り、失敗したり成功したりしながら、それを学ばなければならないのです。 誰かが言ったように、「知り合いになるまではみんな普通」です。あなたと私が本当に近しくなれば、私はいつかあなたの気持ちを傷つけるでしょうし、あなたは私の気持ちを傷つけるでしょう。そして私はそれを、自分ではなく、あなたの落ち度だと思ってしまいがちなのです! ですから私たちは、キリストにあって兄弟姉妹である私たちの間で、物事がどうなって行くのかという現実的な予想を持たなくてはいけません。

 

 人としての私たちの間にある深い隔たりを乗り越える唯一の手段は、私たちの造り主、贖い主、また父である神様との、より完全でより深い方法において私たちが一つになることです。 神様との関係がますます親密になるにつれ、私たちは、同じようにしているであろう周りの人々との距離を縮めていくのです。 一つには、神が彼らを見るように彼らを見ることを、ますます学ぶでしょう。 そうすることで私たちは、次第に彼らを嫌うことができなくなります。 もちろん、断固として同意できないことがあるかもしれませんが、彼らに対し、私たちの中心となる抑制された態度は、彼らにとっての最善を望むものとなるでしょう。 彼らについての私たちの思いや感情は、聖書が愛と呼ぶ、受容と支持を特徴とするものです。それは、神様が彼らをそのように見ておられるからです。 神様は彼らについてすべてをご存知で、それが実際にあるたくさんの罪を意味するとしても、神様はなおも、第一に、最大限に、そしていつでも、その恵みとあわれみのレンズを通して彼らを見ておられます。神様が彼らをご覧になるとき、最も感じておられるのは愛です。 ですから、彼らに対する私たちの態度の特徴が恨みや怒りであったら、私たちは神様に近づき、神様に似た者となることを拒否していることになります。 そしてそれこそが、私たちがこの世界に存在し、毎日を生きている理由の核心にあるものです。 それは小さなことではありません。 神様、私たちが今週出会う一人一人を、あなたがその人を見るように見ることができるよう助けてください。

 

 私たちの一致に影響を与えるもうひとつの問題は、私たちの教会がどのように成長するかということです。 私たちは、オープン・ドアを通して神様が新しい信徒、新しいリーダー、新しい教会を起こしてくださるように祈り続けています。COVID-19 (コロナウイルス感染症)の状況が改善するにつれ、神がこの場所に注がれた愛を分かち合うために、ますます多くの人々が集まるのを見ることに、強い望みを抱きます。 しかし、より多くの人数がいつも健全な成長の兆候であるとは限らないと認識しつつ、私たちはそう望んでいます。 場合によっては、教会がある程度の規模になってから、居心地がよくなることがあり得ます。 人々は、神様が教会に置かれた奉仕をグループが行うのを手助けする責任を担う必要はなく、積極的なメンバーよりも傍観者として参加する方が楽だということに気づき得るのです。

 

 そのようなことが起こると、真の共同体は失われます。 神様が私たちに求めておられる、より一層兄弟姉妹になっていくという決意を共有する感覚がなければ、私たちは道に迷ってしまうでしょう。 ですから、人数における成長については、意図されたものである必要があります。 私たちは互いに祈り合い、励まし合い、私たちの教会がどれほど大きく成長しようとも、一人一人が私たちの教会の家族にある兄弟姉妹との有意義で個人的な結びつきに関わるよう、整えていく必要があります。この信仰共同体に参加するすべての人々との間に強い個人的なつながりを形成し、深め、維持し続けることを私たちの祈りとしましょう。

 

 第五であり最後になりますが、クリスチャンの一致はどのような影響を与えるのか。イエ

スはとりわけone(一つ)ということに焦点を当てておられます。 21節で、イエスは、「父よ、・・・すべての人を一つにしてください。」の後に、「そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。」と続けています。 再び 23 節で、イエスは、ご自身との共同体の中に人々を連れて行くことで、ご自分を知る必要のある他の人たちのところへ彼らを送り出すことができるようにすると言っておられます。

 

   彼らが完全に一つとなるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります。

 

 キリスト教の共同体にいることは、他の世界からあなたを切り離すものではありません。 イエスは、ご自分の民を世の中に送り出すと繰り返し言っておられます。 イエス様は、私たちがノンクリスチャンと積極的に関わり、どこででも人々に仕え、共に働きながら、ご自身のメッセージを伝えることを望んでおられます。

 言い換えるなら、キリストが私たちに望んでおられる一致は、単に自分たちの利益のためではないのです。 それは、キリストが私たちの手に預けられた働きを私たちが継続する中で、私たちを通して助けたいとご自身が願っておられる人々のためです。

 

「そうすれば、世は信じるようになります…」 キリストはその翌日、恐れや悲哀に満ちて十字架に向かわれるのではありません。 ご自分が祈るとおりに物事が運ぶだろうと、ただ漠然と願っているのでもありません。 キリストは確信している――神が確実に十字架と復活を用いられ、弟子たちがそうなることをご自身が思い描いておられる、信仰の共同体が形成されると信じておられるのです。 神様は世界中のたくさんの人々を救うために、彼らを用いられるでしょう。 何世紀にもわたり、神の愛と真実を受け渡している弟子たちを通し、現在では地球規模で10億人をはるかに超える人々がイエス・キリストの信者であると自称しています。

 

 あなたがクリスチャンなら、キリストが実在し、真実であり、従うことを決意する価値があると確信させたものは何でしょうか。 札幌で、またその向こう側で、私たちの周りにいる人々を確信させるものは何でしょう。 私たちは真実の教義を持たなければなりませんし、組織の力は確かにプラスになりますが、それだけでは十分ではないと私は主張します。 人々を本当に神様へと惹きつけるものは、神様との、またお互いとの一致の中に私たちが見出す愛です。 それこそが、人々が最も必要としており、見つけることを渇望しているものです。 それが偽物であるか、信頼できるあり方で存在しない場合、人々は大概、すぐにそれを感じます。しかし、それが現実の、得られるものになるとき、人々はそれが非常に魅力的であると気づくでしょう。 イエスが弟子たちとの毎日で叶えられた類いの純粋な愛を通し、神様は人々をご自身に引き寄せられます。 ですから、神様の実践的な教えの中心として、「愛を追い求めなさい。」(第一コリント14章1節)と私たちにお伝えになるのは、神様にとって当然のことです。 私たちを、主の愛を互いに積極的かつ絶え間なく分かち合い、周りの人々にも広げていく者としてくださるよう、今神様にお願いしましょう。

 

 神様、あなたの栄光を見ることができるように助けてください。 私たちがあなたの愛に生きるのを助けてください。 そのことを通して、あなたが私たちを救うためにあなたの御子イエス様を私たちの世界に送ってくださったことを、私たちの周りの多くの人々が知るとこができるように助けてください。 あなたが私たちと共におられることを私たちが知るように助けてください。 主よ、私たちを一つにしてください。 あなたが私たちに深く望んでおられることである、どこにいてもあなたとあなたの人々との一致の中で生きるよう、私たちを助けてください。 これが私たちの祈りです。

 イエス様のお名前によってお祈りします。 アーメン。

 

参考

 

Fritz, J. (December 4, 2018). Jesus Prays for the Church. Who Is Jesus? Illuminate Community. Retrieved October 9, 2022 from https://www.youtube.com/      watch?v=Yb7baZCqPsg

Guzik, D. (June 4, 2020). Prepared to Proclaim. Retrieved October 8, 2022 from            https://www.youtube.com/watch?v=3fiYJhDLTQc

Henry, M. (1706). Matthew Henry Commentary on the Whole Bible (Complete). Retrieved   September 2, 2022 https://www.biblestudytools.com/commentaries/matthew-henry-