礼拝の中で神の誠実さを見出す

2022年9月18日英語礼拝

 

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

礼拝の中で神の誠実さを見出す

 

マタイの福音書21章14〜17節

 

 私たちは今「神の無意識の証人」というメッセージのシリーズを学んでいる最中です。 先月、私たちは、神の民が神様に仕えるとき、ご自身の約束を守ることに対する忠実さを神様がどのように示されるかを、2頭のロバをイエス様のところに連れてくる事例によって学びました。 イエスはご自身の戴冠式のパレードの中でそのろばにまたがり、ご自分の民を導くために神から遣わされた王としてエルサレムに入場されました。

 

 今日の話はその直後に来る話です。 当然のごとく、王はまず、ご自分と神様が住まう場所である神殿という名の「宮殿」に向かいます。そこで、 イエス様が私たちに賛美について教えるために用いられるあることが起こります。この出来事の中で、私たちは、自分たちの礼拝の中で神様の忠実さを見いだすことができると教えられます。 かなり前になされたもうひとつの預言が、ここで実現されます。 私たちの賛美は、実際に神が預言を成就なさる一つの方法であることを学ぶのです。 普段、私たちはあまりそのようには考えないかもしれませんが、注意深く見ると、そこに何か価値あるものを見つけるでしょう。共に一歩ずつ物語を辿りながら、何を見出すことができるのか確かめてみましょう。

 

 イエスがろばに乗ってエルサレムに入られるお話は、四つの福音書すべてにありますが、受難週のこの部分はマタイにのみ見られるものです。  人々が自分の個人的な利益のために宗教を乱用していることにイエスがお怒りになり、商いをする人々のテーブルをひっくり返した後、14 節にはこのように書かかれています。 「また、宮の中で、盲人や足のなえた人たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。」これら特別な支援を必要とする人々は、誰かの助けなしに、イエス様のみもとに来ることはできませんよね。 ですから、そこでは神様がご自分の民に価値あることとして教えておられることが起こっているのです。そこには行動における信仰の共同体があります。 そのような場合、そこから良いものが生まれます。神様をほめたたえる理由が、そこから生じるのです。 この事例では、視力と歩く能力が取り戻されました。 そのような贈り物に、誰が値札を付けられるでしょう?   賛美は、健康の回復という神の御業への、当然かつ真に相応しい反応です。

 

 ここで私たちは、毎週集まって捧げている礼拝に関する重要な事柄を目にします。私たちは歌うことや語ること—―つまり言葉で神様を賛美することができます。 しかし、私たちはまた、神様に仕えること、たとえば一人で来ることが難しい人を礼拝に連れて来ることを通しても、神様をたたえることができるのです。そのような行動は、私たちの主が、ほめたたえるために時間とエネルギーを費やす価値のあるお方であることを目に見える形で示す、賛美の一つの形となり得ます。もし私たちがこのような形で心からの感謝と賛美を捧げるなら、神様は心底喜んで受け取ってくださると、ご自身が語っておられます。それらは、イエスご自身がご自分の言葉(賛美、祈り、教え)を通して神様をたたえられた方法を反映しています。 マルコ、ルカ、ヨハネは、イエスがご自身の死の前の一週間を、神殿で教えることに費やされたと述べています。 しかし、イエス様は理屈ばかりのお方ではありません(そうなりがちな人間としての私たちとは違います)。 イエスは、特に人々を肉体的に癒すというご自分の行為を通して、いのちをお与えになる神の愛というご自身のメッセージを実践されました。 もしも皆さんの手助けがあれば、より素晴らしい健康と、神様が自分を愛しておられるという知識に至ることができる人はいませんか? それはどなたでしょうか? 

 

 キリストの神殿における人々の癒しは、イエスがろばに乗って街に入場した際の「この方は、どういうお方なのか」という人々の問いに対する真の答えです。 そのことを覚えておられるでしょうか? 人々を健康な完全さへと導くイエスの行動が示すのは、ご自身が誰であるかについての大きな一部分です。  また、イエスの驚くべき癒しの御業は、神様がハガイ書 2章9節 でなさったお約束を成就するものでもあります。 『この新しい神殿の栄光は以前のものにまさる—―万軍の主は言われる。この場所に私は平和を与える—―万軍の主の仰せ。』 古い神殿という建造物は素晴らしいですが、イエスはご自身の身体が神の家であり、神殿であると言っておられます。さらに、神様は私たちの身体をもご自身の住まいとされたいのです。それはもっと良いことです。

 

 続く15節には、『神殿の境内で「ダビデの子にホサナ!」と叫ぶ子供たち』について書かれています。 私が小学生だった時のことです。学校が終わった水曜日の午後、私たちの教会から1台のバスがやって来ました。親たちが教会に送り届けようとしている全ての子供たちを迎えに来たのです。私の学年では, 約10人から12人の子供たちが教会に行き、教会の音楽教師が教えてくれる歌をいくつか学びました。 私は歌うことにとりたてて興味が——あるいは才がありませんでした。しかし両親は、友達もいるその場へ私を送り出し、私は歌がとても好きになりました。加えて、聖歌隊の練習の後には、教会のディナー (チリかスパゲッティ) に行きます。その後は、大人たちの祈祷会の間、子供クラスでゲームと (いくらか) 学びをしました。それが私たちの水曜の夜の日課でした。それから、おそらく年に一度だったと思いますが、日曜夜の礼拝でそれぞれの子供聖歌隊が練習してきた歌を歌う機会がありました。

 

 私は人前で歌うのをとても恐れていました。ですから私は、観客は私の口が動いているのを見るけれど、誰一人私の声をはっきりとは聞きとれないぎりぎりの、周りの皆より小さな声で歌うテクニックを身につけました。聖歌隊の指揮者にとって私は、教えるのがちょっとじれったくなる存在だったと思います。

 

 けれども、皆が恥ずかしがり屋だったわけではありません。 私はその夜のことを決して忘れることができません。おそらく 5 歳くらいで私より少し年下のトッドという名前の少年が、私たちの学年の合唱プログラムで「歌った」ときのことです。 緊張感でカチカチになったような恥ずかしさに、彼を除くグループの全員が圧倒されていたのにも関わらず、その夜のトッドの心の内にそのようなものはまったく存在しませんでした。そうして歌が始まったとき、彼は私がいまだかつて聞いたことのないような、そしてたぶんそれ以来誰も聞いたことがないであろう声を発したのです。それはとてつもなく大きな——2階のバルコニーの後ろの列に座っている人でもすべての言葉が大きく明瞭に聞こえたと確信するほどの声でした。 「主われを愛す」のような歌を最大音量で叫んだと想像してみてください。 とても音楽と呼べるものではありませんでした。 「叫んでいる」の方がずっと正確です。 聴衆は皆かなりショックを受け、私たちの何人かは笑いを止められなくなりました。 でも、それは記憶に残る出来事だったのです。 トッドは、聖書がそう呼びかけている(詩篇 100編1節)ように、「主に向かって喜びの(叫び)声を上げた」のです。 そして、彼の声を聞いておられた神様は、紛れもなくその声を気に入られたと私は思っています。 神様は、トッドが歌うときに持っていた気取りのない、率直な、乱れのない心を楽しまれたのではないかと思うのです。

 

 子供たちが神殿で「ホサナ」と叫んでいることについて読んだとき、私は、「毎週日曜日に神様に向かって賛美を捧げるとき、神様は私の心、私たちの心から出てくる何をお聞きになるのだろう?」と思います。 神様がそれを喜ばれ、本物の礼拝として受け取ってくださることを祈ります。

 

 考えてみると、なぜその日、子供たちは神殿にいたのでしょう? もしかすると、そこで遊んでいたのかもしれません。 もしそうなら、神様はそのことに気を悪くされるでしょうか? 神様は彼らが神様の家にいることを楽しんで欲しいと願いつつも、敬意を持ったやり方でそうすることを求めておられるのではないかと思うのです。神殿で商売をするのがよいことだと言わんばかりに振る舞う人がいるなら、子供たちは走り回って大声で叫ぶことが問題だという認識がなかったのかもしれません。 あるいは彼らの両親が、家族で礼拝するために子供たちを連れてきた可能性もあります。 子供たちはまだその意味をよく理解していないかもしれませんが、学んでいる最中でした。 子供たちもまた、イエスの「行進」が通り過ぎる際に「ダビデの子にホサナ!」という大人たちの言葉を聞いた後で、大人たちに従ってイエスについて来たのかもしれません。  いずれにせよ、子供たちは周りにいる人々から聞いたとおりのことを言う (また歌う)ものです。 私たち大人がすべきことは、それを誠実な真心から捧げる賛美の手本を彼らに示すことへの注意喚起として受け取ることです。

 

 聖書の時代の子供たちにとって、「ホサナ」と言うのは不思議でも珍しいことでもありません。 仮庵の祭では、子供たちが木の枝の束を揺らしながらそうする習慣があります。 しかし、これは別の祝日である過越の祭ですし、彼らは神様だけに向かって「ホサナ」と叫んでいるのではなく、「ダビデの子」としての―—言い換えれば、救い主あるいは神の御子としてのイエス様に向かって叫んでいます。 それは「尋常」ではありません。 そのことが宗教指導者たちを憤慨させるのです。 私たちは数分後に、神殿での子供たちの言葉がどのように旧約聖書の預言を成就するのかを目撃しようとしています。そのことは大きな意味を持つとマタイは気づかせてくれますが、ひとつ忘れないようにしましょう。 子どもたちは紛れもなく、同じことを言い続けていた大人たちから自分たちが使っているその言葉を学んだのです。 ですから、大人から出る賛美もまた、はるか昔に聖書の中でご自身がなさった約束を守るという神の御業の、欠くことのできない一部です。 神様は、ご自身の忠実さと人生の出来事の支配を明らかにされるために、共同体としての礼拝の全過程を用いられます。

 

 信仰による家族の中にあって、毎週ここで皆さんが捧げる礼拝。 忘れがちで当然と思われます。それは目で見るものだとか、数を数えるようなものではありません。でもそれは、皆さんを形づくり、その上、皆さんの周りの人々を形成するのに役立ちます。皆さんが偽りのない心からの賛美を神様に捧げるとき、それは皆さんの人生に成長の方向性を定め、その成長を可能にするために信頼する力を決定します。それは皆さんの周りの人達の上に影響を及ぼさずにはいられません。 神様はご自分の時と方法において、それを祝福してくださるでしょう。 神様はお一人お一人の信仰を、オープンドア・チャペルのコミュニティで毎週、毎月、毎年、キリストに従う旅を続けている他の人たちの心を励まし、支え、強めるためにお使いになります。

 

 「ダビデの子、ホサナ」をもっと詳しく見てみましょう。 まず、「ダビデの子」です。 信仰深いユダヤの人々は、神がダビデ王にされたこの約束を知っています (サムエル記Ⅱ 7章16節)。 「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」 彼らは、神が彼らを解放するために救い主を送ってくださると信じます。 彼らはその意味を、とりわけ彼らを支配するローマ人からの政治的、軍事的、経済的自由を指すものと理解します。もしもローマの兵士が偶然、救い主が今そこに、彼らと共にいると子供たちが叫ぶのを耳にしたらトラブルになる可能性があり、宗教指導者たちがこのことに非常に敏感になっているのは疑う余地がありません。

 

 第二に「ホサナ」です。これは事実上「私たちを救ってください」という意味です。 そして当然ながら、あなたは自分を救うことができると信じている誰かに向かってそう言います。 ですから、それは「あなたをほめたたえます」とか「あなたは素晴らしい」というニュアンスを含むのです。 そこで、自分たちに対する霊的な質問があります。 皆さんが困難の中にあり、救われる必要があると知っているとき、あなたは誰に向き直りますか?

 

 ひとつ奇妙なお話があります。 もしかしたら、以前に聞いたことがある方がいらっしゃるかもしれません。

 

 仏教徒、イスラム教徒、キリスト教徒が、信仰が自分たちを救ってくれると証明するために、全員100 階建てのビルから飛び降ります。

 

 仏教徒が最初にジャンプします。彼は落ちながら「ブッダ、ブッダ、ブッダ、ブッダ、ブッダ、ブッダ」と唱えます。思ったとおり、降下の半ばで彼は魔法のように速度を落とし、歩道にそっと着地します。 「ありがとう、ブッダ」彼は涙ながらに言います。

 

次はイスラム教徒です。 彼はジャンプして、「アッラー、アッラー、アッラー、アッラー、アッラー」と唱えます。 彼は高速で降下して歩道に叩きつけられ、あちこちに血が飛び散ります。そこにいて見ていた彼の家族は、彼が今楽園にいることを喜び、互いに抱き合って歓喜の涙を流します。

 

 最後にクリスチャンです。 彼は聖書を開き、心を整えるためにいくつか節を読みます。それから彼は飛び降り、「イエス、イエス、イエス、イエス、イエス、ブッダ、ブッダ、ブッダ」と繰り返します。

 

 さて、ご記憶のように、私は奇妙な話だと言いました。第一に、ビルから飛び降りて神様を試し、さらに救ってくださいと願い神を試みること、イエス様が有名な聖書の物語の中で明確に拒まれたことです(ルカの福音書4章9〜13節)。   したがって、イエスに従う者が、悪魔がイエスを誘惑したのとまったく同じことをしても意味がないのです。その話はさまざまな水準で奇妙ですが、重要な点がひとつあります。 お分かりになりますか?  困難の最中で自分を救ってくれると信じているのが誰であれ、他のときには何と言おうと、皆さんが本当に信じているただ一人の人です。 自分自身をクリスチャンと呼ぶことは私たちにとって大切なひとつですが、日々刻々、神様の御手に自身を委ねる選択をすることは別の問題です。 私たちが「ホサナ」とか「神をたたえよ」あるいは「あがめます、全能の主」と歌うとき、私たちがしていること——それは、神様の偉大さを認識すること、また信仰の行為として、私たちの人生を導き、力を与えてくださるよう神様に願い求めることなのです。

 

 宗教指導者たちは子供たちの言葉を聞いて、不愉快に思っています。 彼らはイエスを非難する機会をうかがっています(16 節)。 「子どもたちが何と言っているか、聞こえているか。」と彼らはイエスに尋ねます。 もちろん、イエスがそれを聞いているかどうかが問題なのではありません。 祭司長や律法学者たちは、もしイエスが子供たちの言葉を聞いてそれを理解しているなら、そのように言ってはいけないとイエス自身が子供たちに言い聞かせるべきだと考えています。 自分が救世主でもキリストでもないことを、イエスはどうにかして明らかにすべきだということです。 この人達はもう既に、イエスがそのような者ではないと決めつけているのです。

 

 このお話のルカ版 (19章39〜40節) では、マタイ 21 章の子供たちと基本的に同様のことを弟子たちが言っているとき、何人かのパリサイ人がイエスに「先生、お弟子たちを黙らせてください。」と言います。イエスは真理を教えることに全力を傾けておられる上に、ご自分が救世主なのですから、そんなことはなさいません。 そこでイエスは「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう。」とお答えになります。 世界が設計された通りに機能するためには、神様がほめたたえられねばなりません。 それは私たちの生活の基本であり、欠かすことのできない現実です。 否定する人もいるかもしれませんが、最終的に、それは起こるでしょう。 そのような観点において、神様の栄光は重力によく似ています。あなたがそうしたければ、それを否定することはできます。自分が正しいと証明するために、屋根から飛び降りることだってできます。 しかし、最終的に、重力が勝つでしょう。

 

 マタイ 21 章に戻って、イエスは宗教指導者たちに、もちろん子供たちの声が聞こえているとお答えになり、それから彼らに質問を返されます。「『幼な子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を整えられた』と(聖書に)あるのを、あなたがたはまだ読んだことがないのか。」 この人たちは、祭司長や律法学者です。 彼らはその神殿で多くの時間を過ごしていて、その活動は神を賛美したたえることがすべてであるはずの人々です。 けれども今、神をたたえる最大の理由が彼らの目の前に立っているときに、彼らは抵抗し、その神を止めようとまでしています。 彼らは、宗教組織の中で自分たちがいる場所にたどり着くために、長年にわたって聖書を勉強してきました。 しかし、どういうわけか、その正当な学びのすべては、彼らを神に近づけはしなかったように思えます。学びは彼らをより愛情深く誠実な人たちに作り上げてはいないのです。 ここで彼らは、主がかつて彼らにお与えになった最も偉大な知識—―すなわち御子イエスを通して救いを受ける方法を拒否しているのです。

 

 私たちの何人かは教育の分野で働いており、ここにいる私たち全員が教育制度を経験しています。 この話は、私たちに大きな疑問をいくつか投げかけます。 単に、どれほどたくさんの訓練を受けたか、あるいは何年学校に通ったかという問題ではなく、皆さんの受けた教育が、全体として皆さんの人生にどのような影響を与えているかが問われるのです。その教育はあなたをどのような人物になるよう導きましたか? あなたはそれを、あなた自身と他の人たちをさらに高い所へと引き上げ、それぞれの人生を真に豊かにする手だてとして使っていますか?

 

 宗教指導者たちは、自分が受けた教育を他の人を攻撃する武器として使うことが可能であることを明らかにしています。 皆さんはそれを他の人たちに向かって橋を架ける道具として使うことができますし、同じ道具を他者との間に壁を作るために使うこともできるのです。 皆さんの学びを、どこであっても人々がいるところに出かけて行き、彼らと共に立つ方法として使うこともできれば、心の中で自分を彼らの上に置き、見下す手段として使うこともできます。 皆さんは、神様とその世界をより深く理解するための方法として、素晴らしい学びを獲得できるかもしれません。 事実、世界中の優れた学校の多くは、人々がまさにそのことを行うことを助けるために建設されました。 しかし、それはまた、そのような目的を脇に置いて、学びを通して実際に神様から離れ、神への信仰を否定したり、積極的に神に反対する立場を取ることを可能にしたりするものでもあります。 悲しいことに、実情は、今日学校で学生達に教えられているすべてのことが健全で正確な知識へと彼らを導いてくれるわけではないのです。政治、教師の個人的な価値観、そして社会的傾向は、教育に大きな影響を及ぼす可能性があり、必ずしも良い道筋ではありません。 たとえば、ソーシャルメディアで行われたたくさんの論争の中で、誰かがこのように言うのを聞くことがあるかもしれません。「おまえはきっと、そんな間抜けになるために長い間学校に通っていたんだな。」言うまでもなく、それはけんかの売り言葉であり、それを使えば、大抵は人々とのもめごとをもっと大きくしてしまうでしょう。 しかし、それらの言葉は、宗教指導者たちに対するイエス様の言葉と何か同様のニュアンスを含んでいるように思えます。

 

 「あなたは子供や乳飲み子たちがあなたを賛美するのを確かにされた。」(英文直訳)  これはイエスが詩篇8編2節 を引用したものだとマタイが伝えるもので、私が通常、オープンドアでのメッセージに使っている聖書の英語版での書き方です。 しかし、そこではイエスがお選びになる言葉で興味深いことがいくつか起こっています。

 

 ひとつは、イエスが引用している節を途中で止めておられることです。 詩篇 8 章 2 節 (NIRV=ニュー・インターナショナル・リーダーズ訳) には次のように書かれています。

 「あなたは子供や乳飲み子たちがあなたを賛美するのを確かにされた。あなた敵の故にそれをされた。彼らの口をつぐませるためにそれをされた。」イエスは聖句の最初の部分を宗教指導者たちに思い出させますが、彼らは残りの部分を知っています。 それは神の敵について語っているもので、神は敵を黙らせる手段として(彼らの愚かな話をやめさせるために)子供や乳飲み子たちの賛美を用いると言っているのです。 これら祭司や教師たちは、疑いもなく、イエスが彼らを神の敵であるとほのめかしていることを理解できています。 彼らの行動の仕方がそれを示しています。 キリストの言葉は間接的かもしれませんが、この人たちは確かにキリストが意図しておられることを知っており、それを好ましく思っていないのです。

 

 更にここでの言葉遣いについては、他にもいくつか疑問があります。 まず、NIRV は、神は子供や乳のみ子たちが神を賛美する(praise)ようにされたと述べていますが、それらの言葉に対する旧約聖書訳(詩篇8編2節) を確かめに行くと、ほとんどの翻訳ではpraise(賛美する)という言葉が使用されていません。 それらは、私たちが使っている新改訳聖書の訳である「力(ちから)」と同じような意味のstrengthという名詞を使用しています。その一つはstronghold(拠点、牙城の意 /NIV= 新国際版) を使用し、またもう一つはbulwark (防波堤の意/NRSV=新改訂標準訳)を、最もよく使用されている三つの日本語訳では 「砦(とりで)」 を使っています。

 

 そして神様は、この力によって、あるいはほめたたえることであれ何であれ、それによって何をされたのでしょうか?  NIRVは、神は子供と乳飲み子たちがそれを神に捧げることを確かにされたと言います。しかし、他の主要な翻訳のいくつかは、神がそれをprepared(準備された)と述べています。 他の訳では、神がperfected(完全にされた) 、made ~complete (完成された)、arranged(用意された)、 called ~forth(呼び起こされた)、ordained (定められた)としています。一方、新改訳聖書は「用意された」、他の主要な日本語訳は「整えられた」、「歌わせた」、「備えられた」となっています。

 

 それら考え得る翻訳すべてのせいで、ちょっと紛らわしく思うかもしれません。 しかし、ここで見ておくべき神様に関する有益な事柄があるのです。それが生じていることの一つとして、マタイが彼の福音書を書いたときに使用した旧約聖書の訳が関係しているようです。 彼はセプトゥアギンタ訳と呼ばれるギリシャ語訳を使っていたと思われます。 その中で、詩篇8:2 (実際の順序では8:3) は、ヘブライ語訳でstrength (oze) (力) よりむしろ、praise (anion) (賛美する) を、神が命じられたと述べています。 もちろん、イエスがこれらの言葉を語られたとき、アラム語を話していたのは疑いのないことで、マタイがギリシャ語話者の世界にキリストの物語を提供する際に使用したギリシャ語ではないはずです。ですから、私たちには、イエスが実際にどのような言葉を選ばれたのかを 100% 知る手だてがありません。 しかし、もしも神様が幼な子や乳飲み子を通して力をもたらすとしたら、その意味するところが私にはわかりませんし、神殿で子供たちが叫んでいる状況に当てはまるとはとても思えません。神が幼な子や乳飲み子を通して賛美をもたらすと、イエスが言われるのがもっとずっと相応しく思えるのです。 そうであるなら、詩篇 8篇 2 節のイエスの引用はあえてstrength(力)という言葉の前で止まり、神の敵についての部分と同様にそれを省く代わりに、praise(賛美する)で文を締めくくっていることになります。

 

 その理解は、聖書全体の教えと明らかに一致します。 また、それは賛美について覚えておく価値のある、少なくとも二つのことを私たちに示してもくれます。 まず、私たちの賛美は神様と共に始まります。 神様がそれを引き出し、命じ、整え、完成させられます。 私たちは神様の導きに応答して礼拝します。 そして、私たちがそれを上手く行い、神様が私たちの礼拝を喜んでくださるときは、それは神様がそのように導かれ、可能にし、祝福してくださったからなのです。 私たちは神様と共に礼拝に参加するのです。

 

 また、礼拝の人間的側面に焦点を当てると、賛美は整えられ、完成される必要もあります。 例として、私たちの賛美チームが、毎週日曜日が巡ってくる前、そして10時30分を回る前に十分にそれをしているのを私たちは見ています。 私たちが正しく神様に賛美を捧げようとするなら、細心の注意を払う必要があります。 大人である私たちもまた、自分たちの言葉と模範の両方を通して、神様をほめたたえることを子供たちに教える必要があるのです。

 

 私が少し注目したい最後の言葉は、「幼な子と乳飲み子」です。 「幼い子どもの口から」という英語のことわざを聞いたり読んだりしたことがあるかもしれません。 それは古い欽定訳聖書に由来するものです。「・・・「赤ん坊と乳飲み子の口から、あなたは賛美を完成させた」・・・」 辞書は次のような例を挙げています。

 

  子どもたちは時折、驚くべきことや洞察に満ちたことを言う。

ドイル夫妻がキッチンで静かに口論していると、7 歳の娘が入ってきて言った。 「あなた方はカウンセリングを受けるべきね。」  驚きの沈黙の後で、ドイル夫人は「赤ん坊の口から」だわと言った。

 

 札幌で宣教師をしていた私の良き友人(皆さん何人かの友人でもある)は、脚にしこりができていることに気がつきました。彼は非常に動揺し、単に医師の助けを借りるだけでなく、もしそのしこりが癌で彼が亡くなったとしても家族が大丈夫なように、自分のできる限りの方法で家族の財産を管理することに多くの時間と労力を費やし始めました。

そのような彼の行動を見て、彼の幼い娘はこのようなことを言いました。「パパ、ただ神様に祈って神様の御手にお任せしたら? 神様がパパにそんなに心配してほしがっていると思わないけどな。」 その言葉は明らかに彼の心を打ちました。彼の目を開き、一瞬にして彼女が正しいと悟ったのです。彼が娘にずっと教えようとしてきたことを、彼女は彼に話していたのです。彼は、自身がここで教えている信仰によって、そのストレスフルな状況を生き抜くことを決意しました。 結局、そのしこりは癌ではなく、程なく彼はそんなに心配していた自分を笑っていました。 「赤ん坊の口から」です。

 

 今日の物語で「ダビデの子にホサナ!」と神殿で叫んでいる子供たちは、おそらく旧約聖書の預言の成就のことなど全く念頭に置いていないでしょう。しかしそれは、神殿の中で子供たちがイエスを賛美することによって、確かに実現したことなのです。子供たちにとってこの礼拝の実践のお手本となった大人たちもまた、預言の成就という意図を持ってはいませんでした。しかし神様は、彼らをその特別で神聖な目的のために用いることをお選びになりました。そして、遥か昔の詩篇8篇で神様が行おうと選んでおられたことを示し、行われるのです。 神様はこのようにして、ご自身の言葉とその民に対する誠実さを明らかにされます。

 

 神様を礼拝する大きな理由のひとつは、卑しく弱い人間を通してさえも、賛美をもたらすために働かれる神様の驚くべき御力にあります。 小さな子供や、歌声がそれほど良くない人、またどんな制限があったとしても、神様を賛美することが許されていることが実例です。 私たちには起こりそうにないように思うかもしれませんが、神様はそれを何とかすることがお出来になります。

 

 毎週日曜日、礼拝のために神様の家で神様を賛美する習慣を持ち続けるにつれ、私たちは神様の誠実さをもっともっと見出すことができます。 そしてさらに一層、神様の助けと共に日々神様の栄光に向かって生きるよう、自分の人生の方向を合わせることを学べるのです。

 

 今、そこに向かって祈りましょう。

 

 神様、私たちは、あなたが清く、偽りのない、きちんと整えられた心からの賛美を受けることを求めておられると知っています。ですから、私たちが神殿の子供たちから学び、彼らと一緒に「ダビデの子にホサナ!」と言えるように助けてください。 私たちもまた、今日の聖書の物語に出てくる宗教指導者たちが持っているような、利己的で、かたくなな心、ひねくれた精神のようなものを持つときに、私たちを解放してください。 この教会で、そして私たちが行くすべての場所であなたに賛美を捧げるとき、あなたの御前の子供たちのように正直で率直であるようにしてください。 私たちの礼拝を通して、あなたが約束を守ることにどれほど忠実であられるか、そしてあなたが私たちの人生をどれほど完全に支配しておられ、あなたが本当に全てであるかを学べるように助けてください。その知識を持ちながら、これからの毎日を平安のうちに歩むことができますように助けてください。 これが私たちの祈りです。キリストの御名によって。 アーメン。

 

参考

 

Gill, J. (1746-1763). John Gill's Exposition of the Bible. Retrieved September 5, 2022 from https://www.biblestudytools.com/commentaries/gills-exposition-of- the-       bible/matthew-21-14.html

Henry, M. (1706). Matthew Henry Commentary on the Whole Bible (Complete).        

Retrieved September 2, 2022 from https://www.biblestudytools.com/   commentaries/matthew-henry-complete/matthew/21.html

Spears, R. A. (2002). McGraw-Hill Dictionary of American Idioms and Phrasal Verbs.New York: McGraw-Hill.