神に仕えることを通して神の誠実さを見いだす

2022年8月21日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

マタイの福音書21章1〜11節

神に仕えることを通して神の誠実さを見いだす

 

  オンライン並びに対面でご参加の皆さん、こんにちは。 オープンドアにおける私たちの大きな祝福のひとつは、相当数の人たちが定期的に聖書に基づいて教えたり、説教したりしていることです。今日は皆さんに、メッセージの準備や、授業で教えるため、個人的な信仰の成長など、何であれ神様の言葉を学ぶのに役立つウェブサイトを、前よりもっと直接ご紹介することで始めたいと思います。そのサイト biblestudytools.com は主として英語で書かれていますが、皆さんの多くはそれを使いこなすだけの十分な言語スキルをお持ちです。

 

 読みたいと思う聖書箇所を入力すると、59バージョンある中のいずれかで、たとえば私が通常オープンドアで使用しているニュー・インターナショナル・リーダーズ バージョン( New International Readers Version )でも見つけることができます。(翻訳には中国語、アラビア語、およびいくつかのヨーロッパ言語が含まれますが、残念なことに、まだ日本語はありません。) 最近、ある方が、個別の名前を聖書の原語ではどのように発音するのか分からないことに言及しておられました。それを調べるための便利な方法があります。 今日のお話を例に挙げると、1節でBethphage(ベテパゲ/ベトファゲ)という町の名前に出会います。 その単語をクリックすると、原語でネイティブスピーカーによる発音を含む、さまざまなタイプの情報を得ることができます。 直訳すると「熟していないイチジクの家」という意味であることがわかります。その言葉が新約聖書に3度出てくる中で、どのように使われているかを正確に知りたいと思えば、青色のリンクをクリックして確認することができます。無料で、神様の御言葉を学ぶ手助けしてくれるツールがあるのです。

 

 今日の物語は、通常イースターの前の週である「棕櫚(しゅろ)の日曜日」に私たちが耳にするお話です。細かい部分に少し違いはあれど、4つの福音書すべてに出てきます。そのことは、神様がこの箇所で私たちに理解してほしいと真に望まれている何かが、そこにあることを物語っています。 神様はしばしば強調する目的で、聖書の中の事柄を繰り返し語られます。 たとえば、イエスが何か重大な教えをお授けになる前に、「まことに、まことに(Truly, Truly)」(キングジェームズ欽定訳版では「Verily, Verily」※同義の古語)と言われます。 ヨハネの福音書5章24節で、イエスは「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ちます。」と言っておられます。  原文では、「アーメン、アーメン」に続いて「私の言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、誰でも永遠の命を持ちます。」(ニュー・リーダーズ・インターナショナル版)となっています。ときに神様は、物事を3度繰り返して言われます。 たとえば、イザヤ書6章3節で、イザヤが見た情景にいる翼を持った生き物は、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」と言っています。 神様は私たちに、イエスがエルサレムの街に入場する物語を4度も与えておられます。ですから私たちは、それを、神様がここでお持ちのメッセージを受け取り、聞き逃さないようにと、真に、真に望んでおられるしるしとして捉えることができます。それは神様にとって、とても重要なものなのです。

 

  そのことを念頭に置いて、マタイ21章の背景について少し理解した上で、そこに記録されている出来事を通し、イエスが弟子たちに教えておられることに焦点を当てましょう。 それは、通常私たちがイースターの時期に教えられて耳にするメッセージとは、かなり異なります。 大抵の場合、キリストが王であるという教えに焦点が当てられます。イエスはご自身が行うエルサレムへの入場により、ご自身が王として、自らの死と復活を通し、罪や死を含めたすべてのことを支配するお方であると宣言されます。

 

 それはまた、今日、神様が私たちに与えてくださっているように聞こえるメッセージの中の、大切な点でもあります。  ですが、忘れないでほしいのは、神様が多くの場合、その出来事が起こっていることに気づきさえしない人々を通して預言を成就されるという聖書のひと続きの物語に、私たちは目を向けている最中だということです。 私たちはそれを『神の無意識の証人』と呼んでいます。 今日の朗読箇所でマタイが指摘するのは、旧約聖書のゼカリヤ書の中で何百年も前にご自身がお与えになった約束を、神様は守られるということです。 そして、神様は、このような方法、イエス様のためにロバを借りる二人の弟子たちのごく普通に思える行動を通し、ご自身の誠実さを示しておられます。

 

 

 スクリーン上の地図は、もっと詳しく知る手助けになるでしょう。先週、佐々木さんが語ってくださった、イエスが友人のラザロをエルサレムの東にあるベタニアの町で生き返らせたという説教を思い起こされるかもしれません。 しかしその後、国の宗教指導者たちがそれを聞き、イエスは脅威であり、殺されねばならないと判断するのです。その時点で、イエスとその弟子たちはエフライムと呼ばれる荒野近くの村に向かっています。そこはより静かで安全な場所なのです。それから、大きな過越の祝祭日の時期が近づくと、彼らはエルサレムへと移動し始めます。

 

 その途中、一行はエリコの街を通過します。そこで彼らは、イエス様から大きな助けを受けて従うようになる、少なくとも3人の人達と出会います。 一人は小柄な取税人の男で、____という名前です。(覚えておられますか?)  もう一人の男と同伴者の誰か(名前はわかりません)は、見ることができませんでしたが、イエス様から視力を受け取りました。(彼らの一人については先月ここで耳にしましたし、三熊さんが2週間前に思い出させてくれましたね。) 彼の名前はバ____です。

 

 エリコを出ると、イエスの一行はベタニアの街へと旅をします。ヨハネは、キリストが6日間そこにいた(過越の祭日の準備のため)と述べています。(12章1節) そこは、ラザロが妹のマルタやマリヤと一緒に住んでいるところです。

 

 これらの物語は、マタイ 21 節でイエスがエルサレムに入場される際、イエスの周りにいた群衆について、ちょっとした発想を与えてくれます。ルカはザアカイがどのようにしてキリストの忠実な信者となったかを説明していますし、マタイはバルテマイとその友がイエスに従い始めると教えてくれます。その「従うこと」がどの程度霊的なもの(「信仰において従うこと」)で、どの程度物理的にともに歩むということを指すのか、私たちにはわかりません。 しかし、彼らは今や、イエスに従う者のグループの一員です。 ですから、イエスがエルサレムに入られるとき、彼らがそこでイエスを歓迎し祝う群衆の一員であるかもしれないのです。 マリヤとマルタも彼らと共にいたかもしれません。 ラザロでさえ、そこにいるかもしれません。もっとも、ヨハネは国の宗教指導者達がラザロを殺す計画を立てていると述べていますから(12章9~11節)、このことを知っていれば、エルサレムを避けるかもしれませんが。

 

 群衆の中の他の人たちに関して言うと、この時点でのエルサレムの街は、通常およそ50万人の人口を有していたことがわかっています。 しかし、過越の祭のために地方から多くの人々が集まってくる際には、通常の5倍—―つまり250万人(現在の札幌より多い)にまで膨れ上がります。 人々は多くの場合、この日、群衆がどのようにイエスを歓迎し、称賛するかに目を留めます。一方で、5日後に総督ピラトの前でイエスが裁判にかけられたとき、ある群衆はイエスの死刑を叫び求めます。 厳密に言って、どの人々がどちらの群衆に属しているか、本当のところはわかりません。 したがって、私たちは、それが十分に真実であるように思えても、目安としての世論がいかに変化しやすく、信頼できないかという点を、あまり強く推すことはできません。

 

 さて群衆についていくつかの考えを持ったところで、弟子たちについてはどうでしょうか。 マタイは、イエスが母親のろばとその子ろばを引いてくるために、弟子たちのうち二人をベテパゲに遣わされたと述べています。(21章2〜3節) ルカ 22 章で、過越の食事の準備のために 2 人の弟子を遣わされたときには、ペテロとヨハネでした。 ろばを引きに行くのも彼らだった可能性がありますが、本当のところは分かりません。

 

 「ろばたち(複数形)」? マルコ、ルカ、ヨハネは、1頭のろば—―母親のろばではなく、子ろばだけに言及しています。 しかしマタイは、そこに両方のろばがいることを注意深く指摘しています。そして彼は、これには明確な理由があることを明らかにするために物語を中断します。それは、ゼカリヤ書9章9節からの旧約聖書の預言が、詳細にわたり忠実に、また完全に成就するようになるためです。クリスチャンはこれを、いつの日かメシア、またはキリストを送るという神様の約束として理解します。

 

 シオンの娘よ、大いに喜べ。エルサレムの娘よ喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来られる。 この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

 

マルコは、子ろばがまだ誰も乗ったことのないろばであると指摘します。それなら乗るのは不可能だろうと思うかもしれません。 人を乗せるには訓練されていなければなりません。 さもないと、普通は抵抗して、乗り手を振り落とそうとします。(私たちの家族のカメは16年の間私を知っていますが、今でも甲羅をきれいにしようと私が持ち上げると、毎度抵抗します。) しかし、イエス様はご自分が何をなさっているかご存知です。私たちには理解できないかもしれませんが、結局それは関係のないことです。イエス様は私たちの信頼に値されるお方なのです。 イエス様はその信頼を、何度も繰り返し得てこられました。それこそが、福音書の記者たちが繰り返し強調している点であるように思うのです。

 

 できる限りイエスの弟子たちの心の内側に入ってみることにしましょう。理解し難いと思われることをするために、イエスが人々を送り出したのは、これが初めてではありません。 カナでの結婚式の祝宴で、ワインが底をついたときのことを覚えておられますか?  イエスは、ワインのボトルではなく、本来なら清めのために使われる20個の大きな瓶に水を入れるようにと、使用人に言われました。 何ですって? しかし、ヨハネ2章8節は、「彼らはイエスの言われたことを行った。」と述べています。そして、それがイエス様の公の場での最初の奇跡となるのです。

 

 ルカ5章1節の冒頭で、イエスはペテロに、網を降ろして魚を獲るように言われます。 ペテロは、彼らが一晩中懸命に働いても何も獲れなかったと抗議します。 彼はおそらくこうも考えています。「イエス様、私はここの漁師です。このラビとしてのお働き以外に、あなたが何かの訓練を受けておられるとしたら、それは大工仕事でしょう。漁の判断は、自分たちのしていることをわかっている(漁師の)私たちに任せておいてくれませんかね。今は真っ昼間ですよ。夜間や早朝の方が、魚がよく喰いつくことは、誰でも知っていますよ。」 しかし、彼はイエスのアイデアを試してみてもいいと——あるいは、少なくとも誰が正しいかをイエスに示す好機だと受けとめます。 そしてその結果が、ペテロの網が破れかけるほどたくさんの魚です。

 

 別の日には、お腹を空かせている大勢の人々がイエスと一緒にいて、全員に行き渡るだけの食糧は到底ありませんでした。 にもかかわらず、イエスは弟子たちに「あなたがたで、彼らに何か食べるものをあげなさい」と言われます(ルカ9章13節)。

 

 弟子たちはおそらくこう考えているでしょう。「え? イエス様、まさか本気じゃないですよね。」 彼らは、およそ一人分の食べ物しかないことをイエスに思い出させます。 それでも、彼らがイエスに言われたとおりのことをして、人々をグループに分け始めると、イエスはどのようにしてか彼らが持っている僅かなものを、すべての人を食べさせるのに十分で、なおかつ残りものが出るほどになさいました。

 

 これらの物語は、福音書の初めの方に出てくるものです。 おそらく3年近くイエスと共に過ごしてきた今、イエスが弟子達にろばを連れてくるように言われた際に、彼らが質問や反抗をする様子が読み取れないのは、多分に重要な何かを意味するのです。村に行って、ろばを見つけ、連れ出し、もし誰かに問われたら、ただ主がお入用なのですと言いなさい。それで大丈夫。 もしかすると、誰かが「本当に?  でも、もし・・・だったら?」と言い始めます。

 

 すると、その誰かが質問を終える間もなく、別の弟子がさえぎってこう言います。 「行動あるのみ!イエス様がおっしゃることをするのだ。馬鹿げたことに聞こえるのはわかるが、結果的にはるかに良い結果になるだろう。これに関して、イエス様をただ信頼しよう。イエス様はご自分が何をしておられるのかをご存知なのだから。」

 

 このような会話を私たちが読むことはないですが、この時点での弟子たちは自分の信仰を進んで行動に移し、イエスがそうするよう導いていると受け取ったことを行なっています。 彼らは、自分たちがそれを理解することや快く感じることが、主要なポイントではないのだと理解し始めています。それは、神様の重要事項リストの一番上に位置するものではないのです。 しかし、彼らが「自分たちの信仰に足を与える」ことを選択するなら、この時に彼らが目にすることができるものをはるかに超える重要性を伴った、神様の偉大なお働きの一部となるのです。

 

 彼らはベテパゲに入り、ろばを手に入れます。 マルコとルカによれは、ろばの所有者は彼らが何をしているのか尋ねます。 弟子たちは、イエスから言われたとおりの返答をします。 マルコは、イエス様がすぐにろばを送り返されますと付け加えたと述べています。 それなら所有者はOKでしょう。 このことがどのように起こるのか?  聖書記者たちは説明しようとしません。 イエス様は神の御子であり、すべてをご存知ですから、このことはイエス様にとって本質的な問題ではないのです。

 

 推測ですが、弟子たちに言わなかっただけで、イエス様が前もって物事を準備しておいた可能性があります。 いずれにしろイエス様は、エルサレムの主要な祭りのために、おそらく年に3回ほどこの地域を訪れます。 たぶん、その村から訪れる何人かの人達に出会い、彼らと知り合いになられて、ろばに気づき、いつか借りてもいいだろうかとお尋ねになったのでしょう。

 

 彼らはきっと、「もちろんです。光栄です。あなた様のご準備が整いましたなら、いつでも立ち寄ってお知らせください。」と言ったでしょう。

 

 見知らぬ人に歩み寄り、ろばを連れて行くということが、どうして良い案だと言えるでしょうか?  おそらく、それを問うのは間違っています。 もし私たちに知る必要があり、また理解ができるなら、神様は教えてくださるでしょう。 神様はなさいませんでした。ですから私たちは、その疑問を、他のとてもたくさんの「知らされていないこと」と共に神様の御手に委ねることで、安心して心休めることができます。

 

 ゆっくり、ゆっくりとキリストへの従順の中に生きることを学んでいるこれらの弟子たちは、一体どんな気持ちでそこに立ち、ろばの所有者たちの目をのぞき込んでいるのでしょうか? 彼らはこれから、私有財産であるろばを所有者たちから連れ去ろうとしているところなのです。たとえ信仰心が育っていても、私は弟子たちが少しばかり違和感を覚えると思っています。私は、彼らが、ヨハネの9章で目に泥をつけたままエルサレムの通りを歩いている盲人と同じような気持ちではないかと想像します。その盲人はイエスに出会いました。イエスは地面に唾をして作った泥を彼の目に塗り、シロアムの池に行って洗うようにと言われました。 これは、解放と自由、健康、そして幸福に関する素晴らしい物語です。 しかし、全部がきれいで、手軽で、快適というわけではないのです。 キリストに従うということ、そこには何かしら私たちを快適な領域の外に追いやるものがあります。人生は私たちに——つまり神様は私たちに——私たちはたくさんの物事を制御できないということを、思い出させる手段を持っています。 信仰にあってキリストに従うということは、このことを受け入れ、私たちが王座に就いているのではないという現実と共に平安に生きることを学ぶことなのです。

 

 しかし、神様がおられます。神様は王なのです。 それこそが良き知らせであり、イエス様がこの世界に来られて宣言し、実演し、さらには世の人々を、主と共にある私たち自身の経験を通して学ぶよう招いておられるということなのです。 クリスチャンである私たちは、その旅を始めました。 聖書の弟子たちはそれを終えるには程遠いし、私たちにもまだ長い道のりがあります。 しかし、私たちはすでに歩き始め、その道が連れて行ってくれる場所を知っています。

 

 神様が皆さんの心に置いてくださった信仰を実践するために、あなたは何をしたいと思いますか?  イエス様がろばに乗られるときに腰を下ろす鞍にするために、喜んで自分の服を差し出しますか? それとも「ああ、この上着はダメです。私の一張羅だから。 

 

 次の機会に差し上げることにします。」と言うのでしょうか。 イエス様を王と称えるために、木から枝を切り落としに行ってくださいますか? ヤシの木の良質で平たい枝なら、イエス様が街に乗り入れるのに、土埃の立たない平坦な道を作ってさしあげられます。それともこう言いたいでしょうか?「今日がどれくらい暑いか知ってますか? こんな気温の日に汗をかくような仕事をするのは、もうたくさんですよ。」

 

 さて、この話が言わんとしていることのポイントが、皆さんにはおわかりですよね?  

私たちがこの世の人々に救いをもたらすキリストのお働きに加わるとき、私たちは自分の人生の最大の意義と目的と充足感を見出します。 キリストの教えに従って生きる日常の生活を歩む過程で、主が私たちを通して働いておられることを発見します。この世に平和と正義と慈しみをもたらすという神様の偉大な物語—―つまり神様の愛による救いの御業の中で、神様は私たち一人一人に役割を与えておられます。

 

 天のお父様は、あなたが行うことのできる仕事をお持ちです。 神様は、あなたがすることは何でも可能であることをご存知です。 何故なら、ご自身があなたにそれができるようにされたからです。 そして、ご自身があなたにできるようにされていないことまでしなさいと言われることは、決してありません。 そのように考えると、神様が何かするように私をお遣わしになるのが、容易なことであろうと難しかろうと、何を気にかけることがありましょうか? もしも神様が備えてくださり、整えてくださり、私に力を与えてくださるなら、どんな役割であっても結局は全く問題ないのです。

 

 神様が私たちにお与えになる特別な役割は、私たちが召命と呼ぶものです。それは仕事を超越しています。それには神様からの呼びかけが必要です。もしも私たちが主にその道を示してくださるよう願い求めるなら、主はご自分の時とその方法によって、私たちがどのようにその中で歩むことができるかを明らかにしてくださいます。  人によっては、もっと多くの技術、知識、資質その他のものが要求される働きかもしれませんが、神様にとってそれらはあまり重要ではありません。 神様は私たちができることの多少に心を打たれたりなさいません。つながれたろばをほどいてキリストのもとに連れてくることは、神様がそのようにあなたを導いておられるのなら、十分以上の意味を持つ仕事です。神様がそうするよう導かれるなら、子育てをして、料理をし、家を切り盛りすることは、神様の目に大きな、大きな価値があります。 職場で他の誰もが嫌がる仕事をすることは、主が導いておられるのなら、私たちの主にとって非常に大切な仕事なのです。 どのような状況であれ、神様のために、神様の導きに従い、神様を礼拝する形として行うなら、神様は皆さんの奉仕を有意義で価値あるものとする道を見つけてくださることでしょう。

 

 うちの娘たちが小さかった頃、私たちの大好きなことのひとつは、感謝祭とクリスマスのディナーを一緒に作ることでした (基本的にアメリカと同じメニューです)。千江子と私は自分たちで作り方を覚えてしまっていたので、ディナーの用意ができるまで待つように子供たちに言いさえすれば、ずっと手早く簡単に作ることが可能でした。 それでも私たちは「今日の七面鳥ディナーを作るのを手伝いたいかい?」と聞くのです。すると、彼女たちの顔はパッと輝きました。 自分たちが一緒にご馳走を作る役割を担うことに、心躍らせたのです。

 

 神に仕えるというのはそういうことだと思います。 弟子たちは、必要に応じて使用するロバについてのメッセージとともに送られます。主はロバを必要とされています。 イエスはロバが必要ですか? はい、千恵子と私が、休日の夕食を作るのを手伝ってくれる小さな娘たちが必要だったのと同じように。 パウロはアテネの哲学者たちに、ユダヤ・キリスト教の神について語っています(使徒言行録 17:25)。 そうでなければ彼らは持っています。

 

 神様に仕えるとはそのようなことだと、私は思います。弟子たちは、必要に応じて使用するろばについて伝言「主がご入用です」を携えて遣わされます。イエス様がろばを必要とされる?  そうです。千江子と私が休日のディナー作りを手伝ってもらうために、小さな娘たちを必要としたのと同じです。 パウロは、アテネの哲学者たちに、ユダヤ―キリスト教の神についてこう語っています(使徒17章25節) 『また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。 神は、すべての人に、いのちの息と万物とをお与えになった方だからです。』  にもかかわらず、神様はご自身を制限することを選択されました。そして、ご自分の御子を、場所と時間の制限を伴うこの世界に住まわせるために、人としてお遣わしになるのです。 イエス様は全能の神の御子であったのに、私たちと同じように、周囲の人々の支援と協力を必要とする生き方を選択されました。 イエス様は私たちに、ご自身と共にある人生の祝福に加わることを望んでおられます。 イエス様は私たち一人一人に、ご自身の救いの物語の中で担うべきぴったりの役割を与えてくださいます。それは、私たちが期待したもの、あるいは自分のために設定した人生の計画とは違うかもしれません。しかしそれは、はるかに偉大なこと—―天地のすべてを統べ治めるお方であり、すべてを知り尽くし、すべてに愛を注がれる神様によって作られた基本計画なのです。

 

  イエスの弟子たちがろばを探してベテパゲに足を踏み入れたとき、彼らはおそらく、旧約聖書の預言の成就に一役買うなどとは思ってもいなかったはずです。 しかし、それは紛れもなく神様の指示の下で起こることです。 ある部分彼らの行動を通し、神様は世界の人々に救いをもたらすための偉大な計画を達成し続けておられるのです。  神様の御言葉を学ぶこの時間が終わりに近づいたところで、私たちもまた、神様の王国のために、私たちと神様の世界にとっての最上の夢において神様が持っておられるあらゆる手段の中で用いられますよう、お願いしましょう。

 

  賢明で愛に満ちた父なる神様、あなたがご自分の約束を守ることに誠実であられ、素晴らしいご計画を実行する力をお持ちであることを、私たちは告白します。 毎日がなお一層、日々の信仰の行いの中で着実にあなたに従うことを学ぶものでありますよう、私たちを助けてください。 「弟子たちは行って、イエスの言われたとおりにした」と読みました。「オープンドアのメンバーが行って、イエスが彼らに言われたことを行った」  神様、このことが、私たちの真実となりますよう、助けてください。 エルサレムの人々は、王であるキリストを称えるために上着を差し出し、枝を切りました。 キリストが私から受けるに値する栄誉を受け取ってくださるために、私が差し出せるものは何なのか?という問いを、あなたに尋ね、答えを見出すことができますよう、助けてください。

 これが私たちの祈りです。 御旨のままにお答えくださいますように、祈ります。 

親愛なる主、イエスの御名によって。 アーメン。

 

参考

 

Bible Study Tools. (2022). Retrieved August 20, 2022 from https://www.bible studytools.com/

Heitzig, S. (July 12, 2018). Matthew 21:1-32. Calvary Church with Skip Heitzig. Retrieved August 20, 2022 from https://www.youtube.com/watch?v=   HOQ11iv1IfU

Heitzig, S. (April 11, 2022). On the Road to Jerusalem. Calvary Church with Skip Heitzig. Retrieved August 20, 2022 from https://www.youtube.com/watch?   v=W_DYfwMCDpY

Smith, W. (December 8, 2020). MinistryWatch. Ministry Update. Mail List. wsmith@ministrywatch.com

Yale University. (n.d.). New Testament Maps. 107a. Jesus’ Ministry in Galilee and Journey to Jerusalem. Retrieved August 14, 2022 from https://yalebible study.org/resources/new-testament-maps/