父と豊かな関係を築く

2022年6月12日主日礼拝「父と豊かな関係を築く」Ⅰヨハネ3:18~23 佐々木俊一牧師

■Ⅰヨハネにはイエス・キリストを救い主と信じ受け入れた私たちが、父なる神様と豊かな関係を築くために大切な事柄が書かれてあると思います。聖書では、神様と私たちの関係をしばしば父と子の関係をもって語っています。実際に、神様は私たち人間を造られた創造主なるお方ですから、神様は私たち人間の産みの親であるわけです。 産みの親と言うと、どうしても母親の存在を無視することはできません。実際に産みの苦しみをするのは母親だからです。しかしながら、聖書では、母なる神とは言わず、父なる神と言うのです。

 では、神様がどのようなお方なのかを語る時に、聖書にはまったく母親的な側面は語られていないのでしょうか。実は、母親的な表現をもって神様の事が語られている箇所が何カ所かあるのです。たとえば、マタイ23:37にこう書かれています。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」イエス様が言われたことばです。めんどり、つまり、母親の立場で自分の子どもたちへの愛を表しています。また、イザヤ49:15~16ではこのように言っています。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」この箇所には母親の子に対する強い愛が表されています。そして、神様の愛はそんな母親の愛よりまさる愛であることが語られています。旧約時代に愛する人の名前を手のひらに刻む習慣があったようです。名前を刻むその時に、きっと、手のひらには血がにじんだのではないでしょうか。それはまた、血の契約のような強い絆を思い起こさせますし、さらに、イエス様が両手に打たれた釘の跡のようにも思わされます。このように、旧約聖書にも新約聖書にも、神様の愛が子に対する強くて優しい母親の愛として表されている箇所がいくつかあるのです。

 神様は聖書では父なる神と言われているゆえに、威厳があって、ちょっと恐いイメージであるために近寄りがたいお方としてとらえられがちです。しかし、本当は、優しくて、子ども目線にまで低くなって愛してくださるお方なのです。そのことがわかるならば、神様ともっと深く親しい関係を持つことが出来るのではないかと思います。

■18節~19節 ヨハネは信者に向けて、「子どもたちよ」、と言って呼びかけています。この時、ヨハネはかなりの高齢だったと思われますが、ヨハネにとっては多くの信者が子どもや孫のような年齢であったでしょう。しかしながら、そういう意味だけではなくて、3章1節と2節からもわかるように、神の子どもと言う意味でもあるのです。つまり、「子どもたちよ」というヨハネの呼びかけは、父なる神様からの呼びかけでもあるのです。「子どもたち」とは、イエス・キリストをとおして神様を信じる者となった人々であり、イエス・キリストを信じる者はみな神の子どもなのです。

 「神の子どもである私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」とヨハネは勧めています。私たちは、神の子どもとして、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛したいと願っていると思います。また、そうしようと努めていると思います。そして、そのように努めて神様に従っている人々は、平安な気持ちによってその思いは守られています。

 私たちはお互いにこのような良い行ないを尊ぶべきですし、目標とすべきです。しかし、ヨハネは、ここで、救いのために良い行ないが必要だと言っているのではないことを理解しておきたいと思います。救いは、イエス・キリストの十字架を信じる信仰によるのであって、良い行ないよるのではありません。良い行ないは、イエス・キリストを信じた結果、成長の過程で実として現われてくるものです。神様に従って良い行いを重ねていくうちに、確かに私たちは成長して良い実を結ぶことになります。信仰はますます強められて安定した歩みとなっていきます。私たちはそのことをとおして、ますます喜びと平安を得ていくことでしょう。

 また、この箇所は神様から自分に向けて語られたことばとして受けるとることが大切です。このことばを自分経由で他者に向ける時、それは、自己中心的な人を裁くための道具になってしまいます。気をつけなければならないところです。

■20節 「たとい自分の心が責めてもです。」とあります。「責める」というのは、私たちの嫌いで苦手なことではないでしょうか。責めることも責められることも、あまり体験したくありません。常に自分が正しいと言う立ち位置にいるならば、私たちはつい他人を責めてしまう傾向にあると思います。しかし、自分が責められると、何で自分が責められないといけないのかと、怒りと共に、自分が正しいことを証明するために一生懸命にその理由を考え始めます。

 ずっと以前のことになりますが、このようなことがありました。仕事に行こうとしていたときに電話がかかってきたので、取りました。すると、よく電話をかけてくる人で、話を聞いてほしかったようです。私はもう仕事に行かなければならないので、今は聞いている時間がないからまた今度にしてくれるように言いました。そうしたら、その人は少し気分を害したようで、「わかりました。」と言って電話を切ってしまいました。私には10分くらいなら話を聞く時間はあったのですが、どうせまた同じ話を延々とするのだろうと思って断ったのです。しかし、断った後、10分でも話を聞いてあげるべきだったかなあと思い、すぐにその人に電話をかけなおしました。そして、時間を指定して、その時間に電話するように言いました。ところが、その人が、「もういいです。」と言うものですから、せっかく電話してあげたのにと思いつつ、私は電話を切りました。何だかうまくかみ合わないような、そんな出来事でした。私はその人に対して、もう少しこちらの事情をわかってくれたらなあ、と正直思いました。また、逆に、10分でも話を聞いてあげていたらこんなことにならなかったのにという後悔の気持ちもあり、自分の対応のまずさに自分を責める気持ちにもなりました。

 自分を責めたり、他人を責めたりというのは、日常生活の中で誰でもあるのではないでしょうか。夫婦の間でもあります。人はお互いに完全ではありません。いろいろな弱さがあり、いろいろな失敗があります。一生懸命やってもうまく行かないことはよくあることです。自分を責める気持ちや他人を責める気持ち、そんな気持ちがそのままになっていないでしょうか。積もり積もっていないでしょうか。責めても、責められても、居心地の良いものではありません。

 しかし、私たちが自分や他人を責めたとしても、また他人から責められたとしても、変わらない事実があります。それは、神の子であると言うことです。イエス・キリストを救い主として信じている限り、私たちの神の子としての立場は揺り動かされることはありません。20節に、「なぜなら、神は私たちの心よりも大きく」とあります。これはどういうことでしょうか。それは、私たちは自分を責めたり、他人を責めたりしますが、神様は責めたりはしません。イエス・キリストの十字架のゆえに、神様はもう責めたりしないのです。神様は私たちの心よりも比べられないほどに大きいので、よほどのことがない限り、責めるようなことはしません。私たちがどんなに不十分であっても、キリストにあって十分ですし、私たちがどんなに不完全であっても、キリストにあって完全なのです。神様はそのように私たちを見てくれています。ですから、たとえ私たちが責められることがあったとしても、神様が私たちを守ってくださることを覚えたいと思います。

■21節「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができるのです」とあります。このところは、20節と矛盾しているように思えるところです。20節のことばからすれば、「たとい自分の心が責めたとしても、大胆に神の御前に出ることができるのだ」というふうに言えると思います。けれども、21節には、「もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができるのだ」と言っています。どこか矛盾しているように思えないでしょうか。ですが、信仰によるならば矛盾していないのです。たとえ自分の心が自分を責めたとしても、その気持ちに負けないで神様の御前に出て行きましょう。その気持ちに負けないで神様に祈りましょう。私たちはキリストの犠牲のゆえに神の子とされているのですから、自分を責める心を克服して神の御前に出ることも、祈ることもできるのです。私たちは、キリストにより、神様はもう誰も責めたりはしないと言うことを認めなければなりません。

■22節~23節 「(もし自分の心に責められなければ、)また求めるものは何でも神からいただくことができます。」これが本当だったらすごいことです。求めるものは何でも神様からいただくことができるなんて、すごいと思いませんか。聖書が言っているのですから、これは本当なのです。

 次に、こう書かれています。「なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。」と言うことは、私たちが神様の命令を守り、神様に喜ばれることを行なっているなら、私たちが求めるものは何でも神様からいただくことができると言うことです。では、神様の命令とは何でしょうか。神様に喜ばれることとは何でしょうか。22節に書いてあります。一つ目が、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じることです。そして、二つ目が、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。一つ目は、自信をもってクリアしています、と言えるのではないでしょうか。私たちはイエス・キリストを救い主と信じています。二つ目はどうでしょうか。キリストが命じられたとおりに、私たちは互いに愛し合っているでしょうか。ここで大事なことは互いに愛し合いなさい、と言うことです。愛しなさいではなくて、愛し合いなさいです。特定の人々だけが愛することを求められるならば、その人々はいつか必ず疲れ果てて倒れてしまうでしょう。人間の場合はお互いに愛し合うことで、お互いを支え合うことが出来るのです。

 私たちは、互いに愛し合いなさいと言う神様の命令を知っていますし、とても重要なことであると思っています。ですから、少なくとも、互いに愛し合うように努めようとしています。しかし、力が及ばないこともありますし、不十分と感じることもあります。私たちは今、この地上においてはお互いに愛し合うことを練習しているのだと考えるのが良いと思います。家庭や教会というところは社会のどの場所よりも、そのことができる場所であると思います。今日は、特に、責めないことと赦すことを練習するようにお勧めしたいと思います。責めることがあったとしても、できるだけ短く、言葉は少なめにしましょう。責め続けるのは、やめましょう。次の日まで持ち越すのをやめましょう。

 そして、次に、赦すことです。赦せない思いがあったとしても、その思いを持ち続けるのは、やめましょう。できる限り早くその思いから離れましょう。次の日まで持ち越さないようにしましょう。お互いに否定的な感情をいつまでも持ち続けるなら、神様の祝福を失うことになります。怒りとか恐れとか苦々しさなどの感情を次の日まで持ち越してはいけません。聖書にもそう書かれています。そうならないように、お互いに歩み寄って協力し合うことが大切です。

 そして、次に、相手にあまり求め過ぎないことです。人にではなくて神様に求めましょう。だからと言って、まったく人に求めるな、ということではありません。程度の問題です。私たちは、人には限界があることを知らなければなりません。けれども、神様には限界がありません。ですから、求め続けるなら、神様に求め続けましょう。もしも、人に求め続けるなら、人はそのうちに倒れてしまいます。人よりも神様に求めましょう。そうすることによって、父なる神様との間に堅固な親しい関係を築くことになります。人と良い関係を持続したいのなら、まずは、神様との関係をしっかり固めることです。それは、私たちの信仰を建て上げ、成長するための大きな力にもなります。

■終わりに、マルコ10:13~16をお読みしたいと思います。共観福音書のマタイとルカにも同じ記事がありますが、マルコの福音書が一番イエス様の子どもたちへの優しさが伝わってきます。それでは、お読みします。

「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らを叱った。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。』そして、イエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」

 この所を読んで、イエス様の価値観やイエス様の人柄に触れることができます。イエス様は本当に子どもたちのことを大事に思い、子どもたちのことが大好きなのです。私たちはイエス様を通して父なる神様がどのようなお方かを知ることができます。ぜひ、イエス様を知ることを通して、もっともっと父なる神様を知り、父なる神様と豊かな関係を築いていきたいと思います。それでは、お祈りします。