散らされた羊たちと復活の主

2022年4月17日イースター礼拝 メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

ルカの福音書24章1〜12節

「散らされた羊たちと復活の主」

 

 

 皆さん、イースターおめでとうございます! オンラインまたは対面のどちらで参加されているとしても、神様はあなたと共におられます! そのことをお知らせするために、今回も私はここにいます。キリストの復活を通し、キリストはご自身が生きておられる主であることを明らかになさいました。 死でさえもキリストを止めることはできません。 ですから、私たちには喜ぶべきたくさんのことと、日々力強い希望の中に立つ多くの理由があります。 それこそが、今もいつまでも、私たちが神様と、またお互いと共に分かち合う素晴らしい人生の贈り物を祝い、神様を賛美するためにここにいる理由です。

 

 イースターの物語は、神様とその御子イエス様がいかに素晴らしいお方であるかを明らかにしてくれますが、キリストを取り巻く人々に目を向けるとき、皆さんがすぐに受ける印象は栄光とはほど遠いものになります。キリストと最も親しい友人や内輪の弟子たちの中にさえ、単に疲弊し困惑しているだけではない人々を見つけるでしょう。 彼らは、ほんのちょっと前にしていたキリストを信じるということに、悪戦苦闘しています。 その上、彼らはキリストの苦難の時に共にいることさえできないのです。

 

 先月の英語礼拝で、私たちは聖書の神様が、ずっと前にお伝えになった真の預言を実現させるために起こる確かな出来事を、その時々でどのように用いられるのかを理解し始めました。 たとえ人々が選ぶ言動が本当に邪悪なものであっても、神様がご自分の民のために初めからずっと計画なさっていた癒し、平和、自由—つまり救い—をもたらすために神様が用いられる手段となるのです。

 

 私たちが今日再び聞いたイースターの物語の出来事の中で、神様は御民の信仰が弱いときですら、ご自身が主であり、統べ治めているとお示しになっているのを私たちは知ります。 神様の役割は同じ—すなわち死そのものさえも含むすべてを支配しておられるのです。 しかし、私たちの立場は少し異なります。 前回、私たちは戦争や病気などを含む、私たちがいる世界の悪と苦悩に焦点を合わせました。 しかし、キリストの復活の物語に何度も繰り返し登場するひとつのことは、私たちが信仰生活の中で重大な躓きを経験するときに、キリストがご自身の民とどのように関わり続けておられるかです。 皆さんがすでに分かっておられるように、核となるメッセージは、私たちが不信仰なときにも神様は統治者であられるということです。  私たちの信仰が足りないときであっても、キリストは生きておられる主です。 キリストは私たちの信仰の不出来にもかかわらずお働きになることができます。またその時々においてご自身の誠実さを示し、この世界に救いをもたらすために、それらのことを通して働くという選択をされることすらあるのです。 それでは、このことがどのように起こり、何を意味するのか、また私たちが信仰における苦闘の時を経験する際に助けとなり得るものは何かを、もう少し詳しく探索してみましょう。

 

 マタイとマルコの福音書双方にあるイースターの物語(マタイ26:31、マルコ14:27)によれば、殺される前の晩、イエス様は、旧約聖書のゼカリヤ書13章7節にある神様がお授けになった預言について、弟子たちに思い出させます。  『剣よ、目覚めて、わたしの牧者に立ち向かえ。わたしの仲間の男に立ち向かえ—万軍の主の仰せ。牧者を打て、すると、羊の群れは散らされる。わたしは怒りの手を小さな者たちに向ける。』

キリストはご自身に従う者たちに、これがまさに起きようとしている—つまりご自身が連れ去られて苦しめられることになり、彼らが自分を見捨てるであろうことを告げます。 ペテロは、翌朝が明ける前に、イエス様を知っているのを三度否定することになります。 彼らは自分たちがそのようなことをしてしまうほど信仰が弱くて、それほどまでに臆病だとは信じません。 マタイ26章35節に、『ペテロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」 と言った。弟子たちも皆、同じように言った。』とあります。

 

 しかし、それは結局、彼らが自分たちの信仰を過大評価しているのであり、その上彼らの信仰の上にすでに迫りつつある攻撃の威力を過小評価しているということが分かります。ゲツセマネの園で、キリストがどんな様子で自分と共にいて見守るようにと弟子たちに頼まれたか(マタイ26章とマルコ14章)を、私たちは読みました。しかし、キリストが十字架上で起ころうとしていることを思いながら、深い苦痛の中で血の汗を滴らせている間、彼らは繰り返し眠りに落ちます。彼らの信仰の弱さは、宗教指導者たちがそこに到着してイエス様を逮捕したとき、一層目に見えて明らかになります。マルコ14章50節は、『すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。』と述べています。 マルコは、そのうちの一人が裸で逃げたと付け加えています。彼が唯一身にまとっていた亜麻布を、群衆が掴んで捕らえようとしたときのことです。それが勇敢な信仰であるようには聞こえませんよね。事実、イースターの物語のさまざまな解釈を通して見ても、信仰の躓きは疑うまでもないようです。その大部分は恐れに通じていると思われます。 

 

 ペテロは距離をとりながらでもイエス様に付いて行くだけの勇気がありますが、間もなく予言されていたとおりにイエス様を知っていることさえ否定しています。 キリストの死の描写では、十字架のふもとでイエス様と共に留まる女性たちがいますが、私たちがそこで見つける男性は明らかにヨハネ一人だけです。 他の弟子たちはどこにいるのでしょう?  聖書の著者はすべての詳細を記してはいませんが、イエス様の死が彼らに課している信仰の試験に、彼らが惨めに落第していることが次第に明らかになります。 

 

 二日後のこと、ルカは本日の聖書の朗読箇所において、数名の女性が墓に行き、イエス様のご遺体がなくなっているのを見つけ、天使からイエス様が生きておられると聞いたと記録しています。 彼女たちは起こっていることのすべてを理解しているわけではありませんが、少なくとも残りの弟子たちのところに行き、自分たちが見聞きしたことを伝えます(1〜8節)。 そこで私たちは、イエス様の直弟子たちがこの時点で持つ信仰の欠乏を露呈する、期待外れの言葉を目にすることになります。 キリストが生きているという素晴らしいニュースを耳にしてもなお、彼らにはそれを受け取る準備ができていないのです。  『しかし、使徒たちには、この話がまるで馬鹿げたことに思われて、女たちの言うことを信じなかった。』とルカは述べています(11節)。 ペテロができる最善のことは墓に駆けつけることです。その場所でペテロは、墓が空っぽで、イエス様の衣服がそこに残されているのを見ます。 にもかかわらず、自分が持っていると主張していた熱い信仰に戻るのではなく、「この出来事に驚きながら家に帰った。」(24章12節)とあります。 ここでもまた、自身が栄光に包まれているとはちょっと言い難い一人の弟子がいるのです。 イエス様の見習い弟子たちは、自分たちの師に忠実に従う者のようにはとても見えません。

 

 物語を続けます。ルカが語るには(24章13節)、二人の弟子が、彼らだけでエルサレムからエマオに向かって歩いています。 その同じ日に、弟子たちの一団は鍵のかかったドアの向こうにいて、宗教指導者に見つかってしまうのを恐れて隠れています。 トマスはその日彼らと一緒ではありません。(彼には双子の兄弟がいます。ですからトマスは、イエス様の弟子たちを傷めつけようとする人々に自分と間違えられてしまう危険性があると、その兄弟に警告しに行っていたのではと想像できます。)

 

 これはすべて、 羊飼いが打ち倒された際、散り散りになっている羊たちの描写です。 弟子のだれ一人として、物事がこのような成り行きになるのを意図してはいません—とりわけユダにはないでしょう。 理由はどうあれユダはイエス様を裏切り、実際に起こっていることを目撃した後に、自ら命を絶ちます。 にもかかわらず、すべての混乱―キリストに従う者たちが、自分たちは決して経験しないだろうと思っていた信仰の躓きさえも通して、神様は働いておられます。 神様は、はるか昔になされた羊たちの散乱に関する預言の成就をもたらしておられるのです。 神様は、その舞台の裏側から、ご自分が今もなお統括しておられることを私たちに思い出させてくださいます。 神様は今でも、ご自身が長きに渡って備えて来られた偉大な計画を達成するために、人々の行く道を指揮しておられます。 ご自身の民の弱さを通して、ご自身の強さをあらわされます。彼らの躓きを通し、罪や死を超えたご自身の勝利に光を当てられます。 彼らが抱いていた見当違いの期待や誤った願望による死を通して、神様は新しい命の贈り物をもたらしてくださるのです。

 

 それがイースターの栄光です。 ご自分の民の弱さにもかかわらず、またそれを通してなお、御力のもとに統治されるその御業のゆえに神様を賛美しましょう。 私たちは明らかに偉大な者などではありませんから、神様が受けるにふさわしい名誉を我がものとしてはなりません。 それは紛れもなく神様に属するものです。

 

 しかし、それだけではありません。 神様は、単に散らされた羊たちを通して何か良いものをもたらされるだけではないのです。それらの羊たちを連れ戻すためにも働かれます。 私が興味を引かれるのは、弟子たちがさまざまな形で体験している信仰上の躓きの真っ只中にあっても、神様がいかに彼らを見捨てずにおられるかを知ることです。 神様は彼らといることを終わりにはなさらない—それは断じてないのです。 たとえ恐れと混乱と信念の喪失のこの時にあっても、神様は働いておられます。 神様は、ご自分の民がこの時点で持っていた以上に深くて偽りのない信仰の絆をつなぎ直し、より強く形づくっておられるところなのです。

 

 たとえば、ヨハネの福音書20章は、墓に駆けつけた一人の弟子が、墓が空であるのを見て信じるようになったと伝えています。 それは彼がその瞬間までは信じていなかったことを強く示唆するものです。 著者は 『彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。』と付け加えています(9節)。  その同じ章の後半で、私たちは、弟子たちが隠れ続けていた場所で、彼らの前に目に見える姿でイエス様が現れるのを見つけます。 それは、この章の前半でイエス様がマグダラのマリアに現れたのとよく似ています。 弟子たちは今や目で見て、イエス様が生きているのを信じています。ですから彼らは、トマスが遅れて戻って来るときに、女性たちが彼らに話したのと同じように、そのビッグニュースを彼に伝えることができるのです。 トマスは疑い深い人という評判があります。(私たちは今でも「疑いのトマス」という言葉を使います。) しかし本当のところは、弟子たち全員が、自分の目で見るまでキリストが生きていることを疑っているのです。

 

  彼らが信仰の弱さを明らかにした際に、彼らを諦めないイエス様の姿を見ると、とても安堵することに気づきます。 それは、わたし自身がイースターの物語のどこにいるのだろうと考えるからです。 私たちにとって、神様が聖書を通しておっしゃりたいことを真に理解するための最良の方法の一つは、聖書を読みながら「この物語のどこに自分自身が見えるだろう?」という問いを心に留めておくことです。 この場合、私は弟子たちの中に自分自身を見ます。 自分の先生であり、師匠である主が拘束されて殺されたのを見ることに、自分が聖書の弟子たちとほとんど同じ反応をするだろうと、切実に感じます。言葉を替えるなら、私もまた、信仰のなさをはっきり証明してしまうでしょう。たとえ私が本当に信仰によって生きる人でありたいと望んでいるとしても、イエス様の親友であり、イエス様を直接知る最も近しい信徒たちでさえ、物事が険悪な状況になった時にはイエス様を見捨ててしまうのなら、どうして私はそうならないと言えるでしょう。 もし私がそんなことを言ったなら、「何があっても」イエス様と一緒にいると主張した一方で、後に最大の失格者になってしまったペテロのすぐそばに身を置くしかなくなるでしょう。イースターの物語に関してはとても多くの違った見方がありますが、信仰の弱い弟子たちへの神様の驚くべき忍耐と寛容な関わりは、私が今年最も感謝しているひとつです。

 

 弟子たちが信仰の危機に見舞われるとき、イエス様は彼らにどう対応なさるのでしょうか?  もう少し詳しく見てみましょう。 イエス様はとても優しい方ですが、それは彼らへの応援を表明することにおいて、いつも穏やかで肯定的であるという意味ではありません。 いや、エマオに向かって歩いている二人の弟子たちに、イエス様はこのように言っておられます(ルカ24章25〜27節)。

 

「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、キリストは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」 そしてモーセとすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。

 

 その日の終わりに、イエス様がより大きな弟子の集団と共におられるとき、イエス様はほとんど同じようなやりかたで彼らに対処します(ルカ24章38節)。 つまり、イエス様は彼らを叱責するように見え、そのあとでご自分が実際に生きておられることをとてもはっきりとお示しになります。  『なぜ取り乱しているのか。どうして、心に疑いを抱くのか。私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。』 次にイエス様は、彼らに授けて来られた教えをお続けになります(24章44〜48節)。 

 

 「私がまだあなたがたと一緒にいた時に語って聞かせた言葉は、こうであった。すなわち私についてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてあることは、必ずすべて実現する。」 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に述べ伝えられる。』あなたがたはこれらのことの証人である。」

 

  弟子たちが信仰において成長していないとき、イエス様は彼らに挑みます。 たとえば、マルコ16章14節(ニュー・インタナショナル・バージョン)は、「イエスは、彼らの不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」と述べています。  イエス様は、「…天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。」(マタイ5章48節)という基準を引き下げることはなさいません。 しかし、イエス様は現実的であり、彼らがこの理想に添えないことを知っておられます。そこでイエス様は、彼らが失敗してしまうときは赦しを受けること、そして学ぶこと、成長すること、そしてふさわしい者となることにおいて前進するように教えておられます。つまり、 イエス様は、恵みによって生きることを—完璧な人間ではないけれど、完成に向かって旅する者として生きることを、彼らに教えておられるのです。それは彼らの信仰の完成を含みます。彼らはいつの日か、天国でそれに至るでしょう。

 

 ご自分が天にもどって行かれるその時まで、イエス様は教え続け、弟子たちは信仰において成長を続けます。 マタイは彼の福音書の28章16〜17節で、『さて、11人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。 しかし、ある者は疑った。』と述べています。

 

 彼らの未熟さは消えていませんが、彼らの師としてのキリストの忍耐と知恵は、いつでも彼らの弱さより大きいのです。 ヨハネの福音書の最後で、主はペテロをご自分の信徒集団のリーダーという立場に戻されました。人生の後半で、ペテロは新約聖書の一部となる二通の手紙を書くことになります。その手紙で彼は、イエス様が肉体的にこの世界におられたときには全くなかった、深くて豊かな信仰を見せています。 たとえば、ペテロの手紙第一の1章3節で、彼はローマ帝国のさまざまな教会の人達に手紙を書き送っています。『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自身の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。』とペトロは書きます。彼らがイエス様の信徒となることで迫害に直面している時には、彼らを信仰にあって励ますために手紙を書いています。 ペテロもまた、キリストとの関わりによって迫害を受けていました。教会の伝承では、ペテロはのちにそのことのために十字架につけられましたが、自分がキリストと同じ方法で殺されるのにふさわしくないことを示すため、逆さ磔で処刑するよう求めたとされています。 それは、私たちが福音書の中に見る、びくびくした自称イエス様の弟子とはまるで違う人のようです。

 

 ヤコブは、師であるイエス様が捕らえられて十字架に送られたとき、起こりうる苦難から逃れることを選びました。 しかし、彼が復活したキリストに仕える年月を過ごし、ヤコブの手紙を書くときには、その経験に基づいて、このように記すことができています。(ヤコブの手紙1章3~4節)『信仰が試されると忍耐が生まれることを、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、何一つ欠けたところのない、完全で申し分のない人になります。』 生けるキリストは、はるかに深く、より強い信仰を、ヤコブの中で成長させてくださいました。

 

 ヨハネもまた、彼の手紙を書き、ヨハネの黙示録を記す頃には、大きく成長しています。 キリストが逮捕された際に逃げ出した人物から、自分の信仰のために喜んで苦しむという献身を見せるまでになっています。 彼は、イエス様のメッセージを広めるという働きに対する罰を受けた囚人として送られ、離れることのできないパトモス島から、ヨハネの黙示録を書きました。 キリストの死はヨハネに、彼がどれほど愛されているかを気づかせ、彼は残りの人生をその愛に応えるかたちで生きたいと望みます。ですから、彼はヨハネの手紙第一4章10〜12節で、このように書き送っています。

 

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 

 今年もまたイースターを祝うにあたって、ここまでにお話ししたすべてをまとめると、すべてのこと―罪や死さえも支配しておられる命の神様に、私たちは栄光を帰します。 たとえ私たちの信仰が弱いときでも、神様は完全に統制しておられます。そして、神様がそのようなお方であるがゆえに、私たちは信仰の人になれるよう助けを求めて神様の御許に行くことができます。まだ完全ではないけれど、神様の驚くべき恵みに依り頼みながら日々歩むにつれ、もっと豊かに、さらに深く成長させてくださる神様に感謝します。私たちをより深い信仰へと導いてくださるよう、今、神様にお願いしましょう。

 

 今も生きておられる主よ、私たちを包み込むあなたの愛の力に感謝します。私たちが忠実でないときでも、あなたが私たちに誠実であり続けてくださる有り様に、その愛を見ます。 私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれ、永遠にあなたと共に生きる道を開いてくださいました。 すべてのものの中で最も素晴らしい贈り物、あなたご自身とあなたと共にある永遠の命の贈り物のゆえに、あなたを賛美します。一層高まるあなたへの信頼の中で生きるよう、私たちの生活のあらゆる部分において導き強めてくださることで、私たちを助けてください。これが私たちの祈りです。イエス様のお名前によって。 アーメン。