神様の愛はどれだけ大きいのか?

2022年1月23日主日礼拝「神様の愛はどれだけ大きいのか?」エペソ2:4~9

佐々木俊一牧師

■私の母が肺腺癌を患って急激に心身が衰弱してしまいました。11月の初めまでは、自分のことはほとんど自分でできていました。高齢者施設から出ているバスに乗ってお店や銀行に行ったり病院に行ったりしていました。肺腺癌が進行した結果、体力も記憶力も急激に低下してしまったようです。ATMで預金を引き出すことは母にとって簡単なことでした。でも、11月の終わりにはもうまったく暗証番号を思い出せなくなっていました。何度も間違えてしまったために、ロックがかかってしまい、現在、引き出せない状態です。なので、暗証番号の照会をお願いしているところです。郵送されて来るまで2週間かかるそうです。必要があってお金を引き出したいのですが、正しい暗証番号を入れなければ預金を引き出すことはできません。

 また、現代の社会ではインターネットをとおしていろいろな便利なサービスを受けることができます。しかし、それを利用するにはIDとパスワードを登録しなければなりません。そして、もしも、自分のIDやパスワードを忘れてしまったなら、そのサービスを受けることができなくなってしまいます。間違ったIDやパスワードでは、何度繰り返しても拒否されてしまいます。たとえ一生懸命に100回繰り返したとしても、絶対にその熱意と忍耐を認めてくれはしません。間違ったIDやパスワードではそのサービスを受けるためのドアを開くことは出来ないのです。そのドアを開くためには、正しいIDとパスワードを入れなければなりません。

 救いにも似たところがあります。神様には神様のやり方があり、道があるのです。人が自分で考え出したやり方では受けることは出来ません。それでは、そのやり方はどこにあるのでしょうか。それは、神の啓示の書である、聖書にあります。神様はすべての人にそのやり方を知ってもらうために忍耐深く待ち続けて来ました。そして、今も待ち続けているのです。救いを受けるための鍵は、イエス・キリストです。ヨハネ14:6に、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とあります。

 神様が愛だと言うならば、どんなやり方でも受けいれるべきでなないだろうか、とある人は言うかもしれません。私はそれについては何とも答えようがありません。ただ、確かなことは、聖書には、神は愛である、と書かれてありますし、また、イエス・キリストを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはありません、とも書かれてあります。神様は愛であり、神様はすべての人を無条件で愛しておられます。しかし、神様の救いはイエス・キリストを通してでなければ受けることができません。そこには、イエス・キリストを通してでなければどうしても解決できない霊的な問題があるのだと思います。どんなに神様が人間一人一人のことを愛していたとしても、イエス・キリストというパスワードを私たちのうちに刻まなければ、神様の与えようとしている救いへのドアを開くことはできないのです。

 今日は神様の思いと人の思い、神様の考えている愛と人の考えている愛、両者の間にある違いやずれについて少しでも気づくことができればと思っています。それでは、今日の聖書箇所を見て行きましょう。

■4節~6節 「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、共に天の所に座らせてくださいました。」

ここにあるように、やはり、神様は愛のお方です。神様の愛は私たちの想像をはるかに超えています。私たちが思う以上に、神様の愛はずっとずっと大きな愛なのです。罪の中に死んでいた自己中心の罪深い私たちですが、そんな私たちのことをあわれんでくださり、私たちの罪を豊かに赦してくださいました。そして、これからもずっと赦してくださいます。

 罪によって神様から遠く離れてしまった私たち人間は、長い間、霊的に死んだ状態にありました。その状態は、人類に肉体の死をもたらしました。そのような状態にある私たち人間のことを神様は深くあわれんでくださっています。キリストが十字架にかかり、その死によって私たちに代わって罪の代価を支払ってくださいました。そして、キリストの復活によって死の力は打ち砕かれ、霊的に死んだ状態から霊的に生きた状態へと回復される道を与えてくださいました。6節に、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とあるように、キリストを救い主として信じる者は、永遠のいのちを受けてキリストと同じように復活し、キリスト・イエスとともに天に居場所を与えられ、いつまでも天の御国に住むことができるようにしてくださったのです。

 私たちは罪の中に死んでいた罪深い者であるにもかかわらず、イエス・キリストの十字架のみわざのゆえに、こんなにも素晴らしい救いを与えられたのです。これは、私たちの行ないや能力によって勝ち取ったものではありません。完全に、神様からの恵み、贈り物なのです。

■神様がどんなに大きな愛のお方であるのか、どんなにあわれみ豊かなお方であるのか、そんな神様の恵みを声高らかに賛美していた旧約時代の人物と言えば、それは、ダビデしかいません。ダビデは、神様は愛のお方であり、あわれみ豊かなお方であり、恵みに富んだお方であることを知っていました。それは、ダビデの心がいつも神様に向かい、神様と深く交わっていたからです。詩篇51篇を見てみましょう。先週、バリーさんが詩篇51篇からユースメッセージを語ってくれました。今日も同じ箇所を見てみたいと思います。

 51篇の初めに、「指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来た時」とあります。これは、ダビデが犯してしまった罪のことを言っています。この罪を犯す前までは、ダビデは神様と人との前にいつも正しく歩んでいました。なのに、ダビデは恐ろしい罪を犯してしまったのです。ダビデが犯した罪は、現代の社会においては裁かれてもおかしくない犯罪です。どんな言い訳をしたとしても、絶対に許されることではありません。

 ダビデは、夫のある女性と関係を持ち、子どもができてしまいました。そのことをごまかすために数々の偽装を企てましたが、結局うまく行きませんでした。そのため、最終手段として、その女性の夫を激戦地へと送り、再度偽装によって戦死に見せかけて殺したのです。それは計画的な犯罪でした。その事実を知っているのは数人のダビデの側近だけでした。しかし、神様はそのことを見ていました。預言者ナタンによってダビデの罪が暴露されたのです。その時のことがもとになって書かれたのが、詩篇51篇です。「神よ。み恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から洗い去り、私の罪から、私を清めてください。」

 ここでダビデは自分の犯した罪を認め、罪を悔いています。そして、3節から4節へと読み進めていくと、自分の犯した罪への神様の裁きが正しいことや、自分がその裁きを受けるのは当然であることなどを、ダビデ自身、自覚していたことがわかるかと思います。そして、7節には、このように書かれています。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」ヒソプとは、植物の一種です。旧約時代、清めの儀式のときに使われました。また、過越しの祭りの始まりであったイスラエルの民のエジプト脱出の話の中で、各自の家のかもいと2本の柱に小羊の血を塗るように神様に言われた時、用いられた道具がこのヒソプでした。小羊の血にヒソプを浸してかもいと2本の柱を塗ったのです。ヒソプは罪の清めと大きな関わりがある植物であり、それは、イエス・キリスト、もしくはイエス・キリストの血潮を象徴するものです。ダビデによって書かれたこの箇所は、明確に、イエス・キリスト、そして、その血潮のことを言っているのです。イエス・キリストの血潮によって私たちの罪は洗い流されて、取り除かれるのです。私たちはその血潮によって、雪よりも白くされた状態へと変えられるのです。

 ダビデの犯した罪は今の世の中だと社会的に裁かれるべき犯罪です。しかし、ダビデの時代においては、王様と言うのは圧倒的な権力を持ち、絶対的な存在でした。ダビデしだいでダビデの罪を暴露した預言者ナタンを殺すことさえできたことでしょう。けれども、ダビデはそうしませんでした。神様のみ前に自分の罪を認め、悔い改めました。そこが、サウル王と異なるところです。それにしても、ダビデは得な人だよな、と思われる人がいるのではないでしょうか。何かしらダビデだけが特別扱いを受けているような気がするのです。一番かわいそうなのは、バテ・シェバの夫、ウリヤです。ウリヤはダビデにとても忠実な部下でした。なのに、あんなひどい死に方をして本当にかわいそうだと思います。神様はダビデに対して甘すぎるのではないでしょうか。確かに、そう思われても仕方のないところがあります。ただ、ダビデが犯した罪の結果、それによってダビデは何一つ制裁を受けなかったのかと言うと、そうではありません。あのダビデが犯した罪がもとで、ダビデの家には多くの問題が生じ始めました。そして、いくつかの悲劇が起きました。それによってダビデは大変な苦しみと悲しみを通らされることになったのです。罪を犯せば、社会的な制裁を回避できたとしても、結局のところ、自分の罪によって結んだ実は、必ず自分で刈り取らなければなりません。

■あわれみ豊かな神様は、ダビデの罪を赦してくださいました。ダビデは神様と深い交わりがあったので、神様が大きな愛のお方であることをダビデにはわかっていました。ダビデはこの地上では社会的制裁を受けなかったものの、それ以上の厳しい罪の結果を自分自身で刈り取ることになりました。でも、今は、キリスト・イエスとともに天に居場所を与えられ、いつまでも天の御国に住まう者とされているのです。

 神様は人がどんなに大きな罪を犯したとしても、その人がその罪を認め、悔い改めるなら、神様の大きな愛のゆえに、豊かに赦してくださるのです。神様は、ある意味、罪に対しては寛容な対応をされるお方であると言ってもよいでしょう。ただし、自分のやり方や自分の行ないの正しさで神様の救いに預かろうとしても、それは認めてはくれません。

■7節~9節「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かなみ恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 救いの道は人間が自分で作ることのできるものではありません。救いの道は神様だけが作ることのできるものです。そして、その救いの道は、神様からの恵み、贈り物なのです。ですから、ただでいただけばよいのです。神様の贈り物を受けるための鍵はイエス・キリストです。イエス・キリストを信じるだけで、神様からの贈り物をいただけるのです。イエス・キリストを信じると言うことは、イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかって死んでくださったことを認めることです。イエス・キリストの死にこそが神様の大きな愛が表されています。その愛を受け入れることは、真の神様を神様として認めることであり、イエス・キリストを介して、再び神様とつながることなのです。このようにして神様とつながる時、神様の救いの約束が私たちにとって有効になるのです。

■神様の愛はどれだけ大きいのでしょうか。ダビデが犯した罪、それは社会的には刑罰を伴う罪でした。しかし、それほどに大きな罪であったとしても、心から悔い改めるのならば、この地上では罪の償いは当然すべきですが、神様の救い、神様の恵み、神様の贈り物を受けることができるのです。それほどまでに、神様の愛は大きいのだ、と言えるのです。

 さらに、神様は、罪の中に死んでいた自己中心の罪深い渡した人間に救いの道を与えるために、神の御子イエス・キリストが十字架に死んで人に代わって罪の代価を支払われました。ここに神様の大きな愛が示されているのだ、と聖書は言っています。

 イエス・キリストを救い主として信じる時、イエス・キリストと言うパスワードが私たちの内に刻まれます。それが聖霊です。(※パスワードとはあくまでも比喩です。聖霊は第三位格の神なるお方です。)そのことは、すでに、エペソ1:13と14でお話しました。神様の愛が私たちにいのちをもたらすために、イエス・キリストというパスワードを私たちのうちに刻まなければなりません。そうするならば、神様の与えようとしている救いを受け取ることができるのです。イエス・キリストにこそ、神様の大きな愛が表されています。ますます、私たちは、イエス・キリストを通して神様の大きな愛にふれ、神様の大きな愛を知る者になっていきたいと思います。次回はエペソ2:10から、そして、詩篇51篇の後半から、合わせてお話したいと思います。それではお祈りします。