私はぶどうの木です。

2022年1月16日主日礼拝 ヨハネの福音書15111節 「私はぶどうの木です。」

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

 新年に直接またはオンラインでお会いしていない方々がおられましたら、まずはご挨拶を申し上げます。これまでのところ、2022年を楽んでおられることと願っています。新しい年の始まりを通過しながら、今日、私たちはまたひとつの異なる旅の終わりに近づいています。今回は、ヨハネの福音書の中の「わたしは〜である。」というイエス・キリストの7つの伝統的な御言葉をつないできた最後のメッセージです。私たちがこれまでに学んできたこと、キリストがご自身を表すのに用いられたお名前を覚えておられますか?

 

  「わたしは____の____です。」(ヨハネ6章)

  「わたしは____の____です。」(ヨハネ8章)

  「わたしは____です。…」  (ヨハネ10章)

  「わたしは____ ____です。」(ヨハネ10章)

  「わたしは____であり、____です。」(ヨハネ11章)

  「わたしは____であり、____であり、____です。」(ヨハネ14章)

 

 今日のメッセージは、イエス様が「私はぶどうの木です」と述べられる際のものです。イエス様は再び非常にシンプルな言葉を用いながらも、神様の世界やわたし達と神様との関係についての深い真実を、その中で明らかにしておられます。 もちろん、それらすべてをひとつのメッセージの中で探求するには時間が足りません。また、今日の礼拝に参加されているほとんどの方々は、ヨハネ15章を一度ならず読んだり聞いたりしたことがあるものと思います。 ですから私は、私が皆さんに全てを説明する以上に、皆さんがご自身で聖書をたくさん学ぶ準備が整っておられることに期待できると考えます。そのことを念頭に置いて、これから、今日の聖書箇所においてイエス様の御言葉が提起するいくつかの重要な問いをお示ししした後皆さんが祈り、考え、読みそれらの問いに対する神様の答えを、ただ私からではなく神様と共に見つけてくださることを課題とします。

皆さんは日々の日課の中で、みことばを読むと共に、祈りの中で神様にお会いする時間を作っておられますか? そうであると願っています。それは最良の時間になるでしょう。その際に疑問などに出会ったら、それについて私や教会の家族と一緒に話し合うことは、さらに大きな意味を持つことになり得ます。 

 

たとえば、ヨハネ15111節について黙想することは、以下のような問いを導く可能性があります。

  

キリストとは誰で、キリストと神様、そしてその民との関係とは何なのか。

   私たちはどのようにすれば神様の民として生きることができるのか。

  (これらとその他の問いにおいて私が意味しているのは、技術や過程、手順としての「How to(ハウツー)

   ではなく、より広義に何が必要か?ということです。この場合何が様の民として生きることを学ぶ私

   ちの助けになるのでしょうか。) 

   主は私たちに何を期待されるのでしょう?

   どうすれば私たちは最も実り多い豊かな生活を送ることができるのか。

   どうすれば神様の義の裁きに向き合う準備ができるのか。

   私たちの生活の質を評価する際、どのように成功を判断するのが最善なのか。

   どうすれば、神様の目によしとされる人生を生きる人になれるのでしょう?

   私たちに訪れる人生の苦悩を、どうすれば理解することができるのか。

   どうすれば神様を賛美する人生を送る人になれるのか。

   どうすれば最高の喜びの中で生きることができるのか。

   どのようにすれば、愛によって人生に力を与えられる人になれるのか。

   どうすれば霊的に成熟することができるのか

 

 これらあるいは他の問いの中で今の皆さんの生活における重要な問題点に触れているように感じられるものはどれでしょう?  神様が皆さんに語りかけておられると感じるのはどれですか?  皆さんが求めているところの、主が皆さんに対して持っておられるメッセージに、心を開いて耳を傾けてくださることを願っています。皆さんが神様の答えを見出し、それらを皆さんの日常生活に適用できる方法を見つけるまで、探し求め続けるよう提案します。

 

 

 物語に少しばかり脈絡を与えることとして、イエス様がこれらの教えを授けられたときにイエス様とその弟子たちがいる場所は、必ずしも明らかではありません。 それらは、すでに学んだように、私たちが「上の部屋(アパ・ルーム)の談話」と呼ぶ会話(ヨハネ1317)の中に含まれます。 ですから彼らは貸してもらったか、料金を払って借りるかした誰かの家の二階の部屋にいます。彼らは過越の祭りを祝うため、またイエス様にとっては、弟子たちに大切な別れの言葉を授け、彼らの行く手に待ち受ける難題に向けて弟子たちの集団を力づけるためにそこにいるのです。しかし、14章の終わりで、イエス様は言われました。「立ちなさい、さあ、ここから出かけよう。」  けれども彼らがこの時点で実際に去るのかどうか、そこでは言及されておらず―――Ⅰ7章までのすべての道筋を通してイエス様が教え、祈っておられるのは、あと3章だけです。

 

 皆さんが経験済みかもしれないような、何らかの事柄が起こっている可能性はあります。 皆さんのお宅に人が訪ねてきた際、どなたかが「さあそろそろおいとまする時間だ」と言うのにもかかわらず、何故かもっと話すことが見つかり、さらに12時間経過するまで帰らなかったという話を聞いたことがあるでしょう? (このような類いの事柄について、私たちは経験談を交わすことができそうですよね。お互いの間でそのようにした可能性もあります。)

 

 最終的に181節で、「こう話し終えると(※英語では「祈り終えると」)、イエスは弟子たちと一緒に出て行かれた。」とあります。とはいえ、ヨハネはその一団が去った場所を正確に述べてはいないので、15章からの今日の解釈では、イエス様が弟子たちとキドロンの谷に近い木立(ヨハネ181)に向かって歩きながら話しているとも考えられます。 あるいは、彼らは既にそこに着いていて、ユダがイエス様の逮捕に備えて兵士や役人と共に到着するまで、私的な話ができる場所を見つけていた可能性もあります。

 

 イエス様は次のように言われて、ご自身の語りの部分である15章を始められます(1節)。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」 弟子たち、そしてイスラエルではほとんど皆が、ぶどうの木や枝、また農夫について良く知っています。なぜなら、そこでは多くのぶどうが、他の樹木(たとえば、オリーブやイチジク)と同様に栽培されていたからです。 たとえイエス様の話のこの部分が「上の部屋(アパ・ルーム)」でのものだとしても、 聞き手は物理的なぶどうの木や枝、またそれらの世話について理解することに、何の苦労もないのです。 いずれにせよ、この同じ時間帯に関するマタイ、マルコ、ルカの記述によると、イエス様はワインを含む最初の主の晩餐を弟子たちに授けておられます。 そのことから、彼らはおそらくちょうど「ぶどうの木の果実」を飲んだところなので、鮮明に心に焼き付いたでしょう。 また、エルサレムの有名な神殿では、ドアや周りの壁が金で覆われており、この部分には金のぶどうの木とぶどうが重ねて施されています。 ぶどうの房は人間と同じくらいの大きさです。 彼らがその建物または影を見ながら、キドロンの谷の向こうにある木立に向かって宵闇を進む道すがら、キリストはその神殿を指差していたかもしれません。あるいは、一行が歩いている中で、イエス様が実際にぶどうの木が植えてある庭を指差していることも考えられます。

 

言わばイエス様がそこで述べておられるようなぶどうの木が、その木立の中にあったと推測できるのです。 

 

 イエス様は2節で、父である神様が「わたしにつながっている枝で実を結ばないものはみな、取り除く(※英語では「断ち切る」)」と言われます。 6で更に続けて、「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて枯れる。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまう。」 と言われます。イエス様がこのことについて語るとき、脳裏にあるのは誰なのでしょうか?  ユダは実を結ぶことのない枝であるがゆえに、木から切り離されてしまった典型的な例です。 ヨハネの福音書のこの段落全体を理解するために、私たちは彼のこと、そしてイエス様の弟子たちのグループの中で起こっているすべてのことを心に留めておく必要があります。

 

もっと広い意味においては、イスラエルの国が神様から目を背け、結果として裁きに直面すると、新約聖書の多くの箇所が言及しています。 主はとりわけこの民がご自分に立ち返り、呪いではなく祝福を受けることを待ち望んでおられます。そしてそれは確かに個人的な事例やさまざまな機会に、小さな規模で起こります。しかしそれが一般的と言える状況にはなっていないため、神様は深く悲しまれ、そして裁きが待ち受けているのです。

 

 もしも私たちが、神様が御子を通して与えてくださった救いから目を背けることを主張するならば、人間としての私たち全員に同じことが言えると聖書は教えます。 私は 投げ捨てられて枯れる クリスチャンにはなりたくありません。 私はオープンドアが、 集められ、火に投げ入れられて焼かれる 教会にしたくはないのです。私は、真に救われた人々が後に救いを失うことがあり得るかどうかの問題に、今は立ち入ることを望みません。しかし、悲しいことに、 私たちが受けた信仰に背を向ける個人や教会があります。彼らは基本的に異なった型の教えに従います。彼らはクリスチャンという名前を使い続けながらも、大抵は彼ら特有に認められている思想からの承諾を受けようとするのです。 私たちがキリストとその道とのより強いつながりを形成し続けることができますよう、祈ります。

 

 農夫である神様はまた、もっと豊かに実を結ぶようにすべての枝の刈り込みをなさる―――たとえ良い枝であっても―――と、イエス様は言われます。そのあと節で、イエス様が弟子たちに、「あなたがたはすでに清い…」と言われます。元のギリシャ語では、これらの2つの単語「trims[刈り取って]きれいに整える、手入れする) 」と「clean (取り除く、きれいにする)」は基本的に同じ単語です。(唯一の違いは、"trims” が動詞形で、"clean” は形容詞として使われていることです。) このふたつはどちらも、農夫が実成りの期待できない植物の部分を切り取ることについて話すのに、一般的に使用される言葉です。それらを取り除くことで、植物は全体としてより健康になりより自由に、その場所で本来あるべき状態になれるのです。スクリーンのスライド画面を見て下されば、この意図が分かると思います。

 

 ところで、私たちに問題が起こったとき、私たちはどんなことを考えますか? 神様が 私たちのことを愛したり気遣ったりしておられないせいでしょうか? いいえ、それは聖書の神様が決してなさらないことです。神様が私たちを裁いておられるのでしょうか? もしも私たちが神様に心を閉ざし、私たちの暮らしの中にある神様のご臨在を受け入れようとしないならば、それは最終的に起こるでしょう。 しかし、私たちが信仰によって神様を受け入れたならば、そのような心配はご無用です。神様が送られる、あるいは私たちの歩む道に訪れることを許される鍛錬は、私たちに対する神様の良いご計画の大切な一部分なのです。 それなしには、私たちは成長できません。

 

 それでもなお、私たちはいつも自身にこう問いかける必要があります。「私の人生において神様の『刈り取り』『剪定』が行われることを私は許しているだろうか?」 忘れないでください、イエス様は私たちが、「…わたしが語った言葉によって 清くなっている(または整えられている)と言っておられます。私たちは神様の言葉を読んだり聞いたりする時、私たちが豊かで実り多い自分であろうとすることを妨げるような習慣や考え方、時間の使い方を遠ざけるようにしているでしょうか。 そうしていないとしたら、私たちは、神様が私たちの中で行おうとしておられるご計画の御業を阻止することになります。 遠ざけるようにしているのなら、私たちは成長と効果的な奉仕のための準備が整っているのです。私たちはレビ記192324節の教えにある木のようです。

 

あなたが入ろうとしている土地で、果樹を植えるなら、3年間は食べてはならない。その実は「清く」ない(※日本語訳では「無割礼のもの」)。4年目に、実はすべて聖なるもの、主への賛美の捧げものとなる。

 

 イエス様の弟子たちは、この時点で約3年間イエス様と一緒にいるようですので、イエス様は彼らを整えるための時間が終わりに近づいたと告げているのかもしれません。 彼らは今や、イエス様が去られた後に、イエス様が担った働きをイエス様の御名のもとに実際に続けて行こうとしているのです。  私たちの生活の実りのない部分を取り除かれるイエス様の過程は、それと同じ理由―――単に私たちに居心地がよく快適な生活を与えることをはるかに超えたことのためなのです。 イエス様は私たちが長く続く実を結ぶことを意図して、すでに長い間、ご自身の大きな犠牲のもと、私たちをそのように整え続けておられます。 今、私たちが喜んでイエス様に同意し共に働きたいと願うなら、イエス様は私たちを良いことのために用いる準備ができておられます。 

 

4節に戻ってみると、イエス様が「わたしにとどまりなさい。….」と教えておられる声を聞きます。 わかりました。それではこれをどのように行えば良いのでしょう? もしも私たちが、個人的な祈りや聖書の学びを含む毎日の霊的な鍛錬を積むには忙し過ぎると決めつけるなら、そのようにはならないでしょう。これらは私たちの体にとって良いものである栄養素と同じくらい必要なことです。神様との個人的な一対一の時間がなければ、皆さんの信仰と人生は、総じて弱く不健康なものになっていきます。つまるところ、枝同士がお互いから生命を得ているのではないのです。それぞれがぶどうの木との独自のつながりに依存しています。これが真理です。比喩を交えて書いたり話したりするというルールを破るなら、神様には孫がいないという格言を想起することができます。神様には子供しかいません。  神様と私たちとの個人的なつながりは、私たちの信仰生活における必要かつ基本的な部分なのです。

 

 しかし、このこと(神様との個人的な関係)のゆえに、私たちはお互いをさほど必要としていないと考える誘惑に駆られるかもしれません。 教会生活に関わり続けるのは大変なことです。 多くの人々がコロナウイルスのパンデミックの間に(教会から)物理的に離れることになり、今でも戻らない選択をしています。 私たちは、唯一考慮すべきことは「イエス様と私」だと決めつけてしまう可能性があります。 個人主義社会の出身である西洋のクリスチャンは、よりこのように考える傾向があるかもしれません。この点において、私たちは東洋のクリスチャンから学び、他者との関係において、神様が私たちの間でなさりたいと思っておられることを尋ねる必要が多くあるかもしれません。 イエス様が「わたしにとどまりなさい。….」と言われるとき、イエス様の心にあるのは、もっと長くて静かな時間のことなのでしょうか。 私は、それが核心であるとは思いません。 イエス様は後の節で更に説明しておられます。 まず910節で、私たちにこう語られます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたは私の愛にとどまるのです。」

 

 イエス様、承知しました。 私は、これまでのところあなたと共にいると思っています。 あなたとのつながりにとどまるため、私はあなたの戒めに従う必要があります。 特別に心に留めておられることはありますか?

 

 何を隠そう、あるのです。イエス様は(12節)「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」 と言っておられます。それから再び、私たちが見落とすことのないように17節で重ねて言われます。「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしがあなたがたに与える戒めです。」

 

 ですから、単に「イエス様と私」ではないのです。キリストの戒めに従うということは、キリストに従う人々が、まずお互いに対し愛を持って行動することを含んでいるのです。 イエス様が信徒たちに教えておられるのは、単なる個人の信仰ではありません。 より強い個人の信念とより深い内面の平和は、イエス様が考えておられる最終的な目標ではありません。 個人の人格的な清さでもありません。イエス様はまた、私たちが私たちを取り巻く人々との愛と信頼の関係を深めながら、コミュニティを構築し、イエス様のお働きである救いと正義、そして平和を作ることへの参加に積極的に関与して欲しいとも望んでおられるのです。

 

 互いに愛し合うこと。 良いではありませんか。 それに反対する人を私は知りません。 皆さんはどうですか? しかし、それを行うことに皆さんが実際に関わるようになると、物事が厄介になる可能性があります。 誰かを助けようとして結果的にその人を傷つけてしまうことがあります。 キリストにある兄弟姉妹が私を必要としているとき、誤解してしまう、あるいは単純に助けとなるほど深く案じていないということがあり得ます。 私にとって最初の文化(米国での)やその他相当数の文化において、大きな政治的分裂の時代にあります。 教会の内部にいる人々が重要な事柄に関して自分たちとは違うことを感じ、そのことに非常に熱心になるとき、彼らを愛するという戒めは守るのが特に難しいものになり得ます。 愛を感じるどころか、私たちが彼らの言い分を聞くときの感情は、しばしば怒りや困惑であったりするかもしれません。 ですから、強固な関係、霊的な健康、また真の成熟を育むということは、紛れもなく、即席ではない責任と根気と忍耐力を必要とするものなのです。 繰り返しになりますが、私たちが神様から受けた教えに従って生き抜くためには、神様の助けを借りなければならないのです。

 

 その通り。 イエス様は4節で、「…わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」と伝えておられます。 そのあと5節でも、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と念を押しておられます。 そのことは私のプライドを傷つけるかもしれません。最善を尽くしさえすれば、自分はかなり良いことができると思いたいものです。 しかし内心は、イエス様が正しいと分かっています。

 

 アルコホーリクス・アノニマス(※直訳すると「匿名のアルコール依存症患者たち」。1935年結成の飲酒問題を解決する互助組織)の12段階回復プログラム経験者たちには、「私にはできない。 神様にはできる。 私は神様にお任せしようと思う。」という合言葉があります。それはプログラムの最初の3段階の要約―――彼ら自身でアルコール依存症を克服する力を持っていないと気づくこと、彼らにとっての「大いなる力」を発見すること、そして彼らの人生をその力の支配に引き渡すことです。 (その言葉がキリスト教的に聞こえるとしたら、それはアルコホーリクス・アノニマスを立ち上げて活動を始めた人々が、能動的で誠実なキリストの信徒たちだったからです。  それはたとえ私たちがアルコール依存症でなくても、心に留めておくと良い考え方です。「私にはできない。 神様にはできる。 私は神様にお任せしようと思う。」 私たちは教会としてそれらを遂行するために、神様の助けを心から求めることなく何事かを試みているでしょうか? ぶどうの木であるキリストに頼ることなしに、私たちは個人として何をしようとしているのでしょうか? それらの質問に対し、皆さんの心の中にどのような答えを見つけるとしても、まず私にはできない。 神様にはできる。 私は神様にお任せしようと思う。」という考え方を頭に置いて、応答する決断をしましょう。

 

 そしてもし私たちがそのようにするなら、何が起こるでしょうか? 5節で、イエス様は私たちにお約束なさいます。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」イエス様は私たちに、実り多いものを成し遂げるかもしれないような最高の仕事ぶりを要求しているのではありません。そうではなく、私たちが忠実で、キリストにとどまり続けるならば、そのようになるのです。 皆さんはぶどう木の枝が実を成らせるのに悪戦苦闘するかのように、苦労して、ストレスを抱えながら、汗水流したり、うめき声を上げたりするのを見たことがありますか? もちろんないですね。それは実を成らすための方法ではありませんよね。同じように、さらなる努力が、皆さんや私に対する神様の願いというわけではないのかもしれません。多くの場合、その願いとは、神様に対するもっと確かな信頼なのでしょう。

 

  また、イエス様は7節でこの大胆な主張を展開しておられます。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、望むものをなんでも願いなさい。 そうすれば、それがかなえられます。」 これは聖書の中で最も誤用される約束かもしれません。「name it, claim it gospel〈何でも求める福音,prosperity gospel 繁栄の福音」は、これらのキリストの言葉の誤解と誤用に基づくものです。

 

 

実際には、16節にあるイエス様の御言葉の光の中でのみ、私たちはこのお約束を理解することができるのです。「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになる」 その「わたしの名によって」という言葉が鍵なのです。それは、皆さんが利己的な祈りのために、アラジンのランプから出てくる魔人のごとく望むものをなんでも与えてくださることを神様に期待して、「イエス様のみ名によって、アーメン」と付け加えればいいという意味ではありません。 神様はそのようには働かれません。イエス様のみ名によって願うということは、 イエス様動機や優先事項や関心事を尋ね求めることです。それは、イエス様がお持ちの性格の本質であり、私たちに持つようにと教えておられるもの―――つまりイエス様の霊によって求めるということです。言い換えれば、イエス様のみ名によってきちんと願い求めるために、私たちは、イエス様が愛するものを愛し、イエス様が見るように見、イエス様が追い求め続けておられる目標へと私たち自身を捧げる、そのような人に成長する必要があるのです。 私たちがそうするとき、イエス様に何かを願えば、もちろん神様は喜んで与えてくださるでしょう。それはイエス様のご意志とご計画の中において、自然と一致するものですから。  そこには、神様の深い愛と叡智によるお働き、そしてご自身の民に大きな喜びを持ってお与えになることを妨げる私たちの貪欲さやわがまま、プライドのようなものは何も存在しないでしょう。

 

 イエス様はイエス様はご自身が実と呼ぶものを、どのようなこととしてお考えなのでしょう。私たちが福音を伝えるときに、それを聞く新しい信者の数が増加することでしょうか。 時の経過とともに一般的に言えば、それは間違いなくそのことの一部です。 しかし、ガラテヤ人への手紙52223節は私たちに教えます。「…御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」 それらが私たちの日々の思考や感情、話し方や行動を特徴づけるものであるとき、神様はそれらを特定の状況の中で、またご自身の王国の働きを成す方法で用いられるでしょう。それぞれに異なる無数の道筋において、私たちを通して神様が結ばせてくださる「実」を見ることでしょう。

 

イエス様は8節で、私たちがイエス様にとどまり続けることの成果について、こうお続けになります。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」  聖書のニューインターナショナル版(NIRV)は、実を結ぶことは私たちがキリストの弟子であることを示すと述べています。 それは本当の事ですが、わかりやすくするためにいくつかの解釈を要します。原本は単に、「そしてわたしの弟子となる。」と述べています。 もしもたくさんの実を結んだなら、私たちはイエス様の弟子になるのでしょうか?  そのような条件がそこに置かれているように聞こえるかもしれません。 しかし、イエス様が働きによる救いというシステムを設けていると考えるのは間違いです。 私たちが十分に良いことを行なえば、それでイエス様の弟子になる権利を獲得したことになるのですか? いいえ、その解釈は、イエス様のご生涯と聖書全体を貫くイエス様の教えの全体像に一致するものではありません。 私たちにとっての核心は、私たちがキリストにつながりその結びつきにおいて生き続けるとき、この信仰生活から良いものが生まれ(実を結び)、そのことがキリストの弟子であるという事実を映し出すということです。そして、神様はこのことによってご自身に相応しい栄光をお受けになるのです。

 

 さらにイエス様は、私たちがイエス様との欠かすことのできないつながりを保つことによる、ひとつの最終的な結果に言及なさいます。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(11節)。 イエス様がご自身のお話のこの部分の終わりに、喜びというようなことを置かれたのは興味深いことです。 私がいぶかしく思うのは、イエス様が喜びそのものを過剰に追い求めることを私たちに望んでおられないからです。 もちろん、喜びを持つのは素晴らしいことです。 しかし、皆さんがそれを探しても、大抵は見つかりません―――少なくとも、最も深く、永続するタイプのものは。それはまさに健全な関わりから生ずる自然な結果以外の何ものでもありません。私たちがそのような関わりをイエス様他の人たち、また己自身と共に、イエス様の助けを借りつつ探求し、着実に築き上げていくとき、喜びはその結果であり副産物なのです。

 

 そういうわけで、繰り返しになりますが、キリストが私たちと築いて来られたつながりにおいて、ますます精一杯生きて行くことを学ぶことを、2022年の、そしていつでも通じる目標としましょう。 ぶどうの木であるキリストにしっかりとつながり、豊かな実を結ぶ一年になることを祈りましょう。 

 

神様、今日、私たちの存在と所有のすべてはあなたゆえに可能であることを覚えながら祈ります。 私たちがあなたの恵みを通して絶えず受け取る人生の贈り物に感謝します。 私たちが周りの人たちとの愛に満ちた関わりを持って生きることで、あなたと密接に結びついた毎日を歩んで行けますように助けて下さい。そうすることをあなたが私たちに望んでおられ、私たちはそうすることが必要だと知っています。今年の私たちの生活が、あなたにふさわしい栄光をもたらしますよう、また、あなたの善良さにおいて私たちに持つことを望んでくださる喜びへと導くものでありますように。 キリストの御名において祈り求めます。 アーメン。

 

参考 

 

Gill, J. (1746-1763). John Gill's Exposition of the Bible. Bible Study Tools.                 https://www.biblestudytools.com/. Retrieved January 3, 2022 from   https://www.biblestudytools.com/commentaries/gills-exposition-of-the- bible/john-15-1.html

 

Monico, N. (2021, December 20). The 12 Steps of Alcoholics Anonymous (AA).           

Retrieved January 9, 2022 from https://www.alcohol.org/alcoholics-anonymous/

 

Newberry, J. (2021, December 8). I Am the True Vine. Wheaton College Chapel.        

Retrieved January 8, 2022 from https://www.youtube.com/watch?v=od8K6CPHpOM