わたしはよみがえりであり、いのちです

2021年10月17日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

ヨハネの福音書11章25節

「わたしはよみがえり(復活)であり、いのちです。」

                    ※「よみがえり」は新改訳「復活」は共同訳による            

 

 ここオープンドアチャペルにおいでの皆さん、そしてオンラインでご一緒されている皆さん、おはようございます。 私たちは今日もヨハネの福音書を通した旅を続けます。すべてが「わたしはある」という神様のお名前に端を発し、キリストがご自身に与えておられる7つの特徴的なお名前の中にキリストを発見する旅です。 これまでのところ、それらはすべて比喩的な名前、すなわち、「わたしはいのちのパンです」、「わたしは世の光です」、「私は門です」、「わたしは良い羊飼いです」というものです。 しかし、今日私たちが探求する物語の中で、イエス様はもっと抽象的なふたつの名前を与えておられ、それは「わたしはよみがえりであり、いのちです。」というご自身に関する偉大な真理を示すものです。

 

 今日の聖書の物語は、あらゆる年代の人々が常に問い続けてきた「人は死んだら、再び生きるのでしょうか?」(ヨブ記14:14a)という疑問を取り上げます。ヨハネの福音書 11章は、人間としての私たちのいのちに関わる最も基本的な問いへと私たちを運びます。この世界でのいのちはすべてそこだけにあるものですか? 肉体が死ぬとどうなるのですか?   私たちは本当に、今ここで、肉体的な死を超えたところにあるいのちへの希望を持って生きられるのでしょうか?

 

 私たちは1年半以上にわたり、すべての恐れや物事の遅れ、孤立や不確実性を伴うCOVID-19のパンデミックの中に、何か価値や意味のあるものを見つけようともがき苦しんできました。 このような非常に悪い状況から生まれる可能性のある有用なことのひとつは、死という現実を直視する機会を私たちに与えてくれることです。 信仰を持つ者として、私たちは神様がこのパンデミックさえも含むすべてを支配しておられると受け入れます。 神様はパンデミックが始まったと聞いてショックを受けることもなければ、また何の目的も計画もなしに、私たちとその経験を共にしようとはなさいません。 もし私たちが望むなら、神様はこの時を用いて、私たちが前向きに希望を探し、見出す方法を教えることがおできになります。それは死が訪れる時、それに対処する準備が整った者として生きる手助けとなり得るものです。キリストに従う私たちは、復活の希望を持って生きる者として召されています。 ヨハネの福音書11章は、永遠のいのちという希望によって力を与えられた者として、今ここでこの世界に生きる方法を学ぶための重要な機会を私たちに提供してくれます。

 

 このところ、永遠に生きたい――少なくとも今よりずっと長く生きたいという願望について、かなり多く耳にするようになっています。 たとえば、世界で最も裕福な人物であるジェフ・ベゾスは、彼の会社であるアマゾンでの仕事を辞めた後、新しい会社――アルトス研究所への資金提供を開始しました。 ベゾスは、科学技術を用いて人体の一部を再プログラム化し、若返らせる方法を発見するために、有名な科学者たちを雇っています。 言い換えれば、彼らは老化を治療することを望んでいるのです。 彼と一緒に働いている人たちの中には、山中伸弥(ノーベル受賞者)さんがいます。同社は東京を含む主要都市に支社を開設しています。 その他グーグルのラリー・ペイジやテスラのイーロン・マスクなどの著名人も、近年、同様のプロジェクトに関与しています。

 

 そこでもう一度聖書に戻ると、古いものでありながらも、今日の私たちの生活の重要な部分について多くのことを語っています。 死の問題以外にも、聖書は悲嘆の中にいる人々や、信仰を持ちながらなお人生の困難に直面して苦悶するイエス様の信徒たちのことを伝えます。私たちが、本当の愛とは何か?と尋ねるときに、聖書の神様が与えてくださる答えを例示してくれます。 また、イエス様とは誰で、どのようなお方で、どうすればイエス様をもっと完全に知ることができるのか、これらすべてにアーチを架けることも私たちの課題です。

 

 これらの懸念を心に抱く人々に対し、イエス様はどのように応答なさるのでしょう?  ヨハネは、(1)真理の言葉、(2)力強い感情、(3)いのちを与える行動を伴うイエス様の応答を明らかにしています。 ラザロが生き返る場面をさらに詳細に見てみましょう。 そのお話は長く、いろいろな意味で最もわかりやすいとは言えませんが、心を開いて聞くならば、取り組む価値があるだろうと確信しています。

 

 そこに入って行く前に、私が指摘しておかなければいけないと感じているのは、この物語の中で、ご自身のすべての言葉や感情、また行動に関してイエス様がお持ちの動機です。 イエス様が最初に友人であるラザロが病気だという一報を受け取るとき、私たちはイエス様が真っ先にラザロのところへ駆けつけると考えるのではないでしょうか。けれどもヨハネは、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。しかし、ラザロが病気だと聞いてから、なお二日間同じところに滞在された。」(5~6節)と書いています。 おそらく伝言に遣わされた者がイエス様のところに着くまでの旅程に一日かかり、その二日間の「遅れ」の後にまた一日かけて戻ることになります。イエス様の時代の文化では、魂は最大三日間肉体のそばに留まるであろうという考え方があり、今日のように死亡をはっきりと確認する手段がありません。 しかし四日後にラザロが死んでいることを疑う余地は、誰の心にもないでしょう。

 

  キリストは迅速かつ直ちに助けることをしないという選択をし、このことはラザロの肉体的な死と共に、彼を愛するすべての人に大きな悲しみを与えます。 イエス様の友人への愛が以前と変わらず堅固なままであるのにも関わらず、このすべては起こります。 彼らはイエス様を理解しようと非常に苦しみます。人生が私たちにあらゆる類いの困難や苦労や失望をもたらすときの私たちと同じです。 それでも私たちの主は、この困難な時を通してご自分の友人たちを理解する中で、ご自分が何をしているかをご存知です。11章15節のイエス様の御言葉から、このことをうかがい知ることができます。 イエス様は言われます。「私がその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためです。」

 

 イエス様は彼らが見ることのできないものを見ておられるのです。 そしてそれらすべては、イエス様を愛し、神様のご計画に従って召された人々(ローマ8:28)であるそれらの友人たちにとって、良いこととして――彼らの悲しみにもかかわらずではなく、むしろその悲しみの中で、悲しみを通してこそ、相働くのです。 イエス様はラザロの肉体だけでなく、彼の友人たちの弱く病んだ信仰とイエス様ご自身に対する理解をも生き返らせます。 彼らがこういう胸が張り裂けるほどの悲しみの時を通るからこそ、ご自身とその救いについての、さらに深く、さらに命を与える知識へと彼らを導くことが神様にはお出来になるのです。

 

 それは同じように、私たちが苦しみにある時に神様がなさりたいことです。 このお話が、神様がどんなにあなた方や私を愛しておられるかについてのものであることを忘れないでください。 ですから、ヨハネ11章のすべての困惑と劇的な出来事の中にある基本的なメッセージを見逃さないようにしましょう。私が皆さんに懇願するのは、皆さんがどれだけの健康や富、慰めや安らぎを持っているかで、神様が皆さんに対して持っておられる愛を測ろうとしないでくださいということです。 神様は愛する者たちに耐え難いことが訪れるのを許されますが、それらを通り抜けるのに必要な力を与えることなしにそうなさることは、皆さんがそのことで神様に信頼する限り、絶対にないのです。

 

 イエス様の謎めいていて、時には(私たちにとって)もどかしく思われる手法は、イエス様がご自身に栄光をもたらす方法でもあります。 そして、これはイエス様がラザロの死にまつわるすべての出来事において心に抱いておられる、より大きな目的のためです。4節でイエス様が言われているとおりです。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。 神の子がそれによって栄光を受けるためです。」  その御言葉に聞き覚えはありませんか? それは、生まれつき目が見えなかった人に関するヨハネ9章3節の部分にあるイエス様の御言葉と合致します。この状態は、罪による神様の裁きではありません。そうではなく、「 神の業がこの人に現れるためです。」

 

 さて、鍵となるそれらの考えが私たちの心にしっかりと植えつけられたところで、先に進んで、イエス様がご自分を必要としてやって来る人々にどのように応えられるのかを見るとしましょう。

 

 第一に、それは真理の言葉を伴います。マルタは兄を失ったことで混乱し、嘆きながらイエス様のところへやって来ます。彼女は「主よ、ここにいてくださいましたら、 私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言います。

 

 イエス様は、彼女が聞きたいと心底求めている答えを与えます(23節):「あなたの兄弟はよみがえります。」 しかしマルタはその素晴らしい知らせを受け取る準備ができていないようです。 少なくとも今ここにあるこの世界では、そんな話は眉唾ものです。

そこでイエス様は、忠実に聞いている者ならば誰も聞き逃すことのできない言葉で彼女に言います(25~26節):「わたしはよみがえり(復活)であり、いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 」 イエス様は「よみがえり(復活)といのちについて知っている。」とは言われませんし、「よみがえり(復活)といのちを与えることができる。」とすら言っておられません。いのちが何であれ、イエス様が誰なのかということのごく核心にあって、イエス様がそれによりご自身を証ししておられるものなのです。「私はよみがえり(復活)であり、いのちです。」 これは、ヨハネがヨハネの手紙Ⅰ4章16節で述べている「神は愛です。」ととてもよく似ています。神と愛、イエス様と復活といのちは、非常に緊密に結びつき、それらは引き離すことのできないものです。イエス様はまた、のちに語られる(ヨハネ14:6 )「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」という言葉が意味することの一部をすでに示しておられるのです。

 

 初期のクリスチャンの多くは、信仰のために死ぬことを厭いませんでした。彼らは実のところ、いかにしてそれができたのでしょうか?   その積極的な意志は、イエス様がお約束なさったとおり神様が彼らを再びいのちへと引き上げてくださるという、彼らの強固な信念に基づくものでした。聖書は、罪を犯すことを選ぶ人間としての私たちは、結果として神様と共に平和に生きることはできないと教えます。人々の間の分裂もまた、この壊れた関係から生じます。 私たちは、私たちを創られた神様と和解するまで、決して満ち足りることができないのです。そのときまで、私たちは命そのものとの戦いにおいて敵のままです。 仮にこのような状態で永遠に生きることができたとしても、それは何ら素晴らしいことにはなりません。 それは悪夢となるでしょう。 ですから私はジェフ・ベゾスや他の人たちが永遠に生きようとすることを非難はしません(ある人たちは「永遠の命テクノロジー」を買うのに十分なお金を持っていて、他の人たちは持っていないというとき、何が起こるかを考えるのは怖いことですが)。 しかし、単にこの世界の命だけでは解決できない、もっと大きな問題があるのです。

 

「わたしはよみがえり(復活)であり、いのちである」というイエス様の言葉は、古い創世記の物語に対する理解をもまた、与えてくれます。それは人々が罪を犯した後、彼らがいのちの木から取って食べるのを防ぐために、神様はアダムとエバを楽園から遠ざけたと語っています。(創世記3:22~24)

 

  神である主は言われた。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、またいのちの木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」神である主は、エデンの園から彼を追い出された。人がそこから取られた土を耕すためである。神は人を追放し、いのちの木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。

 

この時点で、人は心の中に罪を持っているので、たとえいのちの木から取って食べ、永遠に生きるとしても、幸せになり、充足感を覚えたり、神様を喜ばせたりすることはできないでしょう。これを見ると、そのとき神様が人々をエデンの園から遠ざけておかれたのは、彼らに対する裁きだけではなく、少なからぬ慈悲と保護であったことに気づきます。

 

 人間は永遠というものにふさわしく創造されています。伝道者の書(コヘレトの言葉)3章11節( ニューインタナショナル版)は神様について、「神はまた、人の心に永遠を与えられた…」と述べています。 C.S.ルイスは、それをこのように表現しています。 「もし私が、この世界では満たすことのできない欲求を自分の中に見つけたなら、唯一の論理的な説明は、私が別の世界のために作られたということだ。」 永遠に生きたいという欲求は、人間として自然なことです。 結局、それが私たちを神様へと向け、神様によってのみ満たされるのです。 私たちの中にある神様の形をした穴を埋めようと、Netflix (ネットフリックス)に、あるいはもっと多くの時間をソーシャルメディアや仕事やお酒 その他に費やしたとしても、私たちの最も奥深くにある必要を満たすには不十分です。 神様は私たちを永遠に生きるように創造されました。 神様はいのちそのものです。 私たちが理由と方法の両方を含めて探し求める永遠のいのちは、神様においてのみ見つかるものなのです。

 

  第二に、イエス様は困っている人々に力強い感情を持って応えられます。 マルタの後に、マリアがイエス様のところにやって来ます。圧倒的な悲しみに直面し、自分の信仰に苦しんでいる姉と同じ様子です。「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに!」と彼女は言います(32節)。 その場面を念頭に置き、この当時の文化では、誰かが亡くなると、私たちの文化で多くが習慣としている以上の七日間の追悼があるということを理解してください。家族や親戚、そして地域の人たちが集まることが多く、またしばしばプロの泣き屋が呼ばれます。彼らは悲しみを表現するのを手伝うという発想で、むせび泣いたり、声を上げて泣いたりして悲嘆に暮れる雰囲気を演出します。 33節で、マリアと他の人たちが村外れにいるイエス様のところに到着したとき、泣いていた何人かは、このプロの泣き屋かもしれません。 集中して喪に服す七日間を超えて、30日続くことになっている、さらに長い追悼の期間があるのです。

 

 これらの出来事のすべてをご覧になるとき、イエス様の中で何かが起こります。 マリアがほぼ同じことを言ったときとは違います。 今回(33節)は「イエスの霊はとても悲しくなり…」 直後の38節では、ほぼ同じ言葉を使って、「再度イエスはとても悲しく感じた。」と述べています。その記述の本当の意味に近づくためには、「とても悲しく感じた」という言葉について少し話す必要があります。キングジェームズ版の聖書では「霊的にうめいた」(33節)、そして「ご自身の内のうめき」(38節)とあります。インターナショナル版ではそれぞれ「霊的にひどく動揺した」と「ひどく動揺した」という風に訳しています。 (※訳注:日本語聖書では「霊の憤りを覚え」「心の動揺を感じ」「心を騒がせ」「心のうちに憤りを覚え」などと訳されています。)

それらの聖書がこの箇所で訳している動詞は、新約聖書の中で思いやりや優しさを表すために使われるようなものではありません。たとえばそれは、誰かが厳しい警告を発する際に使われるものです。そこには穏やかな思いやりよりも、もっと怒りを込めたものがあります。例をあげると、それはマタイ9章30節でイエス様がある盲目の男を癒され「イエスは彼らに『誰もこのことを知ることがないように気をつけなさい』と厳しく警告した。」時に使われた単語です。同様の単語が、ご自分の怒りを取り除く神様(ダニエル書11:30/セプトゥアギンタ=旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書より)や、沢山の高価な油を 貧しい人々に与える代わりに使ってしまった女性の過ちをとがめる人々(マタイ14:5)の描写で使われています。実際、その動詞は、文字通り馬のように怒りで鼻を鳴らすことを意味する単語からきています。

 

 この時のイエス様の心と気持ちはどのようなものだったのでしょう? これについて様々に違った説明をする説教者がいたるところにいるようなので、現時点で私たちがキリストの気持ちを十分に理解するのは容易でないかもしれません。 詳しく書かれていないというだけでなく、すべての場所におられ、すべてをご存知で、全能である神の御子イエス様なのですから、私たちの心が理解できる能力を超えたものを感じておられるのかもしれません。しかし、イエス様が、皆さんや私が友人を亡くしたときに感じる人間としての感情を感じておられるのは明らかです。 イエス様はここで、ヘブル人への手紙の著者が 4章15節:「私たちには大祭司がいます。そのお方は私たちが弱く傷ついているときにそれを感じることがおできになります。」 で意味していることを実践なさっています。しかしここでのイエス様の感情には、おそらくもっと多くのことが起きています。 イエス様は、罪が私たちの世界に対してしたことの現実を受け入れているように思えます。 それは、私たちの周りと内側のすべてにある罪の結果として、そこでイエス様の目の前にいるすべての人に、死に直面することで壊れて無力になった心を残していました。イエス様は心の奥深くの最も基本的で重要なレベルにおいて、死は人生の自然な一部分ではないことを知っておられます。 それは神様がお造りになった命の侵害であり、死の瞬間まで持続するのです。 イエス様は、ただ座って平然とそれを見ているなどできません。 イエス様は、罪とそれがもたらす破壊を憎んでおられます。 神学者のニール・プランティンガの言い方を借りると、死は「本来あるべき姿ではない」のです。それでもイエス様は、ご自分の父の被造物であり、イエス様ご自身のイメージの担い手である人々を愛しておらます。ですから、この死が及ぼす影響をご覧になったとき、怒りで馬のように鼻息を荒げることが自然な反応のように思われてきます。

 

 35節で 「イエスはむせび泣いた」際にも、違う言葉が使われてはいますが、よく似ています。 ここでもまた、イエス様は私たちが人生経験の中で感じるより、もっと多くのことを感じておられるのかもしれません。 忘れないでください。全知の主ですから、当然イエス様は間もなくご自分が奇跡を行って、ラザロを死からよみがえらせることを自覚しておられます。数分のうちに、人々はお葬式というよりパーティーのような気分になるでしょう。それこそがイエス様がこの日そこにおられる大きな理由です。その認識があるにもかかわらず、イエス様はまだ悲しみや怒り、またおそらくは他の感情に、なおも満ちておられます。イエス様のむせび泣きという言葉は、プロの泣き屋によるそれとは異なっている――イエス様の場合は感情の爆発なのです。 それが困惑する人々への、この時点でのイエス様の応答なのです。

 

第三に、イエス様はいのちを与える行動で応えられます。 これは、イエス様が人々と共に働くことを通して示してこられた行動の規範に、大変一致しています。 イエス様は語られますが、行動もします。それはご自身が話されていることを現実生活の中で実現するために、ご自分がお持ちの力を実証するという方法で行われます。 イエス様は、いのちのパンであることについて語りますが(ヨハネ6章)、実際に空腹の人々にパンを作って与えられます。 世の光であることについて話されますが(ヨハネ8章)、実際に盲人の目を開き、彼が日の光を見る手助けをします。 キリストは門であり良き羊飼いであることについて語られますが(ヨハネ10章)、実際に生まれつき目が見えなかった人を導き、保護し、面倒を見られます(ヨハネ9章)。今日のお話の中でもまた、イエス様はご自分がよみがえりでありいのちであると言われるだけでなく――ラザロの復活によってこのことを実証されるのです。言葉だけではなく、キリストとしての働きもまた、ご自身が誰であるかに確かな証拠を与えるのです。

 

 マルタが自分の信仰と感情にもがいていたとき、マリアがそうだったとき、主は教えによってお応えになりました。 群衆の中の何人かが信じることに苦闘しているそのとき、イエス様は行動に移ります。 37節で、マリアとマルタと一緒にいた人々の中で明らかに宗教的指導者と思われる者たちは、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言います。 イエス様の「非常に悲しい」(たぶん馬のように鼻息を荒げながらの)感情は、この直後にこみ上げますから、おそらく少なからず原因の一端を担っているのでしょう。 しかしすぐにイエス様はラザロが埋葬されている洞窟へと移動して、入り口を塞いでいる石を取り除くように指示し、これから行おうとしておられることのために神様への感謝を祈ったその後で、ラザロに出てくるよう命じられます。 イエス様はなさるのです――どう考えても神様の助けなしには人間ができるはずのないことを。 この奇跡を実際に見ている多くの人々にとって、イエス様がご自分で言っておられるそのお方であるのは明白です。 信じようとしない他の人たちには、ラザロという物乞いについて語ったイエス様のお話の中のアブラハムの言葉が現実のものとなります。

「…たとえだれかが死からよみがえっても、彼らは聞き入れはしないだろう。」(ルカ16:31)

 

この神様の愛の力の実践は、その他のキリストのご生涯の物語や聖書全体と当然ながら一致します。宗教指導者たちが、今やイエス様を殺さなければならないとこれまで以上に決心するとともに、それはイースターウイークのドラマをお膳立てします。そのことはもちろん、十字架とその後のイエス様ご自身の復活へとつながるのです。 しかし、私たちがイースターで祝う復活は、他に類を見ない出来事なわけではありません。福音におけるイースターやラザロの物語の前にも、イエス様は人々を少なくとも二回、死から生へと引き上げておられます。 ナインの未亡人の息子(ルカ7章)とヤイロというシナゴーク(ユダヤの会堂)役員の娘(ルカ8章)を生き返らせておられるのです。

 

 ヨハネ11章でラザロを生き返らせたとき、イエス様はヨハネ5章でなさった約束を守っておられます。イエス様はそこで、ある人を再び歩くことができるように癒されました。 キリストはその人に言います。「父はこれらのことよりもさらに大きなわざを子に示されて、あなたがたは驚くことになります。父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」  そのすぐ後に続けて(5:25)「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」 と言っておられます。

 

 同様に、力の実践を超越した人々の復活というイエス様のお働きも、単なる始まりであり、同じタイプであってもはるかに大きな、来たるべき事柄の前触れにすぎません。ヨハネ5章28b〜29節でイエス様は言われます。「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出てくる時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」

 

さて皆さんは、そのことが皆さんや私にとってどのような意味を持つかわかりますか?

このお話は、私や皆さんの復活への窓です。これはこの時代の終わりに起こることだと、イエス様が私たちに語っておられます。もし皆さんがキリストに従う者であるなら、ラザロの復活は皆さんの未来図です。これは神様の子供であるすべての人に待ち受けていることなのです。それはいつ起こるのでしょう? 最も根本的なレベルにおいて、その問いは的を外れています。最も基本的な意味で、それは問題ではないのです。自分達のいのちをイエス様の御手に委ねた人々であっても、無論、私たちは皆、その後のラザロ同様に死を迎えるでしょう。しかし私たちも復活するのです。それは私たちが神様に栄光を帰する理由です。それこそが、私たちを目標に、褒賞に、天国と永遠のいのちに至る神様の呼びかけに向かって動かし続ける希望なのです(ピリピ人への手紙3:14)。

 

祈りましょう。

 

 神様、私たちは今日、いのちの与え主であり、守り主であり、復活の主であるあなたに祈ります。私たちとすべての被造物に対し、あなたが持っておられる深い愛に感謝します。それは私たちにいのちを与え、さらには永遠のいのちさえ可能にするものです。主よ、 常に、でも特に私たちが死の力を前にして、弱くて恐れや疑いの中にあり、自分を小さく感じているとき、あなたに信頼を置き、あなたの愛の力によって生きる選択をするように助けてください。 このようにして、あなたが受けられるべき栄光を私たちが驚きをもって見ることができるよう、私たちの毎日の生活を通して私たちにお示しください。キリストの御名によって、アーメン。

 

参考

 

 Hill, S. (2021, September 6). Altos labs launches with a focus on cellular         reprogramming. Lifespan.io. Retrieved October 10, 2021 from https://www.lifespan.io/news/altos-labs-launches-with-a-focus-on-cellular-          reprogramming/

Lewis, C. S. (2012, October 23).  Mere Christianity. HarperOne.

Piper, J. (2013, March 31). Jesus is the resurrection and the life. Desiring God.            Retrieved October 9, 2021 from https://www.youtube.com/watch?v=ywP8t       7e4h0U&t=1486s

Plantinga, C. (1996, February 6). Not the way it’s supposed to be: A breviary of sin.

Eerdmans. Stonestreet, J., Leander, C. (2021). Everyone wants to live forever. Breakpoint. Retrieved October 9, 2021 from https://www.breakpoint.org/why-everyone-wants-to-live-forever/