わたしは良い羊飼いです

2021年9月19日主日礼拝

「わたしは良い羊飼いです」

ヨハネ10:11~21

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

 ここにいる方々とオンラインで参加されている方々にもう一度ご挨拶申し上げます。前回のオープンドアの英語礼拝で、私たちはイエス様から、弟子のヨハネを通して手渡された「わたしは門です。」という御言葉を受け取りました。今日のメッセージは、その直後にヨハネの福音書10章に出てくる御言葉――「わたしは良い羊飼いです。」についてです。 (*訳注:日本語聖書では「羊飼い」を「牧者」と訳す場合も。) 

 

 さて、イエス様は門なのか、それとも羊飼いなのでしょうか? 私たちがイエス様の言っておられることを明確に理解しなければ、それはイエス様が混乱している、または考えが変化しているか何か、良い話し手ならば決してしようとしないこと――混喩(隠喩の混在)のように聞こえるかもしれません。たとえば、誰かが英語でそれほど難しいことではない 事柄について話すとき、次のような表現を聞くことがあるかもしれません。 「ロケット科学じゃないよ。」とか、同じニュアンスで「脳外科手術じゃないんだよ。」という言い方です。いいですよ、しかしこの2つを混ぜ合わせて 「ロケット手術じゃないからね。」と言うなら、そのメッセージは奇妙で理解し難いものになってしまうのではないでしょうか。イエス様は御自身を「門」と呼び、その後に「羊飼い」と言われることで、何かそのようなことをなさっているのですか?

  いいえ、そういうわけではありません。 私たちが前回学んだイエス様の時代における一般的な地域の羊囲いの門には、他の羊飼いが休んだりしている間、羊の見守り役の牧者である門番がいました。 時にはその番人が悪者の侵入を阻止したり、入る権利がある者に入ることを許可したりするために、実質的に羊囲いの出入り口にとどまっていました。その人は門であると同時に羊飼いであったのです。 ですから、その2つのイメージに基本的な違いはありません。 しかし、まったく同じというわけではありませんので、今日は、イエス様が私たちに「良い羊飼い」であると言われる時、理解して欲しいと願っておられることをつぶさに見てみましょう(11節)。

 

 私たちがこのようにする一つの理由は、先週佐々木さんがお話しされたように、信仰の共同体における生活の中で、私たちは互いを導くことが必要なときがあるからです。神様は私たち皆の羊飼いですが、ときには教会において私たちを導いて守ってくれる人物を私たちは必要としています。またあるときは主が、他の人を導き守る責任のある立場に私たちを置かれます。 そこにはまた、教会が牧師を指導者として招聘することが必要なときという、特有の状況もあります。 オープンドアの場合、もちろん先のことはだれにも分かりませんが、もし今のような状況が今後8年間続いたとすれば、私たちの教会には齢70歳を超える二人の丈夫な牧師(専任牧師と協力牧師)がいるということになります。 その時点に達した後のいつか――あるいはその前もあり得ますが――この群れは、群れを導くための次の牧師を一人か二人探して招聘する必要があるでしょう。 キリスト教会はそのような決定をするためにどのような基準を用いるべきでしょうか?  良い羊飼いに関するキリストの教えに目を向けることは、堅実なクリスチャンのリーダーシップとは何かについてたくさんのことを私たちに示し得るのです。 それでは、これらの目標を念頭に置いて、もう一度今日の箇所に入って行きましょう。

 

 イエス様はまだ仮庵の祭りの最中にあるエルサレムにおられます。イエス様は、ご自身が目を癒した後で宗教指導者によって会堂から追い出されたその人と会話しておられました。キリストは彼を見つけ、励ましと救いの言葉をお与えになったのです。 しかし、そこにイエス様がその人と話すのを聞いているパリサイ人がいて、イエス様に問いかけます。今日読んでいる部分に至るヨハネ10章にある全てのイエス様の言葉は、明らかにエルサレムの路上のどこかでお話しになっているものです。それらの言葉は特にそこにいる宗教指導者たちに向けられていますが、今や目が見えるようになったその人のみならず、今日聖書を通して神様の言葉を受け取ることのできる私たち全員を含む他の人たちにも向けられているのです。

 

 私たちの主は、この物語の中で良い羊飼いについての三つの主要な事柄を教えてくださいます。

 

1、羊飼いのイエス様は羊を愛しています。また聖書の神様が教えておられる種類の愛は、ただの強い感情や素晴らしい愛の理論以上のものです。さらに一層、行動的なものなのです。そしてイエス様は、ヨハネ9章に登場するその人の目には視覚を、魂には救いを見出す手助けをしたその方法を通して、良い羊飼いとは何かを実演なさったばかりです。そこで良い羊飼いとはどのようなものかに留意しながら、そのお話をもう少し注意深く見てみたいと思います。

 

 イエス様はただ世に対して真実を高らかに宣言なさって、その後に弟子たちと一緒にくつろいだりするために帰って行かれたのではありません。イエス様は、このお話(ヨハネ9:1)に登場するときは目が見えない一人の特定の人物へのご配慮に、注意深く専念なさるのです。そのようなやり方において、キリストはご自身が属する社会文化における良い羊飼いの典型のようです。そこで羊を管理する者は定期的に、たとえば朝囲いを離れるときや夜戻ってきたときに、羊を一頭一頭数えるでしょう。例として羊飼いは門のところに立ち、羊飼いの杖を羊の目の前に差し出します。羊飼いがそれを高く上げると、羊が歩いて行きカウントされます。それから羊飼いは次の羊が通るのを許可される前にその杖を低く下ろします。そのことは、羊に「杖の下 」を通らせることと呼ばれます。 (たとえばレビ記27:32でこの表現を用いています。)

  そのように良い羊飼いは羊に対し個別の注意を払います。 その一部は羊を知ることであり、また羊に知られることです。  10章3節で、イエス様はその羊飼いは「自分の羊を名前で呼ぶ」と話してくださいました。 それは10章14節の「私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」で、イエス様が意味している一部です。もっと後の10章27節でイエス様は、「私の羊は私の声を耳を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。」と言っておられます。 皆さんの中にも「ご主人の声」を覚えている犬という、昔のRCA(ビクター)の広告をご記憶の方がおられるかもしれません。羊とはそのようなものです。 自分たちの身を守るために速く走ることや、大きく鋭い歯で噛みつくことなど、彼らにできないことはたくさんあります。しかし、彼らが本当に得意としていることがひとつあり、そのことが何千年もの間、彼らがたくましく生き延びる助けとなってきました。彼らは羊飼いの独特の声を認識し、それに従ったのです。

 

 イエス様はヨハネ9章でご自分が癒された人も同じだと言っておられるようです。彼は新米のキリストの信徒であり、理解していないことがたくさんあります。しかし宗教指導者たちが彼にイエス様を拒絶させ、彼らの教えに従わせようとすると、彼は抵抗します。彼はそれが間違いであると知っていて、たとえそれが彼を大きな困難に陥らせるものであっても、その信念にとどまるのです。彼はまるで偽の羊飼いには従おうとしない羊のようです。彼が初めてイエス様に出会ったとき、彼にはイエス様が見えなかったことを思い出してください。彼が会堂から追い出されたあと、キリストが彼を発見されました。この時点まで、彼はまだイエス様を見たことがありませんでしたが、声は聞いていました。彼は最初、それが誰であるかをはっきりとは気づいていません。けれども、ご自分が人の子であると彼に告げるイエス様の声を聞くときに、その人はそれが主であると確信しています。羊飼いの声は、彼が信仰によって従うべき正しい選択へと彼を導いたのです。

 

 良い羊飼いは努めて生まれたばかりの羊のところに行き、話しかけ、しばらく一緒に過ごし、自分を知ってもらおうとします。 それは、羊が成長するにしたがい、羊飼いの声を認識し、世話をしてくれる人に親しみ、羊飼いとの関係性の中で生きることを学ぶためです。 これは、良い羊飼いが自分たちの生活を共有し、信頼を得ることによって羊を愛する方法の一例です。

 

 同様に、良い羊飼いは羊を守ります。 彼らは襲撃者や激しい嵐、その他の危険から羊たちを守ります。 旧約聖書の中で、ダビデは羊飼いです。 Ⅰサムエル17:40で、ダビデが巨人のゴリアテと戦う準備が整ったとき、彼は「羊飼いの袋」の中に手を伸ばし、用意していた「5つのなめらかな石」を取り出します。 それらの石と石投げひもで、彼は巨人を倒し、人々を奴隷になることから救います。 彼がこのようにすることができたのは、羊の面倒を見るために似たようなことをする習慣があるためで、それは彼の父親が羊飼いとして彼に任せていたことなのです。 (もう少し後に、ダビデについてもっと考えてみることにしましょう。) ヨハネ9章で、イエス様は生まれた時から盲目であったその人を、彼の障がいが神からの罰であると考える人々(ご自分の弟子を含めて)の偏見から守ります(9:1〜3 )。 そののち、彼がイエス様に従うことのために会堂から追い出されたとき、その人を守るのです(35〜38節)。

 

 さらにまた、良い羊飼いは羊を養います。彼らは羊たちに食物、水、日陰を――彼らが必要とするものは何でも提供します。 目の見えない人の事例では、イエス様が、彼は受け入れられた尊い存在であるという信仰と自覚を得る手助けをなさいます(9:35〜38)。

これらは健全で平和に生きることにおいて不可欠なもの――イエス様から受けとった身体的な視力よりもさらに重要なものなのです(9:6〜7)。

 

  次に、良い羊飼いは羊を導きます。 西洋では、羊飼いが牧羊犬などを使って羊を追い立てるのが一般的です。 しかし、東洋の羊飼い(聖書のイエス様はアジアの文化圏出身)は、だれが羊飼いであるかわかっていて後に従おうとする羊を先導します。イザヤ40:11は、「(主は)乳を飲ませる羊を優しく導く。」と言っています。 そして、羊が主の導きに従うほど十分に強くないときは、「その腕に子羊を集めて、懐に抱く」のです。 イエス様は目の見えない人の目に泥を塗り、シロアムの池で洗うように送り出すことによって彼を導かれるのです。(9:6〜7)。

 

 また、良い羊飼いは傷ついた羊や病気の羊を癒します。その羊たちは薬や包帯、特別な休養や、他の何かを必要としているかもしれません。 羊飼いは個々の羊が持つ特定のニーズを見つけ、それらを満たすために必要なことをします。ヨハネ9章の男の人の場合は、彼の両目こそが癒される必要のあるものです。ですからそれが、キリストが心を留められたことです(9章6〜7節)。その人がイエス様の導きに従うと、彼は癒されます。その人の側から見たこの癒しの過程は、受動的なものばかりではありません。導きに従うことにより、キリストへの信仰が彼にとって現実のものとなるのです。神様は、それが身体的なもの、精神的なもの、人間関係、その他何であったとしても、皆さんの人生において今、癒しを必要としている部分をご存知です。神様はまた、皆さんを取り巻く人々の必要もご存知で、癒しの助け手として皆さんを用いることを望んでおられます。皆さんはそれらを神様の御手に置き、神様が時に適って癒してくださることに信頼することができるのです。

 

 最後に、良い羊飼いは羊を救います――たとえ多大な犠牲が必要だとしてもです。迷子になった羊や罠にかかった羊を探し、見つけ、救い出すことはこのことの一部かもしれません。 このようなことを可能にするために、羊飼いは、羊を襲おうと企てる敵を見張ることにたくさんの時間を費やさねばなりません。 羊の良き守護者は多くのことに耐えねばならないのです。 それは汚くて、暑くて、寒くて、きつい仕事です。それに、羊飼いならだれでも羊小屋がどんな匂いか知っています!  しかしそれらのことは、羊を心から気遣う羊飼いにとってそうする価値のあることです。 ヨハネ9:35で、イエス様は会堂から追い出されたその人を積極的に探し出し、間もなく彼を救いへと導くことになる会話を始められます。 彼は「主よ、信じます」と告白し、キリストへの信仰によって結ばれた人生へと入って行くのです。(38節)。

 

  このようにして良い羊飼いであるイエス様は、ご自分の羊として私たちを愛しておられます。 ですから皆さんが悪い羊飼いがどのようなものか知りたいのなら、それは羊に対して動機とする心配りがないため、これらのようなことをしない人物であると言えます。その仕事でお金を稼ぐことが出来ないのなら、この人物はそこにいなかったかもしれません。あとでエゼキエル書34:1~10とゼカリア書11:15~17をお読みになれば、神様が罰し、その座を退かせると仰っている悪い牧者について、もっと知ることができます。ヨハネ9章のその人に対して良い羊飼いとなられることで、イエス様は神様がエゼキエル書34:15~17でされた約束をどのように成就なさるのかをお示しになりました。 

 

 「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ――わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。しかしわたしは肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しい裁きをもって彼らを養う。」

 

 そのような性質の愛がどうして可能なのでしょうか? イエス様はそれについての鍵となる事実を明らかにされています。14〜15節の中で、イエス様は羊飼いと羊の間の個人的な関わりと親密な相互理解について述べられますが、そのあとで、それをご自身が父である神様と共有する同じタイプの関わりに密接に結びつけておられます。神様との関係は、イエス様とイエス様のご配慮の下にある者たちとの間に起こる全ての善きことの背後にあります。イエス様の羊であるからこそ、私たちはそれほどまでに祝福されるのです。  私たちが他の人たちにとっての羊飼いとなる立場にあるとき、私たちができるすべての善きことの背後には神様との関係があることを、いつも覚えておく必要があります。神様とのそのような関係を守り、育み、成長させることは何よりも重要なのです。

 

  そのようにして良い羊飼いは羊を愛します。それは皆さんにとって目新しい考え方ではないと思います。しかし、それを再度聞き、さらに聞き続けることは、確かな助けとなるのではないでしょうか。私は最近、右腕にしこりができて大きくなり、検査を受けるために病院に行った際、そのことを実感しました。看護士が腫瘍を切除して、それを検査に出しました。私はその腫瘍が悪性の可能性があると知っていました。オンラインでメイヨー・クリニックのウェブサイト の様々な健康情報に目を通したからです。医者が私に教えてくれた腫瘍の種類について調べ、そうかもしれないと思ったのです。それによれば、誰でも紫外線角化症(訳注:長期間紫外線にあたって生じた表皮角化細胞が悪性化するもの)を発症する可能性がある。ただし次の場合はリスクが高くなる。もしもあなたが:

 

   赤またはブロンドの髪で、青または明るい色の目である〔そうです。〕

 

   過去に日光にさらされたり、日焼けをした経験が多い〔そうです。〕

 

   日光にさらされるとそばかすができたり、赤くなる傾向がある〔そうです。〕

 

   40歳以上である〔そうです。〕

 

 これらがリストにある最初の4つの項目でした。ですから私は、数週間後に結果を聞きに行くときは、少し緊張していたのです。私は待合室に座っていて、名前が呼ばれるのを聞きました。立ち上がった時、私が今から知ることは私の人生を大きく変える可能性があるのか、それとも少しだけか、あるいは全然ないのかということを考えていたのを憶えています。しかし私の脳裏には「主は私の羊飼い」(詩篇23:1)というみことばが浮かび続けました。それはその時まさに私が必要としていたものなので、神様が私に与えてくださったのだと思います。 そのみことばを心に留めておくことは、本当に助けになりました。 主は私の羊飼いです。 神様が私の面倒を見てくださるのです。 結局そのしこりは悪性のものだと判明しましたが、すでに取り除かれました。 そのことために継続的な問題が発生する可能性はほとんどないとのことなので、感謝しています。 しかし私の肌質では、今後も他の同種のものを早期に見つけて適切な治療を受けるように注意する必要があります。

 

2、 羊飼いのイエス様は羊のためにご自分の命を差し出します。 良い羊飼いであることは多くのことを意味しますが、イエス様はここで、特にその中のひとつに焦点を合わせておられるので、私たちも同様にしたいと思います。  11節とこの部分の流れの中で、イエス様は羊飼いが羊のために死ぬことをいとわないということに焦点を当てておられます。 なぜキリストはこの点にこだわって掘り下げられるのでしょう?  ひとつにはイエス様が語りかけておられる人々(パリサイ人)や他の宗教指導者が、イエス様を殺害する手だてを探っているためです。  この同じ章の30〜31節の中で、イエス様が「私と父とは一つです。」と言われたとき、危うくその場で殺されそうになります。  「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。」とあります。これが初めてではないのです。イエス様のお命は、ご自身が属する国の宗教指導者から危険にさらされ続けており、彼らは最終的にローマ政府によってイエス様が殺されるように仕向けるのです。

 

 また、聖書の時代に羊飼いでいることは、いつでも自分の命を犠牲にする可能性を伴った危険な仕事でした。 羊の所有者は羊の命を羊飼いに委ねていたので、もしもこれらの家畜が殺されたなら、所有者は羊飼いの仕事に落ち度がないこと(羊を友人にあげて、美味しいジンギスカンのディナーを楽しむとか何かをしていなかったか)を示す証拠を要求しました。「申し訳ありませんでした」では済まなかったのです。攻撃してくる野生動物などに食べられるのを免れた片耳は、羊飼いが羊を守るために最善を尽くしたことを所有者に納得させるにふさわしいものでした。ですからアモス書3:12のような聖書箇所にはこのようなことが書かれてます。『主はこう言われる。羊飼いが獅子の口から二本の後足、あるいは片耳を取り戻すように、イスラエルの子らも取り戻されるであろう。』

 ダビデが巨人ゴリアテと戦うつもりであることをサウル王に告げているとき、彼はその任務に適性があることの事実として、羊飼いとして働いた経験を伝えます。 ダビデはこう言います(Ⅰサムエル記17:34〜35)。

 

 あなたの僕は父の羊を飼う者です。ライオンや熊が出て来て、群れの中から羊を奪うこともあります。その時は追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。

 

 (10代の子を育てたことのある父親としてこの箇所を読むと、ダビデの父のエッサイは自分の息子がそのようなことをしているのを知っていたのだろうかと首を傾げます。このあと親子の間で交わされた会話は想像がつきます。 エッサイの言い分は 「ダビデ!私がおまえを外へ送り出すときに言ったのは、きちんと羊の世話をするようにということで、ライオンや熊との取っ組み合いを身につけなければならないという意味ではないのだ!殺されていたかもしれないのだぞ!お前は何を考えていたのだ!?」です。しかしそれは明らかに、良い羊飼いであるダビデがしたことなのです。)

 

  また私たちは先月、共同の羊囲いには通常ある種の羊飼いである門番がいて、いっときの間羊の群れを守るために出入り口にとどまるということを学びました。そのような状況においては、羊飼いはしばしば文字通り門であったのです。殊に町から遠く離れたところに羊を連れて行くときは、羊を町の共同囲いに連れ戻すより、むしろそこに留まって夜明かしをする必要があり、羊飼いたちは羊を守るために出来得る限り最上の囲いを作りました。 しかし、それは町にある囲いほどしっかりと作られていないのがほとんどでした。たとえば単に石を積み上げ、隙間を埋めるために小枝や柴を重ねただけのものであった可能性があり、そこには掛け金付きの木製の硬いドアのようなものはないはずです。 むしろ私たちが参考にしてきた写真のように、羊飼い自身が開口部にとどまり、だれ一人羊を傷つけるために入って来ないようにしたことでしょう。 とりわけ夜眠る時間が訪れると、羊飼いは文字通り「命を捨てて」(15節)眠ったのでしょう。まさにいつ何どきでも起き上がって、羊を守るために闘う必要があるかもしれないという意識が、常にあったのです。皆さんは、 起こっている何かに対し強固に反対している人が「私の死体を乗り越えて行け!」と言うのを聞いたことがあるかもしれません。 つまり「必要とあらば、死ぬまで戦ってでも阻止する!」ということです。それがイエス様の時代の良い羊飼いがとった態度でした。

 

 イエス様がお使いになる、英語で「give」と訳される言葉(“give my life” 「私の命を与える」のように)もまた、注目に値します。たとえば18節で、イエス様は『誰も私から命を取り去ることはできない。私は自分でそれを捨てる(give it up)。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。』と言っておられます。いくつかの英語の翻訳では「lay down my life(*訳注:文字通りは命を横たえるから派生し「命を捨てる」の意)」となっています。この動詞の型(ギリシャ語の現在形)は継続的な行動を示します。イエス様は、それが重要な焦点ではありながらも、十字架上の死という一度限りのご自身の行為のみを指しておられるのではありません。イエス様の生涯はご自身が持っておられたものを絶えず捨て去ることでしたが、再びそれを引き受けるという現実を考慮したものでした。 死はこの命よりもさらに良い何かへと導くもの、すなわち終わることのない命に至る復活なのです。これはイエス様が復活の中で勝ち得た最高の賞であり、 イエス様が私たちにその中で生きるよう呼びかけてくださる大きな希望です。それは私たちが死に直面しなければならないときも、またいつでもそこにあるものです。神様、この素晴らしい贈り物に感謝します。

 

3、羊飼いのイエス様は羊を愛します。その羊飼いは羊のためにご自分の命をささげます。最後に(そして簡単に)その羊飼いは羊を一致させます。 イエス様は私たちに、「私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなる。」と言っておられます。 先月述べたように、イエス様はキリストにある救いの福音を聞く機会がまだない非ユダヤ人(異邦人)について語っておられるように思えます。 私たちがお互いの間に作り出してしまった分断によって大きな苦しみの中にあるこの世界で、私たちの主は私たちを一つにしたいと言っておられます。 キリスト教の外にある人々が入ってきて、イエス様の群れの一員になることを望んでおられます。 クリスチャンのコミュニティの内側であっても同じで、私たちに対するイエス様のビジョンは、バプテストの群れや、長老派の群れや、単立の群れなどというものではありません。キリストにあって私たちが一つになることを望んでおられるのです。

私たちは、ヨハネ9章で、人々が神様と神様による救いを率直に求めているときでさえ、宗教指導者たちが人々を信仰の共同体から切り離し、排除し、人々に大きな損害を与えるやり方によって、どのように自分たちの権威を利用することを可能にしているかを見目にしたばかりです。 そのような類いの羊飼いとは正反対であることにおいて、イエス様はヨハネ9章で、神様が遥か昔にエゼキエル書34:23〜34の中でなさった約束をいかにして守っておられるのかを明らかになさいました。

 

 わたしは彼らの上に一人の牧者を立てる。彼はわが僕ダビデの家系に属するものである。彼は彼らを養い、その牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、ダビデより連なるわが僕が、彼らの中で君主となる。主であるわたしがこれを語った。

 

 独り子のイエス様を良き羊飼いとして送ってくださることにより、約束を守ってくださる神様をほめたたえます。教会に対する神様のご意思は、私たちの多様性を超えて成される一致です。私たち全員が私たちの良き羊飼いであるキリストの保護のもとにあるとき、そのようなつながりのある生活――たとえ私たちとは全く異なる人々とでも――という現実の中で生きることが、今私たちには可能なのです。 アーメン。祈りましょう。

 

守り、与え、道を示し、愛してくださる神様、私たちは羊が良い羊飼いを信頼し、従うことを知っています。ですから私たちは詩篇の作者(詩篇28:9)と共に祈ります。 「あなたの民を救い、ご自分の民を祝福してください。どうか(私たちの)羊飼いとなって、とこしえに(私たちを)導き養ってください。」これが私たちの祈りです。 

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

 

参考

 

Fritz, J. (2018, July 28). Jesus Is the Good Shepherd. Illuminate Community.             Retrieved September 18, 2021 from https://www.youtube.com/watch?v=Jux_ eykdVrQ

MacArthur, J. (2014, August 22). I Am the Good Shepherd. Retrieved September 18, 2021 from https://www.youtube.com/watch?v=iI35XKalK28&t=10s

Mayo Clinic. (2021, January 13). Actinic keratosis. Retrieved September 12, 2021        from https://www.mayoclinic.org/diseases-conditions/actinic-keratosis/   symptoms-causes/syc-20354969

 

Myers, J. (n.d.). Who Are the Sheep Not of This Sheepfold? Illustration. Retrieved      August 9, 2021 from https://redeeminggod.com/sheep-not-of-this-sheepfold/