わたしは門です

2021年8月15日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

ヨハネの福音書10章1〜10節

「私は門です」

 

 今日もまたこの場で、またオンラインでご参加くださっている皆さん、おはようございます。皆さんがどこにいてもご一緒できることを嬉しく思います。 私たちはヨハネの福音書の中の「わたしは〜です」というイエス様のみことばに基づく一連のメッセージを続けているところです。先月私たちは、「わたしは世の光です。」と言われる時にイエス様が意図することを再度学びました。今日はキリストがご自身を称して用いられる別のたとえを見つけ出します。今回は「門」です。実は、キリストは異なってはいても密接に関連するたとえである「わたしは良い羊飼いです。…」(ヨハネ10:11)の直前にこの言葉を言っておられます。私は、イエス様が門であるという意味に明確な焦点を保つために、これら二つを可能な限り分けてみたいと思います。しかし、この特別な主の教えについてのメッセージを語るのは私にとって初めてなので、さてどうなるか成り行きを見てみましょう。

 

  門とは何でしょうか? 何に対して開くもので、何に対して閉じるものなのでしょうか? また、どのようにすれば入ることができるのでしょうか? 今日はこれらの疑問に、皆さんと一緒に答えていきたいと思います。それでは取り掛かりましょう。

 

 はじめに、門とは何でしょうか? 皆さんは、特に古い英語の翻訳聖書の中で、「私はドア(扉)です」というイエス様の御言葉を聞いたことがあるかもしれません。そこにおける言葉の意味に事実上の違いはありません。それは単に、ドア(扉)という単語があらゆるタイプの開くものや入り口を意味して使われていたというだけのことです。例えばキングジェームス欽定訳には、「イエスの墓のドア(扉)から石が取りのけられていた。」とあります。それがドア(扉)と呼ばれるために、ドアノブやハンドル、ドア枠や蝶番は必要なく、木材や金属などで作られている必要もなかったのです。

 

 ヨハネ10章でイエス様は、羊飼いや羊、また羊の囲いというイメージを用いておられます。それで 多くの翻訳者は、羊の囲いや羊小屋への入り口を指して表現するためには、ゲート(門)という言葉を使う方がより自然であると判断しています。羊を所有する羊飼いもいましたが、たいがいは少数でした。他の所有者は自ら羊の世話をすることがなく、それらの仕事に従事する羊飼いを雇っていました。羊飼いは日中、食べ物や水、憩いの場所、その他羊が必要とするものを見つけられる場所に、羊の群れを連れ出しました。特に十分な食べ物や水を見つけるために家から遠く離れた場所に行かなければならない時は、夜通しそこで過ごしたかもしれません。(有名なクリスマスの物語では、天使がキリストの誕生を告げに来た時、羊飼いと羊たちは野宿をしていました。)

 

 羊と共に長い時間を野原で過ごしたのち、羊飼いたちは最終的に羊を安全に過ごすことのできる囲いの中に戻します。 それぞれの村には、村の中か近くに、羊と大抵はヤギのための囲いがありました。それは木製の柵(もっと多くは石壁)に囲まれていて、野生動物や強盗が侵入して動物たちを傷つけるのを困難にするものでした。共同の囲いは 保護と安全と平安の場所でした。 多くの場合、そこには別々の羊飼いに属する羊が入っていました。それらの羊はすべて同じゲートを通って出入りします。 たとえ羊たちがごちゃ混ぜになったとしても、さほど問題はありませんでした。なぜなら、羊たちは自分たちの特定の羊飼いの声を知っていましたし、羊飼いは通常それぞれの名前も含めて自分の羊をわかっていましたから。

 

  羊たちを囲いに連れ帰った後には、羊飼いもまた休息が必要でした。 そのため彼らは囲いの中の羊を見守る門番や守衛を雇い、羊たちの安全を確保しました。 これらの人は夜間の警備員でした。 唯一羊飼いだけが門を通り抜けることを許されていました。時折盗人がやってきました。当然彼らは侵入するために柵や壁を乗り越えなければなりません。その頃は有刺鉄線などありませんでしたが、共同の囲いの壁には上部にいばらが置かれ、厄介者たちが羊の群れに到達するのをより困難にしていました。

 

 

  この写真を見れば、イエス様が述べておられるのはどのような状況なのか、ある程度思い浮かべることができるでしょう。 ご覧のとおり、実際に開閉する門なのかどうかはさだかではありません。 しかしもっと重要なのは、少なくとも時には羊飼いが体を張って入口にいることで、囲いへの接近経路を開閉する事実上の門であったということです。なるほどイエス様はすでに、良い羊飼いとしてご自身を描写する次の言葉へといざなっておられるのです。

 

 「羊の囲い」についてはどうでしょうか。私達が先週のユースメッセージで聞いた小麦と雑草のお話の場合同様、それが何を象徴しているのか、イエス様は直接的にも明確にも語ってはおられません。 そのため、別の先生方がこの話を取り上げて語るのを聞くことがあれば、彼らはしばしば多種多様な言葉で「囲い」を紹介することでしょう。 天国、神様の臨在、神の国、救い、良い生き方、平和、教会、ユダヤ教やイスラエル、それらに似かよった何か、あるいはこれらを幾つか組み合わせた何かを表すのだと言うかもしれません。 それらはすべて多くの共通点がありますが、どれも他と厳密に同じではありません。 確かなのは「羊の囲い」が家である――安全と保護と生活の場所であるということです。

 

 しかしながら、そこには聖書学の教師たちが避けようとする神学的問題があります。 この同じ章の後半(16節)で、イエス様はこのように言っておられます。「私には、この囲いに属していないほかの羊がいる。わたしは彼らをも導かなければならない。彼らも私の声を聞き分ける。そうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる。」(NIRV:新国際版聖書) そうです、聖書の教えによれば、「他の」神や天国やイスラエル等々は存在しません。そのため一部の説教者は、羊の囲いの意味を神様の群れ(神の民)が一時的に住む場所のようなものに限定する傾向にあります。個人的には、このように意味を絞り込む必要はないと考えます。なぜならイエス様はこれら他の人々のことを「この囲いに属していない」と言っておられるからです。イエス様は、彼らが絶対にこの囲いに入らないとは言っておられません。羊飼いがまだ彼らを救いに行っていないので、今は大半が入っていませんが、イエス様は救おうとしています。それはイエス様が、ご自身による救いの福音を聞くことになる、ユダヤ人ではない人々のことを言っておられるように思えます。イエス様の死と復活の後、メッセージは彼らに向けて語られ、たくさんの人が彼らの羊飼いであるイエス様を知るようになります。「そうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる。」――それは神様が世の人々に授けたいと切望しておられる平和と一致です。この観点に照らすと、羊の囲いを神の御国として、つまり神様の民が神様のご臨在の中で住まう場所であると理解するのが妥当だと考えます。

 

 ですから「門」は、私たちの羊飼いである神様と共に生きる道に至るものです。その意味において、特権や利権、所有権、そして権威は門の存在の下にあり、羊はこれらから大きな恩恵を受けています。 私たちはすでにここで、ヨハネ14章6節からの「わたしはある」の教えに接近する影を見ているのです。 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

 

 そのことは次の問いを導きます。 門は何に対して開くのでしょう?  総体的な答えは10節の中にあります。 門は「命を得.…それを豊かに持つため」の入り口です。 豊かな命、たっぷりと十分以上に満ち溢れて、ただ存在するだけでなく本当に生きること。 殊に1年半以上に渡るCOVID-19の災禍の後で、それは良い知らせですよね。 私はもっとそれを必要としています――そうではありませんか?  しかし一方で、そのことをより理解する必要もあるのです。 門が開くような豊かな命とはどのようなものでしょう?

 

 さて、イエス様は私たちに特に3つのことを語っておられます。「私を通って入る者は誰でも救われる。また出入りして、多くの食べ物(*日本語訳では牧草)を見つける。」(9節)。 門であるキリストを通して永遠の命に入ることで、私たちは救い、自由、そして備えに至る道を見つけます。 ある意味では、神様がくださる自由と備えの中で生きることは、救われることを意味すると言えるのです。 神様の働きは、ただ命を守ることだけでなく、実際に命をお与えになることです。 さらに救いというものが、この文脈において特別な意味を持つように思われるので、ご自分が羊を救うという発言にイエス様が焦点を合わせていることを、もう少し考えてみましょう。ひとまず、「出入りする」が、毎日自由に羊の囲いを出たり入ったりすることを言い表しているのだと覚えておいてください。それは救われては失われ、救われては失われを繰り返すようなことを意味しているのではありません。それは愛する羊飼いの導きのもとで平安に暮らす様子を描写した言葉です。そのあとに「多くの食べ物(*牧草)を見つける」とあります。羊が門を通って入り、よき羊飼いの保護と自由の中に生きるとき、彼らは詩篇23:1〜3の作者と共に「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ…」と言えるのです。

 

 なるほど、私たちに対して開けてくださるイエス様という門には大きな祝福があるわけです。しかし、門はまた物事を閉め出しておくものでもあります。では、イエス様という門は、何に対して閉じられるのでしょう。他の言い方をすると、特に「盗人で強盗」(8節)についてのお話の中で、門というイメージをお使いになることでイエス様は何を伝えようとしているのでしょう。盗人は「門を通らないでほかの所をよじ登ったり乗り越えて来る」(1節) …「盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするため」(10節) 。 キリストは起こることがわかっていた何かのことを言い表しているのです。盗人は羊の囲いの壁を超えるなどして侵入してくるでしょう。しかし盗人は単純に羊を自分達に従わせて連れ出すことはできません。羊は彼らのことを知らず、その声に従おうとしないからです。それで盗人たちは囲いの中のその場所で羊をほふり、壁の外に放り投げます。その後で羊の体から羊毛や肉をそぎ取るのです。

 

 このようにお話しになるとき、イエス様は単にご自身がお持ちの理論を説明したり、起こり得る何かについて警告をしているわけではありません。多くの点で、それは実際イエス様とその聴衆の目の前で起こったばかりのことなのです。前の9章で何が起こったのかを確認せずに、ヨハネ10章のこの部分にあるキリストの言葉を理解することはできません。生まれつき目の見えない男のことをご記憶でしょう。 イエス様が彼の目を癒したというこのホットニュースは、またたく間にエルサレム中に広まりました。  早速、その男のことを昔から知っているご近所その他の人々が、宗教指導者であるパリサイ人たちのところに彼を連れて行くと、彼らは起こったことに裁定を下そうとし始めます。 神様がこの人に与えてくださった視力という素晴らしい賜物を喜び、共に祝う代わりに、彼らは腹を立てます。 イエス様がこの男の目を癒すことで安息日に「働いた」からです。彼らはすでに心の中でイエス様を拒絶しています。イエス様はただの人であり、神の子であるはずがないと決めつけているのです。今や見えるようになったその男が、一緒になってキリストを非難するのではなく彼らに異議を唱えると、パリサイ人たちは怒って、彼を神殿の外に追い出します。 ごく簡単に言えば、パリサイ人たちは自分たちのコミュニティから彼を追い出すだけでなく、地獄へ追いやるのです。

 

 それとは対照的に、何が起こったかをお聞きになったイエス様は、その男を見つけるまで探し、憐れみと受容をお示しになります。それから彼にご自身が人の子(救い主)であることを告げられます。即座にその男はイエス様を信じる決意をし、主を礼拝し始めます。

 

 しかし、今起きたばかりのことについてイエス様と議論し始めたパリサイ人の何人かは、この時そこにいるのです。彼らパリサイ人とイエス様の新しい弟子( 「かつては見失われていた私が今は見出だされ、見えなかったものが今は見える」*Amazing Graceの歌詞)は、明らかに他の誰よりも、キリストが今、ヨハネ10:1~21(「わたしは門」であり、「良い羊飼い」であること)のすべてを語りかけている相手なのです。ここにいるパリサイ人たちは、イエス様が特に「私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」(10章8節)と言っておられる人たちです。イエス様は偽りの預言者について話しておられるのです。モーセやエリシャのような真の預言者は、不誠実な行動をすることなく、人々を門であるキリストへと向けました。

 

 イエス様は霊的指導者たちを非難しています。彼らが神様の群れの羊飼いという立場にあるからです。彼らは羊の門を通って中に入り、きちんと羊の世話を――それぞれを名前で呼ぶほどに十分羊たちのことを知り、信頼を得、食物や水へと導き、守ることなどをすべきなのです。しかし現実には、彼らは壁を乗り越えて侵入し、ほふって破壊する盗人のようにふるまっています。私たちがこの物語の中で見て取れる限り、彼らはまったく羊のことを気にかけていません。彼ら自身、彼らの立場、彼らの権力、彼らの欲望に関することがすべてです。ヨハネ9章でイエス様が癒やした男を扱ったのはそういうやり方であり、彼らはマタイ23章で偽の羊飼いと評されている種類の人間なのです。その箇所でイエス様はこのように述べています(13節、34節)。

 

 律法学者たちとパリサイ派の人々に災いあれ! あなた方偽善者だ! あなたがたは、人々の前で天の国を閉ざしている。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせまいとする。

 

 だから、私は預言者、知者、学者をあなた方に遣わすが、あなた方はそのうちのある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと迫害して行くであろう。

 

 キリストに従う私たちは、そのような敵対が珍しいことでも想定外のことでもないと覚えておく必要があります。イエス様は私たちにそのようなことに備えるよう教えておられる一方で、ご自身につながり永遠の命という贈り物を手にすることは、私たちが支払う可能性のあるどのような対価より価値があることを知りなさいと教えてくださいます。私たちもまた心に留める必要があるのは、イエス様がここで対峙しているパリサイ人は当時の「良い人々」――多くの良い行いにより特別に神様と近い関係にあると、他の人々に思われていた者たちだということです。彼らを非難することに加わるのは簡単です。しかし、特に神様の民を先導する責任のある私たちのような者は、信仰深く愛に溢れて生きるよう人々を導くことにおいて、神様が私たちに持っておられる高い基準を覚えておかなくてはいけません。そうしなければ、私たちはパリサイ人とともに「盗人」や「強盗」と呼ばれることになりかねません。イエス様を私たちの羊飼いとして従う神様の民を私たちが導くーあるいは導かない、そのやり方ゆえに。

 

 ですからコロサイ人への手紙2:8が私たちに与えてくれる警告を心に刻みましょう。

 

 だれのとりこにもならぬよう気をつけなさい。彼らは空しいだましごとの哲学によってあなたがたをとらえようとします。それは、この世の言い伝えによる幼稚な教えに基づくもので、キリストによるものではありません。

 

 門が何に対して閉ざされるかについてはもう一つの問題があります。 キリストは「門」であることを力強く主張なさるとき、神様が人類のために持っておられるご計画の中に命へと導く門は他にないとも言っておられます。  15の門はありません。 ただ壁に穴を開けて新しい門を作ることは、誰にも認められていません。  ただ1つなのです。 特定の体制や礼拝のスタイルに従うという善行の門はありません――正統な集団に生まれるという伝統の門とか、何か他に神の御国での命に入ることを私たちに許可するものなどないのです。 私たちは、容易さ、快適さ、人気、成功、成果、財産、その他何であれ、それが命の門だと判断してしまうかもしれません。 しかしキリストは、これらが誤った希望であると私たちに警告しています。 もしも私たちがそれらに生活の基盤を置くならば、最後にはそれらが、私たちが持つ「(私たちの)魂の牧者であり監督者」(Iペテロ2:25)のリーダーシップの下に生きるというただひとつの本当の機会を、私たちから奪うことでしょう。

 

 それはイエス様が次のように述べられた際に話しておられたことです。(マタイ7:13〜16)

 

 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。偽預言者に注意しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲な狼である。あなたがたは、その実で(*英文では「行動によって」)彼らを見分ける。

 

 でもイエス様、あなたが唯一の道であると主張なさるのは懐が狭くはありませんか? 他の世界観を排除するかわりに、もっと協調すべきではありませんか? 私がキリストにそのような疑問を問いかけるとき、その答えとして私が聞くと思うことは、ご自身が「門」であるというキリストの教えは、もしもそれが真実でないのなら狭量だということです。しかしそれは真実であり、また真実であるからこそ、それに従って皆さんの人生を整えること以上に賢明な生き方はありません。 もし私が自分自身のためにその主張をしたか、ただ自分が真実だと思ったという理由だけでその信念を譲らないのなら、それは傲慢で偏屈ということになります。 しかし、神様は神様であり、何が真実であるかを述べるすべての権利を持っておられます。 イエス様は「大きな門」はだれでも受け入れるが、狭い門のように羊を保護するものではないと言われます。 実際、もしも私が、真実を主張するすべてにはメリットがあるし、ひょっとすると同等のメリットだと断言するなら、事実上私はそれらすべての独自性を否定していることになります。  あの「多くの道が富士山の頂上に通じている。」という議論は、伝統的なユダヤ教やキリスト教、イスラム教、その他の一神教の基本的な教えを切り取ったものです。それは多くの点で包括的ではなく排他的です。

 

 西洋の多くのような現代文化にあって、「門」であり「道で、真理で、命」であるというキリストの主張は、「表現力豊かな個人主義」の中で受け入れられている信念に逆らうものです。「 私は誰であろうと自分が選択した人物になるし、他の誰もそれが誰なのかを私に命じることはできない。また、心の内で感じることを表現することで私は最高の充実感を見つけられる…という発想に人気が高まっています。 自分は神様がそのように創造された自分であり、神様との愛と信頼の関係の中で見いだした人物になることによって最大の充実感を見つける、というクリスチャンの信念は、最新文化の価値観の機嫌をますますはっきりと損ねてしまう可能性があります。 それでもそれは真実であり続けます。  キリストに従う人たちが、第一テモテ2章5節の教えを信頼できるものと見なすことに変わりはありません。 「神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです。」 私たちはペテロが使徒の働き4章12節で語ったとき、真実を言っていたと信じます。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないのです。」

 

 もしこれが真実ならば、キリスト教の信仰が考えているように、「私は門です」は実のところ完璧にすべてを含んだ教えです。なぜならそれは、入って行こうとする者ならだれにとっても、命と平和、そして完全性へと至る道を示してくれるものからです。 一部の人々を排他的に燃やし、他の人のためにおいしい料理を作るというやり方においてのみ、火は排他的であるのです。火が良い結果や悪い結果を招くわけではないし、まして一人の人がそれを慎重に扱うか不注意に扱うかを決める選択のせいでもありません。言い換えれば、「私は門です」は、正確には人生の現実、世の中の仕組みを言い表しているのです。それが狭いのなら、それは真理の狭さです。 もしも私たちが、救いと、自由と、備えの中で生きること――完全に生きることを欲するなら、キリストを通る必要があります。 その真実から締め出された人々だけが、それを受け入れないことによって彼ら自身を締め出すのです。

 

 イエス様はご自分を、人々が羊の囲いに入るためになんとかしてよじ登らなければならない高さ3メートルの壁としてお示しになることもできました。皆さんがイエス様の港に入るために泳いで渡らなければならない「私は海です」と言うことも可能でした。 「私はトンネルです」と宣言なさり、私たちが遠く離れた向こう側で待っているイエス様を見つけるために暗闇の中を通る道を手探りしなければならないようにもできたのです。 しかし、イエス様はご自分をこれらのように称したりなさいません。 イエス様は門を通り抜ける意思のある誰に対しても適用できる救いの道を用意してくださり、羊の囲いに入ることのできる方法を明確になさっています。

 

 

 それはどんな方法でしょうか?  イエス様は3章で3つのことを指摘されています。 

「羊はその声を聞き分ける。彼は自分の羊の名を呼んで連れ出す。」 羊飼いである神様は、とりわけ聖書を通し、また教会、祈り、私たちの個人的な経験や他の方法を通じて、いつも私たちに語りかけておられます。 一方、どこかの時点で、私たちは個人的に耳を傾けるようになります。たとえば教会でのこのようなメッセージや、友人との会話などを通してです。そののち、神様が世界全体に対して大々的な告知をしているだけではなく、わたしたち――皆さんや私、神様の世界にいる一人一人を個人的に気にかけてくださっていることに気づく時が来ます。神様は私たちの名前だけでなく、私たちのすべて――良いところも悪いところも醜いところをも知っておられ、それでもなお私たちをご自身のものになさろうと欲しておられます。 神様は、いつなんどきでも私たちの人生の旅に寄り添い導くために、神様に信頼し従うようにと私たちに呼びかけておられます。 そして、私たちが神様の導くところについて行くことを誓約する準備が整ったとき、重要な転機が訪れます。 私たちは信仰の歩みを開始し、自分の時間の過ごし方や人々と話す際に用いる言葉、追い求めることを決めた目標、そして自身の生活のすべての部分についての決断を神様の導きに委ね始めます。神様は、私たちが一歩ずつ歩み従うとき、門を通って「(私たちを)導き出して」くださるのです。 

 

 あなたがクリスチャンなら、すでにその信仰の旅を始め、羊飼いに従って門を通り抜けたことでしょう。 もしもまだキリストに従う者ではない方々が聞いておられるなら、あなたは今日、キリストのご配慮の下に人生を始める準備ができているのかもしれません。 皆さんがどのような状態であれ、招待状は皆さんに向けて開かれています。 キリストはそれを明らかにしておられます。「わたしは門です。」と。 私たち全員が、日々益々そのようにキリストを知るようになりますように祈りましょう。

 

    主よ、私たちは今、門であるイエス様がどのようにして私たちに安全と休息 に「入り」、また私たちの必要の補給と元気の回復のために「出る」道をお与えくださるのか(9節)という新たなメッセージを、再び心に刻みます。神様、私たちは羊飼いが世話する羊たちが、羊の囲いの中にいて、正しい門を通って出入りし、羊飼いの導きの下であらゆる必要への備えを見つけることで、野生動物や盗人や事故からどのように救われるかを見ます。 私たちがあなたに目を向けながら、あなたの手から私たちが日々必要とする保護や自由、そして備えを受け取る習慣を築くことができますよう助けてください。 そして、私たちがあなたの声を聞いて認識し、信仰によってあなたと共に歩くという経験をより多く積む機会として、毎日を用いるように助けてください。 このことを通して、私たちがあなたをより完全に知り、あなたとあなたの保護から私たちを遠ざける他の声をもっと躊躇なく拒むことができるようにしてください。これが私たちの祈りです。門であり、私たちの主である救い主キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

参考

 

Lawson, S. (2017, October 18). I AM the Door. BCDallas Video. Retrieved July 29,       2021 from https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=arCNra-XIPs         &t=1398s

 

MacArthur, J. (2014, August 12). I Am the Door. Grace to You. Retrieved July 23,       2021 from https://www.youtube.com/watch?v=ANvoTfDSZgc&t=1554s

 

Myers, J. (n.d.). Who Are the Sheep Not of This Sheepfold? Illustration. Retrieved      August 9, 2021 from https://redeeminggod.com/sheep-not-of-this-sheepfold/

 

Sproul, R. C. (2017, March 25). I Am the Sheepgate-Part 1. Retrieved July 28, 2021     from https://www.youtube.com/watch?v=8_mFGAnP8Ss&t=301s, https://               www.youtube.com/watch?v=0KqZZAGJ1XI, and https://www.youtube.com/               watch?v=AnH1LiK-AdI