イエスに従う人々の生き方

2021年7月25日主日礼拝「イエスに従う人々の生き方」ルカ6:27~36

佐々木俊一牧師

■7月23日、ついに東京オリンピックがスタートしました。本当だったら、2020年に開催されるはずでした。2019年に、1964年の前回東京オリンピックまでの歴史的な背景や流れを描いた大河ドラマが放映されていました。また、2020年の東京オリンピックを盛り上げるために、数々のイベントが催されてきました。それが、2020年になってわずか1カ月後には、コロナ禍へと世界は突入し、翻弄されて今に至っています。2021年7月現在、世界は以前のような世界ではないと、誰もが感じているのではないでしょうか。

 しかし、そのような中にあっても、イエス・キリストは昨日も今日もこれからもずっと変わることはありません。私たちを愛し、共にいて導いてくださるお方です。

 それでは、今日の本題、「イエスに従う人々の生き方」について共に見て行きたいと思います。

■今日は、ルカ6:27から読んでいただきました。そこには、イエスに従う人々の生き方が書かれてあります。そして、今日は読んではいないのですが、ルカ6:27の前、24節から26節には、イエスに従わない人々の生き方について書かれてあります。これらのことを語る時に、ルカ6:20を見るとわかるのですが、イエス様は目を上げて、弟子たちを見つめながら、真剣にこのことを語ったのです。

 ルカ6:24から26をお読みしたいと思います。

「しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。」

 イエスに従わない人々、ここでは、イエス様に敵対するパリサイ人や律法学者、祭司などの宗教家のことを指しているのだと思います。こういった人々の生き方が、24節から26節に表されています。その生き方は、神様の価値観によるのではなく、この世の基準で考えた幸せなライフスタイルを見ることができます。この世の価値観に土台を置いた生き方とはどんな生き方でしょうか。

①  富を追い求める生き方(24節): お金がすべてである。お金があれば幸せになれる。お金があればまず安心である。苦しいことや辛いことがあってもお金があればそれによって慰められる。しかし、その幸せや安心や慰めは本物なのでしょうか。多くの大金持ちが、満たされない心を何かで埋めるために、アルコールやドラッグやセックスや買い物や食べ物の中毒になっています。生きていくためにお金は必要です。しかし、お金が人を幸せな気分にできるのは、ほんの一瞬です。人は富だけでは幸せにはなりません。本当に豊かな人生を送るため必要なことは、まず、私たちを造られた神様を知ることです。私たちを造られた神様との交わりがあって初めて、確かな、慰めと安心と満足が得られます。

②  飽食を追い求める生き方(25節): 飽きるほど食べることです。食べることはよいことですし、楽しいことです。しかし、欲というのはどんどんエスカレートして行きます。いつの間にか自分の食欲を満たすことだけを求めるようになります。日本でもアメリカでも、毎日何とたくさんの食べ残しが、家庭から、レストランから、コンビニから捨てられていることでしょう。このようなライフスタイルがいつまでも許されるはずがありません。いつか必ず、食糧不足という問題にぶつかります。その時、私たちは、飢える者になり、哀れな者となるでしょう。現在、世界のどこかでは、何億もの人々が十分な食べ物がありません。これは、一日も早く解決しなければならない難題です。

③  快楽を追い求める生き方(25節): 笑うことも楽しむこともよいことです。しかし、私たちを造られた神様に目を向けることも耳を傾けることもなければ、その笑いや楽しみはただの快楽です。唯物的で人間中心の考えをもってこの地上だけの楽しみを追求するならば、それは快楽です。この世には、映画、音楽、スポーツ、お笑いなど、多種多様のエンターテイメントがありますが、もしも、それらが私たちの心を神様から引き離しているとしたら、その笑いは虚しく、この地上で絶えてしまいます。

④  地位・名声を追い求める生き方(26節): 良いことについてほめたり、ほめられたりすることは悪いことではありません。私たちはお互いにほめることによって励まされます。けれども、人の心は、神様にほめられるよりもこの世にほめられることを求めます。人にほめられないと、何か報われていないような気になったりします。しかし、本当にほめられるべきことは、神様は知っていても人の目からは隠されていることがよくあるのです。そのようなとき、人から評価されなくても、神様はしっかりと見ておられることを忘れてはなりません。

■この世の価値観にすっぽりと埋まって生きていくならば、その人は神様から報いを期待することはできません。その人は自分で望むように、十分にこの世から報いを受けているからです。そのような生き方は幸せに見えますが、本当のところは、一時的で不安定な歩みです。いつひっくり返るかわかりません。

それに対して、神様を信じ神様の価値観に立って歩む人は、神様の報いを期待して生きる人です。その人は、確かに神様の報いを受けます。神様の守りがあり祝福があります。しかも、それは一時的なことではなく、永遠に続くのです。

 お金持ちの人は幸せに見えますが、神様を知らないのなら、哀れな人です。好きなものを腹いっぱい食べることができる人は幸せに見えますが、神様を知らないのなら、哀れな人です。毎日笑って暮らしている人は幸せに見えますが、神様を知らないのなら、哀れな人です。有名な人や地位のある人は幸せに見えますが、神様を知らないのなら、哀れな人です。神様を知っている人には、たとえ、全世界を手に入れたとしても得ることのできない、価値ある報いが確実にあるのです。そのことを再確認していただきたいと思います。

■それでは、次に、イエスに従う人々の生き方について見て行きましょう。今日の説教箇所を先ほど読んでいただきました。ルカ6:27~36で神様が私たちに言っておられることは、「敵を愛すること」です。それでは、敵とはどのような人を指すのでしょうか。

①あなたを憎む者(27節)②あなたをのろう者(28節)③あなたを侮辱する者(28節)④あなたに暴力を振るう者(29節)⑤あなたの所有物を奪う者(29節)

 私たちはこれらの人々を愛することができるでしょうか。答えは、ノーです。しかし、イエス様はここで、「敵を愛しなさい。」と言っています。それでは、敵を愛するとは実際にどうすることなのでしょうか。

①敵に対して善を行なうこと。②敵を祝福すること。③敵のために祈ること。④暴力に対し暴力で仕返しをしないこと。⑤奪い取る者には欲しいだけあげること。

 これらのことを通して私たちは敵を愛することができます。とは言っても、私たちにこのようことができるでしょうか。答えは、ノーです。それでは、私たちはどうしたらよいのでしょうか。まず、できない自分を認めることが大切です。そして、そのことを、自分についても他の人についても認めるべきです。私たちにはできないのです。

これらのことを律法的にとらえないようにしましょう。もしもあなたが本当にイエス・キリストを信じているのならできるはずだとか、また、もしもあなたが本当に救われているのならできるはずだとか、言われたり、思ったりしたことはありませんか。そのようなサタンの偽りは退けてください。このような時、自分の信仰や救いについて揺るがされないようにしましょう。私たちは、けっして自分の力で敵を愛することはできません。神の力、聖霊の力が必要なのです。ここでイエス様が言っておられることは、私たちクリスチャンにとって、ものさしであり目標とすべきところです。

 聖霊の助けがなければ、私たちは世の人々と何の違いもありません。自分を愛する者を愛したり、自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたり、与えた分を返してもらうつもりで与えたりなど、自分の力ではこの程度のことしかできないのです。けれども、私たちの内に聖霊が住んでおられます。聖霊に助けを求めるならば、聖霊の力によって敵を愛することができるのです。ですから、このようなことが出来たときには、すべての栄光を主に帰し、主に感謝し、神様は素晴らしいお方であることをたたえましょう。

■ルカ6:35~36にこう書かれています。「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方のこどもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」

 天の神様は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いお方なのです。そうです。神様は恩知らずの悪人にも憐れみ深いお方なのです。神様の心は広く、そして、寛容で寛大なのです。マタイ5:45では、このようにも言っています。「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」

 神様は契約の神様です。悪い人も良い人も、正しい人も正しくない人も、誰でも受けることのできる神の約束があります。それは、ノア契約に基づいています。ノア契約とは創世記9章にあるように、神様とすべての地上の肉なるものとの間の永遠の祝福の契約なのです。そのしるしは虹です。神様はノア契約によってすべての生けるもののこの地上の営みを祝福してくださいました。

 しかし、ノア契約は救いの契約ではありません。ルカ6:35で、「そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。」とありますが、これは、救いについて言っているのではありません。救いについての契約は、遡るとその始まりはアブラハム契約にあるのです。アブラハムの系図上の子孫であるイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのです。それでは、ルカ6:35で言っていることはどういうことなのでしょうか。ひとつは、敵を愛することは、神の子としてふさわしいことであるということです。なぜならば、神は悪人にもあわれみ深く寛大なお方であるからです。ですから、イエスに従う人々は悪人にもあわれみ深く寛大であることは神の子としてふさわしいことなのです。もうひとつは、敵を愛することは、何か損をしているように思われますが、神の子としてふさわしく歩むことにより、天にすばらしい報いを積んでいるのです。

■イエス様はこれらの話を座っていたか、しゃがんでいたか、そんな姿勢で弟子たちを見上げて、弟子たち一人一人を見つめながら語っていました。それだけに、イエス様はこの話を真剣に弟子たちに向かって話されました。同じように、イエス様は私たちに対しても、私たちを見つめてこの話をしているのだと思います。

 終わりに、1カ所、お読みしたいと思います。列王記Ⅱ6:18~23をお読みします。ここで見ることは、イスラエルの王が預言者エリシャの導きに従って、捕虜となった敵を殺さないで、反対に彼らをもてなして自国に戻らせた結果、彼らは二度と襲ってこなくなったということなのです。このように、敵に対し善をなし、祝福し、祈る時、神様が働いて素晴らしいことをなしてくださるのです。神様が導かれるならば、私たちの力ではできないことでも、神様に祈り、そして、従いましょう。私たちはきっと、そこに神様のすばらしいみわざを見ることでしょう。そのようにして、イエスに従う人々の生き方をまっとうしていきましょう。それではお祈りします。