わたしはいのちのパンです

2021年6月20日英語礼拝

わたしはいのちのパンです

ヨハネの福音書6章25〜59節(35節を中心に)

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

  記憶力の良い方ならば、 何年か前に『「わたしは(が)~」というキリストのみことば』に関するメッセージのシリーズを探索したことを思い出されるでしょう。そこでは、イエス様がご自身について語られる際、実際に神様の御名前を用いられたお話をいくつか学びました。 例えば、ある日イエス様が井戸端で出会ったサマリアの女に話し掛ける場面では、神の御子であるメシアについて「わたしがそれです。」(ヨハネ4章26節)と言われました。また、嵐の最中、水の上を歩いて弟子たちのところへやって来たイエス様を見た時、幽霊だと思った弟子たちの恐れを、イエス様は同じ言葉(ego eimi :この場合「それはわたしです」と訳される)を発することで取り除きました。ヨハネの福音書に記されているこの話は、マタイの福音書にも同様に書かれており、イエス様が何千人もの群衆にパンを分け与えた物語のすぐ後に位置します。

 

 このことは、私たちがこれから学ぶ「わたしはいのちのパンです」という説教の直前に起こっています。それはヨハネの福音書の7つの特有な部分の一つで、 私たちが以前学んだ「わたしは」という発言とは分けて考えられ、伝統的にはヨハネの福音書における「わたしは(が)〜」というキリストのみことばと呼ばれています。その他は以下です。

 

   「わたしは世の光です」(ヨハネ8章)。

   「わたしは、門です…」(ヨハネ10章)。

   「わたしは、良い牧者です」(ヨハネ10章)。

   「わたしはよみがえりです。いのちです」(ヨハネ11章)。

      「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14章)。

      「わたしはぶどうの木です」(ヨハネ15章)。

 

 皆さんはこれらのほとんどが隠喩的なものであり、他はもっと教訓的なものに分類されることにお気づきになるでしょう。 ほとんどの言葉は日常の暮らしから取り出したもので、イエス様の時代のユダヤ人を背景に持つ人々のみならず、多くの文化圏の人々によく知られる言葉です。 それらは、ヨハネが用いる「水」や「子羊」その他の語彙のように、非常にシンプルながら深い意味を持つものです。 

 

 イエス様は実際、「わたしは(が)〜」という言葉を福音書の中で優に7回以上用いられ、 これらの例の多くで、ご自身に関するいくつかの重要な事柄を示しておられます。まさにこれら7つの「わたしは(が)〜」という発言は、イエス様のご生涯とメッセージの中心ですから、今日から皆さんと一緒に探求したいと思います。

 

    ご自身がいのちのパンであることに関するキリストの教えは、初めは、もっと小さくて限定的なものから始まりましたが、イエス様はそれを出発点として用い、間もなく大いなる高みへと到達させています。それは、既に述べたとおり、前日にはイエス様と共にいた人々から始まりました。彼らは今や熱心な捜索によって、ガラリア湖を渡った向こう岸にイエス様を見つけるほどです。 人々は「イエス様、湖の向こう岸からどのようにしてここにお着きになったのですか?」というようなことを知りたがっています。 彼らは紛れもなくこう尋ねたいのです。「昨日の素晴らしい奇跡はどうやって行ったのですか? それとあの無償の食糧をもう少し手に入れることはできますか? 実際のところ、いつでもそのようにされたいと考えておられるでしょうか? それは私たちのために実に素晴らしい可能性を開いてくれるでしょう。食べ物を得るために働く必要がないことで、私たちが持てる自由な時間を考えてみて下さい!  あるいは、そのようなすべての製造コストがかからないパンを販売するビジネスを始めれば、きっとお金持ちになることができるでしょう。 もっと言えば、何もないところからパンを作り出すことが可能なら、他のことだってお出来になるでしょう? あなたにできないことがあるのでしょうか?  あなたは私たちが政府を動かす上で必要としているお方です。 もしあなたが王だったなら、ローマ人を私たちの国から追い出し、自由になることができたでしょう。」

 

 イエス様は彼らの心配事が重要でないとは考えておられません。いずれにしろ、この国のほとんどの人々は、収入の約85%を食糧に費やさなければならないほど貧しかったと推定されています。もしもイエス様が彼らの肉体的な必要を気にかけていなかったなら、パンを作るという奇跡は行わなかったでしょう。しかしながらイエス様は、人々の最も深遠なる幸福は、生きるために働く義務を負わなくなることで得られるものではないと知っておられます。そして彼らの政治的な要求でさえ、最大の幸福ではないということも。ですからイエス様は彼らに言うのです。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」 イエス様は、神様がイスラエルの人々に天からパン(マナ)を提供したという有名な旧約聖書の物語(出エジプト記16章)においてすら、パンは人々を短い期間助けただけだったと指摘なさいます。彼らは間もなく再び空腹を覚え、最後には年老いて死んでしまいました(ヨハネ6章58節)。  食べ物は良いものですが、神様はもっと良いものをお持ちです。それは、私たちの身体にさらに数時間の活力を与えるだけのものではない、すべての中で最高の贈り物――永遠の命です。  「...このパンを食べる者は永遠に生きるのです。」

 

 もし、それが皆さんに適用されるなら、より多くの食糧を手に入れるためにすべての時間を費やすことには意味がありません。それでは善いものが最善のものの敵となってしまいます。キリストはご自分の民に対し、より大きな夢を持っておられます。私たちが永遠に続かない物事に、時間やエネルギーや関心を多く向け過ぎることを望んではおられません。そのようにすれば、私たちは危機に――いつの日か私たちの人生に終りが来る時、本当に残っているものは僅かしかないという危険性にさらされます。私たちはすでに流行りのスタイルやトレンドのように去来する物事に日々を費やしています。日々の暮らしの必要を心配することが、神様が私たちに持ち続けておられる展望である、もっと大きな目的や好機を見えなくさせるのを許しています。私たちは差し迫った何かに没頭するあまり、大切なことを後回しにしてしまっているのです。 忙しくも空虚な生活は、神様がご自分の民に望んでおられることではありません。

 

 そのためイエス様は聴衆の目をより高いものに向けられます。イエス様が会話の中に持ち込まれる質問は、 以下のようなものです。

 

  キリストとは誰で、神様とは誰のことか?

    どのようなお方か?

    どのような家に住んでいるのか?

    イエス様が行う奇跡にはどのような意味があるのか?

  神様は私たちに何を望んでおられるのか?

    どうすれば神様に受け入れられるのか?

    どうすれば天国に行くことができるのか?

    神様のご意志は人間の自由意志とどのように関わっているのか?

 

 

 イエス様が、この特定の聴衆に対しそのような大きな質問を取り上げることは、非常に大胆であるように思えます。彼らはかなり挑発的に、ご自分がそうだと主張する人物であると証明するために奇跡を起こすよう、イエス様を促します。  「それでは、私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行なってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。」(30節) 彼らは、もしイエス様がモーセのような偉大な人物であるなら、モーセがイスラエル人のために行ったように、彼らのために大量の食物を生み出してくれるであろうことを示唆しているのです。実際には人々に食物を与えたのはモーセではなく神様であることを、イエス様は彼らに思い出させなければなりませんでした(32節)。「何か特別なものを見せてくだされば、あなたが神様のもとから来たと信じる理由になります。」 本当でしょうか? イエス様は昨日そうしたばかりです。それに、ヨハネが言及しているように、イエス様が奇跡を行なった際、彼らのうち何人かはそこにいたのです。 それ以上何の証拠が必要なのでしょう?  このことは、ヨハネ18章でピラトがイエス様に「真理とは何か?」と尋ねたことによく似ています。ピラトは真実を目の当たりにしていました――道、真理、いのち(ヨハネ14章6節)です。 ピラトのように、奇跡を受け取ったばかりの時に奇跡を求める人々は、率直な質問や信じる理由への欲求以外の何かを心に抱いているように思えます。

 

  しかし、とにかくイエス様は彼らに教えておられます。 イエス様は彼らに真理とそれを受け取る機会を与えます。私たちはそこから多くの希望を得ることができます。 私たちは毎週日曜日に神様の家を訪れるその度に、純粋な動機と自発的な精神で神様のみ前に来て、信仰において成長することを熱望しているとは断言できませんよね?  神様の信仰の学校では出来の悪い生徒かもしれません。 しかしながら、神様の優しさと知恵は、私たちの自己中心性や信仰の弱さを凌ぐほど大きいのです。 神様は私たちが必要としているものを、適切な時期にそれを私たちが受け取る準備が整うことを信頼しつつ、辛抱強く提供し続けて下さいます。 

 

   パンもそのようなものではないでしょうか。それは与えられるものです。穀物が育った後、収穫され、加工され、それからパンが用意されて焼かれたのち、誰かが食事の用意ができましたよと言って他の人を呼びます。イエス様が教えておられる当時のパレスチナにおけるユダヤ人の家族では、 穀物と言えば普通小麦か大麦で、通常調理するのは女性です。準備が整ったら、パンは食べる人のために引き裂いたり切ったりされます。 食事をする人は手を差し出してパン切れを受け取るか、あるいは(ヨハネ13章26節にある最後の晩餐の場面でイエス様がユダにしたように)ホストが客人に手渡すこともあります。 もちろん、誰かの喉にパンを押し込むことはその過程には含まれません。 パンは愛情を込めて丁寧に調理され、受け取る準備ができている人に与えられるものです。

 

  神様は食べ物を準備して与える女性のようだと、イエス様は示しておられます。 女性が家族のために、栄養があって美味しいものと一緒に楽しい時間を共に過ごせるよう心配りしたいと思うように、神様はご自身の民に命を与えたいのだとイエス様は言われました。  「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちを終わりの日によみがえらせます。」(40節)。

 

  私たちもそれを望んでいるのですよね。 私たちは、キリストが私たちに命じられたように、私たちが住んでいる場所でキリストの福音を広めるために祈り、働きます。 また、人々がこの世界に生き永遠へと足を踏み入れるかどうかは、イエス様への信仰のあるなしによって天と地ほど違うものになると私たちは信じています。 ですから、私たちは一人でも多くの人が、少しでも早く、信仰を通して神様を知り、永遠の命という贈り物を受け取って欲しいと願うのです。私たちはもっと多くの人々を救いの信仰に導くことができるよう、計画を立てて、お金と時間と労力を費やします。しかし、それは簡単な仕事ではありませんよね。 長年にわたる福音宣教においてさえ、人々の数や活動などの結果は、落胆するほど小さいように思えるかもしれませんね。

 

  このような状況にあるクリスチャンに対し、イエス様は重要な気付きを与えてくださいます。福音を広めるための働きは難しいだけではありません。 事実、イエス様は「私をお遣わしになった父が引き寄せてくだされなければ、誰も私のもとに来ることはできない。」(44節)と言っておられます。 そうです、信仰は初めから終わりまで神様の贈り物なのです。 私たちは福音を伝えることによってその種を蒔くため、忠実に働かなければなりません。 そして私たちがそうするならば、神様は蒔かれた種が強く健康な植物へと成長することを可能にしてくださるのです――神様の時と方法によって。  「父から聞いて学んだ者は皆、私のもとに来る。」とイエス様はお約束されます(45節)。 しかし、私たちは信仰を生産したり、無理強いしたり、信仰に入るよう人々を操ったりすることはできません。 そのように機能するものではないし、神様がそうするように仰ることは決してありません。 数字で測られる結果を生み出すことにプレッシャーを感じるならば、それは私たちの主を越えた別のところから来ています。 キリストは37節の中で素晴らしい約束をしてくださいます。「父が私にお与えになる人は皆、私のもとに来る。」と。その言葉は、私たちがキリスト教宣教において目に見える結果にもがく時、頼みの綱とするに十分です。結果を神様の御手に委ねられるという確信を持って、積極的かつ忠実に奉仕しましょう。

 

 最終的に、救いと断罪、生と死、天国と地獄という問題は神様の御手の中にあります。私達はその真実の中で休むことができます。しかし、それだけではありません。 イエス様は37節の教えを「父が私にお与えになる人は皆、私のもとに来る。」で終わりにはなさいません。 このように続けてもいます。「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。」 そう、神様が支配しています。世界を動かす神様のご意志は、何にも増して重要なのです。ですからイエス様は何度でもいのちのパンという表現を用いて、ご自身が「天から」来られたことを強調なさいます。この文言はヨハネの福音書6章25節〜59節の中に10回出てきます。さらに神様はその深い愛の中で、人としてどのように生きるのかを決めるという、驚くほどの自由を私たちに与えてくださいました。その自由には、いのちのパンであるイエス様を通してなされる、命に関する神様のご提案に対する私達の応答が含まれます。王としての神様の支配は、決して私達の自由を打ち消すものではないのです。

 

 そこには小さな謎、ひとつの矛盾があります。 私たち人間の限られた知性では、これがどのように作用するのか、正確に捉えることができないかもしれません。しかし神様は、ご自身の意志と人間の自由意志が互いに引き合いながら共存することを許しておられます。  橋梁建設者なら、このことについて何かしら知見があるかもしれません。安全な橋を架けるための重要な鍵の一つは張力です。 たとえば札幌のミュンヘン大橋は、片側が豊平川の東岸に堅く設置されており、同様に西側に位置する場所にもしっかりと固定されています。 もしも一方の側が緩んでしまうと、橋全体が深刻な危険にさらされます。 すべての橋同様、橋が橋として存在することは張力に大きく依存するのです。 同じように、人々を救うという神様の選択は霊的な実在です。 さらに、この贈り物を受け取る私達の選択の自由もそうなのです。  二つの真実は引き合う中で存在します。 一方が他方を帳消しにすることはない――それらは異なってはいても矛盾するものではないのです。 いかにして人々が救われるのかを明確に理解するには、その両方が必要であるとイエス様は教えておられます。

 

 人々が救われる方法について、イエス様は他に何を教えておられるでしょう?  救いは善行をたくさんすることによって獲得するものではないとイエス様は言われます。

  「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」とイエス様は言われます(29節)。(旧約聖書の律法の背景が非常に強い聴衆は、イエス様が27節で「パンよりも永く続くもののために働きなさい」と彼らに言われたとき困惑したようです。) イエス様は、救いは信仰を通してもたらされると説かれます。「私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」(35節)

私達の生活、とりわけ霊的な生活の全ては神様から来るのですから、皆さんも私も、両手でパンを受け取って口に運ぶように――感謝を込めて、喜んで、自由な意思でそれを受け取らなければなりません。私達は、私達が自分自身を作ったのではないけれど、神様から命を受け取ることを通して、神様の優しさの贈り物を享受し続けるチャンスを授かっていると理解する必要があります。

 

 これまでにキリストから聞いたことを要約すると、パンは与えられているのです。 それが神様側からの救いの過程です。 しかし既に見てきたように、人間である私達の側にもまた存在するものです。パンは受け取られてもいます。皆さんはそれを口に運ぶことを選択します。 キリストを命のパンとして受け入れるということは、キリストを皆さんの心と人生に喜んで迎え入れることを意味します。 パンは空腹への反応として食されます。 聖霊は、キリストのメッセージを聞いた人々の心の中に、キリストを知り、キリストに加わりたいという欲求を生み出します。 聖霊は私たちを聖霊だけがなせる方法で神様に引き寄せます。 それがどのようになされるのかを正確に説明するよう私に求めるのはやめてくださいね。 人々がなぜ恋に落ちるのかを言葉で表す以上に、それを分析するのは不可能でしょうから。でも、それは起こるのです。 私たちは自身の経験からそれを知っています。 そして、その中核となるのは、たとえ聖霊が私たちに近づいてくださるときでも、自ら聖霊に向かって信仰の歩みを進めなければならないということです。 別の言い方をすれば、列車が準備されて札幌駅で待機しているとしても、私達が乗車することを選択しなくてはいけないのです。そうしてようやく、キリストが私達の中にあると考える人生を変える現実に相応したキリストへの信仰が始まるのです。

 

 救われる過程の中で私達の役割を果たすとは、どういう意味でしょうか?  イエス様の言葉は、シンプルでありながら意義深い3つの段階を示してくれますので、それらをもう少し見てみましょう。 しかしその前に気をつけていただきたいのは、キリストが用いておられるシンプルな言葉づかいが安易で浅薄な教えの表れだと誤解しないようにということです。 もしも私たちがそれらを日常生活に適用させ、私達の思考や言動の指標とするならば、そのときそれらは深遠で力強いものとなります。 それらが神様ご自身とのより深い関係に私たちを導くにつれ、私たちの中での現実となるのです。

  最初の段階はキリストのもとに来ることです。 キリストはこのことについて35節で、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがない」と言い、それから再び37、44、45節で語っておられます。 救いの過程における他の段階と同様、これらはイエス様に従うために各人が受け入れるべきものです。 以前私がユースのメッセージで述べたように、パンは人々を結びつけますし、キリストにある生活は共同体での生活です。それはキリスト教の信仰において非常に重要ですが、ここで主は、信仰に命を吹き込むために各々が何をすべきかに焦点を当てておられます。  イエス様は、「教会に来る者は~」あるいは「宗教のもとに~」とか「文化的伝統のもとに~」とは言っておられません。キリストはご自身のもとに来るように人々を招いておられるのです。もちろん、皆さんがそうすればキリストは皆さんを教会に置かれますし、キリスト教は宗教であり、私達には伝統があります。しかし決して、そのようなものが私達の命と救いの源であると勘違いしてはなりません。それは、ただキリストにおいてのみあるのです。

 

    それからイエス様は(40節で)「(ご自身を)見よ」と教えられます。  そこには奇跡か何かを見るためにイエス様を探している人々がいました(26節)が、イエス様は人々にご自身へと目を向けてほしいのです。それは話が別なのです。それは「永遠のいのちを得る」(40節)ことに至る上で必須のステップです。 単にキリストについて非常に好奇心をそそられて、たくさんの情報をかき集めるということを超えています。 キリストを真剣に受け入れ、信仰を持ってキリストに従うことを約束するなら、どのような変化が皆さんの人生にもたらされるかを深く考えることなのです。

 

 それから次に、極めて重要な段階――それはイエス・キリストを信じることです。 イエス様は40節で「(ご自身を)信じる」人々について語っておられます。(29節と35節でもお話しになっていて、「信じる」はこの節に更に3回現れます。) 信じるとは単純にキリストに関する物事を信じることではなく、さらに大きな重みのあることです。 それはキリストご自身を信じることであり、キリストと結びつくようになるということです。 そのことはキリストに信頼し愛に基づいた関係を始めることが、この先皆さんの人生の中心になるであろうことに対し「はい」と言うことを意味します。 現実にキリストに従う者となることを選ぶということなのです。

 

 そしてそれはイエス様が今日もなお、そうするようにと世界中の人々を招いておられることです。 イエス様は私たちに対し、いのちのパンであるご自身をもっと個人的に知るようにと、そしてたくさんの人々にキリストの弟子として私たちに加わる機会を提供するために共に働こうと、呼びかけ続けておられます。 私達がそうするのを助けて下さいと、今、主にお願いしましょう。 ご一緒にお願いしてくださいますか?

 

 天の父なる神様、あなたの御子イエス様を私たちのいのちのパンとしてこの世界にお送りくださるほどに、私たちのことを深く気遣ってくださり、ありがとうございます。

 神様、私たちはあまりにしばしば、豚の餌で腹を満たしたいと願ったイエス様の物語の中の放蕩息子のようであることを告白します。 本当に必要なもので満たされなくても、私たちは空腹を埋めてくれる何かで飢えを満たそうとします。 私たちは自分の心や予定や体を、命に導くことのない非常に多くのもので満たします。 けれども、あなたは私たちにいのちのパンを提供してくださいます。 私たちがあなたからその贈り物を受け取り、充足感や力、楽しみ、備え――私たちが必要とするすべてをあなたから受け取ることを学べるよう助けて下さい。「私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」(35節)というイエス様のお約束によって生きることができますように。いのちのパンによって日々養われ、形作られ、維持され、豊かにされ――人は完全に生きるものだからです。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

 

 参考

 

Carson, D. (2015, July 8). I am the bread of life. Katoomba Christian Convention.       Retrieved June 15, 2021 from https://www.youtube.com/watch?v=XvLqKT0     W1yQ&t=1260s