神の王国にイエスと言う

2021年5月16日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

神の王国にイエスと言う

 

ピリピ人への手紙2章1〜11節

 

 ここオープンドアチャペルで、そしてオンラインで再び皆さんとご一緒できることを嬉しく思います。今日も「神の王国に生きる」というメッセージのシリーズを続けましょう。神様の言葉をお伝えするにあたって、神の王国について多くのことを語り、記してきたダラス・ウィラードとジョン・オルトバーグから、今日もたくさん助けを受けるつもりです。 私達が学んでいることの概要を知る一つの方法は、聖書の中の四つの重要な「選択」、つまり神様の民のためにリーダーが選ばれた際の状況に着目することです。 一番目は、神様がご自分の民をエジプトから連れ出し、ご自身が王となることを意図して「約束の地」に住まわせるため、彼らを国家として形成し始めた時です。しかしながら、彼らは周りにある他の国々のように人間の王を持つことを主張し、結果そのようになりました。 他よりは良いと言える王が幾人かはいましたが、誰一人として神様がご自分の民のために持っておられた最善のご計画である平安、つまりシャロームの治世をもたらすことはできませんでした。

 

  預言者たちは、神のメシアである特別なタイプの王が来られて、人間にはできない方法でご自分の民を導くであろうと述べ始めました。 イエス様はそのような救い主キリストとしてお生まれになったのです(7節後段「人としての性質をもって現れ」)。 イエス様は神様の教え、完全に生きる人間としての生き方の模範、そして神様を王として共に生きよという主の呼びかけを携えて来られました。 しかし当時の権力者達は、イエス様が王であると断言することを望みませんでした。 彼らは、「カイザルのほかには、私達に王はありません」(ヨハネの福音書19章15節)と言って、誰に仕えるかを選択しました。 それが第二の「選択」でした。 彼らはキリストを十字架にかけて殺してしまったのです。(8節では「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした。」と述べています。)

 

 けれども物語の終わりのように見えた出来事が、実は新しい始まりだったのです。神様はお約束された通りに、イエス様を死からよみがえらせました。 このようにして、神様はまったく異なる類の選択にご自分の票を投じておられました。 そこには、投票用紙にたった一人の候補者の名前しかありませんでした――イエス様です。  ただ一票だけが投じられ、ただ一票だけが数えられました――神様の票です。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(9節)。 それは神様がキリストをすべての王とされたことを意味します。 エペソ人への手紙1章20〜22節で、パウロは次のように書いています。

  

  神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

 

  それが第三の選択です。 しかしまだ四番目があります。 皆さんや私、そしてすべての人々は、自分達の人生を誰が導くかを選ぶ機会を有しているのです。  「神の国の福音」とは、キリストにあって、神様ご自身のリーダーシップの下にある人生が、新しい方法によって、それを受け取るすべての人に可能なものになったということです。 それは私達に選択権があることを意味します。 おっと、誤解しないでくださいね。 私達だけではありません。 神様にも選択権があり、その票は誰のものよりも重要です。 パウロは言っています(10-11節)

 

 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものの すべてが、膝をかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 

 その申し出は「皆さんがたまたまそのように感じたなら、キリストを王として受け入れなさい。」とか「これは人生に関して数多くある良い提案の中の一つです。」というものではありません。 神様は私達の人生がご自身のものであると主張されます。 キリストはその民の王となる権利のすべてをお持ちなのです。 しかしその道において、私たちが進んで、心からイエス様を受け入れるのか、それともイエス様がいつの日かそれぞれの人生を裁くために来られるときになって、主として認めざるを得なくなるかでは、雲泥の差が生まれます。

 

 そうです、神の御国はご自分にとってそれほど重要な事柄なのだと神様はおっしゃいます。イエス様がこの世界に来られた主な目的と使命は、神の国をもたらすことでした。それこそがイエス様の教えの中核となる点でした。 キリストがご自分の働きのために取られた戦略の中心は、あらゆる地域の人々に御国について伝えて回ることと、同様に行うように弟子たちを整えることでした。 キリストの死と復活の目的は、罪と死に打ち勝つことによって、神の王国の中で生きる道を開くことでした。この世界の未来に向けたイエス様のご計画は、もっともっと神の御国の価値観と目標を伴った場所になるように私達を助け、やがて終わりの時に、キリストを信じる人々が永遠に住まう天の御国へと連れて行くことです。

 

 さて、そのことがそんなに重要な事柄であるなら、私達は「神の国の福音」とは実際にどんなものであるかを明確に理解するようにすべきでしょう。 繰り返しになりますが、聖書にある福音とは、イエス・キリストを通し、神の国が人間にとって比類なく受けられるものになったということです。それはキリストの中に神の国が生まれたということではありません。 そうではなく、いつもここにあるものなのです。神様はこの世界を創造された時からずっとこの世の王であられます。まさに神様はそれを、イエス・キリストを通すという、かつてなかった生き生きとした手法で、すべての人間に適用されるものとなさったのです。

 

   にもかかわらず多くの人々が、クリスチャンでさえも、福音を理解していないかもしれません。混迷した教えや話題がたくさん存在しますから、容易にそうなります。一例をあげると、私達が以前見てきたように、キリストの福音はしばしば聖書が示すものよりはるかに小さく弱いものに縮小されます。 私達が死ぬ時に天国に入るための最小入場要件の福音とでも呼べるものです。

 

 そのような福音の見解では、キリストは十字架で死んで私達の罪の代価を支払うために地上に来られた――ただそれだけです。ですから、キリストの誕生から十字架までの過程を飛び越えたとしても、事実上問題はありません。 言うなれば、神様には皆さんを天国に導き入れる義務があるということです。  「イエス様、ただ信仰によって、あなたを私の救い主、主として受け入れます。」とか他の形式の「罪人の祈り」が、主が聞きたいと思われる適正な言葉である。クリスチャンとしての私の主要な仕事は、次に生きる目的地に至ること、場所を準備する任務を完了すること、いつか自分が死ぬ時に改札されて天国に入ることができる切符を手に入れることである、となります。

 

 おそらくそういった「福音の断片」に伴う最も大きな問題は、キリストの弟子としての立場が抜けていることです。  もし既に私のために予約済みの場所が天国にあるのなら、どうして信仰や愛や理解において成長することを考える必要があるでしょうか? 私は教会で、自分の罪が許されるためには、聖書の教えによって「ただ信じなさい」という命令に従うだけで十分だと聞いたことがあります。それなら何故それ以上のことを気にすることがありましょう?   授業の追加単位(訳注:必修科目以外の単位)のようなものでしょうか?  これは合否判定コース(訳注:大学などでABCなどの段階評価を設けず合格・不合格どちらかになる履修方式)であり、私は合格です、というわけですか?

 

 クリスチャンとしてはこのような考えにたやすく陥りがちです。福音の「最小入場要件」型における問題は、聖書の中に見るキリストは一度もそのように教えていないという点にあります。キリストはご自身に従う者達に、世界中に出かけて行き、民を単に「改心」させるだけでなく、弟子にして「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように彼らに教えること」を加えて説かれました(マタイ28章19節)。俊子さんが2週間前に私達に思い起こさせて下さったように、キリストは弟子達に、神の国だけでなく「神の義」も「まず求めなさい」(最優先にしなさい)と言われました(マタイ6章33節後段)。 言い換えれば、キリストは、キリストの恵みによりご自身との正しい関係に結ばれて、正しく考え、正しく行動する人々になるという過程を経ることを私達に期待しておられるのです。それは私達がますますキリストに似た者となることを意味します。 

 

 それを霊的な形成と呼びます。 それこそが神の御国が訪れ、神の御心が天で行われるように地でも行われる方法です(マタイ6章10節)。 他の言い方をすると、神の国をこの世にもたらす基本的な道筋は、人間の変容の中にあるいうことです。  私達が信仰によって心の中にキリストを迎え入れるとき、キリストは私達を隅々まで変え始めます。 私達はキリストが見るように見、キリストが愛するものを愛し、そしてキリストが成し遂げようと働かれていることのために働くようになります。以前のままのように見えたとしても、内面の再形成の過程は始まっています。 私達は、自分の決断や計画――自らの言葉や考えや行動のすべてにおいて、神様に主導権を手渡すことを学んでいる最中です。 それは、佐々木さんが先週解説して下さった、私達が「新しく造られた者」であるということなのです(第2コリント5章17節)。

 

 私達の霊的な形成は、良くも悪しくも起こっています。 常に起きているのです。 人として人生を歩む中で、私達は自分が考え、選択し、行動する方式で習慣を作り出します。 そうした生活様式がどのようなものであれ、それらは私達がどういう人になるかに強い影響を及ぼします。精神面や感情面、社会性や肉体的な部分のみならず、霊的な面でもです。霊的に形成されない可能性は、肉体的に成長しない可能性以上にあり得ないことです。 本質的な問題は、その成長が健全であるかどうか、私達の必要を満たすのに十分なものか、他者への助けとなり、神様に喜ばれるものかどうかです。

 

  成長の方向性や速度、また範囲が完全でない場合(決して完全であることはないのですが)、形成だけでなく変化も必要になります。 人間のどの部分に変化が必要なのでしょう?  すなわち神の王国が来ると何が変わるというのでしょうか?  そう、すべてです。 それには意志、精神(思考と感情)、そして肉体を含みます。 あなたという存在のすべてが神様にとって大切であり、人生のあらゆる局面であなたを救うためにイエス様を遣わされたのです。

 

 私達は変化について考察しているわけですが、どうか誤解なさらないでください。 神の国にイエスと言い、そこに生きることを学ぶことによって、生まれついての自分とは違う、どこか風変わりな新人類になるわけではありません。むしろ本来の姿の自分を見出して、創造してくださった時に神様が想像していた「わたし」に継続して成長するのです。

 

 聖書に書かれているとおり、御国を受けてその中に生きることは、ごく普通の人生の一部なのです。 私達は皆、人間の役割としてこれらのことをします。  2歳児の好きな言葉が何かわかりますか?  たぶん「イヤだ」と「ぼくの(あたしの)」ではないでしょうか?  それが王国の言葉です。 自由と支配と所有権は王国生活の重要な要素です。 以前確認したことを思い返すと、王国とは(ダラス・ウィラードの説明によれば)「誰かの意志の効力が及ぶ範囲」です。 言い換えれば、私の王国は、何が起きるかを自分が選べる場所で、自分の思い通りになる場所です。 それは個人の力の体系なのです。

 

 ですから王国を持つことは良いことです。 人間は王国を持つように作られています。 王や女王であることは、神様の似姿に造られた結果です(創世記1章26節の「私たちに似せて」)。 このことを明確に示す例は、神様が最初の人間に「地を満たし、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」と言われる場面です( 創世記1章28節後段)。 それは、私達が自然界を自分の好きなように利用することを意味するのではなく、まして大金を得るために自然界の一部を破壊することでもありません。主は地球を治める私達の役割(キング・ジェームズ・バージョン〈欽定訳聖書〉では「支配権」)として、賢明で私利私欲のない自然の管理者になる責任を人々に与えておられるのです。

 

 私達が神の王国にイエスと言うとき、御国での生活が始まります。 神の王国で生きることは、神様のご臨在の中で生きることです。 それは神様による統治の実在の中で生きるということ。それを「神と共にある」人生と呼ぶ人もいます。 私達が毎日の生活を、神様のみ前で、神様に向かい、神様と共に生きることを実践する機会として生かし始めるとき、御国がやって来ます。 資力を持つ人々が出し惜しみせず、気前よくあろうと決心するたびに、神の国が訪れます。人間関係が破たんの危機に瀕しているところに、和解の言葉を語る者がいれば、その都度私達は神の王国に生きています。今日の私達の暮らしにとても大きなダメージを与える人種的な分断に誰かが直面するたび、憎しみの言葉を口にする代わりに真実と愛の言葉を選ぶなら、神の国は私達の中にあります。 依存症になっている人が神様と共に正しくあることを強く願い、それを隠すことを止めて神様と他の誰かに真実を語ることで解放される時、その人達は神の王国にイエスと言っているのです。

 

 仕事中毒の両親が家族を優先することを決断し、より健全なワークライフバランスを実現するために必要なステップを踏もうとするとき、「上にあるものがここに降りて来る」のです。

 

 そのようなことは四六時中起こりますし、皆さんも私もその一翼を担えるのです!

ここ 福住で、札幌で、北海道で、日本を縦断し、さらなる地域で、上にあるものがもっともっともっとこの地にもたらされたなら、どんな風に目に映るでしょう? 想像してみてください。そのことを夢見てください。思い描いてください。それこそが、まさしく神の国の福音が私達の住む場所にやって来るということなのです。

 

 これから続く毎日がいつでもそうでありますように、祈りましょう。

 

 天にいます私たちの父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、私達の心と身体において、私達の家族の中、職場、学校、教会、近隣、どこにおいても行われますように。これらすべての場所にあって天国で行われると同様に。これが私達の祈りです。イエス様のお名前によって、アーメン。

 

参考

 

Ortberg, J. (2014, August 12). Making up there come down here: Life in the   kingdom. Richmont Graduate University. Retrieved May 8, 2021 from https://www.youtube.com/watch?v=SoCo46QLzjE

Ortberg, J. (2014). The kingdom of God. Bible Series at Pepperdine University.           

Retrieved May 8, 2021 from https://www.youtube.com/watch?v=TOJ8Jrrc8vs

Ortberg, J. (2016, October 30). How not to be anxious during an election. House of cards. Menlo Park Presbyterian Church.

Willard, D. (1998). The divine conspiracy: Rediscovering our hidden life in God.  New York: HarperSanFrancisco.

Willard, D. (1988). The spirit of the disciplines: Understanding how God changes lives. New York: HarperCollins.