この世の王国にノーと言う

2021年4月18日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

「この世の王国にノーと言う」            

ヨハネによる福音書18章28〜40節

 

 ここ数カ月、オープンドアチャペルの英語礼拝に直接またはオンラインで参加されている方は、「神の王国に生きる」という一連のメッセージを続けてきたのをご記憶でしょう。 私達は、御国のための神様のご計画と、しかるべき終わりが来た時だけでなく、今ここでの毎日においても御国に住むようにという、神様からの呼びかけに注目してきました。神様の平和(シャローム)が生活の主要な特性である神様の王国と、多くの場合、政治的、軍事的、経済的、その他人間的な力を利己的に使うことで動くこの世界の王国とを対比させてきました。

 

 私達は、神様の人間に対する偉大な計画が、この混乱して罪に満ちた世界から、単に私達を助け出すだけのものではないと学びました。 それは、ご存知の方もおられるでしょうが、懐かしい『スター・トレック』のドラマのようなものではありません。カーク船長と他の乗組員が、見知らぬ新世界を探索するために宇宙船エンタープライズから降りて大変な危機にさらされるときのことを覚えていますか? 誰かがハイテク通信機器を使って船を呼び出し、「スコッティ、転送を頼む!」と言うのです。 すると彼(スコッティ)は、彼らが姿を消し、瞬時に無事エンタープライズ号に戻って再び姿を現すよう、彼らを何らかの方法で変換するという手はずです。

 

 救いの御業とはそのようなものだとイメージするクリスチャンもいます。 しかし神様の御言葉の教えは、私達を単に困難から助け出し、私達が死ぬ時に地獄ではなく天国に行けるように救って下さることだけではありません。 私達がこの世界から逃れる道を作ること以上に、天の御国をこの世界の中に もたらしたいと望んでおられます。 私達はそれを「上にあるものを下にもたらす(天を地にもたらす)」と呼ぶのです。神様はこの世界を、罪が入り込んで堕落が始まる前にそうであった姿に修復したいと望んでおられます。そののち、私達が人間として、この地で平和と正義、愛、その他神様の栄光を示すすべてのものを基盤とした生活を築くのを助けて下さるのです。

 

 先月のメッセージ以降、イースターが訪れ、そして過ぎ去りましたが、皆さんが十字架と復活の話を再度耳にする中で、神の御国というテーマが何度となくそこに現れることに気づかれたと願っています。登場人物達の行動や言葉、またもしも皆さんがその時そこにいたなら見たであろう視覚的イメージは、くり返し神の御国(または「天の御国」「〈複数の〉天国」)を指し示しています。 例えば、マルコの15章は、兵士達がイエス様を十字架につける前に、どのようにあざけったのかを教えてくれます。

 

 兵士達はイエスに紫の衣を着せ、いばらで編んだ冠をかぶらせた。彼らはイエスに「ユダヤ人の王、万歳!」と叫び始めた。何度も何度もイエスの頭を棒で叩き、唾を 吐きかけ、ひざまずいて拝む真似をした。

 

 当時は誰かが十字架刑に処された際、頭上に、その人が犯したとローマ帝国が示す罪状が書かれるのが習わしでした。 マタイ27章37節は、イエス様の頭上に「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれたと述べています。

 

 これらの例では、イエス様を王と呼ぶ人々が、実際には全くそう思っていないことが分かります。彼らはイエス様とその教えの中心的な部分を物笑いの種としているのです。 けれども福音書の執筆者たちは、同時に起こっている、もっと大きな何かを指摘しています。これらの人々は自分達が知っている以上のことを言っているのです。彼らは自分達が何か愉快で粋なことをしていると考え、自分達の力を見せつけ、更におそらくはユダヤ人達が決起して国を取り戻そうとしないよう、恐れさせておこうとしています。

 

 しかし、神様もまた働いておられます。その時点で政治的な力を手中にしている人々の傲慢や残酷さを通してでさえも、 神様は変わることのない真実――全世界に対する御自身の統治の実在性を示して下さっています。神の王国はどんな人間の王国よりもはるかに長く続くのです。2000年経って、私達はローマ帝国が幾世紀を経て消え去ったことを知っています。人間がつくる国が頂点にとどまり続けることはありません。 多くは完全に存在を失います。 しかし、神様は全てを支配し続けます。 神様は決して変わることなく、御国は常に私達の世界の圧倒的な実在であり続けます。 それは最も非情な弾圧や不正をもってしても、変えることのできないものなのです。

 

 そういった主題が福音書全体を通して貫かれているのに目を向けるならば、イエス様の公生涯の初期における言動をより明確に理解することができます。 例として、荒れ野で40日過ごされた後キリストが試みを受ける箇所が、以下のものです。(ルカ4章5〜7節)。

 

    さらに、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せ

    て、こう言った。「この国々の一切の権力と栄華とを与えよう。それは私に任され

    ていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もし私を拝むなら、   

    全部あなたのものになる。」

 

 しかしキリストは拒否されます。 どうしてでしょう?  それはイエス様が「この世の王国」に無関心だからでしょうか? イエス様に従うということは、政治による混乱と分裂の問題から距離を置くことを意味すると教えておられるのでしょうか? いいえ、全くそうではありません。 イエス様はとてもダイレクトに政治問題に言及しておられます。(イエス様が神の言葉であると公言された)聖書に登場するたくさんの英雄達は政治的な指導者であり、キリストに従う者達の多くは、主がそうするよう彼らを導いていると信じたため政治における働きをスタートしました。

 

 しかし、キリストの特別な任務と召命は、この世で時をお過ごしになる間、政治に焦点を置くことや政府を導くことではないように思われます。領土、人、お金などを管理する特定の国々や支配体制をはるかに超える活動を始めるために、イエス様は来たのです。ですからこの世の王国を支配する権利を得るために、もっと大きなこの使命を犠牲にするつもりはないのです。イエス様がとりわけ悪魔の申し出を拒絶される理由は、それを受けることが、ご自身の汚れなき純潔さを放棄することによって権力を得ることを指すからです。神の王国に生きるためには、私達もまた、自分の人格や信念を損なうようなやり方で権力を得る選択をしないようにしなければなりません。そうするようにという外側からの圧力や内側からの誘惑もあるでしょう。 しかし、神の王国に生きることを選択する者は、この世の王国に対しノーと言うはずです。

 

 ローマ総督ピラトの前に立つキリストという本日の聖書のストーリー部分に来ると、イエスがご自身の残りの人生と教えに非常に一致する方法で話し、行動しているのがわかります。33節で、イエス様は「お前はユダヤ人の王なのか?」と単刀直入な質問を受けます。しかしイエス様はこの時点で、はい、いいえで答えることはしていません。この質問の背後に、イエス様のことを理解したいという素直な願望以外の何かがあるのを知っているようです。

 

 イエス様はひとつの問いによって答えます。「それはあなた自身の考えですか?それとも、他の者が私について、あなたにそう言うのですか?」 ピラトも同じく直接答えずに質問で返します(「私はユダヤ人なのか?」)。 けれどもすぐさまイエス様は、ピラトの最初の質問に対して、より直接的な答えを与えるのです。36節でイエス様は言います。「私の国はこの世のものではない。もし私の国がこの世のものであれば、私に従っている者達が、私をユダヤ人に渡さないように戦ったことだろう。私の王国は別の場所から来るものなのだ。」

 

 ここでイエス様が言われていることは、ルカ22章47節から始まる話と一致します。先週、佐々木さんが、イエス様が捕われる前、祈るために行かれたオリーブ山についてのお話の中で触れておられましたね。そのあとイエス様は、弟子達が御自身を捕らえに来た人達と闘うのを直接止められます。ちょうど一人の弟子がイエス様を守るために誰かを剣で切りつけた時のことです。 

 

 「私の国はこの世のものではない。」 イエス様がピラトに向かってこう言われた際、総督ピラトは、イエスは自分が王であると信じてはいるが、ピラト自身の職務上の立場に対抗するようなタイプのものではないと察します。キリストはこう公言なさいます(37節)。「私が王であることは、あなたが言うとおりだ。事実、それが私の生まれた理由だ。」 それからイエス様はご自分の王権について話しをお続けになり、この会話の中に真理という事柄を持ち込まれます。 イエス様はこう言います。「私は真理について証しするためにこの世に来た。誰でも真理に属する者は皆、私の声を聞く。」

 

 これらの言葉の中には、ピラトや全ローマ帝国がそれらを理解して真剣に受け止めたとしたら、危惧するであろうことが含まれています。 それは、たとえあなた方が土地やお金、銃、人脈、選挙の票など、なんであれこの世の王国の権威を保持するために必要なものすべてを持っているとしても、それを維持することが真理に反することを要求するものならば、結局はこれらを失うことになるという現実です。 人はいつの日か神様の前に立って自分の選択について釈明せねばならず、結果的に神様が悪事をお罰しになるでしょう。対価は支払われなければならないのです。

 

  ピラトはここで重要な真実――キリストは犯罪者ではなく、死を受けるに値しないということを知ります。しかしこの総督は、その真実に基づいてイエス様に関する法的決断を下す勇気を、持ち合わせていません。 この点においては、イエス様が住まわれる国の宗教的・政治的指導者達も同じようなものです。 彼らは、事実に基づいてイエス様を告発し、罰として死に至らせることができません。(それは彼らが真に望むことなのですが。) つまり、ピラトが29節で「あなた方はこの男に対してどんな訴えを起こすのか?」と尋ねた時、彼らは明確な罪名とそれを裏付けるための一連の事実を提示できないのです。 

 

 彼らが主張できる精一杯は(30節)、「この男は罪を犯したのです。でなければ、あなたに引き渡しはしなかったでしょう。」ということです。 本当に?  「信じてください。私達があなたに嘘をつくでしょうか?」というわけです。相当ひいき目に見ても、 彼らはピラトを納得させてはいません。 この会話のやりとりの最後に、祭司長たちは、通常ならユダヤの人々が耳を疑うような言葉を吐きます。ピラトが彼らに「あなたがたの王を、私が十字架につけるのか。」と尋ねた時(19章15節)、彼らは驚くべき返事をするのです。「私たちには、皇帝カイザルのほかに王はありません。」 

 

 彼らは明らかに、正義に基づいているとは考えていない言葉を、自分達が選んだ政治的な目標を達成するために用いています。 そしてこの日、彼らはイエス様を殺すという彼らの目的を成し遂げるかのように見えます。 しかしその過程において、自分達がいかに腐敗し、この世の王国で権力を保持するためなら、どんなよこしまなことをも喜んで行うということを示したのです。

 

  この物語が今日の私達に示唆する道の一つは、私達が指導する立場になった時にあるべき姿、そしてその機会を与えられた時に選ぶべき指導者の姿を示すことにあります。 ポストモダニズム(脱近代主義)の時代においても、このようなことは未だに真理として存在します。私達は、たとえそれが大衆に受け入れられないものであっても、他者の意見を尊重しながら、進んでその役割を担うリーダーを今も必要としています。 私達の文化や政府あるいは他の人達が、悪事を面前にしても沈黙し続けるよう私達に圧力をかける時、キリストに従う者は真理を語ることにおいて主のようであらねばなりません。 その真理とは、人種差別や偏った報道、もしくは弱者より強者にくみする法律や、何かその他の問題に関することであるかもしれません。 しかし私達が知る限り、真理を歩むことは、神の国に生きることの意味における重要な鍵なのです。

 

  真理と見なすことを語るために支払うべき代償がある場合でも、神様はなおも声を上げるように私達を導かれることがあります。 それは、たとえ人間の苦痛を減らす薬やその他の手法につながる可能性があるとしても、科学実験で人の胎芽を使用することの道徳性に関してかもしれません。人間の性的傾向や指向、性別に関して、すべての人を尊重し、また正直に話すことをも意味するかもしれません。たとえそうすることで支払うべき代価があるとしても。

 

 これらは、神の御国に生きることに「イエス」と言うために、この世界の王国に「ノー」と言うのはどのようなことなのかの一例にすぎません。(来月はこの「イエス」と言うことについて学ぶことができたらと願います。)     そしてたった今私が言及したことは、話すか沈黙を保つかということと関係があります。 しかし、私達が日常生活で直面しなければならないことの多くは、私達個人の思考に関するものであり、そこから派生する行動や決断、計画、関係性や諸々のものです。

 

   皆さんが今おられる人生はいかがですか?  神の王国でより完全に生きることが、皆さんにはどんな風に見えるでしょうか?    それを可能にするためには、何を手放し、何に背を向け、皆さんの王としての神様ともっと完全に生きることを目的として、関係を断ち切る必要があるでしょうか?   争点が何であれ、私達の救い主であり主であるキリストは、ご自分を従わせたいと望んだこの世の権力者達よりも、異なった王に従うことを躊躇されませんでした。 キリストは神様によってそうなるべく定められた人物、まことのご自身になられるために、信仰の次の一歩を踏み出し続けられました。 そして私達が神の王国に生きることを学びながら、ご自身の歩みに従うようにと求めておられます。 私達がそうするのを助けて下さるよう、私と一緒に主に頼んでみませんか?

 

 主よ、私達は恐れやプライド、習慣のような、この世界の王国に私達を執着させ、あなたの導きの下で生きるのを遠ざけるものすべてから、あなたが自由にして下さることを必要としています。  ですから、私達はあなたの教えと、私達の王としてのあなたを知る助けとして、ひとり子イエス様をお与え下さったことによる完璧なお手本に感謝します。 しかし私達はまた、勇気のため、謙虚に従うことを切望する心のため、さらに知識と意志と仲間のため、この先の日々をなお一層あなたの民として生きる上で必要なすべてのためにも祈ります。 あなたの愛と力において、これらの賜物をお与えください。親愛なる主、イエス様のお名前によって祈ります。 アーメン。

 

Reference

 

Ortberg, J. (May 3, 2020). Eternity is now in session. Highland Park Presbyteri-an Church. Retrieved April 11, 2021 from https://assets.speakcdn.com/asse ts/2226/eternity_is_now_in_session_5320.pdf?1588706473702