神様の裁きと憐れみの下に生きる

2021年1月17日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

イザヤ書1章14〜20節

 

「神様の裁きと憐れみの下に生きる」

 

 今日も直接またはオンラインで、皆さんとご一緒できることを感謝します。もう一度この場所で、神様が私達に語られていると私が信じる御言葉を、取り継ぐ機会を与えられたことを嬉しく思います。私は祈りや聖書研究などを通して神様の言葉に耳を傾けることに最善を尽くし、そこから私が出来る限りの最も理解しやすい方法で皆さんにお伝えするのを基本としています。 私がこのように頻繁に用いる説教の手法は、単純に神様が私に教えて下さっていると思うことを、皆さんの人生の一部が私の特有の経験や学習と重なることを期待しつつお伝えするものです。神様の言葉はとても実用的で、たとえ私達が大きく異なる背景や性格その他を持つとしても、私達全ての人生に共通する部分に触れるものです。ですから私は、皆さんと共に神様の言葉を発見する冒険を楽しんでいます。今日もそのようにいたしましょう。

 

 コロナウイルスの爆発的感染拡大が始まって以来、私を悩ませ続けている類の―――私の頭の中をいつも去来し、決して消え去ることのないひとつのことがあります。それはある疑問です。 このことと今日の私達の生活における他の多くの問題は、神様の裁きとして起こっているのだろうか? 言い換えれば、神様は私達に怒っておられるのか?ということです。 今日のメッセージのゴールは、なぜこのような特別な事態が起きているのかをただ理解することではありません。 さらに、それは私達が神様をより深く、また個人的に知るのを助けることであり、当然ながら私達の世界、私達自身、そして私達の人生を理解するための鍵を内包しているものです。 私達と神様との関係がどれほど健全であるかは、 このパンデミックが終わった後(いつかはそうなるでしょう)もずっと重要であり続けるのです。

 

 今日のメッセージは以下の質問に対する聖書からのいくつかの答えという、非常に明快なものになるはずです。

 

神様は人を裁かれますか? それについては即答できます。「はい」です。 現代の多くの文化において、そのように言うのは受け入れられ難いことかもしれませんが、その教えは聖書全体を通してあるのです。神様は私達に対してこの真理を主張したり、深く説明したりする必要を感じてはいないようです。聖書の著者は概してそれが人生においては自然の理であると考えています。

 

当然ながら私達は、酷いことが起きたのは神様の裁きのゆえだと、過度に安易で早急な判断をすることにより、大きなダメージを与えることができます。キリストはそのようにはされず、それに対して警告をされました。(ルカ13章で、塔が倒れて18人の人々が命を落としたことについてイエスが何と言及したか、確認してみて下さい。)   しかしながらそれは、神様が裁かれるという現実を変えるものではありません。 つまるところ神様の裁きに対する揺るぎない理解は、正義の問題を主の御手に委ねることによって、人々を裁くよりも受け入れることへと私達を導くでしょう。 ローマ人への手紙第12章19節は教えてくれます。 『愛する人達、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。それはこう書いてあるからです。「復讐は私のすること、私が報復する」(申命記32章35節)と主は言われる。』

 

それでは、なぜ神様は裁かれるのでしょう? 神様は何を裁かれるのですか? どのように裁かれるのですか? また、神様の裁きを避ける方法はあるのでしょうか? 今日はそれらの領域を探索していきましょう。今日の聖書箇所とイザヤ書の最初の数章が、その上にたくさんの光を当ててくれることでしょう。

 

  どのような意図や目的を持って、神様は人々を裁かれるのでしょうか? 一つは正義を維持するためです 。 イザヤ書3章8節で、神様はイスラエルとユダについてこのように語られます。「彼らの舌と行いが主に敵対し、その栄光のまなざしに逆らったからである。」 私達が好ましくない選択をしてしまうとき、神様が常に寛容で優しくあって下さることを求めるかもしれません。しかし、誰かが私達に何か悪意のあることをすると、私達は正義を要求します。 神様は怒るに遅いお方ですが、神様に背くことは、遅かれ早かれ神様の正義の裁きをもたらします。それは個人のみならず、国家や人々の集団全てに対しても真実です。私達が神様に背を向けるとき、私達は神様の裁きを招いているのであり、いつかはその時がやって来るのです。

 

 基本的に同じことを別の言い方を借りれば、神様の裁きは、世界が設計されたとおりに機能することを確認するものなのです。 私達の人生の基本的な目的は、神様の栄光を讃えることです。人々が利己的に生きることを主張して、主を敬おうとせず、主が喜ばれない生き方を選ぶとき、神様は最終的に私達を裁かれます。たとえば、神様はセックスが神様からの素晴らしい贈りものであると言っておられますが、それは神様が定義する結婚による婚姻の中に属するものです。もしも私達がこれらの教えに相反する方法で行動することを選択するならば、何か美しいものが壊れてしまいます。しかしこのことはまた、物事を自然の状態に戻し、リセットするための機会を作ることにもなります。

イザヤ書5章16節は、「しかし、万軍の主は公正によって高くされ、聖なる神は正義によって自らが聖なる者であることを示す。」と語ります。

 

 裁きを通して、神様は御自分の民を浄化するのです。それは、皆さんのコンピュータが正常に働かなくなっている問題を取り除くために行う再起動のようなものです。 イザヤ書1章25節で、主は語っておられます。「私はわが力ある手をあなたに向かって翻そう。あなたを完全なまでにきよくし、不純物をすべて取り除こう。」と。

 

  罪の代価は支払われるべきものです。 しかし、神様の目的は復讐することではありません。気分を害したときに、私達を激しく非難することでイライラのレベルを下げようとしているのでもなければ、ご自身が楽しむために私達を裁くわけでもないのです。 神様は私達をご自身に立ち返らせるために罰を用います。 必要な処罰の期間の終わりに際して神様が抱いているビジョンは、ご自分の民が「力ある神に立ち返る」(イザヤ書10章21節)ことです。お怒りのときですら、神様の目的は、私達に神様ご自身や他者との正しい関係を取り戻させることなのです。神様が意図する、裁きを送られることによる良い成果とは何でしょう。イザヤ書12章1~2節がひとつの例を与えてくれます。

 

  その日が来れば、イスラエルの民は歌うであろう。

 

  「主よ、私達はあなたをほめたたえます。あなたは私達に怒りを向けられましたが、今やその怒りを去らせ、慰めを与えてくださいました。」

  神よ、あなたは私達の救い。 私達はあなたに信頼し、恐れません。

  主こそ私達の力。私達は歌います。 主よ、あなたこそ私達の救い。

 

それは、 権力を持つことを愛しながら人々を真に気遣うことのない一種の神と比べて、非常に異なるタイプの裁きです。イザヤ書1章5節の中に、その違いについての手がかりを見出せるのではないでしょうか。神様がその民に(おそらく涙を流しながら)尋ねるところです。「イスラエルよ、何故あなた方はなおも打たれ、主に背き続けようとするのか。頭は傷に覆われ、心はすっかり弱り果てている。」 そのように語られることで、神様は善と悪のどちらを行うかの自由な選択を人々に与えられたことを示しておられます。 私達人間は自由ですが、同時に私達の行動の結果に対して責任があります。 それは聖書の神様が持っておられる、人類への視点の基本的な部分です。 その他の世界観の大多数とは明らかに違っています。 ユダヤ教とキリスト教に共通する神様は、私達がもはや裁きを必要としなくなることにより、ご自分の民を罰することを止めたいと真に望まれているように思えます。 私達は自分達のやり方を変え、自分達の行動を通して、神様の罰をわが身に招くのを止めることができます。 繰り返しになりますが、神様の切なる願いは、罰を下すことによって神様や他の人々との良好な関係に立ち戻るよう、私達を導くことです。

 

神様は何を裁かれるのでしょう?  神様は偶像崇拝を裁きます。それが物質的な偶像、あるいは私達が最高の賞賛を与える人間のパフォーマーやリーダーであるとしてもです。私達の偶像は、お金やアルコール、もしくは人々に支持されることであるかもしれません。しかし私達がこれらの物事を偶像にしてしまうとき、神様は私達を裁かれます。何故ならそれは、主である神様と神様の教えの権威を拒むことだからです。神様はご自身に対する関心や敬意、そして理解の欠如を裁かれます(イザヤ書 5章12〜13節前段)。イザヤ書2章8節後段〜9節前段で、神様は私達にこう語っておられます。

「彼らの土地は神々の像で満ちており、彼らは自分の手で作ったものにひざまずき、自らの指で形作ったものにひれ伏す。それゆえ人間は低くされ、人々は辱められる。」

 

神様は高慢を裁かれます(イザヤ書2章11節)。例えば、見た目の良さを誇り、見せびらかす人々を(イザヤ書3章16節)。 

神様は流血を裁かれます(イザヤ書5〜7節後段)。 マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、「暴動は声なき人々の言葉である」と言いました。私はそれが事実だと思いますが、聖書の神様はそれを言い訳に使うことをお許しになりません。神様は、自分達の話を人々が十分に聞いてくれないと感じる時に暴力に向かうことを、ご自分の民に容認はなさらないのです。 忘れないで下さい。私達はキリストに従っているということを。不当に逮捕されることから師を守ろうとして弟子達がまさに戦わんとしていたその時、彼らのリーダーに「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」と言われた(マタイ26章52節)そのお方に従っているのです。 それが政治的に右派あるいは左派とされるいずれの人々によって行われようと、神様は血を流した者達を裁かれます。 もし私達がそうしたなら、予測に違わず神様からの罰がもたらされるのです。

 

神様は不公正な法律やその他の類の抑圧を裁かれます(イザヤ書10章1〜2節前段)。それが人々に不当な方法で税金を支払うことを強いるようなものであったり、選挙で不正行為を容易にするか、チェックをほとんど不可能にするようなものであったり―――それがどんなものであるにせよ、そこに不正があるのなら、神様がそれを罰しても驚くことはありません。 今日私達が目にする法制度や政府の他の領域における腐敗は、今に始まったことではありません。 イザヤは5章23節で「なんと酷いことか、彼らは賄賂によって悪しき者を義とし、正しき者達の正義を退ける。」と語っています。 そして私達の神様は、権力構造の最上位にいる個人への処罰を制限したりはなさいません。どのみち少なくとも民主主義において、人々は自分たちが彼らを権力の座につかせるのですから、最終的には自分達にふさわしいリーダーを得ているのです。そのようにして私達の国が、人柄や方針、計画そして価値観において神様のそれに相反する人々を引き連れて来るリーダーを選ぶとしたら、何が起きるのでしょう? それがどこかの時点で裁きにつながるとしても、私達は驚かないでしょう。

 

最後の例になりますが、神様は最終的にすべての罪を裁かれます。 これはイザヤ書5章18節前段からのものです。 神様は嘘偽りを裁かれます。 「罪を犯し、それについて嘘をつき続ける者にとって、それはなんという災いか。」  偽りは税金の支払いを避けるために収入を報告しないということを可能にします。通信社が、メディアグループが支持する政治家候補にダメージを与える可能性のある重要な記事を取り上げない(またはほとんど伝えない)という場合もあります。それは政敵に対してダメージを与えることを意図して、虚偽の申し立てを繰り返すことを可能にします。ソーシャルネットワーキングサービスは、特定の人々にダメージを与えたり、自分の友人を擁護したりすることを望む人達に対し、自由な受発信を停止することが可能です。 いずれにしても、偽りは天の裁きを呼び起こします。 ですから、神様は1章20節で、「あなた方が拒み逆らうならば、剣の餌食になる。主の口がそう語られる。」と、私達に教えておられるのです。

 

神様はどのように裁かれるのでしょう?  当然のことながら、神様は選択されます。 結局のところ、神様は神様ですからね。 いくつかの事例では、イザヤ書5章25節後段で述べられているように、地震などの自然災害を許容されることを通して行われます。 しかし、イザヤ書が伝えている更に長期にわたる困難は、神様がご自分の民を外国の軍隊に侵略されるにまかせることです。(イザヤ書3章8節と5章26〜30節を参照。) 預言者の国が非常に弱くなってしまったことが、そのような災いを可能にしたのです。 このことの一部は政治的分裂によって引き起こされ、 国は2つに分かれました。すなわちイスラエルの北の王国とユダの南の王国です。 彼らの指導者達は大抵弱く堕落しています(イザヤ書3章4節、12節後段)。 イスラエルの人々は互いに争っていて(イザヤ書3章5節)、最終的に、彼らは自由を失い(他の国に連れて行かれ)、食糧と水の不足に苦しむことになるとイザヤ書5章13節は告げています。 その通りのことが彼らに起こりました。 今日の私達には起こり得ないことだと考える理由がありますか?

 お察しのとおり、神様は自由で積極的に私達の世界に裁きをもたらすことが出来ますが、それより人々を自らが思うままの道に歩ませ、自分達の利己的で愚かな行動の当然の結果としての苦しみによって、罰することの方が多いように思います。それが起こる裁きの時が来るまで、 神様がどれほど私達を支え、導き、護り、祝福し続けてきて下さったのか、私達はしばしば気づきさえしないのです。

 

最後になりますが、神様の裁きを避ける方法はあるのでしょうか?  嬉しいことに「はい」です。 裁きの時にあってさえ、神様はたびたびご自分を敬う人々を祝福することを選ばれます。 神様はご自分の子供達のことを早急に、また容易に諦めたりはせず、私達を御自身へと呼び戻してくださいます。 神様が私達に求めておられることに多くの謎はありません(イザヤ書1章16、17節)。

 

洗え、身を清くせよ。 あなた方の悪い行いを私の目の前から取り除け!

悪を行うことをやめよ! 善を行うことを学べ!

公正を追い求め、虐げられた者を救い励まし、

孤児のために裁き、寡婦を弁護せよ。

 

 これらのことを行うのに特別な訓練や知識は必要ありません。もし私達が進んで行うなら、どのようにすべきかは大抵わかるものなのです。 神様は熱望しています。18節で神様は、みそばに来てもっと語り合おうと私達を招いておられます。神様は私達を打つことよりも、むしろ和解することを望んでおられます!  神様は概して全てのことを試された上で、なお私達が聞こうとしない時にのみ裁きを行うのです。 1章18、19節の中で、神様は提案をされています。私達が自由意志によって神様に立ち返り、神様の教えに従って私達の生活を整えるという決断を下すなら、神様は背を向けることなく、私達のために喜んで働いてくださるのです。

  

  あなた方の罪がたとえ緋のようでも、雪のように白くなる。

たとえ紅のように赤くても、羊毛のように白くなる。

あなた方が進んで聞き従うならば、地の良き実りを食べることができる。

 

 このお約束を共に携え、祈りをもって主の御前に進みましょう。

 

 聖なる父であられる神様、私達はあなたの恵みと憐れみによってのみ、ここにいることを知り、悔い改めの心であなたの御前に行きます。 私達は弱く罪深い者であり、定期的に自分の罪を赦される必要があることを知っています。 私達は自分の罪を告白し、喜びと感謝を持って、あなたの受諾の贈り物を新たに受け取ります。 私達があなたの愛するものを愛し、あなたが見るように見ることができるように助けてください。そうすれば、あなたの義の裁きを受ける必要がなくなり、あなたのご臨在と沢山の祝福の中で自由に生きることができます。 あなたの恵みを通して、審判の日が訪れるときに、私達が立っていることができるよう助けて下さい。 私達が直面する可能性のある困難や、他の人が私達に対して思ったり、言ったり、したりすることを恐れないよう助けてください。 私達があなたの公正かつ賢明で愛情深い裁きを、正しく畏れて生きることが出来ますように。 私達をあなたのご加護の中に留めて下さい。主イエスの御名によって祈ります。

アーメン。

 

参考

 

King, M. L., Jr. (1968, March 14). “The Other America.” Grosse Point Historical          Society.               Retrieved January 11, 2021 from https://www.gphistorical.org/mlk/mlkspeech/