悲しみの中で神様に会う(パート2)

2020年11月15日 英語礼拝 メッセンジャー: ジム・アリソン牧師

 

哀歌3章21〜40節

            悲しみの中で神様に会う(パート2)

 

 先月私が皆さんの前でここに立ち、「 悲しみの中で神様に会う」ということについてお話ししたのを覚えておられると思います。その後の日々の中で、私達の教会の家族は、深い喪失の痛みを通して主にお会いすることが何を意味するのかを、誰一人として予想しなかった方法で学ぶことになりました。 私達信仰の家族のかけがえのない一員を失うことは、私達全員に試練を与えました。 その上で、一緒に苦しむことによってのみ生じる親密さという感覚をもたらしたのも、明らかであるように思われます。 私達が困難な時を通るとき、私達が私達の主を、そして互いをどれほど必要としているかという気づきは、私にとってかつてないほど強くなりました。 皆さんもそう感じられたでしょう?

 

 今日私達は、紀元前6世紀に起こったエルサレムの街の破壊に対する5つの『哀歌』集から、このメッセージの続きを受け取ります。 前回お話ししたように、神様は何世紀にも渡りこの本を用いて、人生がもたらす苦難にどう対応するかをご自身の民に教えてこられました。 私達が「死の影の谷」(詩篇23編4章前段)を通り抜け、最後には命と健康、さらに希望へと導かれる何らかの方法で応答することを助けてくれるものなのです。

 

  哀歌のメッセージには、「表に出すこと」と「受け入れること」の2つの部分があると言えます。 先月のメッセージは、悲惨な出来事が起こった時、私達の心に自然と生まれてくる悪感情を表に出すことに焦点を当てました。 神様は私達に、神様に対し、またお互いに対して正直になり、痛みを分かち合うよう教えて下さいます。 神様は私達の苦しみを真剣に受け止めて下さり、その中に共にいて、ご自身の苦しみとして下さるのです。 このようにして、私達は悲しみの中で、他ではできない方法で神様の深い愛を知るようになります。

 

 ちなみに、哀歌の言葉は、エルサレムの西壁で何世紀にも渡ってユダヤの人々に使われてきました。  (『嘆きの壁』と呼ばれるのを聞いたことがあるかもしれませんが、その名前は多くの人に、ユダヤ人以外の人がこの大事な場所に付けた無礼な名前と見なされています。エルサレムでは、通常は “ 西壁” と呼ばれ、西暦70年のローマ人による破壊で残存した、神殿の周りの壁の一部です。)人々はそこで、哀歌に綴られているように、礼拝を捧げる場所である神様の家を失った悲しみを表すために、神様への祈りの中で嘆きます。彼らは神様の贖いのために、そして神殿が再びそこに建てられるようにと祈っているのです。

 

 今日は、神様の教えにおけるもっと前向きな一面である「受け入れる」の部分を見ていきましょう。 神様はひとたび、喪失の痛みを表現するという耐え難く辛い行為を私達が成し遂げる手助けをして下さったら、然るべき時に、私達が前に進むのに必要な希望や勇気を再び受けるのを助けて下さいます。 神様は私達に、私達が失った特定の人や夢や財産なしでの人生を再建するように呼びかけられます。 そのことに対して大きな抵抗を感じるかもしれません。 私達は先に進むことを求めず、別離や病気、失敗、あるいは何であれ、そのようなことが起きる前へと引き返したくなります。 けれども神様は私達に、神様と共に、そしてお互いと共に前に進むよう呼びかけられます。 神様が再建するよう呼びかけておられる人生とは、かつての古い人生ではありません。新しく、異なった人生であり、やがて私達が現実の世界に目を向け健全な方法で対応するつもりなら、今こそ思い描き、追求する必要がある人生なのです。

 

少なくとも頭の中ではこれが正解だと知っているかもしれませんが、それでもやはり受け入れるのは驚くほど難しいものです。 もしそれが起こるとするなら、私達は間違いなく神様の助けを必要とします。 実際のところ、どうしたらそれを可能にすることができるのでしょう? 哀歌の作者と思われるエレミヤは私達に、何が彼を助けてくれたかを教えてくれます。  21節で、彼は「...そのことを心に思い返そう。それゆえ、私は待ち望む...」と述べています。 最終的に、彼は暗闇を通り抜けるための助けとして、神様の不変の愛に依り頼みます。しかし私達がそこに行き着く前に、彼が「そのことを心に思い返そう」と言ったことに注目しましょう。悲哀と絶望に苛まれる中、彼はその状況で希望を見出してはいません。状況は何から何まですべからく悪いように見えます。彼の暗たんたる気持ちの中に希望は見当たらず、明るくなる気配はありません。自分の感情を言葉にするだけでは不十分なようです。自分がどのように感じたかを否定したり、自身の感情を無視すること、あるいは強いて別の感情へと変化させようすること―――長期的に見てこれらすべてのことは、おそらく事態を悪化させるだけです。

 

しかし彼は神様の度重なる助けを借りて、自分ができる一つの効果的なことを見つけます。彼の心を集中するために選択するものを変えられるということです。とても多くのことが起こりました。そして彼には選択肢があります。自分の周りで起こっていることが悲惨な出来事でしかないと「思い浮かべる」のか、さもなければ、思考の向きを神様のご人格、ご性質、御心の方へと変えることが出来るのです。心を神様の上に置くことで、雲は割れはじめ、彼はその悲惨な出来事が全体像ではないのだと気がつきます。背後にはいつも太陽があり、苦悩が彼の視界を覆っている間もずっと輝き続けていたのです。彼に神様を見、存在の暖かさを感じる力のないことが、神様がそこにおられないことを意味しているのではないのです。神様はおられます。これまでもおられ、これらかもずっとおられます。 その変わることのない真実の中で、今でも、そしていつの日か自分が置かれた状況が好転していると悟る前であっても、希望の種を植えることができるのです。

 

心の目を神様に向けることは、彼が自分の困難に目を向ける際のバランス感覚を保つことを助けます。困難は彼の人生で唯一のもののように思え、決して去ることのない、決して好転することのないもののように思えます。 しかし、神様に焦点を合わせることは、彼が物事を大局的に見通す感覚を保つ助けとなっています。 22節で彼は「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。・・・」と述べています。神様は時に残酷なことが起こるのを許されますが、それがもっと酷くなることもあり得た―――神様には私達を完全に消し去ることも可能なのです。当然、全能の神様なのですから、そのようなこともお出来になるのです。 もし神様が私達を愛しておられなかったら、私達がここにいることらなかったでしょう。 ですから、私達がここにいるという事実は、とりもなおさず神様が私達に希望を差し出して下さっていることのしるしです。 そもそも私達は自分でここに身を置いたわけではなく、そうするに相応しいからとか、その他の何かの理由でここにいるわけでもないのです。私達の人生は、最初から終わりまで神様からの贈り物です。私達は恵みにより、神様の憐れみと慈しみによって生きています。だから作者はこう書いています(22節後段〜23節前段)。「.…その慈しみは絶えることがない。それは朝ごとに新しい。…」

 

 私達は自分たちの文化から、私達には常に喜びを感じる権利があるという考えをどうにかして得るかもしれません。あなたが苦しむとしたら何かが間違っていて、誰かが責めを負うべきだというものです。しかし、聖書は私達に異なる世界観を与えてくれます。39節では、「生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。」と尋ねています。結局、神様はこの苦しみをエルサレムにもたらさせたくはなかったのです。しかし、神様は最終的に、正義を維持し、ご自身の民に悔い改める機会を与えることが必要であると考えられました。 彼らの心を入れ替え、神様との契約を破ることで彼らが及ぼした損害を認識し、神様との正しい関係に戻るためにです 。 それは今日でも同じです。 時が良くても悪くても、私達は神様に要求を行う権利を有してはいません。しかし、神様に感謝を捧げ、神様が作られた世界にあってここにいる幸運を讃えるための、あらゆる理由を持っているのです。

 

さて、作者は直接神様に語りかけ告白します。(23節後段)「…あなたの真実(yourfaithfulness)は尽きることがない」。faithfulness (訳注:日本語聖書では新改訳、共同訳共に「真実」)が意味するところは、厳密には明らかでないかもしれません。  先週、佐々木牧師が私達を導いて下さったところのヘブル人への手紙第11章1節には「信仰(faith)は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。ここから、 神様がfaithfulnessなお方であるというのは、神様にはとにかく目に見えないけれど望んでいる事がらがあるということになるのでしょうか。いや、それは聖書の神様についての教えと一致しません。おそらくfaithfulnessは、reliableやtrustworthyやdependable(どれも「信頼できる、頼りになる」の意)により近いのでしょう。 言い換えれば、神様は約束を守られるということ。忠実なペットや、友人、結婚相手であれば、あなたから離れて他の誰かと一緒に去って行こうとはしないでしょう。人が不誠実に去って行くことはあり得ますが、神様はそうではありません。

 

  最近、『Great is Thy Faithfulness』(『父の神よ 汝がまこと』)という賛美歌を歌ったとき、日本語版賛美歌のfaithfulnessの訳は「まこと」であると気がつかれたかもしれません(「父なる神よ 汝がまことは」) 。英語とはちょっと違うように思えて興味がそそられたので、www.biblestudytools.com のウェブサイトに行き、バイブルメニューの中のインターリニア(二か国語併記)聖書を見てみました。 単語の多くは聖書辞典にリンクされているので、23節でfaithfulnessと翻訳されているヘブル語をチェックしました。この同じヘブル語が時にはtruth(真理)と訳されているのを見て、興味深く感じました。 ですから、実際には基本的な違いはないと考えていいでしょう。 出エジプト記17章のアマレク人との戦いにおけるモーセのお話を覚えておられますか?  モーセはイスラエル人とアマレク人との戦いを見守っていました。 モーセの手が上げられている時には、イスラエルが優勢になりましたが、彼が疲れて手を下してしまうと、劣勢に立たされました。そこで、アロンとフルはモーセのためにその両手を支えて上げさせ(12節)「それで彼の手は日が沈むまで、しっかり(steady)そのままであった。」 このsteady(不変の、揺るぎない、確固とした)は、前述のヘブル語の言葉をもう一つ別の単語に訳したものです。まさしくそれです。それこそが神様なのです。揺るぎなく、そこにおられる。たとえ私達の周りにある全てが崩れ去ったとしても、神様はそこにおられます。Faithfulすなわち不変の存在です。主よ、めまぐるしい時代にあって私達と共にいて下さることを感謝します。 神様、今日も、そしていつでも、私達のそばに強く立っていてください。

 

 哀歌の作者が彼の考えや気持ちを私達と共有することで何が起こっているのか、皆さんはお気づきになりましたか?  彼は読み手と話をしているのです。 その読み手が誰であると考えたかはあまり明確ではありません。おそらく彼は特定の誰かに限定する必要はないと感じつつも、自分の心にあることをできるだけ多くの人々に聞いてもらいたかったのでしょう。間もなく彼はこう言います。(24節)、「私のたましいは言う『主こそ私の受ける分』」 そう、彼は彼自身に語りかけてもいます。そして今や不意に神様に向き直り、「あなたのまことは素晴らしい」と告白しているのです。そして、この嘆きの過程の中には、関わっているひとつの共同体があります。 彼自身の苦しみを自分だけのものにしないことを選択することで、悲しんでいる人々の大きな助けとなることができる何か―――周りの人々の支援、そして神様ご自身との絆を維持し、深めることのために、神様がそれを用いて下さるようにしているのです。

 

 それは、私達の神様が恐ろしい状況から引き上げて下さることを常としておられるという、善きことのひとつです。特にこれまでの数週間、私達もまた、ここオープンドアにおいてそのような体験をしていると思います。 主なる神様、よくない時をも用いて、あなたの家族の一員として生きることを私達に教えて下さることを感謝します。私達は共に前に進んで行きますから、どうかこれからもそのように導き続けて下さい。

 

先程、24節後段の『The Lord is my portion…(主は私の受ける分)』に触れましたが、それが何を意味しているかお分かりになりますか? 実のところ、私は聖書全体を通して同じようなフレーズを読んだことがありますが、そこにある真の意味を理解するのに悩んだものです。  英語で人々がこのようなことを言うのを耳にします。「アメリカのレストランの1人前の量(portion)は、日本に比べて多すぎですね。アメリカにいる時は、完食することはほとんどないし、仮にそうすれば、食べ過ぎになってしまいます。」それで私は日本語の翻訳をいくつか見てみました。すると、近年の3つの翻訳すべてで、それを『受ける分』としているのがわかりました。 聖書がその言葉をどのように使っているのかに着目すると、「人が受け取るもの」とは、土地や財産、神様が人や国に住居としてお与えになった家に関連して、しばしば使われるものであることがわかります。

 

私が、主が私達に伝え下さっていると受けとめたことの核心は、 苦難に見舞われる時、私達に必要なのは他でもない主ご自身だということです。主はただ単に、私達に講義や従うべき計画、実践すべき自助の手法やその他の援助を与えて下さるのではありませ

ん。主ご自身をお与え下さるのです。哀歌は紀元前586年頃の災厄について書かれたものですが、それは十字架へと続く道を示しています。イエスキリストはその同じ都市で、全ての時代の全ての人々のために苦しみへと身を投じたのです。私達もまた、エルサレムの人々がそうであったと哀歌が語っているように、神様が私達に教えられているように生きることを拒むことによって、私達の苦しみの大半を自分自身の上にもたらします。しかし、神様ご自身の特別な被造物である私達への深い愛ゆえに、神様は御子イエスのみ姿でこの世界へ来られました。イエス様はこの世に生きて、死なれました。そして私達が罪赦され、回復させられ、天の父であられる神様との愛と信頼の関係に私達を連れ戻す道を作るために、死からよみがえられました。

 

 それは私達がキリストの福音によって生きられるということを意味します。  哀歌31節後段〜32節では、「主はとこしえに拒まれることはない。たとえ苦しみを与えても豊かな慈しみによって憐れんでくださる。」と言っています。それは私が知る最も偉大な愛です。私達はその愛を受け取る機会を有しているのです。最初のステップは、私達にご自身をお与えになるほどに私達を愛してくださる神様に、希望を置く選択をすることです。それこそが 私達の心からの声として哀歌が叫ぶ『主は私の受ける分』なのです。

 

 それでは、私達はそのような愛にどうやって応えればよいのでしょうか? 作者は(24節後段で) 「・・・私は主を待ち望む」と言っています。私達は直面している問題が私達の人生の全てではないと信じることを選択出来ます。神様はそのことについて多くを語っておられ、然るべき時に働かれるでしょう―――神様の時に、神様のやり方で。私達は、神様がそうしてくださるという信仰にあって、待つことを選択出来るのです。  私達は25節にある「主は、ご自分に希望を置くものに、ご自分を探し求める魂に恵み深い。」という豊かな約束を受けています。ですから「天の父なる神様、私は、今日の、明日の、そして今週の、またこの問題、この必要、更にこれからの日々の全てにおける希望を、今日あなたの御前に置くことを選びます。私が困難から逃れるだけでなく、自分の問題の解決策を探し求めるのを助けてください。イエス様が約束して下さった「探しなさい。そうすれば見つかります。」(マタイ7章7節)という言葉のゆえに、私があなたを探し求めるのを助けてください。 もしも誠実に探し求めるなら、私はあなたを見つけるでしょう。だから日々そのように出来るよう助けて下さい。哀歌は私達に語っています(3章40節)。

 「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。」と。ですから、今すぐ祈りを通してそのようにしましょう。

 

 変わることのない愛の父なる神様、あなたを信じる人々は、時代を超え、自分達を取り囲む苦難の中で働かれるあなたの御手を見ることができない時でさえ、あなたの御心とあなたがどのようなお方かを知っておりました。 私達も、あなたが最終的には、あなたの善、真実、美しさ、そして何よりも赦しと贖いの愛に依って、私達の人生の中で働かれることを信じ、その群れに加わります。今日、御言葉を通して、あなたは再度私達に教えて下さいました。たとえ私達の周りの全てのものが崩れ落ちたとしても、いつかは、あなたが深い思いやりとご配慮によって働いて下さるということを。ですから、私達は信仰によって求めます。私達が困難な状態にあるとき、あなたが私達を引き上げ、道に戻して下さるように、そして私達がいつか天国であなたと共に住まう私達の家にたどり着くその日まで、その道を毎日一緒に歩いて下さいますように。これは私達一人一人のため、私達が愛するすべての人々、そして分裂し、壊れ、傷ついた世界のすべての人々のための私達の祈りです。 キリストの御名によって、アーメン。

 

参考

 

Bible Project, The. (2016, July 1). Lamentations. Retrieved October 12, 2020 from               https://www.youtube.com/watch?v=p8GDFPdaQZQ

Bible Study Tools. (2020). Book of Lamentations. Salem Web Network. Salem Media    Group. Retrieved September 30, 2020 from https://www.biblestudytools.com/   lamentations/

Peterson, E. H. (1992). Five Smooth Stones for Pastoral Work. Grand Rapids,   Michigan: William B. Eerdmans Publishing Company.