悲しみの中で神様に会う(その1)

2020年10月18日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

哀歌5章19~22節

                                            悲しみの中で神様に会う(その1)

 

  ここで神様の言葉を共にしたこれまでの数ヵ月間で、疲れを感じ、弱り、孤立し、孤独で、 恐れや不安を感じている人々に対し、神様が何を語っておられるかを私達は学んできました。 COVID-19によるパンデミック(爆発的な感染)は、私達の多くをそのような状況に陥らせてきました。 例えこのウイルスの直接的な影響を受けていないとしても、まさに今、私達の世界にどれ ほどの苦しみがあるかは私の目にも明らかです。 最近私達の教会の家族の間で共有 された祈りのリクエストを聞くだけでも、どれだけの痛みや喪失や悲劇を伴って―それが身体面、感情面、あるいは人との関係性のどれに属するものだとしても―多くの人の人生の一部になっているのかということに衝撃を覚えます。だからこそ、私達は必然的に内なる力と助けを求めるので しょう。

 

苦痛が喪失へとつながるとき、結果として悲しみが生じます。 私が日々目にするコロナウイルスによって命を 落とした人の数は、私の母国だけも20万人をはるかに上回り、世界全体では100万人を超え、明確な終わりは見えません。 一方でその数は圧倒的なものであり、私にどうこうできるものではないのです。 にもかかわらず、時と共に、悲哀の気持ちが高まるにつれ、言葉にする必要性を感じます。またコロナ禍にあって、私の母国の人々が選挙や人種間の分裂など、誰が物事の支配権を得るかを巡って、殺し合うことをいとわないほどの憎しみに満ちているのを見ると、心が痛みます。

   

キリストに従う者として、痛みや苦しみが悲しみをもたらす時、私達はどのように対処すべきでしょうか? 私達が関わる人々やチャンスや夢など、私達にとって深い意味を持つ人生の一 部分が失われる時、私達は何をすべきなのでしょう? その対処法によってはより健全で建設的なものもあれば、より損害を及ぼし破壊的なものもあることに、気づくことでしょう。しかし、そのように大きく異なる方向へと私達を導く道を区別することは大変難しいものです。どうすれば進むべき道を見つけられるのでしょう?

 

  感謝なことに、私達には助けがあります。 主はこのことに対する私達の必要を予めご存知ですし、数え切れない数の信仰の人々が何世紀にも渡り同じ困難に直面してきたのです。 悲しみの砂漠を通り抜けるのを助けるために神様が私達に与えてくださった 贈り物の1つが、聖書の哀歌です。  それは、バビロンがやって来て、全てを破壊し、多くのユダヤ人を奴隷として連れ去り始めた時に、住む家も街も国さえも失ったエルサレムのある人物の、5つの哀歌あるいは悲哀の表現を集めたものです。この悲惨な時代にあって、作者が大きすぎるほどの喪失に対応する手法の中に、神様はご自身を信じる人々が心の中にある悲しみに対処する方法を学べる規範となるものを用意して下さったのです。 

 

皆さんの牧師の一人として、私は、悲しみが皆さんの人生の一部となってしまいそうな時に備える手助けをしたいと思います。 もし皆さんが何か本当に意味のある信仰を持ちたいのならーそれは皆さんの人生を築く上での確固たる基盤ですが―1つは上手に 悲しむ方法を学ぶことです。 皆さんも私も信仰を必要としていて、それは私達の人生の頂に据える素敵な装飾以上のものであるとともに、意図的に人生の全ての部分に組み込まれているものでもあります。 神様を深く知ることは、最終的に健全で平安な人生へと導く方法で、どのように悲しみに対処すべきかを知る力を私達に与えてくれます。

 

少なくとも今回と次回のメッセージでは、そのことを私達の目標にしたいと思います。たとえ皆さんが、今は困難に見舞われた時にどうするか知る必要がないと思うとしても、いつか必要だと思う日が来るでしょう。ですから今日このメッセージを必要だと感じるかどうかにかかわらず、私が皆さんにお願いしたいのは、メッセージを受け取り、ファイルしておき、記憶にとどめ、皆さんか皆さんがご存知の誰かが必要とする時にこのメッセージに戻ってくることです。 私の祈りは、私達と神様との関係に残した一つの足跡が、いわば「死の影の谷を歩かなければならない」(詩篇23編4節 前段)時の力をもたらすことです。

 

哀歌が誰によって書かれたかは明らかにされていませんが、多くの聖書学者たちはエレミヤであったと考えています。エレミヤは、彼の国イスラエルに神様の裁きが下ると告げることに人生の大半を費やしたことから、『嘆きの預言者』として知られています。長きに渡り、神様の民は神様に背を向け、偶像を礼拝していました。彼らは裕福な人々が貧しい人達を抑圧するのを許したままにしました。多くの点で、彼らは神様がご自身の特別な民として彼らと結ばれた契約を破りました。神様は非常に忍耐強く怒るのに遅いお方ですが、遅かれ早かれ、悪を懲らしめられます。彼らの創り主、支え主、癒し主であり父であられるお方に背を向けることで、イスラエルとユダの国々は神様の正義の裁きを招いていたため、エレミヤや他の預言者達は神様に立ち帰るようにと彼らに警告しました。しかし遂に罰せられる時が到来し、哀歌の作者はそれに対する反応を深い悲しみの表現によって示したのです。

 

おそらくエルサレムに起こった悲惨な出来事を理解する一番の方法は、第二列王記24~25章を読むことです。そこで語られているのは、どのようにしてバビロンの兵士がやって来て、食料の備蓄から都市を寸断し、人々が飢えるのを待ち、そののちユダの軍隊を打破し、街を焼き払い、更には大勢の住民たちに故郷を離れることを強制して彼らの統治下にあるバビロンに住まわせたのか、ということです。しかし第二列王記の物語はかなり長いものであり、哀歌は1章3節~5節に見られるようないくつかの短めの節においてそれを語っています。

 

 3節 苦しみと過酷な労役の末に、ユダは捕らわれの身となった。諸国民の中に住み、憩いを見出すことはできない。追う者たちが皆で、彼女を苦境の中に追い詰めたのだ。

 4節 シオンの道は嘆き悲しむ、定めの祭りに来る者がいないことを。その城門はすべて荒れ果て、祭司たちは呻き、おとめたちは悲しみ、シオンは苦しむ。

 5節 彼女を苦しめる者が頭となり、敵が栄えている。背き続けた罪のために、主が彼女を悩ませているのだ。子どもたちは捕らわれ、苦しめる者の前を歩かされた。

 

  すべての出来事への反応を表すために、哀歌の作者は興味深い手法を選択しています。彼は自分の考えや感じたことを、アクロスティック(訳注:各行の最初または最後の文字を連ねるとある単語や語句になる詩や文章。言葉遊びの一種)またはアルファベット詩と呼ばれる形式に当てはめたのです。それぞれの行や小節の語頭を、ヘブライ語のアルファベットの文字に従って始めるという形式です。例えば、母の日が近づくと英語で書かれたこのようなアクロスティックを目にするかもしれません。

 

   「M」は彼女が私に与えてくれた何百万ものものを。

   「O」はただ彼女が老いていくことを。

   「T」は彼女が私を救うために流した涙を。

   「H」は彼女の何より無垢な黄金の心を。

   「E」は彼女の瞳にある愛の光の輝きを。

   「R」は正義を、そして彼女が常に正しくあることを示す。

 

   最初の文字を並べると、「MOTHER」(母親)という綴りになります。

   私にとっては世界を意味する単語です。

 

  哀歌では、第1、第2、第4の詩あるいは章の各節が、ヘブライ語のアルファベット22文字のひとつで始まります。第3章は形式こそ同じですが、1文字に1つの節ではなく、1文字が3つの節の先頭になっている点が異なります。最後の第5章で、作者はこの形式を逸脱しています。あたかも強力な心痛の念をその型の中に封じ込めておくことが出来なかったかのようです。しかしそれでも、各連はアルファベットの1文字で始まっているのです。

 

  一体なぜ作者は、このような予め定まった形式に当てはめて書こうと思ったのでしょう? 時には内容を記憶にとどめやすくすることを意図して、作家がそのような型を用いることがありますが、ここではそれが的を射ているように思えません。むしろおそらく、作者がこのような形式にのっとって書くことを選択した理由は、そうすることでエルサレムの人々が経験し感じたことのすべてを、一足ごとに痛みを覚えながらも何一つ目を背けることなく見つめ直すことを、彼自身と読み手に強いるためなのでしょう。

 

  苦しみの中にある人々、またその人達を助けようとする人達が、しばしば陥る最大の誘惑のひとつは、苦痛の原因を直視して対処するのを避けたいという思いです。どいうわけか、あたかもすべてが大丈夫であるかのように振る舞う方がたやすく思えるものです。私達は会話の主題を、痛みを伴う喪失よりももっと楽しいことへとすぐに変えてしまいがちです。苦しんでいることについて正直に話し、同じような境遇にある誰かを励まそうと試みる勇気すら持てないかもしれません。嘆き悲しむ過程を飛び越えて、ただ「すべてが良くなる」ようにしようとするのです。たとえば、私達が知っている誰かが喪失の痛みに苦しんでいたとして、数週間、数ヵ月過ぎても依然としてそのことに心を乱していたら、心の中で「まだ乗り越えていないのか?」と思ってしまいがちなのです。

 

  哀歌はそのような誘惑に抗って働きます。神様の言葉として、真剣に苦しみを受け止めてくれます。私達が自分の苦しみに対する感情や思考に正直になれるよう、背中を押してくれます。そのような方法にこそ癒しと回復の道があるのであり、この書は私達にヘリコプターで苦しみを飛び越えさせようとしてはいないのです。

 

  作者は哀歌の言葉を通して何をしようとしているのでしょうか? ひとつには、彼自身の悲惨な心情を内側から外側へと移すことです。たとえば1章20節で、彼は「御覧ください、主よ。私は本当に苦しいのです! 私のはらわたは痛み、心は私の内で動転しています。私が逆らい続けたからです。外では剣が子を奪い、家の中を死が支配しています。」と言っています。気持ちを表現し、言葉にすることで表に引き出すこと―たびたび同じ言葉を何度も何度も―は、人間にとって必要な癒しの過程の一部なのです。

 

  作者はまた、人々だけでなく神様にも頻繁に抗議しています。1章21節に耳を傾けてみましょう。

 

   聞いてください。私の呻きを。私には慰めてくれる者がいません。敵は皆、私の災いを聞

   いて、あなたがそうされたことを喜びました。あなたが告げられた日を来させ、彼らを私

   と同じ目に遭わせてくださいますように。

 

起こっているこれらのこと―それは正義ではありません! 単に他の国に強力すぎて自分達には止められない軍隊があるからという理由で、人々が殺されてはならないのです。国のリーダーが間違った決断をしたからといって、人々が仕事や家族を失うべきではないのです。自分達が愛する街を人々が焼き払うのを見なければならないということがあってはなりません。人々が十分に食べることも出来ない時に、そんなのは間違っています!

 

  感情を表し抗議を唱えるかたわら、作者の声は多くの混迷に満ちています。苦痛を通し、理解することを彼は求めているのです。今日読んだ聖書箇所はおろか、この書のいちばん最後でさえ、彼は自分の深い問いに対するすっきりと整った答えを見出してはいません。それは作者がもはや神様を信じていないということではありません。5章19節で彼はこう言っています。「主よ、あなたこそ、とこしえに座する方。あなたの御座は代々に続きます。」 しかし、神様がおられることを知っているからこそ、主がこの悪夢を終わらせようとなさらない理由を理解することに大きな葛藤を覚えるのです。すぐ後の節で、彼は「なぜ、いつまでも私たちを思い出さず、これほど長く捨てておかれるのですか。」と尋ねます。この書の終わりまでには、彼が自身の問いに対する答えを見つけるのを神様が助けて下さったと思うかもしれません。しかし哀歌の最後はこのように締めくくられます。(5章21~22節)「主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。私たちは立ち帰りたいのです。私たちの日々を新たにし、昔のようにしてください。それとも、あなたは私たちをどこまでも退け、激しい怒りのうちにおられるのでしょうか。」

それはハリウッド映画風のハッピーエンドではありませんよね。

信仰生活には、私たちの率直な困惑を表明し、疑問や疑念を告白する場所があります。哀歌には、作者が混迷から明瞭へ、悲嘆から祝福へと変化する、より前向きな瞬間があります。別の期会に、その場面を皆さんと見てみたいと思います。しかしここには偽りのない混迷があり、それは頂に可愛らしいリボンで結わえられているのではなく、書の終わりにぶら下がったまま残されています。

 

  しかしながらこの内側にあるものこそ、哀歌に何度も繰り返し現れる、特筆すべき最後の目的です。作者は神様の助けを探し求めます。1章9節で「主よ、私の苦しみを御覧ください。敵は勝ち誇っています。」3章59節では「主よ、あなたは私に対する不正を御覧になりました。私の訴えを取り上げてください。」と。

 

  これらすべてのことを悲嘆と共に行いながら、作者は私達に信仰のお手本を示してくれます。神様の御言葉に信頼する人々は、自分の持つ苦しみを決して否定しませんが、それをどこへ持って行くべきかを知っています。彼らは「祈りの中で主のところに持って行く」(『What a Friend We Have in Jesus(いつくしみ深き)』の一節)習慣を作っています。苦しみをただ棚上げするのではなく、神様の方に向けているのです。悲劇が私達を襲うときに用いるべき豊かな祈りの言葉を、彼らは私達に与えてくれます。困難が私達を打ちのめすとき、人々は時折「私は祈ることさえ出来ません。言葉が出て来ないのです。」と言います。そのような時、もし他に何もなければ、哀歌の中に刻まれた言葉をただ単純に読みたくなるかもしれません。その時には、たとえその時以外はそうでないとしても、それらの言葉が自分の言葉のように感じられるかもしれないのです。

 

  チャールズ・ティンドリーという賛美歌の作曲家が、100年以上前に『Leave It There』という信仰の歌を書きました。以下は、フィリップ・E・ナイト牧師によってアレンジされたものです。今日のメッセージの締めくくりに、この歌が私達に与えてくれる助言を受け取りましょう。

 

  

1、もしこの世界が あなたに金銀を与えず

    貧しさに甘んじなければならないのなら

    ただ思い出してごらん 主の御言葉を

    小さな鳥をどう養って下さるかを

    重荷を持って主の許へ行き そこに置いてこよう

    

     ※ 置いてこよう 置いてこよう

       重荷を持って主の許へ行き そこに置いてこよう

       もしも信じて疑わないなら

       主がきっと連れ出してくださる

       重荷を持って主の許へ行き そこに置いてこよう

 

  2、もし身体が痛みに苦しみ 健康を取り戻せず

    心が失意の底に沈みそうになっても

    イエスはその痛みを知り 救い癒すことのできるお方

    重荷を持って主の許へ行き そこに置いてこよう

 

      ※くり返し

 

  3、若かりし日が過ぎ去る時 老いが盗人のごとく忍び寄り

    煩いの重さに身体が曲がっても

    主は決してあなたを離れず 終わりの時まで伴ってくださる

    重荷を持って主の許へ行き そこに置いてこよう

 

      ※くり返し

 

 

  共に祈りましょう。

 

  全能の神であられ愛に満ちた天のお父様、人生が私達に大変な重荷を背負わせるとき、あなたの許へ持って行って、そこに置いて来られることに感謝します。天の御国の美しさの中に留まっておられるだけでなく、私達の痛みや苦しみの中に入って来て下さることに感謝します。私達が持ち込むものがどんなものであろうとすべてを引き受けて下さり、あなたに正直になるという自由をお与えくださる、あなたの偉大さをほめたたえます。たとえ苦痛に泣き叫び、不平を述べ、どうしてという疑問の中で我を失うこと以外、できることがないと感じていても、私達の悲嘆をあなたに向け、そこを通り抜ける一歩一歩の歩みに助けを見出すことができる恵みを感謝します。私達の人生に必要な癒しをお与えください。困難が訪れる時に、互いに助け合うことを私達に教えてください。そして、分裂し、破壊され、傷ついた私達の世界が、あなたの平和の中で再びひとつに戻れるようにしてください。これらのことを、私達の救い主であり主であるイエス様の御名によってお祈りします。アーメン。