不安を覚えるときに神様の平安の中で生きる

2020年9月20日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

列王記第一 19章19-21節

 

不安を覚えるときに神様の平安の中で生きる 

 

 オンラインで参加されている方々を含めまして、改めて皆さんおはようございます。 

これまで2回に渡り、預言者エリヤの物語を通して共に神様の言葉に耳を傾けて来ました。 彼が自分の命を守るために荒れ野を横断しながら逃げ回る様子を見ながら、私達は『疲れているときに神様の力強さの中で生きる』ということについて考えました。そののちエリヤがシナイ山において主に向き合い、「かすかにささやく声」と表された主の御声を聞いた時(列王記第一19章12節後段)には、『孤立しているときに神様の家族の中で生きる』というメッセージを受け取りました。今日は、目下神様により新たな召命を与えられ、その働きを開始する預言者と共に歩みを続けましょう。このエピソードは『不安を覚えるときに神様の平安の中に生きるということ』を私達に教えてくれます。

 

 このお話はたったの3節という短いものでありながら、その言い回しは理解しやすいとは言い難く、幾分説明を要します。それを念頭に置き、途中いくつかの重要なことに着目しながら、もう一度1節ずつ簡単に目を通していきたいと思います。今日のメッセージのタイトルにぴったりなものもあれば、そうでないものもあります。けれども、このよく知られた旧い物語を通して主が私達に語ろうとしておられる全てに、心を開いて耳を傾けてみましょう。

 

 まずは、この大いなる物語の出来事がどこで起こっているのかを確かめることが役に立つはずです。この地図を見ながらおさらいしてみましょう。列王記第一の18節で、エリヤはカルメル山においてバアルの預言者たちとの大きな争いに勝利します。そこから彼は、イスラエルの首都イズレエルまでの約24kmをアハブの戦車に先立って走ります。 その場所で女王イゼベルがエリヤの命を脅かし、彼は逃亡を始めます。エリヤは南部にあるベエル・シェバを通り、その後シナイ半島を越えて、シナイ山とも呼ばれるホレブ山まで行きます。そこで彼は激しい風、地震、そして火に遭遇し、その後で、戻って与えられた仕事を終えるようにと告げる神様の御声を聞くのです。その(与えられた仕事)の一部とは、アラムまたの名でシリアに赴いて、然るべき男を王の座に就かせることです。エリヤの使命は、イスラエルの王となる人物を選ぶことも含みます。神様が最後にエリヤに託した任務は、イスラエルの預言者であるエリヤの後継としてエリシャを選ぶことです。

 

 エリヤは、アベル・メホラのエリシャの家へ行き、3番目の任務を最初に遂行します(今日のお話)。結局のところ、最初の二つの任務は後にエリシャを介して完了することになるので、エリヤは『一石三鳥』だったと言ってもいいでしょう。

 

 19節後段では「エリシャは畑を耕していた。彼は12くびきの牡牛のうちの最後の組を御していた。」と述べています。一部の人々は、これはエリシャが裕福な家の出であることを意味するものと解説しています。少なくとも彼の家が、そこを耕すために24頭の牡牛を必要とするに足るだけの土地を持っている、と考えられるからです。 しかし、エリシャはほかの人達と一緒に仕事をしているのであり、裕福な人々なら疑いもなくそうするであろう使用人に任せているわけではありません。エリシャはきつい肉体労働に不慣れではないのです。 おそらく彼は畑を耕している間、かなりの時間を牛の後部(「南を向いた牡牛の北端」と言うところの)を見ながら過ごしたのではないでしょうか。そして聖書は「僕(しもべ)」がエリシャと共に働いているとは述べていません。21節では単に「人々」と呼んでいます。また、これらの農耕家畜が全てエリシャの家族の所有であることが明確なわけでもないのです。 中東の一部の文化では、地域の共同体に属する農家がひとつの家族では難しい特定の仕事をするために、大きな集団を作って働くことが一般的です。アメリカで育った私が聞いたことのある、『納屋の棟上げ』のために農夫達が集まる共同体と似たようなものです。彼らは皆で、誰かが家畜や飼料などを入れておくための簡素な建物を建てるのを手伝いました。人々は自分が似たようなことをする時が来れば、共同体がそのプロジェクトと共に手助けしてくれるためにあると期待出来たのです。

 

 農耕牛のくびきの数として書かれている12という数字は、エリヤがやって来た時のエリシャの状況について、別の手がかりを私達に与えてくれるかもしれません。 聖書には12が何度も繰り返し登場します。 たとえば、イスラエルを構成する12部族の祖であるヤコブの息子の人数。イエス様には宣教チームとして12人の弟子たちがいました。 イエス様がパンと魚を増やして数千人の人々に食事をお与えになった後、全員が満腹した上に、残ったもので12の籠がいっぱいになりました。 聖書に12という数字が出てくるとき、一般的には完全性や完了形を示唆していると考えられます。それは神様の力と権

威を象徴すると共に、統治の完全な礎(いしずえ)として機能しているとも言えます。 また、国家としてのイスラエル全体を象徴することも出来るのです。

 

 前の章(列王記Ⅰ18:31-32前段)にあるバアル神の預言者たちとの大きな争いの中で、エリヤはイスラエルの部族の数に従った12の石を用いて祭壇を築きます。 その上に彼が捧げた生贄を受け入れられた神様により、大いなる火が送られ争いに勝利します。

 ところで、聖書の記者は、エリシャが12くびきの牡牛を飼っていると述べることによって、預言者として選ばれる男の人生を完全で落ち着き、地域に密着した、つまり強い動機を与えられることなしには誰も手放さないであろう、よい人生を送っていたことを説明したかったのかもしれません。このことは私達に、神様への信仰の下に生きる人生を選ぶ者は誰でも、支払うべき代償があるということを思い起こさせます。 場合によっては大きな犠牲を払ったり、波乱に満ちた選択になることがあるかもしれませんが、主がご自身に従うよう私達を招かれるとき、各々に手放して来るようにと呼びかけられるものがあるのです。

 

 ところで12という数字は、エリシャが農耕牛の一隊を誘導することにより導くことを学んだ者として、信仰の下に主に従ってイスラエルの国家を導くように、神様が彼を選ばれたのだということを示しているのかもしれません。それは主が、モーセとダビデを、栄光とは程遠い羊飼いという立場から、主の民を導く精神的および政治的指導者として選択された手法と似ているように思えます。それは漁師を弟子に加えて「人間をとる」ことを学ばせようとしたイエス様の呼びかけ(マタイ4章19節後段)を思い起こさせます。 神様が皆さんに誠実な奉仕にあって従うようにと呼びかけられる時、皆さんの背景がどのようなものであれ、神様にはそれを善いことや大切なことのために用いる方法があるのです。

 

 物語は続きます。「エリヤはエリシャに近づくと、自分の外套をエリシャに投げかけた。」(19節後段) 翻訳の中には、エリヤがエリシャのそばを通り過ぎる、あるいはそれに類似した表現をしているものがあります。 そして物語の残りの部分は、エリヤがそこに留まるつもりのないことを明らかにしています。20節で、「するとエリシャは牛を置き去りにし、エリヤの後を追った。」 21節は、「それからエリシャは直ちにエリヤに従った。」と続けています。エリヤは留まるでもなく、エリシャに共に来るようにと圧力をかけて説得するでもなく、すぐに移動する心づもりであるように見えます。 エリヤの任務は、「私はあなたを選ぶ。」という神様のメッセージを届けることにあるのです。 その呼びかけに答えることはエリシャの責任です。

 

 このようなことは他の聖書箇所に見られる神様のお働きに似ています。イエス様が嵐の中、弟子たちに向かって水上を歩いて行かれた時(マルコ6章48-49節)、「イエスが彼らのそばを通り過ぎようとしたとき、弟子達はイエスが湖の上を歩いておられるのを見た。」とあります。 二人の弟子がエマオへの道中で復活されたばかりのイエス様に出会った時(ルカ24章28-29節)、「イエスはあたかも遠くへ行くかのようなご様子だった。そこで弟子たちは、イエスが出立を思い留まるよう懸命に引き止めようとした。」これは人々が自分に従ってくれるようにするための面白いやり方だと思います。

 

 神様は私達に呼びかけられますが、強制はなさいません。 また神様はご自身に従うための機会と能力を私達に与えて下さいますが、いつまでもその手を差し伸べたままでおられるわけではありません。 私達は応答する必要があるのです。 もし答えなければ、神様は先へ進まれます。 おそらく神様は、別の時機に別の呼びかけをして下さるおつもりなのか、あるいは他のご計画をお持ちなのでしょう。いずれにしろ、私達を自由にさせて下さるように、神様ご自身もまた、自由なのですから。神様の役割は呼びかけることです。そして私達にも同様に役割があります。それは信仰を持って踏み出すことで呼びかけに応え、従うことです。神様はどのように皆さんに呼びかけておられますか?

 

 聖書箇所に戻って、エリヤが自分の外套<coat>(英語では<robe>,<cloak>,<mantle>と訳しているものも。日本語版では「外套」)をエリシャに投げかけたことは、預言者の仕事をエリシャに引き渡すという象徴的な方法です。 この外套は、おそらく動物の毛皮で作られたものです。 エリシャはそれを受け取ったままにはしていません。 そのことは、エリヤが火の戦車で天に連れ去られた時(列王記Ⅱ2章1-14節)から読み取れます。 エリヤは姿を消す前に外套を取り落とし、エリシャがそれを受け取ります。それはエリヤが去った後も依然として残る神様のご臨在を示す力強いシンボルとなるのです。 皆さんは英語で、『リーダーシップのマントを渡す』とか、『リーダーシップのマントを受け入れる、受け取る、引き受ける、運ぶ、あるいは引き継ぐ』のようなフレーズを聞いたことがあるかもしれません。 それらは今日の聖書のお話に由来しています。たとえば、二人のクラブのメンバーが、次のような会話をする場合です。

 

   A: 来年、私達を引っ張ってくれたタクローがいなくなったら、どうすればいいか

     わからないわ。

   B:僕は心配してないよ。ヒロコがリーダーシップのマントを引き受けて、うまくやってくれると思うからね。

 

神様の御言葉は、教会のリーダー達の使命における重要な一部として、若い世代をリーダーとして育成した後に、前向きに、快く、そして協力的にリーダーシップのマントを渡すことを教えておられると、私は理解します。メンバーが年を取るに伴い、私達の教会の未来は、神様が導いて下さるこの働きにどれだけよく従っていけるかにかかっているでしょう。 それは福音を委ねられていることの大きな責務のひとつです。私達は積極的に絶えずそれを言い続ける必要があります。神様のご計画がそのことを用いて新しい信仰者をご自分の教会に導いて下さることを期待し、また神様が準備されている、敬意と思慮深さと技能をもって福音を取り扱うと信頼できる誠実な若いリーダーを見つける必要があるのです。

 

エリシャは彼の牛を置き去りにすることでエリヤの呼びかけに応えましたが、その後で、「父と母に別れの口づけをさせてください。・・・それからあなたと共に行きます。」と願い出ます。 エリヤは了承します。更にエリヤは重要な質問をすることによって、自分の返答を的確なものにしようとしているように見えます。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」 彼が何を言わんとしているのかおわかりになりますか? 私が初めて(ないし2度、3度…)この箇所を読んだ時は、わかりませんでした。一部の翻訳は、他のものよりも解釈を強めて次のように表現しています。

 

「行きなさい。しかし私があなたにしたことの故に戻って来なさい。」

(完訳ユダヤ聖書)

「行きなさい!あなたを引き留めはしない。」(共同訳英語聖書)

「よろしい、行きなさい。止めはしない。」(グッドニュースバイブル訳)

 

 エリヤがどのようなイントネーションでこの質問をしたのか知る由もありませんが、「私があなたに何をしたというのか」(私を強調)という言い方であったなら、「あなたを召命しているのは神様なのだ。これは結局あなたと神様とのこと。あなたが私にノーと言うのはたやすいが、神様からの呼びかけに従わなかったならば、私が解決してやれる以

上の大きな問題をあなたは抱えることになる。神様があなたの人生のためにお持ちになっているよい計画に従うことから、自分を遠ざけてはならない。」と言っているのでしょう。エリヤの返事はまた、「神様の呼びかけは、あなたが家族に背を向けたり、無視したりすることを求めているのではない。今までずっとそうであったように、あなたが任務を開始した後も、彼らはあなたにとって大切であり、あなたは彼らにとって大切な存在であろう。しかしこれは一族全体にとって大きな変化となるであろう。だから私は、今のあなたには彼らと過ごすいくばくかの時間が必要だと承知している。あなたの準備が整ったならば、出発しようではないか。」ということも意味するのでしょう。

 

   21節

   そこでエリシャはエリヤを残して戻って行った。彼は2頭の牛を取ってそれを屠り、くびきを燃やしてその肉を調理し、人々に振る舞って食べさせた。それから直ちにエリヤに従い、彼に仕えた。

 

 うわぁ! これは召命に応えるドラマチックなやり方ですね! たぶんエリシャは単に愛する主に仕えるチャンスに大喜びし、このような方法で感謝と賛美を表したいと感じているのでしょう。おそらく彼はこれが困難な旅の始まりであると察していて、いつか生涯をかけた任務を適確に続けて行こうとする中で、この非常に確固とした公の決意を振り返る必要があると察していたのかもしれません。彼が聞いていた他の人の話から感じるものがあったとも考えられます。

 ダビデ王の時代に遡って、アラウナという名の一人の男が、特別な訪問と要求を受けました。(サムエル記第二24章18-25節参照) 王が現れ、神様を礼拝する祭壇として用いるために、彼の生業の土地を買い取りたいと申し出たのです。アラウナは驚くほど寛容で誠実な応答をしました。 彼は言いました(22節)。「私の王であられる王様が望むものは何でもお取りになってお捧げ下さい。ここに焼き尽くす捧げもののための牡牛と、薪にするための脱穀板も牛のくびきもございます。」 結局、ダビデ王は代金の支払いを強く主張したのですが、アラウナの熱心な、熱意ある従順の姿勢は、エリシャや信仰の人々に、私達の暮らしへと続く数千年に渡る模範を残したのです。

 

 エリシャは、すべてを注意深く検討するために待つということはしません。彼は預言者としての人生と農業に携わる人生のプラス面とマイナス面を天秤に掛けることに時間を使おうとはしません。安定した収入と老後のプランが彼の関心の中心ではないのです。自らを献げる前に家族全員の了承を取り付けるのを待つというのが、彼の答えではありません。もしも彼が聖書の神様の預言者として働くならば、イゼベル女王とその支持者たちが彼のような人々に嫌がらせをするであろうことを、おそらくエリシャは知っていたのでしょう。 しかし、それは彼が信仰の上に踏み出すことを妨げるものではありません。

 ある人は、そこに『卵レベルの献身』があると言います。めんどりは私達の朝食に個人的で価値のあるものを「献げて」くれます。しかしその一方、『ハムレベルの献身』というものもあります。豚が「献げる」のは、全く違うレベルのものです。エリシャが捧げたのはハムレベルの献身ではないでしょうか。彼は何ひとつためらってはいません。私達が自分を献げることに何の制限も条件も設けず、純粋な信仰によって応答する用意が整った時には、神様がその御名において最も効果的な奉仕のために私達を用いて下さることへの準備が出来ているのです。 

 主よ、あなたが導いて下さるところへ従って行くための曇りなき心と勇気を、私達にお与え下さい。

  これら3つの小さな節の中からたくさんのことを見て来ましたが、私の頭の中にはまだいくつかキーになる疑問があります。荒れ野での危機の後、一体エリヤに何が起こったのでしょう? 少し前には、エリヤは燃え尽きてしまったか、あるいは精神が壊れてしまうか何か悲惨な状態に陥って、神様に死なせて下さいと頼んでいたのです。今はどんな心境なのでしょう?

 

 彼の人生の物語におけるこの部分全体は、女王が彼を殺すと脅した時に始まりました。私達は、神様が疲労と孤立の中からエリヤの闘いを助けるのを見て来ました。しかし、彼の不安はどうでしょう? 私達がこの聖書箇所や続けて彼にまつわる他の部分を読む時、自分が受けた神様の御言葉を取り継ぎ、必要とあらば王に挑むことさえするほど影響力のある任務に、エリヤが戻ったことがわかります。エリヤは自分の恐れとそこから生じた不安を克服するのに役立つであろう何を学んだのでしょうか?

 

 聖書は語っていません。見事なまでに寡黙で、何も伝えてはくれません。神様がエリヤに前向きな新しい考え方をもたらすような、素晴らしいセラピー手法や驚くべき新薬、あるいは霊的な言葉を与えるのを見ることはないのです。しかしながら、私達は預言者エリヤの行動にひとつの手がかりを見出します。彼は従うのです。エリヤは、神様の御声が彼に示した計画に従います。そしてそうすることで、勇気と好機、時々刻々を前に進む力を見出すのです。 間もなくアハブ王とイゼベル女王は二人とも亡くなり、エリヤは他の課題へと向かっていきます。

 

 エリヤが陥っていた深くて暗い精神状態が永久に消え去ったのか、時々またその状態に対処する必要があったのかは、計り知れません。私は彼がその状態と共存することを学ばねばならないと考えます。しかしそれはさほど重要なことではないでしょう。エリヤは神様が彼と共におられると知っていて、彼には成すべき仕事があります。そして主が彼を導き力を与えて下さると信頼することで、果たさねばならない役割を果たすことができるのです。

 

 エリヤがエリシャへの呼びかけに際して行う仕事を、彼が本当にやりたいと思っているかどうかはわかりません。しかし、実際に始めた後に快く思えるようになる可能性は十分にあります。もし彼が山中の荒れ野に留まって、復帰して仕事を続けたいという気持ちが湧いてくるのを待つなら、おそらく死ぬまでそこにいることになるでしょう。私達にとっても、自分の感情を行動の支配下に置くのは、しばしば間違いのもとです。大抵の場合、ただ次の正しいことに集中する方が、現実的に有益なのです。そうすれば、感情は時に応じて自然と伴って来るものです。

 

 自分たちが今いる状況(問題はわずかで、周りの人々からのよいサポートがある等々)から平安を得る人達がいます。一方、状況が良いか悪いかに関わらず、自分がおかれている状況に平安をもたらす人達もいます。その人達は平安を持ち歩いているのです。それは神様が私達にそうなって欲しいと願っている類の人々です。

 

 エリシャは、大きな困難に直面しなければならないことが、平安と共に生きるのは不可能だということを意味してはいないことを教えてくれます。私達の状況や境遇が、最終的に私達の心の状態を支配することはありません。幾多の困難に直面しようとも、真の平安と共に生きることは可能なのです。神様の助けを借りて、エリヤはこれを行います。キリストはそれ以上に行っています。そして主に従う私達も同様に行うよう教えておられます。私達がそうするのを助けて下さいと、主にお願いしようではありませんか。

 

 天におられますお父様、今日私達は、私達が住む世界や私生活の中で、たくさんの異なる困難に直面しています。けれども、あなたはご自分の民が平安の中に住まうようにと呼びかけておられます。ですからどうぞ私達が、自分の状況、特に自分の問題に目を向けるのではなく、あなたに目を置いて日々生きることを教えてください。あなたが私達にしてほしいと望んでおられる次の正しいこととは何でしょうか? 友達や話し相手を必要としている知り合いの誰かに、電話をすることですか? もっと休息をとって、健康的な食事をすることですか? 日々の祈りを通して、あなたと過ごす時間を習慣にすることですか? 今、私達の多くが持つ増えた時間の分を、新しい夢を見たり、新しい仕事を始めたり、まだ形成する必要のある人格の一部を成長させたりするために用いることですか?今あなたの御霊がどんな方法で私達に語りかけて下さっているとしても、耳を傾け、どのように従うかを理解し、日々忠実な信仰をもって積極的に従うことができるよう助けて下さい。

 イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

参考

 

Bible Study. (n.d.). Meaning of Numbers in the Bible: The Number 12. Retrieved  September 10,    2020 from https://www.biblestudy.org/bibleref/meaning-of-numbers-in-bible/12.html

Gill, J. (1746-1763). John Gill's Exposition of the Bible. Retrieved August 25, 2020 from               https://www.biblestudytools.com/commentaries/gills-exposition-of-the-bible/1-kings-19-19.html

Henry, M. (1706). Matthew Henry Commentary on the Whole Bible (Complete). Retrieved August 28, 2020 from          https://www.biblestudytools.com/commentaries/matthew-henry-com   plete/1-kings/19.html

Jamieson, R., Fausset, A. R., and Brown, D. (1871). Commentary Critical and Explanatory on the Whole Bible. Retrieved September 13, 2020 from https://www.biblestudytools.com/commentaries/jamieson-fausset-brown/1-kings/1-kings-19.html

Ortberg, J. (May 3, 2020). Hope Killers. Hope Has a Name. Menlo Park Presbyterian Church.    Retrieved July 12, 2020 from https://menlo.church/series/hope-has-a-name#/modal/message/6503/mlo

Wesley, J. (1754-1765). Wesley’s Explanatory Notes. Retrieved September 13, 2020 from               https://www.biblestudytools.com/commentaries/wesleys-explanatory-notes/1-kings/1-kings-19.html