孤立している時に神様の家族の中で生きること

2020年8月16日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師 

 

  第1列王紀19章9〜18節

孤立している時に神様の家族の中で生きること 

 

  皆さんが先月、この場所で英語礼拝に出席されていたなら、私が預言者エリヤの話から「疲れた時に神様の力で生きる」ということについて説教したことを覚えておられるでしょう。 説教の終わりでは、エリヤはイスラエルの国から逃げ出し、途中で神様の天使と出会った後、シナイ砂漠を渡り、ホレブ(またの名でシナイ山)にやって来ました。  今日はその話を続けて、「孤立している時に神様の家族の中で生きる」ということについて神様が私達に何を語られているのか見ていきたいと思います。

 

   コロナウイルス感染拡大の体験により、私達の多くが日々の大部分をかなり広範囲で人との接触から隔てられて過ごしています。 私達の様々な性格の違いや大きく異なる状況により、それが他の人より容易な人もいるでしょう。それでも私達全員にとって、他者との日常のつながりがなければ、少なからぬストレスや本質的な犠牲を伴うと言っても良いでしょう。 私達は、通常、人とのつながりを持つことに慣れており、神様は人間を共同体で生きるように設計されました。 人と健全な関係にあることは、人間であることの意味の中心であり、それは聖書の神様が私達に与えて下さっている世界観です。 それならば、何ヶ月にも渡る終わりの見えない孤立が私達の日々の体験の一部となる時、私達の助けになるものは何でしょうか?  これが今日の聖書物語へと入る出発点となる問いです。 それではご一緒に歩みを進めましょう。 

 

  記憶を呼び起こすために先月学んだ聖書の1節を確認すると、8(列王記第1 19)でエリヤがシナイ半島を横断しホレブ山、別名シナイ山に到着するまで4040夜を要したとあります。(札幌には他の多くの都市と同様、シナイ山病院があります。)

ここには幾重にも重なる謎があります。 一つには、もし人に40日間歩く力強さがあり、シナイ山がある地域に真っすぐ向かったとして、 40日はかかりません。 グーグルマップではベール・シェバから徒歩で87時間となっています。 当然、安息日を休んで18時間歩いた場合でも約11日で到着できるのです。14時間歩いたとしても24日くらいですが、40日とは?  列王記第1 1846節が述べているように、エリヤが王の戦車の24キロ先を走ることができる健康な人であったなら、どうやって40日もかかるのか理解に苦しみます。 そこで考えられるのは、エリヤが単に長距離を歩くことに多大な力を注ぎ込むほど元気じゃなかったか、あるいはこの間にかなり彷徨い歩いていたということです。  彼が霊的な面でも感情面でも「道を見失った」状態にあると考えると、それは非常に容易に想像できます。

   エリヤのシナイへの4040夜の旅は、モーセが同じ山において、主から十戒を授かった4040夜のことを思い出させます(出エジプト記3428節)。 そして、40日間(または4040夜)というフレーズは、皆さんが聖書を読むことを通してしばしば出会ってきたもののひとつです。気づいておられましたか?  ノアのお話では、雨は4040夜降りました(創世記712節)。 イスラエルの人々は、約束の地に入るまでにこの同じ荒野をさまようことに40年間を費やしました(出エジプト1635節)。 ヨナは、40日のうちに街が滅ぼされるというメッセージを伝えるためにニネベに派遣されました(ヨ34節)。 イエス様は悪魔の誘惑を受けるまでの間、食べ物なしに荒野で4040夜を過ごしました(マタイ42節)。 復活の後、イエス様は40日間に渡って弟子達に現れました。

 

 ですからここに聖書の数字が持つ意味がもうひとつあります。 試練と好機の両方の時機に神様の言葉の中に40という数が現れるようです。 これらは主がとりわけ厳しい状況の中から特別な方法で働かれる時機なのですが、主の目的は、そのような状況を通し主の民(個人や人々)を祝福と共に導くことです。 困難をそのようなものであると見なすことは、皆さんや私の霊的健康にとって良い習慣です。 私達は非常に厳しい時を迎えることがあってもなお、共にそれらの困難を通り抜けて下さる神様こそ、過去において何度も、大きな試練を通してご自分の民を力強く賢明に試練の向こう側へと連れ出された、唯一のお方であることを知っています。 神様はご自分の民を危機的な状況に陥らせることを鍛錬として、民が神様のご臨在をより大きく受け止め神様に信頼する力と共にその状況から去ることさえ可能にされるのです。

 

 そのように大きな目的を念頭に置き、神様はひとつの問いをもって預言者を試みます。(9節) 

 「エリヤ、あなたはここで何をしているのですか?」 神様のシンプルでありながら深くて鋭い非常に多くの問いかけと同様に、この質問は気軽な会話ではありませんし、神様がまだ知らない何かを知ろうとして尋ねているわけでもありません。神様はエリヤが真実を見つけ正直な返答をするために自身の内面に目を向ける必要があることを理解しておいでです。

 その答えは何でしょう? エリヤはなぜそこにいるのでしょう?  神様は彼を神様の民、イスラエルの預言者として召命されました。エリヤはこれまで大きな気力、献身、そして情熱をもってそれを行ってきました。しかし今や、イゼベル女王に脅かされ、彼は自分の立場を手放してしまいました。 仕えて働くために神様がエリヤを送られたその人々から、自分自身を切り離したのです。主なる神様はエリヤがこの現実と向き合うために彼を試みます。

 

 当然ながらエリヤは、自分がそこにいる理由についてあらゆる類いの弁明を見つけ出すでしょう。 人々が自分の預言を聞かないのだから、もはや預言を続ける事はできない。女王が彼の死を望んでいて、死んだ預言者に預言はできないのだから、イスラエルに留まることはできなかった。もしも少しの間逃げおおせることができるなら、状況が変わり戻れるかもしれない。 おそらくエリヤは、砂漠を横断している間、この筋書きを何度も何度も復唱したことでしょう。10節にある彼の返事では、自分の人生で起こっているネガティブな部分にのみ焦点を当てています。 それは自己中心的なものの見方であり、彼の人生あるいは国全体に対して神様が意図されていることを見ているわけのではないのです。 神様がエリヤをシナイ山に送られたわけではないと思われますが、とにかく彼はそこにいます。

 

 エリヤはひとつにはある誤解に基づいてそこにいます。 彼は(10節)「私は残された唯一の者です。」と言っています。 本当ですか? 18章では王の役人の1人がエリヤに、100人の預言者を政府による迫害から身を守るために洞窟内に隠していたと言っています。この時期は彼の国にとって苦難の時であり、 今こそ強固で信頼できる指導力を必要としているのです。しかしながら今やエリヤは自分の身と、どうやって彼の人生をもっと対処しやすいものにするかついて以外は考えられなくなっているようです。

 

 エリヤの精神力がその状況に対する彼の行動にどのように作用しているかを探るのは興味深いことです。 彼が良い長距離ランナーであり、砂漠で長期間生き残るのに十分な体力を備えていること(もちろん神様の助けを借りて)を自ら証明したことも明らかです。しかしながら彼のストレスレベルが上昇すると、神様の変わることのない約束を拠り所にする代わりに 己の力に向き直り、荒野で逃げ延び生き残るための本能を頼みとしたのです。人間はこうなる可能性があるものではないでしょうか。もし私達が主に信頼する代わりに自分を救うために自身の能力に依存する時、私達自身の強さがかえって弱みになり得るのです。自分自身についてこのように見るのは居心地がよくありませんが、そうする必要があるのではないでしょうか。

 

 そして、エリヤが神様の呼びかけから逃げる時、彼は事実上、彼にとって必要な他の人々や主との間における結びつきから自らを切り離すことになるのです。 孤独は、すべての人の人生において、それがどの程度であれ非常に悲しい部分だと思われます。しかし 私が会ったことのある最も孤独な人々の多くが、他者との関係を破壊し、他者から自分自身を切り離す選択をする傾向を持っていたことは、私にとって驚くべきことです。 歌手のスティングはある歌の中で自分自身についてこのように語っています。「私はどのような助けの手も避けようともがいている」 私達はある程度の孤立を強いられています。しかし自由選択による行動様式が、私達を孤独な生き方に導くこともあるのです。

 

 エリヤは、あたかも全能の神様が彼の苦悩を既にご存知ではないかのように、自分が直面する悩みの全てのリストを携えて神様に向き合います。にもかかわらず主は、エリヤの誤っているところを指摘することから始めようとはしません。まだそれが相応しい時機ではないようです。エリヤはそこで何をしているのでしょうか? 彼が弁明をするため、そして神様にかわいそうだと思ってもらうためだけに来たのなら、それは場違いということになります。しかし、たぶんそれ以上のものがあるのでしょう。 おそらく彼は、神様と神様のご意志、そして信仰においてどのように神様に従うべきかをより深く知る必要を感じているのです。もしも 彼が神様との真の出会いを求めてここに来たのなら、彼は正しい場所に来たことになります。自分の周りで物事が崩れ行くことに対する彼の行動が、彼と彼の国の強さの源へと立ち帰ることであるならば、彼は最も相応しい場所にいると言えます。

 

 覚えておいてください。ここはシナイで、神様が律法をお与えになり、律法と神様のすべての言葉に基づき、神様の民であるイエラエル国民との契約関係に対し、ご自身を再び託された場所であることを。 そしてエリヤがそこに到着したとき、彼はモーセがもう何年も前に、燃える茂みの前で神様に出会ったその場所にいました(出エジプト記32節)。 モーセは神様に名前を尋ねました(出エジプト記313節)。その日以来 モーセは神様を次第に深く知るようになり、それは彼の生涯にわたってずっと続くのです。 そうすることで、彼は自分が置かれた状況と自分自身を理解する上での助けを見つけました。 エリヤは同じことをしようと努めているのかもしれません。 モーセが彼の命を奪おうとしている王から逃げ、砂漠を越えてそこにたどり着いたと同じように、エリヤも彼の死を望んでいる女王から逃げているのです。しかし、これもまたモーセ同様に、彼はただ逃げるだけでなく、砂漠に限らずあらゆる状況で自分を助けることができる大きな何かを見出すチャンスに気づきます。

 もし人々からの孤立が私達を神様に引き戻させる役割を果たすなら、そこには希望があります。 もし私達が経験している他者からの分離の全てが神様とのより親密で深い関係をもたらすことに寄与するならば、今ある世界の悲惨な状況からよいことが育つ可能性があるのです。私達の内の幾人かは、今長い時間の在宅によって、非常に多くの自由な時間を持て余しています。 その時間を祈りに、神様の言葉を学ぶことに、またその他の霊的な鍛錬に費やすことは、主の目には非常に生産的な時間として映るでしょう。私達の霊的な成長を助けることで、長きにわたり人々とのより強い関係を築き、保つことにも導いてくれるでしょう。

 神様はエリヤに告げます(11節)。「外に出て、山の上で主の前に立ちなさい。 私はそのところを通り過ぎます。」それらの言葉に聞き覚えがあるでしょうか? 出エジプト記33章で、モーセは神様に栄光を現して下さいと求めます。神様は彼に「私はもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。」(19節)と語ります。主はモーセにシナイ山で彼に会うことを告げ、こう続けられます。(20節〜23節)

 

  「しかし、あなたは私の顔を見ることはできない。私を見て、なお生きている人はないからである。」 「見よ。私の傍らに1つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。私の栄光がそこを通り過ぎるとき、私はあなたを岩の裂け目に入れて、私が通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。そして私が手をのけるとき、あなたは私のうしろを見るが、私の顔は見ないであろう。」

 

神様はエリヤのために同様のことを行なわれますが、まず聖書の中でしばしば神様の力ある臨在のしるしとされている3つのことが起こります。 一つめが、非常に強い風です(10節)。 これは、例えばイスラエルの人々のエジプトからの大脱出を読者である私達に思い出させます。 出エジプト記142122節では、神様が強力な風を使って紅海を開き、神様の民が安全に渡れる道を作ったと言っています。

 

 「モーセが海に向かって手を伸ばすと、主は夜通し強い東風で海を退かせ、乾いた地にした。水が分かれたので、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んでいった。水は涸れたために右と左で壁となった。」

 

次に、地震が発生します(10節)。 マタイ282節では、この同じ神様の力のしるしがキリストの復活の出来事と一緒に現れます。  「すると大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。」黙示録1618節では、神様が世界を終わらせるときに何が起こるかを説明しています。「稲妻、轟音、雷鳴が起こり、また、大きな地震が起きた。人が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。」

 

それから、神様はその力を示す驚くべき三つの一連の御業を完了させるために、火を送ります(11節)。 私達が既に気づいているように、かつて神様は出エジプト記32節でもそれを行われました。  「すると、柴の間で燃え上がる炎の中に、主の使いが現われた。彼(モーセ)が見ると、柴は火で燃えていたが、燃え尽きることはなかった。」そのずいぶん後に、イスラエルの全ての人々がシナイ山にいたとき、出エジプト記1918節は、「シナイ山は山全体が煙に包まれていた。主が火の中を通って、山上に降り立たれたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。」と教えてくれます。もちろん、神様はちょうど列王紀第1 18章に書かれているエリヤとバアルの預言者との対決の話の中でご自身の力を示されたばかりで、その時は他の預言者のではなく、エリヤの捧げものを受け入れた証としてこれを燃やしたのでした。

 

どういうわけか、神様の声を理解することを生業とする預言者であるエリヤは、今回は神様がこれらの劇的な自然の事象を用いられないと理解しています。 つまり、神様はそれらを通しては語られないということです。 今回、エリヤは神様の言葉を「穏やかなささやき」(12節後段)を通して受け取るのです。 神様は神様であり、ご自分が選ばれた方法で話されるでしょう。 この「穏やかなささやき」という文言は、ヘブル語からの翻訳が困難なものであり、異なる翻訳においてとても様々に表現されています。ある英語の翻訳版では、「静まった小さな声」またあるものは「静かで、優しい声」、「静かな落ち着いた声」、「完全なる沈黙の音」他です。日本語訳では、「かすかな細い声があった。」、「静かにささやく声が聞こえた。」や「かすなにささやく声があった。」等です。

 

神様はすでにエリヤに、「出て行って、私の目の前にある山に立ちなさい。 私はそこを通り過ぎます。」と告げられています。エリヤはこの声を聞くまで、洞窟もしくは崖の裂け目に留まっていました。私達はエリヤのように深くて熱心な信仰のある人が直ちに主の直々のご命令に従うことを期待するかもしれません。ですが彼は多分、抑鬱状態の極致にいるか、何らかの精神的、感情的な問題を抱えていて、恐怖に慄いていたのです。風と地震と火災が起こった直後に、神様ご自身からの問いかけの中で自分の名前を聞いた時、エリヤは立ち上がって出口まで行きます。

 

主は彼に13節で既に尋ねられたのと同じ質問をされます。「エリヤ、あなたはここで何をしているのか?」エリヤはまだ本当に答えてはいません。彼は自分の人生で起こっているすべての恐ろしいことを神様に述べつつ、不平や苦痛をぶちまけています。そして今、 神様が彼にこのシンプルながらも奥が深い質問に向き合う二度目のチャンスをお与えになった時、エリヤは劇的な自然現象と神様が彼に話し掛ける前にしたのと全く同じ返答をします(14)。天地の主であられる生ける神様との遭遇(出会い)によってエリヤはどのように変化しましたか? 全く変わっていないように見えます。

 

 ここに神様を信じる私達への厳粛な警告があると思います。神様との出会いはどのように私達を変えますか? それはどのようにして私達を、神様がそうあって欲しいと私達に望まれる深い愛と理解を持つ人へと完全に作り変え成長させるのでしょうか。  私達の霊的な旅にはどれだけの段階を経なければならないのでしょうか?  私達はここでの礼拝の中で、私達の個人的なデボーションの時に、あるいは他の場所で神様に出会うことで、基本的に変化のない体験から離れることが可能です。  それは「やることリスト」の中からそれをチェックできるのです。例えば「静かな時間を持つ。チェック」というふうに。もし私達が神様のみ前で、誠実で正直で謙遜になろうとしないなら、私達は神様の実在から離れてしまい、私達の以前の状態から引き上げられることも、道を直されることも、再び力をいただくことも、啓発されることもないでしょう。もし私達がどのようにして今の自分の状態に行き着いたかという物語にこだわりすぎて、神様が私達に再び語られることを見ようとしないなら、神様が私達の目の前に置かれ今もなお私達のために作られ続けている計画の更新と発見という機会を逃すことになります。

 

 そこで皆さんへの(そして自分への)私の質問は、「エリヤ、あなたはここで何をしているのですか?」 です。もし皆さんが孤立の中で生きているとしたら、それは本当に神様があなたをそのような状況に置いたからなのでしょうか?  私達が人との関係から切り離されて生きる時、孤独や絶望その他人間の生活に害を与える多くのものが育ち増大します。 神様は、まず一番に、神様との健全な関係を回復するように働かれます。 しかしその重要な関係において、私達の家族、地域社会、職場、その他の場所で他者とのつながりを築き、再建し、維持するのを助けても下さいます。 神様はエリヤに「あなたの召命はイスラエルにある。あなたの使命はイスラエルにある。エリヤ、私は今もなおあなたに伴うことを止めない。あなたへの私の導きはここに留まることではなく、あなたの故郷で行うようにと私があなたを遣わせた、その仕事に戻らせることだ。」 そのような意味のことを言われていると思います。

 

 神様はエリヤに驚くほど慈悲深く忍耐強くあられます。 神様は、エリヤが燃え尽きてしまったこと、現実との接触を失くしていること、預言者の国でも私生活でも、問題に対処するための主の御力を見失っていることを非難しません。 しかし神様はエリヤに、主である神様が不在なのではなく、孤立させているのでもなければ、正義を守ることができないのでもない、今でもご自分の民が直面している大きな試練に気づかないわけではないということをはっきりと思い出させます。

  神様はこのように言っておられるのです。「エリヤよ、あなたは一人ではない。依然として誠実で、私の導きの下であなたと一緒に働く準備ができている者が7,000人以上いる。彼らはあなたを必要とし、あなたには彼らが必要なのだ。戻って彼らと共に私に仕えなさい。」と。

 

 エリヤは預言者としての働きを続ける方法について非常に具体的な指示を受けます。預言者の役割の一部は、指導者の選択に関する神様の言葉を布告することです。 神様は、イスラエルの周辺国の中で最悪の敵であるシリアの次の王をハゼルとするためにエリヤを遣わします。 同様にして、エリヤはイエフを現在のアハブ王に替わるイスラエルの王であると布告することになります。神様はエリヤを引退させませんが、然るべき時が来たら預言者エリヤの後を継ぐ者としてエリシャを選ぶよう、彼に指示します。これらの3人、ハザエルと彼が王として治めるシリア人、イエフと彼が率いる民、さらにはエリシャ自身も、国を偶像崇拝に導いているイスラエルの人々に対する神様の裁きを実行することになります。

 これらのすべての指示は、エリヤを孤立状態から抜け出させ、彼を取り巻く人々との共同体の中に戻らせることになります。 このことは、彼の人生が一人では耐え難く感じ始めた時に預言者の回復を助けます。 特に、彼を導くための神様の新たな計画に従うことにより、エリヤは後継者であるエリシャとの親密で個人的な関係を発展させます。 次回のメッセージでは皆さんとご一緒に、そのことについてさらに詳しく見ていきたいと思っています。ついにエリヤがこの世を去る瞬間が来た時、先週、佐々木牧師が述べたように、エリシャは彼に「私の父よ!」と呼びかけます(列王記第二212節)。 この教師と生徒、メンターとプロテジ、父と息子のような関係は、疑いもなく人とのつながりというエリヤの奥深い願望を満たし、彼が味わってきた絶望から彼を引き戻すのです。神様との交わりを通したこのような様々な方法によって、エリヤは彼を取り巻く人々とのより強い共同体の中へと導かれるのです。

 

 コロナウイルスのパンデミックによる孤立を余儀なくされるこの期間、神様がオープンドアで行われていると私が思うことの一つは、私達の小グループの宣教の働きを強化するように導かれているということです。 ある人は直接会い、ある人はオンラインで、またこの試練の波の往来に連れ、その二つの間を行ったり来たりシフトする必要があるかもしれません。 しかし、キリストを信じ従っている者や求道者のさまざまな輪の中で、すべては教会の働き全体の中で、繋がっているようにと神様は私達に教えておられます。 これこそが、パンデミックの季節が過ぎた後も(きっとそうなるでしょう!)、私達がますます神様の子供として生きるように助けてくださる方法であることを私は大いに期待しています。 このことと神様の御心による全ての道で、私達が神様の家族の一員として生きることの意味を学ぶ手助けをして下さることを、私達の祈りとしましょう。

 

 天のお父様、私達が道に迷ったとき、私達はいつでも立ち帰る神様がおられることを感謝致します。 あなたが作られ、支えて下さっているあなたとの契約の関係に感謝致します。私達が常にあなたを探し、あなたの強さに立ち返り、私達の行動によって、新しくより深い方法であなたを見出すことができますように助けて下さい。 特に、この試練の時にお互いをしっかりと結び合うことができるよう教えてください。 キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

参考

 

Henry, M. (1706). Matthew Henry Commentary on the Whole Bible (Complete).         Retrieved August 3, 2020 from https://www.biblestudytools.com/com mentaries/matthew-henry-complete/1-kings/19.html

Jamieson, R., Fausset, A. R., and Brown, D. (1871). Commentary Critical and Explanatory on the Whole Bible. Retrieved July 29, 2020 from https://www.               biblestudytools.com/commentaries/jamieson-fausset-brown/1-kings/1-kings-              19.html

Orr, J. Gen. Ed.  (1915). Elijah. International Standard Bible Encyclopedia.

 

Retrieved August 8, 2020 from https://www.biblestudytools.com/encyclopedias/isbe/elijah.html

Ortberg, J. (May 3, 2020). “Hope Killers.” Hope Has a Name. Menlo Park Presbyterian Church. Retrieved July 12, 2020 from https://menlo.church/series/hope-has-a-              name#/modal/message/6503/mlo

Sting. (1987). “Be Still My Beating Heart.” Nothing Like the Sun. Retrieved August 12,  2020 from https://www.amazon.co.jp/Nothing-Like-Sun-STING/dp/Boooo26NIV/

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