復活の信仰の証し人

2020年4月26日主日礼拝「復活の信仰の証し人」<Ⅰコリント15:1~8>佐々木俊一牧師

■前回、ローマへ向かおうとしていたパウロが、カイザリアと言う町で、総督フェストとアグリッパ王にイエス・キリストの十字架と復活について語っていたところからお話しました。パウロはイエス・キリストの十字架と復活の出来事がイスラエルの片隅で起こった出来事ではなくて、誰もが認める事実であることを主張しました。アグリッパ王は言いました。「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」。アグリッパ王は、きっと、後でイエス・キリストを救い主として信じたのではないでしょうか。

  このようにして、いかなる時もパウロは、イエス・キリストの十字架と復活を宣べ伝える人でした。そんな彼は、以前は、イエス・キリストに敵対し、クリスチャンを率先して迫害するような人物でした。しかし、ある時、彼は復活のイエス・キリストに出会いました。そして、イエス・キリストの十字架と復活を宣べ伝える者へと変えられたのです。今日の聖書箇所はコリント人への手紙第一からです。この手紙は、このパウロによって書かれたものです。

■1節~4節  「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかり保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、」

  ここに最も大切なことが書かれています。福音の核心です。 このことばを信じてしっかり保っていれば、このことばによって救われると聖書は言っています。

  ところで、福音とは何でしょうか。福音とは、「良い知らせ」です。何が良い知らせなのでしょうか。また、救われるとはどういうことでしょうか。何から救われるのでしょうか。Ⅰコリント15:54に、「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』と記されている、みことばが実現します。」と書かれています。下にある注釈を見ると、イザヤ25:8と書かれています。イザヤ25:8を見てみましょう。「永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。」永久に死を滅ぼされる、と書かれています。永久に死を滅ぼされると言うことは、永久に生きると言うことです。つまり、永遠のいのちです。パウロが語ることにはいつも旧約聖書の裏付けがあります。前回にも言いましたが、パウロがイエス・キリストの十字架と復活を語る時、旧約聖書を通して人々に語りました。Ⅰコリント15:3にも、「聖書の示す通りに」と書かれています。この場合の聖書も、旧約聖書のことです。パウロは、いつも旧約聖書の裏付けをもってイエス・キリストの十字架と復活を語ったのです。けっして思い付きでこのようなことを言っていたのではありません。旧約聖書のことばを土台にし、聖霊の導きによって語ったのです。

  死は人類に悲しみと絶望を与え続けて来ました。できることなら、私たちはいつまでも生きていたいのです。そうでない人もいるかもしれません。しかし、ほとんどの人はいつまでも生きていたいのです。ですから、死なないで生きるために私たちは一生懸命頑張ります。簡単には諦められません。生きることは素晴らしいことですから。

  パウロは、パウロの宣べ伝えた福音のことばをしっかり保っていれば、この福音によって救われると言っています。福音のことばとは、「キリストは、聖書の示す通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと。」これが福音のことば、パウロが最も大切なこととして伝えたことです。とても簡単です。小さい子供から高齢者の人まで、誰もが理解できるシンプルなことばです。救われるために、神様は難しいことばではなくて、簡単なことばを用意してくれました。私たちのからだはいつか朽ち果てます。しかし、このことばを信じる者は、朽ちないものによみがえらされます。イエス・キリストが死んで復活したように、信じる者も復活します。

  この救いはイエス・キリストが再び戻って来られた時に完成すると言われています。けれども、救いは私たちがこの地上に生きている時からすでに始まっているとも言えます。イエス・キリストを信じ、神様と平和な関係を回復することによって、私たちは豊かな人生を送ることができます。霊的に死んだ状態から霊的に生きた状態に回復されたので、以前にはなかった心の満たしや喜びや平安を体験します。これは物質的な豊かさやこの世の楽しみによっては受けることのできない領域です。もちろん、神様は物質的な、肉体的な、あるいは、人間関係のような私たちの必要をもご存知ですから、それらのことについても神様の助けを体験します。救いをとおして、今も生きて働かれる主イエス・キリストと関わりをもち、私たちは日々生きていくことができるのです。

■5節~8節 「また、ケパ(ペテロ)に現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私(パウロ)にも、現われてくださいました。」

  イエス様がよみがえられたあとのことについて書かれています。ケパ(ペテロ)に現われ、それから、十二弟子や500人以上の兄弟姉妹たちに同時に現われました。当時、彼らの何人かは死んだ者もいましたが、多くはまだ生きていました。その後、ヤコブに現われ、使徒たち全部に現われ、最後にパウロに現われました。彼らは、復活のイエス・キリストの証人です。

  その中のひとりであるペテロは、Ⅱペテロ1:16でこのように言っています。「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」彼らはキリストの威光の目撃者なのです。それゆえに、人生をこの地上だけのことと考えるなら何の得にもならないことであるにもかかわらず、彼らは命を惜しむことなく、イエス・キリストの十字架と復活の証人として、この福音を世界に宣べ伝えました。そして、彼らの多くがそのために命を失いました。

■パウロもそんな殉教者のひとりとして天に凱旋して行きました。初めはキリストに敵対する者でしたが、復活のキリストとの出会いによって彼の人生は180度変わりました。その後、パウロはキリストの証人として歩み、復活のイエス・キリストを宣べ伝えました。パウロは復活のイエスを宣べ伝えただけではなく、パウロ自身が復活の信仰を体験しました。復活の信仰とは、イエス・キリストの復活を信じる信仰であり、また、それを信じる者が同じように復活することを信じる信仰です。でも、それだけではありません。彼らは宣教の働きの中、多くの困難に遭遇しました。これでもうおしまいだと思えるような状況が何度もありました。しかし、それで終わることはありませんでした。神様の圧倒的な守りがありました。そして、働きは進んで行ったのです。復活の信仰とは、私たちが落胆と失望のどん底にあったとしても、それで終わらないという信仰でもあります。神様にとっては、それが計画の始まりであり、そこに神様の栄光が現されることが、聖書を見ると何と多いことでしょう。

■クリスチャンの重要な召しの一つは、復活の信仰を証しすることです。もうこれで終わりだとあきらめてしまっても仕方ないような状況の中で、神様に信頼し、神様に期待することです。倒れそうでも真っ逆さまには倒れないクリスチャンの生き様をとおして、神様を証しすることです。

  イエス様の弟子たちは困難な中にあっても、聖霊によって励ましと力を受けて主の平安に満たされました。私たちも聖霊によって励ましと力を受けて主の平安に満たされたいと思います。今、世界中が新型コロナウィルスによって不安と恐れの中にあります。新型コロナウィルスに感染したらどうしようとか、こんな不自由な生活がいつまで続くのだろうかとか、将来、自分の生活は大丈夫なのだろうかとか、心配がつきません。しかし、そんな中にあっても、今も生きて働かれる神様が共におられることを思い起こしましょう。神様の守りは確かにあるのです。そのことを信じましょう。

  この状況の中で、私たちが受けた神様の恵みをまたいつか分かち合いたいと思います。どんなときにも、神様が私たちの人生の中に働いて現してくださる恵みのわざがあります。私たちにはそれを証しする召しがあります。その召しに生きることは、復活の信仰の証し人として生きる生き方です。復活の信仰の証人として生きていきましょう。それでは、お祈りします。