父なる神の愛

2020年1月5日主日礼拝 

「父なる神の愛」箴言3:11~12 佐々木俊一牧師

■2020年になりました。21世紀になってから20年が経ちました。元旦の夜、NHKの番組で「10 Years After 未来の分岐点」という番組をやっていました。これから10年後、2030年までに、全世界一緒に取り組まなければならない課題があります。そうしなければ、地球は大変危険な状態になってしまうのだということを多くの専門家が警告しているのです。これは非現実的なことではなくて、現実的なことであるようです。取り組むべき最も大きな問題は、地球温暖化と気候変動の問題です。その原因は18世紀に起こった産業革命以来、排出され続けてきた二酸化炭素にあるというのです。そうであるならば、二酸化炭素の排出量を抑えて、気温の上昇を何としても1.5度以下に保たなければならないそうです。1.5度を超えてしまうと、100年に一度というレベルの大災害が毎年のように繰り返し起こるようになってしまうというのです。しかしながら、気温上昇の原因が、もし、地球がいまそのような時期に入っているからだというのであるなら、気温の上昇を1.5度以下に保つことなどはまったく不可能なことになります。

 その他にも問題があります。2030年には世界の人口が85億人になるそうです。そうなると確実に、食料と水の問題が発生します。経済格差が食糧や水の供給のバランスを崩し、気候変動がさらに進むとその問題はもっと深刻になると言うことです。その他にも、AI機能を備えたドローンによる無人殺戮兵器や遺伝子操作による生物(ウィルス)兵器の出現なども起こりえるということです。

 世界中の一人一人がこれらの問題に関心をもって取り組まなければ、いつか必ずこのような恐ろしい地球になってしまうことは間違いありません。つまり、それは、私たち人間の心のあり方や生き方の問題であり、私たちの心のあり方や生き方が世界の有様に反映するのだと言っても過言ではありません。私たちが自分たちの事だけを考えて行動し続けるならば、地球の状態はますます悪くなって行くのです。子や孫、未来の人々に平和で住みやすい地球を残すためには、これからの10年間、自分たちの事だけではなく、将来の地球のことを考えて行動する必要があるのです。私たち人間は、はたして地球を守ることができるのでしょうか。それとも、できないのでしょうか。そんな時代に、いま私たちは生きています。

 私たちは、できる限りの事はやりましょう。そして、あとは神様に望みをおいて、神様にゆだねたいと思います。そこに私たちの平安があると思います。それでは今日の聖書箇所を見ていきましょう。

■今日は、「父なる神の愛」というタイトルでお話したいと思います。みなさんは父なる神様はどのようなお方であると思っているでしょうか。恐ろしいお方、厳しいお方、冷たいお方、感情のないお方、意地悪なお方、悲しんでいるお方、怒っているお方など、否定的なイメージでしょうか。それとも、優しいお方、温かいお方、親切なお方、励ましてくれるお方、慰めてくれるお方、気持ちを分かってくれるお方、何でも受け入れてくれるお方、愛してくれるお方、寛容なお方、悪いことをしても赦してくれるお方、楽しいお方、強いお方など、肯定的なイメージでしょうか。私たちの父なる神様のイメージは、もしかすると正しくないところがあるかもしれません。なぜならば、父なる神をイメージする時、どうしてもこの地上の父親のイメージの影響を多かれ少なかれ受けてしまうからです。私たちは信仰生活の中で、聖書のことばや祈りや日々の体験をとおして、父なる神様はどのようなお方なのかを正しくとらえられるように神様は願っておられるのではないかと思います。

 箴言3:11~12にこう書かれています。「我が子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子を叱るように、主は愛する者を叱る。」

 箴言とは、戒めのことばです。箴言のほとんどは、ソロモンによって書かれました。ソロモンはこの箴言を自分に向けて書いたのか、それとも、自分の子供に向けて書いたのか、どちらなのかわかりません。しかし、神の霊感によって書かれたことばですから、それは、すべての人に向けて書かれたものであり、すべての人にとって有益な神のことばです。

 ソロモンは、「わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。」と言っています。もしかすると、以前ソロモンは、父ダビデや母バテシェバからこのように言われていたのかもしれません。父ダビデは深刻な罪を犯し、失敗もしています。ダビデに対する神様の懲らしめが聖書にはっきりと書かれています。しかし、ダビデは自分が犯した罪を潔く認め、悔い改める人でした。その罪の結果を潔く刈り取る人でした。また、ダビデは神様の豊かな赦しと愛を深く体験した人でした。ダビデは自分の失敗をとおして学んだ教訓を、次の王になるソロモンに語っていたのかもしれません。

 懲らしめと聞くと、何か刑罰や虐待のように聞こえます。しかし、そうではありません。懲らしめは必要なしつけ、必要な訓練です。人をより良く整え、成長させることが目的です。虐待のように、自分の怒りや不満の感情のはけ口として子どもに当たったり、痛めつけたりするのではありません。

 私の子どもがまだ2歳か3歳の時、買ったばかりの新品のテレビを棒で何度も何度もたたきつけていたことがありました。テレビは傷だらけになってしまいました。本人は悪気がなく遊んでいるつもりだったのだと思います。その時、私は冷静でいられなくなり、子どものお尻を強くひっぱたいてやりました。子どもは大泣きしました。もちろん、なぜいけないのかを話しました。それによって、買ったばかりの新品のテレビがどれだけ大事なものかと言うことがわかったかと思います。もしかすると、今の時代の考え方からすると、新品のテレビと自分の子ども、どっちが大切ですかと非難されるかもしれません。そしてさらに、そのような時でさえも絶対に子どもをたたいてはいけません、それは虐待ですと言われるかもしれません。けれども、私は、あの時子どもの尻をたたいて正解だったと思っています。子どもは、して良いことと悪いことの分別をあの時学んだのです。もしも、あの時たたくことなく、ことばだけで注意していたとしたら、十分に理解できたが疑問です。その後きっと、また同じことを繰り返したにちがいありません。このような時、親が気をつけなければならないことは、その時の怒りや腹立たしさをいつまでも引きずらないようにすることです。そのような感情をいつまでも子どもに対して持ち続けていくならば、子どもの心は痛んで歪んでしまうのです。その時に反省したならば、豊かに赦しをあたえるべきです。そして、すぐにも二人の関係を元の平和な良い関係に戻すべきです。親も子どももお互いに否定的な感情を保ち続けてはいけません。いつも信頼し合える関係にリセットしなければいけないのです。

■そして、次にソロモンはこう言っています。「父がかわいがる子を叱るように、主は愛する者を叱る。」

 箴言3:11と12を読むと、神様というお方はいつも人を懲らしめてばかり、叱ってばかりいるようなお方なのだと思えてきませんか。だとしたら、それは誤解です。人間の場合は、怒りすぎる親、叱り過ぎる親はいます。しかし、神様はむやみやたらに懲らしめたり叱ったりするようなお方ではないと私は信じています。厳しいだけではいけません。優しいだけでもいけません。子どもには厳しさと優しさの両方が必要なのです。そのバランスがとても大切です。

 神様は私たちの親です。私たちはその子どもです。聖書では、神様は天の父、あるいは霊の父と教えています。ですから、私たちは祈るときに、「父なる神様」とか「天のお父様」と呼びかけてお祈りをするのです。しかしながら、父なる神様の内には、母親的な性質もあると思います。特に、優しさという面がそうです。

 神様は私たち一人一人のことを愛しています。けれども、愛しているんだったら、どうしてこんなことが自分に起こるのか、と言いたくなるようなことってありませんか。時として、神様は私たちに困難を許されます。しかし、それは、私たちのことが嫌いなのでそうするのではありません。その逆です。私たちのことを愛しているのでそうするのです。この時、私たちを痛めつけることが目的ではありません。私たちを成長させて、活かすことが目的なのです。もしも、私たちに困難な状況があったとしたら、それは、私たちがそこで訓練されて成長して次のステップへ導かれる時なのだということを知ってください。そのような時に、神様からの訓練を軽んじて、その訓練を受け損なわないようにしてください。へりくだってその訓練を受けたいと思います。

 Ⅰペテロ5:6にこう書かれています。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神がちょうどよい時に、あなたを高くしてくださるためです。」たとえ理解できないことがあったとしても、神様に信頼して歩み続けることは、神様の御心だと思います。それが、神様の力強い御手の下にへりくだることであって、そうする時、神様がちょうどよい時に私たちを高くしてくださるのです。

 へブル人への手紙12章には、箴言3:11~12のことばが引用されています。そこにはこう書かれています。「私たちの益のために・・・訓練を与える(へブル12:10)」です。懲らしめ、つまり、訓練は、私たちにとって有益なことなのです。ですから、神様が最善の結果を与え、それは私たちにとって有益なことであることを信じましょう。

■ソロモンが、旧約聖書にある「箴言」、「伝道者の書」、「雅歌」を神の霊感によって書きました。そんなソロモンはありとあらゆる最高の贅沢と快楽を経験し、その結果、彼の晩年には彼の多くの妻たちが持ち込んだ偶像礼拝に陥ってしまった人です。その後、ソロモンは真の神様に立ち返ったのかどうか、そこのところが聖書にははっきり書かれていません。しかし、伝道者の書の最後の章12:13には、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を畏れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」と書かれています。この結論は、ありとあらゆる贅沢を極めたソロモン王が悟ったことばです。全世界の富のすべてを手に入れることよりも、神様を神様として信じ、神様の言われることに従うことの方が人間にとって重要なことだと悟ったのです。私は、ソロモンは、真なる神様への信仰を回復してこの地上を去って行ったのだと信じたいと思います。

 ダビデがソロモンに、自分の教訓を通して父なる神様がどのようなお方かを語り伝えたように、私たちも子や孫に、父なる神様がどのようなお方かを語り伝えていきたいと思います。今日は特に、父なる神様には確かに厳しい面があるけれども、それだけではなくて、優しさの両方を兼ね備えたお方であることを知っていただきたいと思います。逆に、神様はただ優しいだけのお方でないことも知っていただきたいと思います。神様は決して人を甘やかして人をスポイルするようなお方ではありません。神様は、厳しさと優しさの絶妙なバランスをもって、私たちを最善の形へと成長させてくださるお方です。それではお祈りします。