神の民として選ばれた!?

2019年11月10日主日礼拝 

「神の民として選ばれた!?」Ⅰペテロ2:9~11 佐々木 俊一牧師

■今日のメッセージのタイトルは、「神の民として選ばれた!?」です。「私たちは神の民として神によって選ばれた者だ。」とこれは大声で叫ぶほどのすごい出来事であって、喜ばしいことだと思います。しかしながら、私たちに何か優れたところがあって選ばれたというのではなくて、ただ、イエス・キリストをメシヤ(救い主)として信じたことによって、私たちは神の民として招かれただけなのです。ですから、私たちは主イエス・キリストによって神の民とされたことを、びっくりマークを付けるほどに喜びたいと思います。

 次に、「神の民として選ばれた?」と、クエスチョンマークの方ですけれども、自分に何か優れたものがあったので選ばれたのでしょうか。そうではありません。それは勘違いです。そのような考えに立つならば、他と対立を生じさせる頑固な選民思想になってしまいます。神によって選ばれた者は、自分が他と違って優れていることを自慢するために選ばれたのではないことを知らなければなりません。かえって選ばれた者は、神の民として選んでくださった神のみわざの素晴らしさをへりくだって宣べ伝える使命を与えられているのです。

■9節 ①選ばれた種族(a chosen generation)、②王である祭司(a royal priesthood)、③聖なる国民(a holy nation)、④神の所有とされた民(His own special people)とあります。この聖書のことばにあるように、神様が私たち一人一人を選んでくださったのです。確かに、私たちがイエス様を信じて真の神様を選んだということも言えますが、しかし、神様と私たちとでは格が違いすぎます。人間同士であれば神様の御前に同格で対等な存在ですが、神様と私たちとでは対等で同格ではありえません。神様は私たちよりも比較できないほどに格上なのです。あくまでも選ぶ主権は神様の側にあるのです。ですから、私たち一人一人は神様によって選ばれた者なのです。そして、私たちは王家の祭司です。祭司とは神様に仕える人々です。どのように仕えるのでしょうか。旧約時代は動物のいけにえをささげていましたが、イエス様が十字架にかけられてすべての罪を贖ってくださった後は、賛美や感謝をささげること、祈りをささげること、礼拝をささげること、救いを宣べ伝えること、神様の御心を行なう事、これらのことをとおして神様に仕えるのです。私たちは今日こうして集まり共に礼拝をささげています。これは王の祭司としての働きなのです。そして、私たちは聖なる国民です。もしかしたら、この地上では国が違うかもしれません。ある人はアメリカ人、ある人はカナダ人、ある人はイギリス人、ある人は日本人です。しかし、みんなに共通していることは神の御国の国民であるということです。そこでは、イエス様が王様です。ヨハネ18:36でイエス様はこのようにピラトに語っています。「イエスは答えられた。『わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。』」とあります。イエス様の国はこの世のものではないのです。私たちもこの世の国の民ではなく、神の御国の民なのです。そして、私たちは、「神の特別な人々」と言われています。すごいと思いませんか。

 私たちはこの地上でどう扱われようとも、私たちが神の特別な人々であることには変わりがありません。そして、神の特別な人々に与えられたミッションが9節の後半に書かれています。それは、私たちを、闇の中から、神様の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、私たちが宣べ伝えることです。イエス様が私たちになしてくださった救いのみわざや、みなさんそれぞれに体験されたイエス・キリストの恵み、助けや守りやいやしなどを興味を示す人々にお話すればよいのです。

■10節 「神の民」とは誰のことでしょうか。旧約聖書の時代においては、神の民と言ったらイスラエルの民でした。ところが、イスラエルは北王国と南王国の2つに分かれ、北王国がアッシリヤ帝国に、南王国がバビロン帝国に捕囚されてしまいました。その後、バビロンに捕囚された南王国を構成していたユダ族を中心にベニヤミン族や祭司であったレビ族がイスラエルの地に戻って来ました。しかし、アッシリヤに捕囚された他の10部族が帰還したと言う記録はありません。ですから、その後、神の民と言うと、ユダヤ人と言うことになりました。

 もともと神の民と言うと、それは、イスラエルの民かユダヤ人を指していました。しかし、救い主イエス・キリストによって救いの道が成し遂げられた後には、その救いがイスラエルの民やユダヤ人に限らず、すべての国々、すべての民族、全世界の人々にまで広げられたのです。それ以後、神の民とは、イエス・キリストを信じて救われた者を意味します。ユダヤ人でもユダヤ人でなくても、神の御国に住む民はみな、イエス・キリストを救い主として信じることが必要なのです。

 かと言って、ユダヤ人がもはや神の民ではないことを意味するのではありません。ユダヤ人は別の意味で変わることなく神の民なのです。先ほど見た写真の中に、黒装束のユダヤ人の方々がいました。彼らはナザレのイエスをメシヤと信じていませんが、しかし、昔からずっと変わらずにメシヤを待ち望んでいるのです。そして、ゼカリヤ12:10にあるように、いつかあの十字架に架けられて死んだナザレのイエスが彼らの救い主であったことを知る時が来ます。さらに、イスラエルの民に与えられている神の祝福と約束はこの地上において成就する時が来るのだと思います。

■11節 この地上において、私たちは、旅人であり寄留者にすぎません。長い人間の歴史の中で少しの間現れるに過ぎないものです。この地上においてはいろいろと大変なことがあります。でも、それもいつまでも続くことではありません。やがて終わって平安の中に導かれます。

 私たちは永遠の神の民として選ばれました。今この時にも私たちは神の民として選ばれた存在です。そんな私たちに神様が与えている使命が、Ⅰペテロ2:9に書かれてありました。それは、イエス・キリストの救いのわざと、そのキリストが私たちのために成してくださったみわざを宣べ伝えることです。今、困難な中にある兄弟姉妹がいるかと思います。心が休まらない時があるかもしれません。しかし、その中で、神様が神様の特別な人々のために成してくださるみわざがあるのだと思います。困難な時にこそ、祈りを通して神様と本当に親しい関係を作る時であると思います。神様は絶対に神様の特別な人々をがっかりさせるようなことをなさいません。いつかそのことを証出来る時を信じて、進んで行っていただきたいと思います。それではお祈りします。