ゴールを目指して一心に走る!

2019年10月6日 主日礼拝 

「ゴールをめざして一心に走る!」ピリピ3:14 佐々木俊一牧師 

■先日の修養会では、「自分と神様との過去・現在・未来」というテーマで学びの時を持ちました。十分な時間があったとは言えませんが、自分と神様とのことをふり返りながら、お互いに分かち合う良い機会を持つことができたかと思います。その続きではありませんが、今日は、人生のあり方について、もう少し考えてみたいと思います。

 多くの人は、この人生がすべてであるかのように生きています。たった一度の人生だからこそ、幸せや成功をつかもうとして努力して生きています。それぞれの人生に目標やゴールを設定して、そのゴールを目指して一生懸命頑張っているのです。

■今日の聖書箇所に、「目標を目ざして一心に走っているのです」と書いてありました。目標とは、ゴールのことです。私たちはゴールを目指して走っていると言っているのです。

 人生の中で私たちはゴールを設定します。そして、そのゴールを目ざして努力します。ゴールは、入りたい大学であったり、なりたい職業であったり、結婚であったり、人によって様々です。

 今日の説教聖書箇所にあったゴールは、どのようなゴールでしょうか。この地上にあるゴールとは違うようです。この箇所で言われているゴールは、実は、この地上の人生にはありません。人生のあとにあるゴールです。それは、天のみ国です。私たちクリスチャンは、天のみ国を最終ゴールとして走っているのです。  

 と言いながらも、この地上の生活も捨てたものではありません。苦しいことはあるけれども、楽しいこともいっぱいあります。神様の与えられるものは、みなすばらしくて、よいものです。ですから、私たちの人生もまた、すばらしいものだと思います。しかし、そうだとしても、人生は私たちにとって最終ゴールではありません。最終ゴールは人生の後にあって、もっともっとすばらしく、心満たされるものだと思います。神を愛する者のために、神が備えてくださっているものは、今までに見たことのないもの、聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの、つまり、それほどまでにすばらしいものであると言うことです。

 それでは、最終ゴールではない人生は、私たちにとっていったいどういうものなのでしょうか。

■Ⅰテモテ6:19にこう書かれています。「まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」

※新改訳2017:「来るべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。」

 人生は、未来のための備えの時であると言っています。その未来とは、この地上のことではなく、天のみ国のことです。私たちは、天のみ国でのことのために、地上にいる間に基礎をしっかり築き上げるようにと言われています。

 基礎とは何でしょうか。それは、「イエス・キリスト」です。まことのいのちを得るために、イエス・キリストを信じることが重要なことです。イエス・キリストを救い主として信じるなら、誰でも確実にまことのいのち、永遠のいのちを受けるのです。しかし、ここで言っている基礎には、17節と18節との関連から考えて、行ないをも含んでいるのではないかと思います。もちろん、救いは行ないによるのではありません。イエス・キリストを信じる信仰によるのです。ですが、この地上での良い行ないが、あるいは天に宝を積むという行為が、天において何かしら私たちに良い結果をもたらすことになるのではないかと思わせる内容です。

 ですから、ただ、救われればよいと言うのではなくて、神様のみこころに従い、良い行ないに励むということが未来に備えて良い基礎を築き上げることになるのだと思います。

■それでは、未来に備えて良い基礎(新共同訳では堅固な基礎)を築くために、心構えとして今日は3つのことをお話したいと思います。

①本当のゴールは地上にはないことを知る!

 目標を設定することによって、より充実した人生を送ることができると思います。ですから、目標を設定することは良いことです。長期の目標を達成するために、短期の目標を設定するかもしれません。目標はどういうものでしょうか。この地上においては多様な目標を設定することができると思います。たとえば、有名私立の学校や有名大学に合格すること、一流企業に就職すること、理想の職業に就くこと、理想の人と結婚すること、理想の家庭を築くこと、海外留学や海外旅行をすること。夢を持つこともビジョンを持つことも、私たちには許されています。しかし、最終目標(ゴール)が地上にはないことを知っておいた方がよいでしょう。私たちにとって最終目標は、神のみ国です。Ⅰテモテ6:19にあるように、未来に備えて堅固な基礎を築き上げることを忘れないようにしたいと思います。なぜならば、人生においては成功もあれば失敗もあるからです。自分が立てた目標を達成できないこともあるのです。けれども、成功や失敗にかかわらず、どんな時にも、未来に備えて堅固な基礎を築く機会と選択は常にあるのです。本当のゴールのことを覚えるならば、人生の失敗など大したことではありません。失敗したとしても失望せず

に、主に祈り主の導きを求め、また立ち上がって歩き始めましょう。

②ゴールを神のみ国に設定する!                      

 こんなことを若い人に言っても実感がないとは思います。私のように、60歳を過ぎた人であればわかってもらえると思います。

 100m走でゴールの目印を100m地点に置いて走った時より、100m地点より少し遠くにゴールの目印を置いた時の方が、速い記録が出たそうです。脳がゴールを認識すると、減速するそうです。ですから、ゴールを実際よりも遠くに置いた方が減速しないで勢いを保つことができるのです。

 私たちクリスチャンは、神のみ国にゴールを設定しましょう。そうする時、私たちは、人生の終わりに至るまで、勢いを失うことなく生きることができるのではないでしょうか。力と勇気と平安を受けながら、生き生きと人生をまっとうしたいと思います。

③主の証しになるように生きる!                      

 神様を信じている人でも、神様を信じていない人でも、人生には困難がつきものです。クリスチャンにとっては、困難は、神の計画の中にあって、有益なものであると聖書は言っています。なぜならば、困難なときほど、私たちは神様を必要とし、神様と親しくされ、神様の恵みや栄光を見る機会であるからです。

「神のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼(ヨセフ)をためした。」(詩篇105:19)

「彼」とは、ヨセフのことです。ヨセフの父はヤコブです。ヤコブには12人の息子がいました。ヨセフは11番目です。ヤコブが歳をとってから生まれた子です。ですから、ヤコブはヨセフを特別にかわいがりました。兄たちはそのことでヨセフを憎み、関係がよくありませんでした。ある日、ヨセフは、自分が見た夢を兄たちに話しました。どんな夢かと言うと、ヨセフの麦の束に向かって、兄たちの麦の束がおじぎをしたという夢です。そして、もう一つは、太陽と月と11の星が、ヨセフを伏し拝んでいるという夢です。その話を聞いた兄たちは、怒ってますますヨセフを憎むようになりました。父のヤコブはヨセフを戒めはしたけれども、その話を心に留めておきました。その後、兄たちは、妬ましく思って、ヨセフを深い穴に落として懲らしめてから、エジプトに向かう商人に奴隷として銀貨20枚で売りました。ヨセフが17歳の時です。それから13年間、ヨセフに多くの困難が許されました。しかし、30歳の時に、エジプトの王、パロにつぐ地位を与えられ、実際には、パロに代わって、エジプトの政治を動かすようになりました。7年後、エジプトとその周辺の国々に飢饉が起こって食糧が不足しました。ヨセフは事前に小麦を蓄えておいたので、エジプトの民やその周辺の国々から多くの人々が小麦を買うためにヨセフのところに集まって来ました。その中に、ヨセフの兄弟たちもいました。彼らは、ヨセフとは知らずに、ヨセフの前にひれ伏して、小麦を分けてくれるように懇願しました。この時、17歳のヨセフが見た夢が現実となったのです。

 ヨセフに許された困難は、結果的に、いろいろな意味で有益なものとなりました。この困難によって、ヨセフは訓練され、整えられました。また、これらの体験をとおして、神様がどのようなお方かを知り、堅固な信仰が築き上げられました。また、この困難によって、ヨセフの親族はみな飢饉から救われました。また、この困難によって、ヨセフの兄弟たちも神様を体験し、自分たちのしたことを反省しました。さらに、時代を超えて、人々が神様を知るために、イエス・キリストを知るために、ヨセフの話は用いられています。ヨセフが体験した困難の中には、すべてを働かせて益としてくださる神様のみわざを見ることができます。

 主のことばがその通りになるときまで、ヨセフは多くの困難を乗り越えなければなりませんでした。同様に、私たちに与えられている一番のみことばである、キリストの救いのことばが私たちに成就するときまで、私たちには許されている困難があります。それらの困難は、私たちを訓練し整えるために用いられます。また、困難を通して、私たちは神様ともっと深く関わり、知る機会が与えられます。また、それは、私たち自身のためだけでなく、家族や友人、周囲の人々に祝福をもたらすために用いられます。私たちが主の証しになるように生きるとき、未来に備えて堅固な基礎を築き上げることができるのです。正しく行えているときだけが、主の証になるのではありません。失敗した時も、罪をおかしてしまった時でさえも、いつでも主の証になるように生きるための選択があることを覚えたいと思います。

■この地上には私たちの最終ゴールはありません。最終ゴールは神のみ国です。だからと言って、与えられた人生に意味がないわけではありません。人生には大きな意味があります。それは、未来に備えて自分たちのために堅固な基礎を築きあげるための機会なのです。キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心走っているのですとパウロが言うように、私たちも、ゴールを見上げて、目標をめざして一心に走りたいと思います。それではお祈りします。