賢明なタイミングである沈黙

ヨハネによる福音書16章12節〜14節

 

                                       賢明なタイミングである沈黙

 

 今日も皆さんと一緒にここオープン・ドア・チャペルでご一緒できて嬉しいです。ここで皆さんと顔と顔を合わせて、握手やハグで挨拶し、同じ場所で同じ時間を共有出来ることに優ることはありません。でも最近、オンラインで参加して下さっている人の事を聞いて嬉しく思いましたし、そのような仕方で私達に加わって下さるのなら、その方々も、もちろん歓迎されますし、感謝な事だと知って頂きたいのです。

 

  今日私達は、” キリストの沈黙 “ というシリーズもののメッセージの終わりに向かって行こうと思います。聖書の物語には、何か重要で人生を変えるような事を言ってくださると私達が期待するような場面で、イエス様が沈黙を守られるというものがあります。今日の箇所でもイエス様はかなり多くの事柄について語っているのですが、もっと多くの事については沈黙を守ると弟子達に言っているのです。

もちろん、イエス様は彼らに語りたいのです。問題は彼らが、今日の弟子達と同様に、イエス様が語られる事を受け取る準備ができていないという事なのです。

 

 イエス様は重大で今ではよく知られている教えに向かって急激に動いています。なので、簡単に早く過ぎ去っていってしまうことは、仰っている事の重要性を間違えてしまう恐れがあります。

でも、イエス様は、私達がいつも心に留める必要のある、本当に深い意味がある事を仰っているのです。

        “ 言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなた方は今はそれに耐

     えられない。 “ (12節) 

なのでイエス様はこれらのことについて沈黙を守られているのです。

 

 キリストは教師の中の教師です。なのでご自身の生徒が理解できる準備が出来ていない時には、語り続けることよりも良いこと(沈黙)を知っておられます。それは豚に真珠を与えるように馬鹿げた事でしょう。イエス様はマタイ7章6節で仰ってます。イエス様は豚に何か含むものがあるという訳ではないのですが、豚は真珠の美しさや価値を理解することができないだろうということです。豚はただ真珠の上を踏みつけていくでしょうし、豚自身にとって何か本当に良いと思うもの、それは昨晩の夕食の残り物のようなものかもしれませんが、それらのために真珠の本当の価値を台無しにしてしまうのです。

 

 私は教師です。授業が終わっても私が話し続けるなら教室で何が起きるのか、不思議なことは何もありません。私は話したいと思う全ての事を話すことはできますが、学生達は多くを学ぼうとしないでしょう。終わる時間が来ると、彼らは心のスイッチを切り替えて他のことを考え始めるからです。

 

  沈黙に関するイエス様の言葉に隠された本当に実用的な真実のほか、違う現実性もあるのです。それは、イエス様が一人ひとりを本当に深く理解されていてるので、イエス様は私達が何を受け入れることのできるかを知っておられるのです。

  イエス様は私達の性格、私達が今いる人生の段階、私達の特別な状況、私達の必要、これらを把握されています。

  ヨハネ2章24節後段〜25節では、

  “ イエスは人々がどのようなものか知っておられた。人々について誰からも   

 証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人々の心の中   

 にあるかをよくしっておられたのである。 “

 とあり、ですからイエス様は通常、私達が行く準備が出来ていない場所へ私達を導く選択をされないのです。何故なら、イエス様は驚くほど知恵深くて賢明であって、それにも増して愛深いお方であるからです。イエス様は私達が今いるところに来て下さり、どの場所からでも私達を引き上げて下さるため共に働いて下さり、私達がより高い所へ行きつけるように助けて下さいます。

 

しかしヨハネ16章の状況下では、そのことを大変難しくしていると思われる二つの特別な事情があります。

その一つは、弟子達が大きな感情的なショックを受けたばかりだということです。イエス様は弟子達から去って行くことを彼らに告げられたばかりだったのです。 “ 今や、私は私をお遣わしになった方の元に行きます。” (5節) とあり、これはイエス様が父なる神様がいらっしゃる天の御国に戻られるということです。イエス様は弟子達の苦痛を知っていることをお示しになります。” 私がこのことを言ったので、あなた方は悲しみで満ちています。” (6節)  弟子達は今や多分3年近くの間イエス様と一緒にいたのです。そして彼らの未来の希望をイエス様に掛けているのです。なので、イエス様が彼らに、” もう少ししたら、あなた方はもはや私を見ることはなくなります。” (16節) と言います。これは小さな喪失ではありません。弟子達は混乱し、悲しみ、深刻な悲嘆へと向かうのです。

 

 しかし弟子達にとって、このことだけが、イエス様が弟子達に今与えていこと以上のことを受け入れるのを難しくしているのではありません。彼らには宗教的なバックグラウンドがあって、それがメシア、そして神様がこの世に送られる救い主の姿、これらについて全く違った教えを与えているからです。弟子達は、メシア、キリストは彼らの敵を打ち破り彼らに、約束の地、領土、国、家といったものを取り戻してくれるお方であるとずっと教えられてきました。彼らはこれを主に軍事的、政治的、経済的な条件として理解していたのです。そしてイエス様が来られて、” あなた方の敵を愛しあなた方を迫害する者のために祈りなさい。” (マタイ5章44節)またすぐに彼らに、” 剣を元の場所に戻しなさい。剣を使う者は剣で滅びる。” (マタイ26章52節)と続けます。そして、” 私に王国はこの世のものではない。” (ヨハネ18章36節)と言います。イエス様は王としてメシアである場所を諦めてはいません。全く違います。イエス様は、弟子達の持つ文化が実現するよう弟子達に用意したより、もっと広く、より霊的な方法でそれを理解されているのです。弟子達はイエス様の教えのこの部分を受け入れることに特別な困難があるのです。イエス様にとってこのことは戸惑いではありません。イエス様は文化が信仰を持つことがいかに困難なことか分かっておられます。弟子達を深い理解に導くことを諦めてはいませんが、そのためにはより時間が掛かる事も知っておられます。イエス様は、このことが偉大で永続性のある重要事項である故に、掛けられるだけ十分な時間を取るほどに賢明で忍耐強いお方です。

 

 私は、イエス様がここで弟子達を扱う方法を見て、皆さんや私のための多くの希望を見つけるのです。これまで全ての年月を経た後になっても、神様のこと、聖書のこと、信仰のことで私が得ていないことがまだたくさんあります。これまで私がなりたいと言い続けてきた深い愛、信仰、理解を持つそのような人に私がなるには、まだ長い道のりがあります。しかし神様の言葉は、私達が歩みの遅い未成熟である時に、神様が喜んで私のような者と共に働かれることを思い起こさせてくれます。そのお方は永遠なる神様であって、急がれるお方ではありません。旧約聖書および新約聖書の歴史の全期間を通して神様が人々と共に働かれる方法は私達が進歩的な啓示(黙示)と呼ぶものです。神様がイエス様をこの世の救いのために送られたのは、私達人間が先に神様に背を向けた、罪を犯した、救いを必要とした時ではなく、私達のために数百年間もの間準備(用意)されて、 “ 正しい時が来た。” その時にキリストを送って下さったのです。(ガラテヤ書4章4節)その大きな出来事の前及び後においてでさえ、長い沈黙の期間がありました。

 

 私達個人の生活においても、私達が受け入れることができるように、神様はしばしば待って、神様の選んだ方法とタイミングで私達に神様の真実をお与えになります。

 

 私達は結局、聖書が言っている通り神様の子供です。これは、私達は神様が創造した通りの人間になるために成長の段階を通っていかなければならないということを意味します。イエス様が教えたいと思うことについて ” あなた方が今現在扱うことができること以上のことだ’ と言われる時、扱う(handle)と言う言葉の意味は、例えば石のような何かを持つということを意味します。(この言葉はヨハネ10章の中でイエス様に向かって投げつけるために石を拾う人々の話に出てきます。)

ある翻訳は “ bear (運ぶとい意味)” を用いています。( 動物の熊のベアーではないし、北海道弁のだべや(da-be-ya, “the bear”)でもありません。“Gladly the Cross I’d Bear “ ( 私は喜んで十字架を担う) というタイトルの賛美歌の”bear”の方が”Gladly, the Cross-eyed Bear”「寄り目の熊 グラッドリ」というキャラクター (※発音が同じ)よりも近い意味を持っています。)

子供達が、大きな石を運ぶのは彼らの手には重すぎると分かるのは驚くことではありませんし、愛情を持つ両親がそのことで子供達に怒ることはないですね!

 

 私達の子供達が2〜3歳の時にでも、シェークスピアとか紫式部と言った文学作品の全集を与えることはできますが、子供は、その時には、それらの持つ美しさ、豊かさや意味深さを理解することができないでしょう! クレヨンで色をつけるために数ページを引き裂いてしまうかもしれません。多分そういうことなのです。もし私達がスーツケースに1万円札をびっしり詰めておいて(しなかったですよ)、アイスクリームの入ったボウルを横に置いて一緒に子供達の目の前に置いたら、子供達は疑いなくアイスクリームを選ぶでしょう。それは子供達のその時の成長の段階なのです。

 

   それは、私達が赤ちゃんクリスチャンの時には力が足りないように、自然なことです。

 そしてそれは私達が理解と愛、信仰、奉仕の中で私達が成長するという神様のご計画においても自然なことです。もしこれが起きなければ、それは深刻なトラブルのサインです。もし今、高校生と大学生になった私の娘達が、未だに、クレヨンで色を塗ることやアイスクリームを食べることに1番興味を持っているとすれば、私は非常に心配ですから。

 

 使徒パウロはコリントの人々の信仰が発展する、若しくは発展しない様子を見て、彼らに何かを間違って行っていると言っています。小さな子供がまだ柔らかい食べ物を必要とするのは驚きませんが、皆さんが20歳になって未だに、瓶(ボトル)から直接飲み物を飲んでいるなら、それは危険信号です。

 

 パウロは同様のメッセージをヘブル人への手紙5章10〜15節で書いています。彼は、神様がイエス様を、旧約聖書のマルキゼデクのような高位の司祭に任命されたと語り、続けて、

     “ このことについては、話すことがたくさんありますが、あなた方の耳が   

     鈍くなっているので、容易に説明できません。あなた方は、長らく教師を

     していながら、神の言葉の初歩をもう一度誰かに教えてもらわねばなら

     ず、また、固い食物ではなく、乳を必要とする始末だからです。乳を飲ん

     でいる者は皆、幼子ですから、義の言葉を味わったことがありません。固    

     い食物は、習慣によって善悪を見分ける感覚を鍛えられた、大人のための 

     ものです。 “

  と言っています。

 

 もしあなたが40歳であって、牛乳を幼児用のカップ(シッピーカップ)で飲むことから卒業したばかりであるとしたら、そこには多分理由があります。何か不健康なことが起きている可能性が高いでしょう。パウロの言葉はそれが十分な時間が経過することだけの問題ではないと示唆しています。” そのような人は信心深い生活を送ることを学ぼうとしない。” と言っています。 未だにミルクを飲んでいるクリスチャンがいます。それはキリストの弟子として学びや訓練という苦労をするよりも良いと思うからです。もし私達が何十年間もクリスチャンであるのに基本的なことを学んでいなくて、成熟した信仰と純粋な愛を持つ人に成長していないなら、神様が私達のために用意された計画の生育のパターンから私達は立ち去ることになります。

さて、そのような種類の成長とはどのようなものでしょう。そして、それが私達にとって現実になることを助けてくれるものは何でしょう!

この質問の神様の答えを探すために、もう一度ヨハネ16章を見てみましょう。

13節前段には、イエス様の約束として、” しかし真理である霊が来られる時、あなた方をあらゆる真理に導いてくれる。  “ とあります。

 神様である聖霊は弟子となる人の生活において私達が自分の力で生み出すことができない成長と成熟を可能として下さいます。聖霊様は三つの主な方法で私達に語られることでそうされるのです。

 

 その一つは聖書を通してです。イエス様がヨハネ16章で話された時には、新約聖書はまだ書かれていませんでした(部分的に書き始められてはいましたが)。

 しかし、ルカ24章45節では、イエス様の死と復活の後で、キリストが ” 聖書が理解できるように彼らの心を開いた。” とあります。これはイエス様のことをあらかじめ示唆する旧約聖書のことです。もちろん新約聖書も後に書かれていて、神様の言葉として受け入れられています。テモテの手紙第2は、” 全ての聖書は神の霊感によって書かれた。” ことを私達に気がつかせてくれています。この意味するところは、聖書が聖霊なる神様の導きの元に書かれたことを意味しています。

聖書を通して神様はどのようにして、神様の子供として私達を成長させて下さるのでしょう? 第2テモテ3章16〜17節では神様の言葉について “ 聖書は全て神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。こうして神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。 “ と続けています。

 

もし聖書がそのように重要なものなら、私達は毎日神様の言葉を通して習慣として神様のことを聞く必要があります。ニュースで何が書いてあるのか注意を払うよりも聖書に何が書いてあるかにもっと注意を向けるべきです。どちらも重要ではないということではありませんが、どちらにわたしたちはより時間と注意を向けるのかということ、どちらに価値を置くかということです。

 

 多くの人が聖書を信頼できる人生のガイドとして見つけています。科学者のアイザック・ニュートンは。” 私は聖書に、啓示を受けた人達によって書かれた神の言葉として根本的な信頼を置いている。私は毎日聖書を勉強している。“ と言っています。英国の作家、チャールズ・ディケンズは ” 新約聖書は、これまで、そしてこれからも、この世界において知られている1番の書物である。“ と言い、自国の奴隷制度を終焉に導いたアメリカの大統領エイブラハム・リンカーンは、彼が聖書を読んでいるのを知って驚いた男の人に次のように言いました。” 理性と信仰によるバランスに応じてこの本から取れることを全て取りなさい。そうすれば幸福な男として生きて死ぬことができる。“    作家で講演者である、ヘレン・ケラーは ” 順境の時も逆境の時も聖書に向かう習慣を作らなければ、聖書による慰めに完全に応答することはできない。なぜならば、我々は光と陰の平衡状態を知らないからだ。“ と書いています。

マハトマ・ガンジーは聖書について、 ” あなた方クリスチャンは、全ての文明を爆発させ細切れにして、世界を逆さまにし、戦いで引き裂かれたこの星に平和をもたらすダイナマイトを内包するこの文書を大切にしているが、一つの文学以上の価値がないかのように取り扱っている。“ と語っています。

 

神様、日々、あなたのことばによって生きることができますように、そして、あなたのことばを通してあなたをもっと知ってもっと愛することができますように、私たちをお助けください。

 

神の霊が語られる二つ目の方法は、教会を通してです。ヨハネ20:22に、よみがえられたイエスが弟子たちにどのようにして息を吹きかけ、そして、「聖霊を受けなさい。」と言われたのかが書かれています。 使徒2:1~4では、聖霊がこの信者たちのところに力強い風と小さな炎でもってどのようにやって来られたのか、そして、彼らが神の臨在の中で聖霊に満たされたということが述べられています。それから同じ章の38~41では、公衆を前にしてペテロが大胆にイエスのことを説教することによって、3000人の新たな弟子たちができたばかりのキリスト教会に加えられました。 

 

今日においても教会は、他に代わりになるものがないほどに神様の働かれる重要な手段の一つです。聖霊は、世界中にあるオープン・ドア・チャペルのようなコミュニティにおいて、一緒になって人々が礼拝し働きをなし証しするように導かれます。何かをうまくやるために、私たちはみなそれぞれに素晴らしいものを持っています。私たちの霊的な賜物を持ち寄ってキリストの御名にあってそれらを用いるなら、神の愛は深まり世界中に広がって行くのです。もしも、私たちが別々に単独でやるなら、そのようなことはできないでしょう。

 

教会がいかに多くの失敗とキリストらしからぬ選択をしてきたのかを、誰よりも神様が一番よく知っています。しかし、神様はそれでもまだ、神様の愛と正義と救いの働きのための道具として私たちのような人間を用いようとされるのです。「私には信仰はあるけれども、組織化された宗教に入るのは嫌だ。」という声を聞くことがあるかもしれません。しかし、そのようなタイプの信仰は神のことばである聖書の中には出てこないし、教えられてもいません。私たちが組織化された宗教を拒絶したとしても、私たちが神様ご自身を拒絶しないならば、他の選択はたった一つ、組織化されていない宗教に入ることです。私たちにその気がなくても必ずと言ってよいくらいそんな中につまずくようにして入って行くのです。そして、もっと悪い状態になりえるのです。 

 

ですから、そのような失敗があったとしても、教会に対してあきらめることなく神様とつながりましょう。何といっても、教会はキリストの花嫁なのです。そのように、聖書は教えています。ですから、イエスに対して、「私はあなたのことが本当に好きです。でも、あなたの妻にはなれません。」とは言わないようにしましょう。そうではなくて、神の民である教会に与えられた聖霊をとおして、神様が今日与えようとしている新しいメッセージに心と思いを開いて聞きましょう。そして、神様に従ってついて行くという冒険に私たち自身をゆだねましょう。どこにいたとしても神の霊の声が私たちを導いてくれます。

 

終わりに三つ目の方法として、神様は私たち一人一人にそれぞれの信仰生活の中で語られます。ローマ8:9に、「神の霊はあなたたちのうちに住んでおられる」と書かれています。それは、イエスが信じる者たちと共にいるためにご自身の代わりとなる聖霊を遣わしたからです。聖霊は、ある意味、彼らの助け手であり、イエスが天に戻られた後に遣わされました。ヨハネ16:7の後半に書かれてあるとおりです。ですから、当然、神様が住みかとした人々の心のように私たちに語りかけてくるのです。このことは私たちの教会生活から離れたところでのことではなくて、教会生活の中でのことです。しかし、神様は、ヨハネ16:3にあるように、私たちをすべての真理に導き入れます。私たちの祈りや経験や考えやその他多くの手段によるユニークなやり方でそのようにされるのです。これらすべての事を用いて、神様は私たちの内に御霊の実を結ばせます「・・・御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22~23a) 

 

それでは、私個人の成長はどうなっているでしょうか。私は良い人でしょうか。以前は霊的に赤ちゃんのようなクリスチャンでしたが、深くて成熟した信仰のクリスチャンへと成長しているでしょうか。これらは、神様が私たちの成長を計るために使う基準です。これが神の子どもである私たちに神様が形造りたいと願っていることなのです。「あなたたちに言うべきことがもっとたくさんあります。けれども、今のあなたたちにはそれをとり扱うのは無理です。」とイエスが私たちに言われるとき、そこにある私たちの問題は、私たちがまだ十分にイエスから聞いていないとか、あるいは、十分に経験したことがないと言うことだけではありません。もしもそういうことが問題であるならば、もっともっと聞いたり読んだり行なったりするならばその問題は解決できるでしょう。 

 

しかし、人間はもっと複雑です。そこには学習能力の問題もあります。私たちの思いや心が鈍くて閉ざされていると、役に立つ情報や価値ある経験のための機会は十分に得られません。私たちが学ぶためには、開かれた心と喜んでしようとする意志でもって準備されていなければなりません。キリストの働きの役割は、私たちの心を開き、キリストを知ることに飢え渇きを覚えさせ、より整えられた人間になることへの熱心さを養うことです。そして、もっと学び、もっと成長できるように自分自身を神様にゆだねて従えるように私たちを導くことです。キリストの教えを「扱う」ことができるようになるために、キリストが言われたことばをもっと時間をかけて、もっと聞いて、もっと読んだりすることだけが必要なのではありません。私たちは、もっと正しく、もっと人々を愛することも必要なのです。誠実さと人間関係の成長はキリストの弟子として成長しようとする心にあります。こうして、神様は、日々私たちの個人的な信仰生活の中で、私たちの成長のために聖霊の力によって働いておられるのです。

 

「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。」一つの段階で神様は私たちがすべてを理解できるとは思っていませんし、クリスチャンになったその日から完璧な信仰で行動できるとは思っていません。しかしまた、私たちが学んで成長するために神様が手助けをしようとは考えていません。なぜならそれは、イエスの最初の弟子たちにも、その後のイエスに従う私たちすべての人にも聖霊を送られたからです。神様は聖霊をとおして神のことばである新約聖書を私たちに与えてくれました。神様は聖霊をとおしてキリストの花嫁である教会に与えました神様は聖霊をとおして信じる人々の心のうちに主のご臨在を与えました。キリストは沈黙すべき時には沈黙されました。しかし、神様はこれら3つのおもな方法でもって語ってくださいましたし、今もなお語ってくださいます。神の民である私たちが、信仰によって神に従おうとするときに、聞く用意と学ぶ用意と知っていることを用いる用意ができているならば、語ってくださるのです。  

 

祈りましょう。

 

愛する父なる神様、あなたの子どもである私たちを、大きな忍耐と変わらない愛をもって教え導いてくださり感謝します。私たちが行ないによってあなたに受け入れられるのではなくて恵みによって受け入れられていることを感謝します。けれども、私たちはあなたによって深く理解されて愛されているからこそ、聖書が言っているように、救い主についての簡単な教えにただとどまり続けるのではなく、そこからさらに前に進んで行くことができるように助けてください。クリスチャンとして成長させてください。 へブル6:1にあるように、基本的な教えを何度も最初から始めなければならないような歩みではなくて、へブル6:3にあるように、それら基本的な教えを習得して次の段階へと進ませてください。私たちの先生である神の霊、聖霊の力によって、私たちの思いと心と霊を開いてください。そして、日々あなたに飢え渇き、もっとあなたを知り、もっとあなたに仕えることができるように助けてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン 

 

 

参考文献

 

Ainsworth, P. C. (1912). The Silences of Jesus and St. Paul’s Hymn to Love. London: C. H. Kelly. Hathitrust Digital Library. Retrieved February 9, 2019 from https://catalog.hathitrust.org/Record/009972910

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