キリストのうちにあるなら

2019年7月7日主日礼拝

「キリストのうちにあるなら」Ⅱコリント5:17佐々木俊一牧師

■随分前になりますが、「こころの遺伝子」という番組が放映されていました。西田敏行さんが司会で、各界の著名人が出演していました。それぞれの人生で強く影響を受けた人やその人の言葉や生き方を紹介する番組でした。私たちにもそのような人がいたのではないでしょうか。私も学生のころは、ビートルズの言葉や生き方に影響を受けたのを思い出します。しかし、何と言っても、誰よりも私の人生に影響を与えたのは、イエス・キリストです。私の人生で最高に価値ある出会いは、イエス・キリストでした。みなさんも同じ思いだと思います。

 イエス・キリストとの出会いをとおして、多くの人々の人生が変えられました。イエス様の十字架の死と復活は人類に最も祝福をもたらした出来事です。イエス様の十字架と復活の意味を知る時、そして、信じる時、私たちは人生の明確な目的地に向かって舵を取り、新しい生き方が始まります。

■Ⅱコリント5:17の初めの部分、「だれでもキリストのうちにあるなら」とありますが、これはどういうことでしょうか。私は、「キリストのうちにあるなら」と聞くと、その後に「安全」という言葉を思い浮かべます。キリストのうちにあるなら、私は安全です。キリストのうちにあるなら、私は守られます。キリストのうちにあるなら、私は安心です。そして、さらに、思い浮かべるのです。ノアの箱舟のうちにいて、大洪水から守られたノアの8人の家族、そして、パピルス製の籠の中に入れられてナイル川に流された赤ちゃんのモーセ、そして、幕屋の至聖所にあった契約の箱、その中には、神のことばを意味するマナの入ったつぼがあり、復活と永遠のいのちを意味する再び芽吹いたアロンのアーモンドの杖があり、神の律法と裁きを意味する十戒の石板(それは聖霊を意味するでしょう)が入っていました。これらはみな、「アーク」と呼ばれています。そして、これらはみな、救いを表しています。箱舟のうちにいたノアの家族も、パピルス製の籠のうちにいた赤ちゃんのモーセも、神の契約のうちにいたイスラエルの民も、みな守られました。そして、かれらの未来には新しい始まりがありました。イエス・キリストのうちにいる者も同じです。彼らの未来にも新しい始まりがあるのです。その歩みを私たちはすでにこの地上にある時から始めることができるのです。イエス・キリストのうちにあるとは、イエス・キリストを救い主として信じることです。イエス・キリストを信じる者は安全であり、安心であり、守られるのです。

■Ⅱコリント5:17をさらに読むと、イエス・キリストを信じる者は新しく造られた者であることが書かれています。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりましたと書かれています。みなさん、このところを信じますか。

 「見よ!」と書かれています。みなさん、自分を見てください。私も自分を見てみます。確かに変わりました。でも、前よりも古くなっています。以前はもっと新しかったし、もっと若かったでしょう。新しいどころか、肉体はどんどん古くなっています。私の外面だけでなく、内面も見てみましょう。確かに新しくされたところ、変えられたところが見受けられます。がしかし、まだまだ、良くないところがあり、変えられる必要のあるところがあります。それでは、古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりましたとは言えないのではないでしょうか。

■ヨハネ3:3から見てみましょう。「・・・新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。・・・水と御霊によって生まれなければ神の国にはいることはできません。・・・肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」とあります。イエス・キリストを信じる者は、御霊によって生まれた者です。御霊によって生まれた者は霊です。ですから、新しく生まれたのは霊です。イエス・キリストを信じる者は、聖霊によって新しく生まれた者です。私の肉の部分、肉体と心(思索・感情・知性・意志)は罪の影響が残っています。ですから、私の行ないには正しくないところがあります。けれども、神様は私のことをまったく正しい者として見てくださっています。それは、聖霊によって新しく生まれたからです。それは霊です。それは、私の罪の影響をまったく受けていないところです。

■私たちはキリストにあって新しく造られた者です。キリストにあって新しく造られた者たちの生き方について、少し考えてみたいと思います。救いは私たちの行ないによって勝ち取ったものではないことは、ここにおられる方々はみなお分かりかと思います。救いはまったくの恵みです。イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは罪赦され、将来必ず、神の国に入ります。たとえ、行ないが不完全でいろいろと指摘されるようなところがあったとしても、また、神様の働きについて熱心でないとしても、あまり礼拝に出席していないとしても、イエス様のことをちゃんと信じていれば神の国に入ります。これは、イエス・キリストを救い主として信じるゆえの恵みです。

 でも、どうせ、キリストのうちにあるなら、神様の喜ばれる生き方をしたいと思いませんか。もうすでにしているかもしれません。それでは、もっとさらにその上を目指していきたいと思います。

■Ⅱコリント5:17の前後に、クリスチャンの生き方として神様が私たちに望んでおられることが3つほど書かれています。

①自分のためではなく、キリストのために生きる(15節)。

 自分のためではなく、他人のために生きる、ではありません。キリストのために生きる、です。他人のためでもキリストのためでも、どちらにしても、すごく不自由で束縛されているように感じるかもしれません。でも、それは誤解です。自分というのは、古い自分と考えた方がよいでしょう。自分を犠牲にして他人のためにつくしなさいとか、やりたいことをやってはいけないとか、自分の夢をあきらめてその時間を教会の働きのために使いなさいとか、言っているのではありません。時にはそのように導かれることがあるかもしれませんが、常にではありません。

 人は自分の人生を自分のために、あるいは、自分たちのために生きるのは自然なことです。しかし、何でもかんでも、自分ファースト、自分たちファーストで生きるならば、必ず、どこかで誰かが傷ついたり犠牲になったりするものです。他の人たちのことも考えてあげるべきです。古い自分というのは自己中心的な自分であり、他の人への配慮や思いやりを欠いた生き方をする自分です。それは、古い自分に属する罪と言ってよいでしょう。私たちが自己中心的な自分に従って生きるならば、イエス様は悲しむことでしょう。しかし、私たちは、もはや、そんな古い自分に属する罪や生き方に従う必要も義務もありません。イエス様が喜ばれる生き方、新しい自分に従う生き方を生きて行く道が私たちの前にあります。だからと言って、私たちはいつもそのような生き方を完全にできるわけではありません。失敗もあります。しかし、それは私たちの生きる基準、目標とすべきです。

②神の価値観と神の視点で見る(16節)。

 私たちはこの世の価値観や基準で人や物事を判断しがちです。神様の価値観や基準はこの世のものとは違うようです。人は外面を重要視しますが、神様は内面を重要視します。人は能力の高さを重要視しますが、神様は心のあり方を重要視します。人は差別や偏見をもって人を判断しますが、神様には差別も偏見もなく、公平なお方です。

  また、神様の見方はいつも人をつぶすためではなくて、人を建て上げるものです。たとえ厳しい言葉であっても、それは倒すことが目的ではなくて建て上げることが目的です。これを書いたパウロもその点について失敗がありました。神の視点から見ることができずに、人の可能性をつぶしてしまいそうになったことがありました。パウロは青年マルコを伴って宣教旅行に出たことがあります。この時、マルコは少々勝手な行為をしてしまったようです。きっと、パウロたちはマルコの行為によって相当な迷惑を被ったのだと思います。それを怒ったパウロは、もう、マルコとは二度と一緒に働かないと決心しました。しかし、その後、パウロは、マルコが神様の働き人として有能な人材であることを認めています。神様は、パウロには見えなかったマルコの可能性を見ていたに違いありません。その可能性が引き出されるために、きっと、マルコは厳しい神様の訓練の中を通らされたことと思います。神様の働き人として立つためには、それなりの神様の訓練があります。後に、マルコは4つの福音書の一つを書きました。

③キリストの使節(外交官)としての役割がある(18節、20節)。

 イエス・キリストを信じる者には、和解の務めが与えられています。クリスチャンは、神様に罪赦されて、神様と和解した人々です。神様と和解した人々は、他の人と和解する和解の模範者であり、神様との和解を人々に知らせ、そして、案内する人々です。神様はクリスチャンにそのことを期待しています。私たちは、神の国から遣わされている使節団として、神の国のことを世の人々に伝えていきたいと思います。もっと多くの人々が神の国に興味を持ち、神の国に来ることができるように努めたいと思います。

■キリストのうちにあるなら、私たちは必ず神の国に入ります。この地上においてさえ、神様は私たちのために、守りも導きも祝福も豊かに与えてくださっています。しかし、どうせ、キリストのうちにあるなら、自分のためではなく、キリストのために生き、神様の価値観を自分のものとして生き、キリストの使節として生きて行くことを大切なこととして生きていきたいと思います。それではお祈りします。