ペンテコステの出来事

2019年6月9日主日礼拝<ペンテコステの出来事>使徒2:1~4、16~21、33

佐々木俊一牧師

■ファミリーヒストリーという番組があります。有名人のルーツを調査するドキュメンタリー番組です。ルーツを遡っていくと、それぞれの家系に展開される感動的なドラマがあります。ある人々は、江戸時代や戦国時代にまで遡っていたように思います。私たちにもそれぞれにルーツがあります。でも、どこまでわかるでしょうか。しかし、考えてみると、すべての人は、みなアダムとエバで一緒になります。肌や目の色が違っても、始まりはそこにあります。そういう意味で、人類はみな家族と言えます。

 新約聖書では、クリスチャンのことを神の家族と言っているところがあります。これはどういうことなのでしょうか。肉においては、私たちのルーツはアダムに行き着きます。霊においては、または、クリスチャンとしては、イエス・キリストに行き着きます。つまり、クリスチャンとしてのルーツは、イエス・キリストにあると言うことです。ヨハネの福音書3章で、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の御国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」とイエス様は言われました。

■今日読んでいただいた使徒の働き2章には、イエス・キリストの十字架の死と復活の後に起きた、とても重要な出来事について書かれています。それについては、旧約時代から予告されていたことであり、イエス様も弟子たちに何度も語っておられたことです。今日はそのことを記念し、お祝いする日なのです。私たちはこの日を、ペンテコステとか、聖霊降臨日と呼び、教会が誕生した日として認識していると思います。

 使徒の働き2章には、エルサレムに最初の教会が誕生した時のことが書かれています。イエス様は過越しの祭りの時に十字架にかけられて死にました。しかし、それから3日目によみがえられました。それは、ちょうど週の初め日曜日のことでした。その日曜日から数えて50日目に、ユダヤ教では五旬節というお祭りを行います。この日に、モーセがシナイ山で神様から十戒と律法受け取ったとも言われています。また、この日は、小麦の初穂を神にささげる収穫祭の時でもありました。そして、この日も週の初めの日曜日でした。この時に、聖霊が地上に下られました。イエス様を信じる人々は、この時から教会として動き始めたのです。初めに集っていた人々はみなユダヤ人で、120人ほどでした。しかし、この日、なんと3000人のユダヤ人がイエス・キリストを救い主として信じ、バプテスマを受けて弟子に加えられました(使徒2:41)。

■使徒2:1を見てみましょう。「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。」と書かれています。彼らはこの頃、日曜日に限らず毎日のように共に集まり、祈り、賛美をし、交わりをしていたようです。ただし、この日は、日曜日でした。日曜日というのは、当時の安息日である土曜日と共に何か特別な曜日のように思えます。旧約聖書においては、過越しの祭りと五旬節の時には週の第7日目の土曜日と次の日の日曜日には重要な祭事が行なわれていました。また、仮庵の祭りの時にも、祭りの第7日目と次の日には重要な祭事が行なわれていました。この意味で、日曜日に共に集まると言うことには、神様の特別な計らいがあるように私は思います。

 次に、使徒2:2~3を見てみましょう。ここを見ると驚くべき状況が記されています。私たちの想像を超えた出来事であり、常識的にも科学的にも説明のつかない出来事が起こりました。突然の出来事でした。激しい風が天から吹いてくるような音が家全体に響き渡ったと言うことですから、たぶん揺れも感じたのではないでしょうか。そして、炎のような分かれた舌が現れて、それが一人一人の上にととどまったと言うのです。

 ここで注目すべき言葉を2つ挙げたいと思います。一つは、風です。風は聖霊を説明する時に象徴的に用いられることがあります。イエス様も風という言葉によって聖霊のはたらきについて話されました。ヨハネ3:8でこのように言っています。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」このところは、後にイエスを信じたパリサイ人のニコデモにイエス様が話されたことです。風は目に見えませんが、吹くと音や感触で感じられるものです。聖霊も見えませんが、その働きがあるのを人は感じることができるのだと思います。さらに、風は息のようでもあります。息と言えばいのちを意味しますし、霊を意味します。それが神様の息となると特別な意味になります。聖霊は目には見えませんが、確かに、私たちに新しいいのちを与えるお方であり、私たちの内に、そして、私たちの間で神の働きをなされるお方です。

 次のことばは、火です。火もまた、聖霊の象徴としてよく用いられます。モーセがホレブの山で見た柴の中の燃える火やイスラエルの民を導く火の柱、または、預言者エリヤがホレブの山で見た火やエリヤの捧げものだけを焼き尽くした天からの火、それらは、神の臨在、力ある神様が共におられることの象徴です。そして、イザヤ6:5では、火は汚れを清める働きを表しています。預言者イザヤが預言者として立つ前に、口(言葉)の汚れ(罪)を神様によって清められたことを示したのだと思います。燃え盛る炭がイザヤの口に触れた時、彼の預言者としての働きが始まりました。このように、火は神の臨在を表し、神による清めを表します。ですから、炎のような分かれた舌が意味するものは、神の臨在であり、神による清め、特に、主のことばを語る務めを始める前に、口とことばの清めを受けたということではないでしょうか。

■次に、使徒2:4を見てみましょう。「すると、みな聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した。」

 みな聖霊に満たされとありますが、聖霊に満たされるとはどういうことでしょうか。ヨハネ3:38~39にこのように書かれています。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」  

 今から約2000年前ペンテコステの日に聖霊は注がれました。聖霊が注がれた後は、イエスを信じる者は誰でも、その人の心の奥底から聖霊が流れ出ると言うのです。それは、源泉かけ流しのような状態です。イエスを信じている者はいつもそのような状態なのです。そして、心には主にある平安と喜びがあるのです。

けれども、私たちの内に神様からではない心の状態、たとえば、恐れ、不安、心配、憎しみ、恨み、責める思い、赦せない思い、人を貶めたり裏切ったりする思い、劣等感、優越感、差別、侮蔑、汚れた思いなどが私たちの心の中に漂うとき、聖霊に満たされた状態が妨げられてしまうかもしれません。このような時、私たちの心は平安も喜びも失ってしまいます。このような状態は、クリスチャンお一人お一人にとっても、教会にとっても健全な状態とは言えません。

 そのような心の状態に陥らないためにどうしたらよいでしょうか。日々、お一人お一人が神様のみ前に出て祈ることが大切です。祈りをとおして、導きや力を受けることができます。時には、自らを低くし、示される事柄(罪)を悔い改めて自分の思いや態度を改めるように導かれるでしょう。時には、神様の力と守りを実感し、困難な中を支えられて進んでゆくことができるでしょう。他にも大切なことがあります。共に集まり、互いのために祈り合うことが大切です。お一人お一人が聖書のことばに親しみ、時には、共に集まって学び合うことが大切です。お一人お一人が神様に賛美をささげ、感謝をささげ、礼拝をささげることが大切です。時には共に集まって、共に礼拝をささげることが大切です。神様が自分のことを愛してくださっているように、他の人のことをも愛しておられることを覚えて、互いへの配慮や思いやりを持つことが大切です。ごく限られた人々がそうするのではなく、みなが互いにそうすることが大切です。使徒2:46と47に書かれているように、そこには簡単には崩れない一致と喜びが生まれます。それは、世の人々への良き証しとなって働きます。このような信仰生活と教会生活を作り上げていきたいと思います。それは、お一人お一人にとっても教会にとっても、自分たちを健全に保つために大きな助けになるのです。

 「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばを話し出した。」

 五旬節はユダヤ人にとって重要なお祭りです。ですから、7週前の過越しの祭りからずっとエルサレムにとどまっていた他国のユダヤ人も多くいたと思われます。その時代とその当時の状況の必要が多言語による福音宣教だったのだと思います。イエスを信じる者は聖霊の力を受けて、語ったことのない言語で福音を宣べ伝えました。これもまた人の力をはるかに超えた神のみわざでした。

■使徒2:16~21 このところは、旧約聖書のヨエル2:28~32の引用です。ペテロによると、ペンテコステの出来事はそこに語られていることの成就であると言うことです。「終わりの日に」とありますが、終わりの日とは、いつのことを言っているのでしょうか。そして、それは、1日でしょうか、1週間でしょうか、1ヵ月でしょうか、1年でしょうか。どうやら、それよりも、もっと長い年月の事を言っているようです。少なくとも、終わりの日とは、聖霊が下られたその時から現在に至っているのです。ペテロは、神様にとっては、1日も千年も違いはないと言っています。イエス様がよみがえられて天に戻られ、聖霊が注がれた後はずっと終わりの日が続いているのです。この終わりの日がいつ終わるのかは、父なる神様だけが知っていることなのです。

 使徒2:17~18の事柄は約2000年前の五旬節の時に成就したことです。ですが、2:19~20にあることはまだ起こっていません。文字通り、天変地異に関わることであるとしたら、少なくともこのような大きなスケールでは起こったことがないように思います。黙示録にあるような様相を漂わせているように私には思えます。

 しかしながら、どんなことが起こったとしても、どんな中にあったとしても、力強い神のことばはこのように言っています。「しかし、主の御名を呼ぶ者は、みな救われる。」です。主の御名を呼び求め、主に信頼する者の命は主が守って、救ってくださるのです。

■使徒2:33「ですから、神に上げられたイェスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」

 イエス・キリストが十字架上で注がれた血の意味は、旧約時代の幕屋で注がれた動物の血によって象徴的に表されています。そして、天に戻られたイエス様が父なる神様から約束された聖霊を受けて地上に注がれた出来事もまた、旧約時代の幕屋での儀式の中に象徴的に表されているのだと私は思います。

 イエス様が父なる神様から聖霊を受けてこの地上に注がれました。それは、信じる者が清められ、力を受けて、神様の働きを力強く行うためです。もちろん、信じる者が、罪赦され、新しくされ、永遠の命を受け、天の御国に入るためであることは言うまでもありません。 

 ペンテコステの出来事として大事なことは、この時から教会が始まったということです。エペソ2章にあるように、教会とは神の家族です。教会は、イエス・キリストにあって一つとされた神の家族なのです。教会は、イエスを信じ、聖霊を注がれた者たちが集まるところです。教会は、主にある聖なる宮と言われます。その宮は、互いに組み合わされてますます成長して大きくなっていきます。教会は、聖霊によって神の御住まいとなるのだと言われています。聖霊が注がれた人々が集まるところは神の御住まいとなるのです。私たちが一人であったとしても、神様は共におられます。私たちが共に集まると何が違うのでしょうか。何かが違うのだと思います。私たち一人一人はキリストのからだの一部に過ぎなくても、多くが共に集まるとキリストのからだとしての働きも充実してくるのではないでしょうか。私たちは神様からの清めと力を豊かに受けて、神の御住まいである神の宮、教会をとおして、神の働きをなし、キリストの救いを宣べ伝えて行きたいと思います。それではお祈りします。