聖霊を受けて新しく始まる!

2019年5月26日(日)主日礼拝 

「聖霊によって新しく始まる!」テトス3:5-8 佐々木俊一牧師

 

「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。」(テトス3:5-8)

 

■今年は、6月9日がペンテコステです。これに先立って、今日はペンテコステについてお話ししたいと思います。さらに、次回は聖霊についてお話をしたいと思っています。

 ペンテコステの出来事によって、キリスト教会は誕生しました。イエス様が言われたとおりに、弟子たちとその仲間たちがエルサレムから離れないでひとつのところに集まっていました。そのときに聖霊が天から地上へ下られたのです。その時の様子が、使徒の働き2章に書かれてあります。

 神は唯一のお方ですが、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三つにしてひとりの神であることを聖書は示しています。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死なれました。しかし、三日目によみがえられて、その後40日の間、復活のイエス様は弟子たちの前に現われました。それから、天に戻られました。これらの事については、ルカの福音書と使徒の働きの著者であるルカ(彼の職業は医者)によって、数多くの確かな証拠をもって、イエスご自身が生きていることを使徒たちに示された、と記しています。そして、イエス様が天に戻られて10日ぐらいでしょうか、使徒の働き2章の出来事が起こりました。イエス様が「聖霊」について語っておられたとおりに、聖霊が地上に来られたのです。イエス様は聖霊について何と言っておられたでしょうか。  

 ヨハネの福音書14章で、父なる神様はもうひとりの「助け主」をあなたがたにお与えになると言っています。その方が聖霊です。聖霊は私たちとともに住み、私たちのうちにおられます。また、聖霊は、イエス様のこと、イエス様が言われたこと、救いのこと、聖書のことを理解するのを助けてくださいます。今この時も、聖霊は、聖書を理解するために助けて下さっているのです。

■テトス3:5  新生(regeneration/rebirth)と更新/聖化(renewing/renewal)

「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」

 聖霊によって、私たちは新しく生まれ、さらに新しくされ続けていくのだと言っています。「人は、罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。」と言われるのを聞いたことがあるでしょうか。人はだれでも罪を犯す可能性があるのです。なぜなら、人は罪人だからです。しかし、神様はそんな罪人を赦し、受け入れて下さいました。それは、人の正しい行いによってではなく、ただ神様のあわれみのゆえに、救い主イエス・キリストがその血潮によって私たちを買い戻してくださったからです。聖霊は、そのことを信じたことへの印です。

 人は罪人のままで神様に受け入れられるのです。それは、救い主イエス・キリストのおかげなのです。イエス・キリストを信じた者は聖霊を受けます。聖霊は目には見えません。しかし、聖霊を受けた者は神様のみこころを行ないたいと願います。そのことをとおして、自分の内には聖霊がおられるのだと知ることができるでしょう。信じる者のうちには、聖霊が住んでおられると聖書は言います。この聖霊の働きによって、私たちは新しく生まれ、さらに新しくされ続けているのです。

■ペンテコステ(五旬節/七週の祭り)※シャブオット(ユダヤ人の祭り)

イエス様は、聖霊が来られることを約束して天に戻って行かれました。けれども、弟子たちは、五旬節にその約束が成就することなど予期していなかったと思います。五旬節にそのことが起こって初めて、イエス様の言われたことや祭りの霊的意味が理解できたのだと思います。 

 過越しの祭りは、イエス・キリストの十字架の死とその血潮と復活に関係があります。それは、大麦の収穫の時期に行なわれる祭りです。そして、ペンテコステの祭りは、過越しの祭りの時、大麦の初穂がささげられた日曜日(イエス様が復活された日曜日)から数えて、7週目の日曜日に行なわれました。ちょうど50日目なので、ペンテコステ(ギリシャ語)と言うのです。このころに小麦の収穫が始まり、小麦の収穫祭があります。ペンテコステも過越しの祭りも、神様の約束の成就を表しています。そして、それらは霊的な意味での大収穫であり、イースターもペンテコステもその大収穫をお祝いする日なのです。

 ここで、旧約聖書を開いてみたいと思います。レビ23:17~21にペンテコステ(五旬節/七週の祭り)のことが書かれています。

 「あなたがたの住まいから、奉献物としてパンー主への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるものー2個を持って来なければならない。そのパンといっしょに、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊7頭、若い雄牛1頭、雄羊2頭、また、主へのなだめのかおりの、火によるささげものとして、彼らの穀物のささげものと注ぎのささげものとをささげる。また、雄やぎ1頭を、罪のためのいけにえとし、1歳の雄の子羊2頭を、和解のいけにえとする。祭司は、これら2頭の雄の子羊を、初穂のパンと一緒に、奉献物として主に向かって揺り動かす。これらは主の聖なるものであり、祭司のものとなる。」

 神様は、ささげものといけにえについて、随分細かい指示を与えています。それには、理由があります。ふつう、穀物のささげものの場合、パン種を入れません。けれども、このときに限ってパン種の入ったふっくらしたパンがささげられました。パン種の入った2つのパンは、和解のいけにえである2頭の子羊と一緒に主の前にささげられました。パン種の霊的な意味は、罪です。ふつうでしたら、神様の御前に、パン種の入ったパンをささげてはいけないのです。しかし、ここではパン種の入ったパンがささげられています。そして、それは、和解のいけにえ(peace offering)と一緒にささげられました。これは、何を意味しているのでしょうか。パン種の入ったパン、それは、罪ある自分です。罪ある自分、ありのままの自分を、神様の御前にささげるのです。しかし、和解のいけにえと一緒にささげなければなりません。私たちにとって和解のいけにえとは、イエス・キリストです。イエス・キリストが私たちの和解のいけにえです。ですから、イエス・キリストを信じ、聖霊によって新しく生まれた者は、ありのままの自分で、神様の御前に出ることができるということなのです。

■テトス3:6 イエス・キリストを信じる者すべてに与えられる聖霊

「神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」

 イエス・キリストを信じる者すべてに聖霊は豊かに与えられます。旧約時代においても、聖霊の働きはありましたが、それは、王様や預言者など、一部の人々に限られていました。ペンテコステの出来事が起こってからは、聖霊は、イエス・キリストを信じる者すべてに与えられます。万民祭司と言われる所以がここにあります。イエス様を信じる者はだれでも、選ばれた祭司なのです。彼らは自由に神様に仕えることが出来ます。罪を悔い改めるために、自分以外の誰かに聞いてもらう必要はありません。自分で直接神様に祈りをささげるのです。直接神様に、感謝をささげ、賛美をささげ、礼拝をささげ、神様の言われることに耳を傾け、交わりを持つことが許されているのです。神様は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださっています。

 ペテロは聖霊の恵みによって大きく変えられた人のひとりです。彼はリーダーになりたかったようですが、喜怒哀楽が激しく、不安定でした。自分は誰よりも勇気のある強い人間だと思い込んでいましたが、自分の身が危なくなると、勇気のない弱い人間であることが明らかになりました。イエス様の教えを正しく理解する知恵もありませんでしたし、ただ自分にとって都合のよい理解をしていたように思われます。しかし、彼の人生は、ペンテコステを境に新しく始まったのです。彼の内面も行動も新しくされてゆきました。以前のペテロとは違っていました。彼には神様のことばを正しく理解する力が与えられました。そして、それを多くの人々の前で語る大胆さを与えられました。彼は漁師できちんとした教育を受けていなかったにもかかわらず、教育を受けた者にまさる知恵と知識で福音を宣べ伝えました。それにより、多くの人々がイエス・キリストを信じたのです。以前のペテロであるならば、リーダーには到底なれるような人間ではなかったでしょう。しかし、彼は、当時のキリスト教会にあって、リーダーとして、神様の働きをりっぱに導きました。それは、聖霊の働きによるものです。

■神様には、「新しく始まる」ことを可能にする力があります。私たちが新しく始めることが出来るように力を与えてくださるのです。私たちの人生や生活において、新しく始めたいと願うならば、ぜひ、やっていただきたいことがあります。

①イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れること。

 クリスチャンとして生きることは、したいことができなくなって、窮屈な生き方を強いられることだと思い違いをしておられる方々がいます。また、クリスチャンのような清い生き方は自分には無理だからクリスチャンにはならないと思っておられる方々もいます。

 私たちはありのままの自分で神様の御前に出ることができるのです。自分のような罪深い人間は神様には受け入れられないだろうと心配する必要はありません。イエス様を必要としているのは、正しい人間ではなく罪人なのです。イエス様は罪人を救うために来られました。ただし、一つ条件があります。和解のいけにえである、イエス・キリストを自分の救い主として信じることです。ありのままの自分を受け止めて愛してくださるお方がおられることを体験するならば、心配していた不自由さや窮屈さなどはどうでもよくなるでしょう。イエス・キリストを信じて歩むことの中に、真の自由を見出すに違いありません。それは、私たちにとって新しく始まることの一歩です。

②イエス・キリストを信じる者のうちには、聖霊が住まわれることを信じること。

 Ⅰコリント6:19~20にこう書かれています。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」

 私たちのからだには聖霊が住んでいると言っています。私たちのからだは、聖霊の宮であると言っています。聖霊は神様です。ですから、神様が私たちの内にあって、ともにおられると言うことです。私たちが新たな始まりを願うのならば、私たちの内には聖霊が住んでおられることを覚えましょう。私たちが新しく始まることを可能にする力を受けたいのならば、私たちの内に聖霊が住んでおられることを覚えましょう。そして、私たちは自分の心の声でもなく人の声でもなく、神様のみこころを求めて、神様の御声に導かれて歩みましょう。そうする人は、神様の祝福を豊かに受けるのです。そうする人は、新しく始めることを可能にする力を受けるのです。そうする人は、神様の栄光を現す器となるのです。

③日曜日に共に集まり礼拝をささげること。

 「教会」はギリシャ語で「エクレシヤ」と言います。「召集する」という意味のギリシャ語から派生したことばだそうです。ペンテコステの祭りのときに、弟子たちとその仲間、120人くらいの人々が共に集まっていました。共に集まることにも、神様にとって特別なみこころがあるように思います。この時に、聖霊が下られました。また、この日は日曜日でした。イエス様がよみがえられたのも、日曜日でした。日曜日は1週間の始まりで、常に新しい始まりです。1週間の初穂を神様にささげることは意味のあることだと思います。それは、神様を大切にすることでもあると思います。日曜日に共に集まり礼拝をささげる度に、神様から力を受けて新しく始めることができればと思います。

 しかし、律法的にならないように気をつけたいと思います。現代の社会の仕組みでは、必ずしも日曜日が休日とはかぎりません。仕事や疲労など、様々な理由で礼拝に出席したくてもできない場合があるのです。そのような時は、少しの時間でよろしいですから、神様に思いを向けて、感謝と賛美をささげたり、聖書を読んだり、祈りをささげたりして、自分お一人で礼拝をささげるのがよいかと思います。

■この地上においては、私たちは何度でも聖霊によって新しく始めることができるのです。そして、聖書によるならば、この地上のいのちの終りの後に、本当の新しい始まりがあるのです。テトス3:7にあるように、聖霊を注がれた者たちは、恵みによって義とされた者たちです。その人々は、永遠のいのちを受けて、神の御国を相続するのです。そして、テトス3:8では、この約束は信頼できることばであると断言し、確信を持ってその約束のことばを語るように勧めています。この約束のことばをしっかりと握って生きて行きましょう。それではお祈りします。