礼拝=ひれ伏すこと

2019年3月10日主日礼拝「礼拝=ひれ伏すこと」<アモス9:11~12>佐々木俊一牧師

■「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ。これをなされる主の御告げ。」アモス9:11~12

 アモスはイザヤよりも、ちょっと早いBC800年頃の預言者です。ダビデが死んでから200年後くらいのことだと思われます。

 仮庵とは何のことでしょうか。仮庵とはテントのようなものです。仮の粗末な家のことです。そのテントがどうやら破れている様子がうかがわれます。そのテントの破れたところを繕って何とか昔のように使えるように直すと言っているのです。この仮庵はダビデのもののようです。ダビデの倒れている仮庵とはいったい何を意味しているのでしょうか。

 今日の箇所は新約聖書の使徒の働き15章で引用されています。エルサレム会議と言われているところです。15:15~19を見てみましょう。このように書かれています。「預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。」

 ダビデの倒れている仮庵とは、使徒の働き15章では、倒れたダビデの幕屋となっています。皆さんはダビデの幕屋という言葉を聞いたことがありますか。 旧約聖書には、幕屋と言われるものが二つあります。ともに、神様が住まわれる場所であり、人々が礼拝を捧げる場所でした。Ⅱ歴代誌1:3~4を読んでみたいと思います。「ソロモンおよび彼とともにいた全集団はギブオンにある高き所に行った。そこには、主のしもべモーセが荒野で造った神の会見の天幕があったからである。しかし、神の箱については、ダビデはこれをキルヤテ・エアリムから、ダビデがそのために定めておいた場所に運び上らせた。箱のために天幕をエルサレムに張っておいたからである。」天幕とは、幕屋のことです。いまお読みしたところにあったように、一つは、モーセが造った幕屋で、もう一つはダビデが造った幕屋です。モーセの幕屋はエルサレムから10キロぐらい離れたギブオンという山にありました。ダビデの幕屋はエルサレムにありました。

 モーセの幕屋は、モーセの律法に従って神に捧げる礼拝を意味しています。どのような礼拝かと言うと、牛や羊などの動物を罪のためのいけにえとして捧げるのです。そこでは、毎日毎日、動物のいけにえが捧げられていました。その中で働く人々は祭司と呼ばれています。祭司たちは、人々が捧げものとして持って来た動物を殺し、それを祭壇の上で焼き尽くしました。このような作業をする祭司たちですから、いつも手足や衣服は血や砂埃で汚れていました。彼らの汚れた手足は、幕屋の庭にある洗盤の水で洗い流しました。このような礼拝が旧約時代の正統な礼拝の形です。

 それに対して、ダビデの幕屋での捧げものは動物ではありません。そこでは、感謝や賛美や祈りが捧げられていました。レビ人と祭司たちがいろいろな楽器を演奏しました。それに合わせてダビデや歌い手たちが感謝や賛美の歌をもって神をほめたたえました。ダビデによって書かれた詩篇はそこで歌われたものです。ダビデが契約の箱を自分の作った幕屋の中に運び入れたのをきっかけに、このような礼拝の形が始まりました。ダビデの時代には、モーセの幕屋とダビデの幕屋の両方で礼拝が捧げられていたのです。

 ダビデという人は、新約時代のクリスチャンと神様との関係を表している人物です。そして、ダビデの幕屋で行なわれていた礼拝の形は、クリスチャンが捧げる礼拝を表すものです。いつしかダビデの幕屋の礼拝の形は、姿を消してしまいました。しかし、アモスが預言したとおりに、ダビデの幕屋で捧げられていた礼拝の形は再び回復しました。イエス・キリストの十字架の贖いによって、信仰と恵みによって捧げられる礼拝が初代教会に回復したのです。それは、ユダヤ人たちだけのためではなくて、全世界の人々のためのものとなりました。

アモス9章の言い方と使徒の働き15章の言い方には多少違いがあります。アモス9章では、「彼らがエドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ。」とあります。エドムもわたしの名のつけられたすべての国々も、異邦人を意味します。エドムとはイサクの息子エサウの子孫です。そして、イスラエルはもう一人の息子ヤコブの子孫です。つまり、イスラエルがエドムの残りの者とわたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるとは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためであるということなのです。

 使徒の働き15章で問題とされているのは、異邦人の救い、つまり、イスラエルの民以外の人々の救いのことについてです。パリサイ人出身の信者たちは、異邦人信者も律法の規則に従うように指導すべきだと主張しました。しかし、結果は、基本的にはイエス・キリストを信じる信仰と恵みによって救われるのだということが明確にされました。

■初代教会の礼拝に影響を与えていたものが、もう一つあります。それは、シナゴーグと言われている、ユダヤ人の会堂での礼拝です。バビロン捕囚以来、本来の礼拝行為ができなくなったユダヤ人たちは、ともに集まり、聖書(律法と預言書)を朗読し、祈り、聖書のことばの解釈を教えました。それが、彼らの礼拝の形になりました。この形は、ダビデの礼拝の形と同様に、初代教会の人々の礼拝に影響を及ぼしているものです。

 エペソ5:19に、「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」とあります。このみことばは、人々がともに集まり礼拝を捧げるときにどのようなことをしていたのかを表わしているものです。彼らは、詩篇にメロディーをつけたものを歌い、または、他の賛美歌を歌い、互いに神様のことを語り合い、礼拝を捧げていました。使徒2:42,46を見ると、賛美の他に、メッセージをしたり、祈ったり、主の晩餐式をしたり、交わりをしたり、食事をしたりしているのがわかります。オープン・ドア・チャペルでの日曜礼拝の様子と大変似ています。

■私が初めて教会に来たのは、1979年のことでした。その頃の礼拝で歌った歌は、聖歌や讃美歌が中心でした。1時間半くらいの礼拝式の中で4,5曲賛美していたと思います。時々、ゴスペルフォークというのがあって、その中から特別賛美をしていました。当時としては、珍しく、ピアノと一緒にギターも使用していました。ただ、聖歌にしても、讃美歌にしても、ゴスペルフォークにしても、神様についての歌、イエス様についての歌、礼拝についての歌、信仰についての歌、証的な歌でした。1980年代になると、詩篇のことばにメロディーをつけた歌がアメリカから入ってきました。いわゆる、ワーシップソングというものです。ワーシップソングの特徴は、歌詞が短く暗唱しやすかったということと、歌詞の内容が直接神様に向かって語りかけるようなものであったということです。とても新鮮な印象を受けました。どんどん、ワーシップソングが日本の教会に導入されて行きました。それにしたがって、形式的な礼拝が、もっと自由な形に変わって行きました。オープン・ドア・チャペルにおいても同じような過程を経ているのではないでしょうか。詩篇のことばには、私たちが信仰に堅く立てるように導く力があるように思います。というのも、人間の悩みや問題は昔も今もほとんど変わりません。ですから、困難の中にあったダビデの神様への叫びや思いが、私たちにとってもよく理解できるのだと思います。  

■詩篇22:3「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」ダビデはイスラエルの賛美の中に神様が住んでおられると歌っています。クリスチャンは霊的イスラエルといわれていますから、クリスチャンが捧げる賛美の中にも神様が住んでおられるはずです。目には見えませんが、目に見えるお方であるかのように、神様に向かって礼拝を捧げることは神様の喜ばれることだと思います。

 ダビデはどのように礼拝を捧げていたのでしょうか。見てみたいと思います。

1) 感謝をささげる:詩篇100:4「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、み名をほめたたえよ。」私たちが礼拝に来るとき、その時によっていろいろな心の状態や状況の中からやって来ます。疲れていたり、傷ついていたり、恐れや心配があったり、罪の咎めを感じていたり、逆に、嬉しいことがあったり、喜んでいたり、平安だったりします。私たちの心の状態が安定している時は、感謝することは難しいことではありません。でも、心の状態が不安定な時は、感謝することが難しいです。難しい時に捧げる感謝のことを、聖書では感謝のいけにえと言っています。感謝を捧げることは、神様の力を受けるための入り口なのです。感謝を捧げることは、礼拝を始めるのにふさわしいことです。

2) 賛美をささげる:詩篇138:1「私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめたたえます。」賛美ということばには7つくらいのことばがあるそうです。ここで使われている「ほめたたえます」には、「手を上げて賛美します」という動作を含むことば(ヤダー)です。

 詩篇69:30「私は神のみ名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。」ここで使われている「ほめたたえる」は、自分が不利な状況に置かれているにもかかわらず、神様がしようとしていることに先んじて、感謝と賛美を捧げる、いわば、「賛美のいけにえ」という意味と「手を上げる」という意味を含んでいることば(トーダー)であると書かれていました。

1) 礼拝をささげる:ピリピ2:10「それは、イエスのみ名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」「礼拝する」とは、ひざをかがめることであり、ひれ伏すことであり、地面に頭をつけるほどに低くなることです(ヘブル語でシャカー、ギリシャ語でプロスクネオ)。

 ダビデは礼拝の初めに、感謝を捧げ、次に賛美を捧げ、そして、主のみ前にひれ伏しました。礼拝をとおして私たちの心が主のみ前にひれ伏すことがなければ、礼拝した意味がありません。なぜならば、礼拝とは「ひれ伏すこと」だからです。ひれ伏すとは実際にどういう状態でしょうか。神様に対して降参する状態であり、神様の命令に従いますという意思の表れです。そのような人は、人に対しあわれみを持ち、互いに敬い、互いに愛し合い、平和を築くことを喜びとします。自分を低くして神様の命令に従う人には、神様からの「シャローム」、平安と平和と健康と祝福が約束されています。イザヤ57:15にこう書かれています。「わたしは高く聖なるところに住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」神様がともにおられることが、私たちにとって祝福を意味します。

 賛美がすばらしい教会、メッセージがすばらしい教会、交わりがすばらしい教会、これはみな、良いことです。けれども、どんなにすばらしい教会の礼拝に出席したとしても、神様のみ前にひれ伏すことがなければ、そして、自分を低くすることがなければ、その礼拝は自分にとっても神様にとっても何の意味もありません。神様は、神様のみ前にひれ伏し、自分を低くする人を求めています。それではお祈りします。