隠された奉仕

2019年2月10日主日礼拝「隠された奉仕」

ローマ12:3~10、マタイ6:1~4 佐々木俊一牧師

■今日は賜物と奉仕についてお話をしたいと思います。今日もこうして皆さんと共に礼拝を持つことができるのは、皆さんが皆さんの賜物を用いて奉仕をしてくださるからです。

 教会には、いろいろな奉仕の機会があります。たとえば、一回の礼拝を行なうために、どれだけ多くの奉仕を必要としているでしょうか。礼拝のために祈る奉仕、掃除をし、会場をセッティングする奉仕、トイレットペーパーやティシューなどの消耗品を補充する奉仕、礼拝プログラムをパワーポイントで作る奉仕、音響をセットする奉仕、楽器を弾いたり、歌ったり、賛美を選んだり、賛美をリードしたりする奉仕、お花を飾る奉仕、お祈りの奉仕、パソコンやスクリーンを操作する奉仕、司会の奉仕、子ども礼拝のメッセージの奉仕、証をのべる奉仕、説教の奉仕、教会学校の奉仕、連絡をする奉仕、記録をする奉仕、献金をする奉仕、礼拝で使用したものを片付ける奉仕、会計の奉仕など、いろいろな奉仕があります。まだまだあります。食事を準備する奉仕、後片付けや皿洗いの奉仕、昼は持ち寄りですから、朝早く起きて家で調理して持ってきます。教会学校や賛美の準備のために、家で祈ったり、作業をしたり、練習をしたりしなければなりません。インターネットの奉仕もあります。これらの奉仕は、誰が何をやっているのかわかる奉仕もあれば、誰が何をやっているのかわからない奉仕もあります。どのような奉仕にしても、お一人お一人の協力があってはじめて、礼拝の時を持つことができるのです。

 そして、何よりも、礼拝のためにお一人お一人が教会までやって来ると言うことが、最上の奉仕であるということができます。私たちは礼拝に何かもらいに来るのではありません。神様にささげるために来るのです。でも、帰るときには、私たちは励ましや慰めを受けたり、弱っていた信仰が強められたり、神様からの霊的な祝福をいただいて帰ります。

 私が小さかった時、母に言われて、近所の親しくしている家におすそ分けを持って行くと、その帰り際に、「俊ちゃん、ちょっと待って。」と言われて、そのお返しに、あげた物よりずっといい物をもらって帰った記憶があります。しだいに、それが楽しみで期待して行くようになりました。なつかしい思い出です。礼拝もそのようでありたいと思います。

■3節 ここで言われているパウロ自身への恵みとは何でしょうか。それは、クリスチャンを迫害するほどの人物であったパウロに、神様が与えた赦しと救いであり、使徒としての召命であると言えるでしょう。その恵みによって、パウロはクリスチャン一人一人に、クリスチャンとしての大切な心構えについて語っているのです。思い上がらないように、そして、慎み深い考え方をするように。思い上がることと慎み深くあることは、全く反対の心の状態です。罪赦され、救いにあずかり、滅ぶべき者が生かされていることを私たちが真に理解するならば、私たちが思い上がることなど到底できる者でないことを悟ることでしょう。

 また、信仰の量りと書いてあります。信仰の量りとは、神の視点、または、神の価値観と言ってよいのではないでしょうか。私たちが信仰生活を重ねていく中で、私たちは神様の見方、神様の価値観、神様の御心をよりよく理解するようになると思います。神の視点に立ち、神の価値観によって導かれるならば、それによって私たちは、慎み深い考え方を身に着けていくのだと思います。

■4節~5節 体とは、教会の比喩であり、器官とは、教会を構成するお一人お一人のことです。体の中の一つ一つの器官は、単体では存在できません。お互いがお互いを必要とする集合体であり、各器官が集まってはじめて一つのものとして存在できるのです。同様に、教会に属する私たち一人一人についても、一人で存在しているのではなく、一人の人は他の人々を活かすために存在し、他の人々によって一人の人は活かされているのです。ですから、もしも、体の中の一つの器官が他の器官に対して害を与えるようなことがあるならば、その影響は必ずいつか自分にもはね返って来ます。体の一部の器官が弱ると、その影響は他の器官にも広がり、そのうちに体全体が弱ってしまいます。教会も同じです。一人の人が他の人に害を与えるならば、その影響は必ず教会全体に現れます。他の人々だけではなく、自分自身をも巻き込んで教会全体を弱めてしまうことになるのです。ですから、私たちは、お互いにお互いを弱らせるようなことをしないように気をつけなければなりません。そうではなくて、お互いがお互いを強め合うように努めるべきなのです。教会の中では、私たちはお互いがそのような関係でありたいと思います。お互いにお互いを強め合い、お一人お一人が成長し、教会全体が成長できるような関係を作り上げていきたいと思います。

■6節~8節 それぞれの器官には、神様によって与えられている役割があります。その役割を行うために、私たちには賜物が与えられています。教会において賜物を用いるとき、けっして私たちの自己実現や自己満足のためにその賜物があるのではありません。賜物はキリストの体である教会を豊かにするために与えられています。それが神様の御心です。神様の御心に従って賜物が用いられているならば、当然そこに集う人々も潤され、強められ、活かされます。教会全体としても元気になり、健全な成長を遂げていくのです。

 それでは、ここに書かれている賜物について見てみましょう。預言とは、神様からことばを預かることです。説教をすることは一つの預言の働きと言えるでしょう。奉仕とは仕えることです。先ほど、賜物の話がありましたが、賜物は互いに仕え合うために与えられています。私たちは、賜物を用いて神に仕える者でありたいと思います。私たちがそのようにして神に仕えるとき、それは、人に対して益をもたらします。ですから、私たちが与えられている賜物を用いるとき、神に仕え、そして、人にも仕えているのです。

 お一人お一人に神様は賜物を与えています。その賜物を喜んで神様にささげていきたいと思います。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、お金でも物でも分け与えることのできる人は分け与え、指導する人は指導し、慈善を行う人は慈善を行うのです。いろいろな賜物があり、人によって与えられている賜物が違います。与えられている賜物がたった一つだけということはないでしょう。複数与えられているのではないでしょうか。そして、これらの賜物を用いることは、信仰による自発的な行為です。誰かが強制的に行なわせることのできることではありません。

■9節~10節 パウロは、賜物と奉仕について語った後に、愛について語っているのはどうしてでしょうか。コリント人への手紙を見るとはっきりわかることですが、賜物にしても奉仕にしても、これらの分野は人間同士のトラブルが起きやすい分野だからです。どの賜物が一番優れているとかどの奉仕をする人が一番偉いとか、自分の方がその奉仕をするのにふさわしいとか、そのようなことで人々は言い争いやすいのです。賜物や奉仕について互いに意見を交わすことは必要なことです。しかし、それによってもしも分断が起こるとしたら、これほどばかげたことはありません。賜物も奉仕も互いに愛し仕え合うために用いられてはじめて価値あるものとなるのです。このことをしっかりと心に留めておきたいと思います。

 クリスチャンは主にあって兄弟姉妹です。兄弟姉妹には上下関係がありません。対等な関係の中で、神様に愛されている者としてお互いに大切に思い合うことが重要です。時として、どちらが正しいとか、どちらが優れているとか、賜物や奉仕に優劣を付けたがるのが昔も今も人間の常です。どう対応したらよいのか難しく感じることがあるかもしれません。しかし、このような時にこそ、互いに相手が自分よりまさっていると思うことが必要であり、そのように行動することが必要です。一方だけではありません。互いにです。互いにでなければこのみことばをとおして神の祝福は現されません。

■最後に、マタイ6:1~4を見たいと思います。

 今も昔も、アメリカや韓国には、何千何万という人々が集うメガチャーチがあります。ある牧師は豪邸に住み、自家用飛行機を所有していることもあります。彼らはテレビでも活躍し、支持者もたくさんいます。しかし、アメリカや韓国の教会はどこも大きいのかと思ったら、そうではないようです。小さな教会もたくさんあります。私は時々インターネットでメッセージを聞きますが、どちらかというと、比較的小さな教会の牧師のメッセージの方が心に響きます。巨万の富を儲け、豪邸に住む牧師たちは、その働きは大きいのでしょうけれども、ある意味、彼らはすでに彼らの働きの報いをこの地上で受け取ってしまっていると言えるでしょう。

 マタイ6:1~4では、施しについて語られていますが、奉仕についても同じではないでしょうか。人目につかない奉仕、無視されがちな奉仕、人から認められない奉仕、人の目から隠された奉仕、それらの奉仕はまだ報いを受け取っていません。

 奉仕には見栄えのする奉仕もあれば、見栄えのしない奉仕もあります。人目につく奉仕もあれば、人目につかない奉仕もあります。派手な奉仕もあれば、地味な奉仕もあります。皆さんはどちらの奉仕が好きでしょうか。私は断然見栄えのする奉仕、人目につく奉仕の方がいいです。あまり見栄えのしない、人に認められない、地味な奉仕はできるだけしたくはありません。けれども、実際のところ、教会は、見栄えのしない、地味な奉仕によってこそ支えられていると言っても過言ではありません。先ほどメガチャーチのお話をしましたが、あれだけ大きな教会では、人の目から隠された奉仕をしているたくさんの人々がいるはずです。ですから、人目につかない、地味な奉仕を私たちは軽んじてはならないのです。

■皆さんにも奉仕をするうえでいろいろなご苦労があるかと思います。当然それらのご苦労は「人の目から隠された奉仕」です。たとえこの地上でその報いを受けることがないとしても、必ず天においてその報いを受けるのですから、気落ちすることなく喜んでそのことを続けていただきたいと思います。神様に期待しましょう。

 お互いにお互いの賜物と奉仕を尊重し合いましょう。賜物と奉仕については、思いあがることなく、慎み深い考え方を持ってのぞみましょう。教会における働きは、知識や技術があっても信仰がともなわなければよい働きはできません。ゆえに、皆さん、日頃から神様との親しい関係をそれぞれの人生の中で築いていただきたいと思います。それでは、お祈りします。