関係を大切にされる主

テーマ「関係を大切にされる主」/中心聖書箇所:ヨハネによる福音書13:5-9

それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」

■みことばについて

 今日読んでいただいた聖書箇所は非常に有名な箇所で、「洗足」という名前が付けられているほどのところです。もっと読み進めていくなら、14節「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」となっていますが、今日はあえて前半だけを見ていきたいと思います。

 イエス様がペテロの足を洗ってあげようとして来られた時、ペテロは「決して私の足をお洗いにならないでください。」と言います。それに対してイエス様は「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と答えられています。シモン・ペテロは言います。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」洗足はこの場合比喩的な表現で、後に来る十字架と罪の赦しということを表しているのではないかと思いますが、そのことを通してイエス様との関係が生まれた、罪の洗い、清めを通して神様との親しい関係が生まれたということができるでしょう。ですからもし足を洗わなければわたしと何の関係もないと言われたのだと思います。しかし、人の子として来られた主イエスは足を自らの手をもって洗うということを通して罪の赦し以上の親しい関係を表されたのではないかと思います。

 キリスト教関係者の方からよく聞く話として、「キリスト教は宗教じゃない。キリストと共に歩むことなんだ。」ということがあります。「宗教じゃないから。」ということなのです。いろいろな方からこのことばを聞きました。たしかに宗教というと、何かの戒律や教えを守って、裁かれないように良い行いをし、遠くにおられる神様にお願い事をするようなそんなイメージを私は持ちます。もしもそんな感じだったら、教会に来ることはかなりしんどいことになってくるでしょう。しかしイエス様はそのようなことを求めてはおられませんでした。「人の子」としてこの地上に来られたイエス様はまさに人の間に住み、人と共に歩まれた方であります。そしてそれだけではなく、今、信じる者たちの内に住んでおられる神です。

■神様とどう付き合うか。

 私は若いころ小学校教員として13年働きました。その後、17年のブランクを経て、こちらで臨時採用の教員になりました。こちらでの振り出しは病院の中にある学級「院内学級」でした。この頃医学の発達が主な理由で、院内学級に通う子どもたちが激減しています。この学級も誰も通う子がいなくて2か月の間閉まった状態でした。そういう訳で、私の最初の生徒というか担任した児童はたったのひとりで、6年生の女子でした。6年生の女子って扱いが大変なのです。私は特に苦手で、どうやってこの子と付き合ってよいのかわからず、あっちもこの50歳を過ぎたおばさんとどのように付き合っていけばよいのか分からなかったようです。2,3か月の間、ぎこちない関係が続きました。でもうれしいことに、その後4年生の女の子が入ってきたのです。天真爛漫なとても素直な子で、私ともすぐに打ち解けました。そして6年生の子もどうやって新しい先生と付き合えばよいのかだんだん分かってきたようでした。

 私たちが神様と付き合うときも同じです。どうやって主と交わればよいのか、どのように祈ればよいのか、慣れてこないとわかりません。もちろんイエス様の仲介により、聖霊の導きによって主の御前に出ればよいのですが。だれかの付き合い方を参考にすればよいのです。

■詩篇の中に見る神とダビデとの関係

 旧約聖書の中に「詩篇」というところがあります。先週のメッセージも詩篇46篇から語られていました。よく読んでおられる方もあると思いますが、聖書を持ってちょうど真ん中を開くと出てくるところです。詩篇はいろいろな旧約の人物が歌った賛美や祈りを集めたもので、それゆえに旧約の別の箇所にも同じところが出て来ることがあります。詩篇のほとんどはダビデの書いたもので、ソロモン、モーセ、アサフ、そして先週の礼拝メッセージで読んだコラの子たちなど他の人たちのものもあります。

 もう10年以上になりますが、非常に行き詰っていた時期があり、母教会の牧師の勧めで詩篇を読み始めました。それまでも詩篇を読んではいましたが、他の箇所と同じような頻度でしか読んではいませんでした。詩篇を繰り返し繰り返し読んでいると、ダビデの思いが自分の思いになってくるのが分かりました。ダビデの祈りが自分の祈りになり、ダビデの賛美が自分の賛美になりました。だんだんダビデと同化していって、ダビデと共に主と交わるようになっていきました。神様と交わるときにダビデは私の道案内をしてくれるのです。みなさん、ダビデはどんな祈りをしているかご存知でしょうか。ときにはこんな祈りをしてもいいのかなーと驚くような祈りをしています。

 ダビデは主の前には実に素直で隠し事がなくなんでもさらけ出していますし、罪を指摘されたときには心から悔い改め、低くなって赦しを乞います。喜ぶときには人目を気にせずに主を思いっきりほめたたえます。

主の御前では本当に柔らかい人なのです。だからこそ主とここまで親しい関係を築くことができたのだと思うのです。ダビデの前のイスラエルの王、サウルと比べるときにダビデの素直さは一層引き立ってきます。

 ここでちょっと詩篇23篇を共に読んでみましょう。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主はわたしのたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたはわたしのために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23篇)「主はわたしの羊飼い。私は、乏しいことがありません。」このみことばを味わう時に、心の内から「アーメン!」(その通りです!。)が聞こえてきませんか。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」「アーメン!」 詩篇のみことばには慰めと励ましが満ちていますよね。詩篇のことばは私たちを主の御前に導いてくれます。詩篇をよく読まれる方はますます読んで味わっていただきたいと思います。23篇が大好きな方はそこだけで満足しないで、さらに読んでください。23篇に親しむだけではもったいないです。

 私は聖書の中にダビデがいてくれたことを本当に有難く思います。そして今日もダビデが私と一緒になって主との交わりをしてくれること、この幸いを感謝しています。

■自分の証

 先ほど臨時採用で働いたお話しをしましたが、院内学級で働いた次の次の年に、3年間働いた学校がありました。特別支援学級の担任で、担当教員が7人いました。そこの主任の先生は市内でも名が通っていて

 他の学校にも指導に行くようなバリバリの方だったのです。ある意味理想的な教育がなされている学級でした。でも、主任の先生は担任の私たちにも非常に厳しく、私は50を過ぎて毎日のように怒鳴られる日々を過ごすことになったのです。毎日のように怒鳴られると、だんだん自信がなくなってくるのです。家に帰って家族に愚痴を聞いてもらう日々でした。愚痴を聞いてもらうと気は晴れますが解決にはなりません。1週間が過ぎると土曜日にはいつも参っていました。もっと前からだったかどうか覚えていませんが、土曜日の午前中は毎週主と深く交わる時をもつようになりました。そうしないとやって行けなくなるのです。ダビデのように賛美と礼拝をもって主に近づきました。賛美や礼拝は教会だけでするものではありません。個人の場所でも賛美と礼拝をすることが大切です。歌詞を知らないから…とか、自分は歌が下手だから…とか言う必要は全くありません。主は賛美の心を見る方です。賛美の中で主を尋ね求めてください。私の場合、賛美や礼拝、また祈りはことばにならないことばでした。うめきだったでしょう。苦しいときの祈りはことばになりません。

 しかし主は本当に真実な方です。この交わりの中で私に触れてくださり、私は毎週苦しいところから解放されました。引き上げられたのです。その学校に3年間いられたのはまさに主のおかげでした。不思議なことに後になって振り返ると、この学校で働いていたときがこちらでの7年間の教師人生で一番生き生きと楽しく働けた時期でした。幸いにも今はその主任の方とは良い関係になりましたし、3年間ビシビシ鍛えられたために、その学校を出るときには、私はまあまあ特別支援学級での仕事ができるようになっていました。一時的には自信を失いましたが、結果的には自信を付けてその学校を出たのです。

■まとめとすすめ

 「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:6)

 私たちの気持ちは人に向かい易いという傾向があります。人は目に見えますし、出す答えは早いです。人間は便利です。でも、人間には答えがない場合もしばしばであることはみなさんよくご存じでしょう。一方、主との関わりを築いていくには時間がかかり、答えもなかなか分かりにくいところがあります。思ったようにみことばが与えられないこともあります。目に見えない主を尋ね求めるには忍耐も要ります。しかし、主はそれを私たちに求めておられ、主との深い交わりに入って行くことを喜ばれます。

 私が時々聞いているユーチューブのメッセージがあるのですが、おちがいつも決まっていて、「ですから、いつも主としっかりとつながっていきましょう。」と結論付けるものがあります。とても良いメッセージでいろいろなことがらについて聖書から話されるのですが、結論はこのひとつに尽きます。

 キリスト教は宗教ではなく、キリストと共に歩むことです。神様と親しい関係をもって歩むことです。朝の時間を主に捧げてデボーションをする方、また夜寝る前に聖書を読んで主と交わる方、また昼間の時間を賛美と祈りに当てる方、みなさんそれぞれのスタイルがあってよいと思います。でも必要なことは主と交わっていくということです。主は私たちとの親しい関係を築きたいと待っておられます。