イエスの弟子として歩もう!

2018年11月25日(日)主日礼拝

「イエスの弟子として歩もう!」ヨハネ15:7~8 佐々木俊一牧師

■前回は、「神様にギブアップ!」というタイトルで、イエス様の弟子(クリスチャン)というのは神様にギブアップした者たちであるというお話をしました。もしかすると、クリスチャンに対してマイナスのイメージになってしまったかもしれません。今日は前回のお話を否定するわけではありませんが、クリスチャンの別の側面についてお話をしたいと思います。

  今日のお話には二つの柱があります。一つは、クリスチャンが自分の願うものを神様に求めるならば、その願いはかなえられると言うことです。もう一つは、クリスチャンがイエス様の弟子となることによって、父なる神様が栄光をお受けになると言うことです。今日はこれらのことについてお話をしていきたいと思います。

■7節「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」

  このところを読んで嬉しくなりませんか。「何でもあなたがたがほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」と書かれてあります。ここに書かれてあることを信じますか。素晴らしい約束です。でも、自分の事となると、ちょっと自信がありません。この点について、私個人の経験からお話をさせてもらいたいと思います。

  私がまだ若いクリスチャンだった時のことを思い起こすと、祈っても答えられないことが多かったという印象を持ってしまうのです。もちろん、聞かれた祈りもありますが、それでも、やはり、あまり聞かれなかったという印象が残っているのです。たとえば、私は十代のころからアメリカという国にあこがれていました。アメリカの音楽も好きだし映画も好きだし、とにかくアメリカの物は何でもかっこいいと思いました。将来、アメリカに行ってみたいと思いました。クリスチャンになった後、私の内に一つの志が与えられました。アメリカに行って聖書の学びをしたいということです。それから、私は祈り、お金を貯め始めました。そして、アメリカ、テキサスの聖書学校に編入する機会を得ました。1年間、ワークスカラーシップを受けることができるようになりました。午前8時半から12時まで授業を受けて、午後1時から5時まで4時間キャンパスで働きました。夕食後は図書館で10時まで勉強しました。土日は休みで、日曜日は教会へ行きました。授業料と食費は1日4時間の労働で支払いました。それプラス、小遣いとして月25ドルもらいました。とても感謝なことでした。毎日楽しく過ごしていました。ところが、2カ月過ぎた10月末に、インフルエンザに感染してしまいました。自分では気づきませんでしたが、ストレスや無理があったのだと思います。体調を崩してしまいました。さらに、右手親指がトリガーフィンガー(ばね指)になってしまいました。3カ月間病院に通い続けました。働き続けることは無理だと判断し、ワークスカラーシップを辞退しました。持てるお金を授業料と食費に当てました。日本の学校で取った単位がダラスの学校でも有効だったので、1年あれば卒業に必要な単位は取ることができました。けれども、私の計画ではその次の神学校に進むことでした。そのためには、私の銀行口座にもっとたくさんのお金が必要でした。精神的に弱っていたので早く日本に帰りたいという気持ちもありました。私はあきらめて、結局1年で日本に帰ることになりました。アメリカへ行って学びをすると言うことについては祈りが聞かれました。けれども、私はもっと長くアメリカにいて学びをしたかったのです。でも、その願いはかないませんでした。これについて私は今このように思っています。これが私に必要な訓練だったと言うことです。この体験をとおして、私自身が多少なりとも変えられたということは神様の御心であったと思います。

■若い頃は祈ってもあまり答えられないという印象を持っている、と先ほど言いました。しかし、結婚後は私の祈りに対する印象は変わりました。祈りは聞かれると思うようになりました。何が違うのでしょうか。以前の私は、自分のために祈ることが多かったように思うのです。結婚後は、妻のために祈り、子供のために祈り、家族のために祈ることが多くなりました。牧師として働き始めると、教会のために祈り、兄弟姉妹のために祈り、他の人々のために祈ることが多くなりました。そして、私は祈りに手ごたえを感じるようになりました。

  「何でもあなたがたがほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」と書かれています。そして、その前に、何と書かれているでしょうか。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」と書かれています。私たちがイエス様とイエス様のことばにとどまるのかどうかは、ある程度の時間が経過してみなければわからないことです。また、イエス様のことばが私たちにとどまっているかどうかは、私たちが人としてクリスチャンとして成長しているとか、信仰が強められているとかの変化が多少なりともなければわからないことです。 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」このところを英語で見ると、「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたのためにそれはなされます。」となっていると思います。「あなたのためにそれはなされる」とあるのですから、場合によっては、私が願った通りになることよりも、私の過去も現在も未来もすべてをご存知である神様が、私にとって一番良い形で祈りに応えてくれるということではないでしょうか。何を祈るのかは私たちの自由ですが、神様が一番良い形で私たちのために結果を用意してくださっているのです。

神様の約束のことばは、神様とより深く関わりを持ち、クリスチャンとして成長していく中で体験することのできるものであると私は思います。神様の約束のことばの体験は、方法論ではなくて、神様との心の通った関わりがあって初めて持つことができるのだと思います。

■8節「あなたがたが多くの実を結び、私の弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」

私たちが多くの実を結ぶことによって、父なる神様は栄光をお受けになります。また、私たちがイエス様の弟子になることによって、父なる神様は栄光をお受けになります。

  神様が栄光をお受けになるとは、どういうことでしょうか。それは、神様がすばらしいとほめたたえられることです。私たちが多くの実を結ぶ時、それは神様の素晴らしさが現される時であり、神様がそれによってほめたたえられる時なのです。また、私たちがイエス様の弟子として成長していく時、それは神様の素晴らしさが現される時であり、神様がそれによってほめたたえられる時なのです。私たちが多くの実を結ぶならば、そして、私たちがイエス様の弟子として成長するならば、それが神様の栄光なのです。神様が私たちの願いに応えてくださるのは、私たちが多くの実を結び、イエスの弟子として成長していくためです。

■次に、神様がほめたたえられるために、私たちはどのように実を結ぶことができるでしょうか。神様がほめたたえられるために、私たちはどのようなイエス様の弟子になったらよいのでしょうか。

  クリスチャンの世界において、私たちは多くのサクセスストーリーを聞いてきました。大きな教会に成長したという話、事業が成功し大きな会社を作り上げたという話、有名な人になったという話、大きな働きをする人になったという話、その他にいろいろな癒しや奇跡の話など、世界には数限りないサクセスストーリーがあります。どれも確かに神様のなされたことであったのでしょう。そして、それによって神様は栄光をお受けになったのだと思います。しかし、神様はサクセスストーリーに働かれるように、そうではないアンサクセスストーリーにも働かれるのです。どのように働かれるのでしょうか。それは、アンサクセスストーリーの中でイエス様の弟子としての訓練を受け、御霊の実を結ぶのです。御霊の実とは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制などです。これらの実はサクセスストーリーであってもアンサクセスストーリーであってもどちらであっても神様が働かれてなされることです。そして、それによって神様は栄光をお受けになるのです。

■来週からアドベントに入ります。私たちはおよそ2000年前に私たちの救い主としてお生まれになった神の御子イエス・キリストの誕生をお祝いするために準備をしています。イエス様のこの地上における父と母、ヨセフとマリヤ、彼らの人生はとても困難な人生でした。人間的にはとてもサクセスストーリーを生きたとは言えない人々でした。何かに成功したわけでもなく、金持ちになったわけでもありません。しかし、彼らのその生き方によって、神様は大いに栄光をお受けになりました。また、バプテスマのヨハネの父と母、ザカリヤとエリサベツも彼らの生き方によって神様は栄光をお受けになりました。また、あの貧しかった羊飼いたちによって神様は栄光をお受けになりました。そして、何よりも誰よりも、救い主なるイエス・キリストの十字架によって、神様は栄光をお受けになりました。

  私たちも、私たちの人生によって神様が栄光をお受けになるように努めていきたいと思います。それは、サクセスストーリーであろうとアンサクセスストーリーであろうと、私たちが実を結ぶイエスの弟子として歩んで行くことです。神様の素晴らしさを、自らの人生をもって伝えるイエス様の弟子として歩んで行きましょう。それではお祈りします。