なぜ、十字架なのか~もう一つの十字架の意味

2018年5月27日主日礼拝「なぜ、十字架なのか~もう一つの十字架の意味」

創世記15:6~12、17~18 佐々木俊一牧師

■今日の聖書箇所を見てみなさんはどのような印象を持たれたでしょうか。話に出てくるのは、神様とアブラハムです。その他には、真二つにされた三歳の雌牛と三歳の雌やぎと三歳の雄羊、そして、真二つにされなかった山鳩です。猛禽もいました。はげわしでしょうか。アブラハムは神様が言われたように、これら全部を持ってきてそれらを真二つに切り裂いて、その半分を互いに向かい合わせて、間隔をおいて並べました。いったいこれは何を意味しているのでしょうか。 

  そして、日が沈みかけた頃になると、急に眠気がアブラハムを襲いました。その眠気の中、アブラハムはひどい恐怖心に襲われました。先ほどは読みませんでしたが、その恐怖心の中でアブラハムは神様からあることを語られました。創世記15:13~16に書かれてあることです。それは、アブラハムの子孫が経験しなければならないエジプトでの奴隷生活と、しかし、それから400年後には、エジプトに来てから4代目の子孫たちが再び約束の地であるカナン(パレスチナ)に戻って来るということです。

  日が沈み真っ暗闇になりました。その時、アブラハムが見たものはこんな映像だったかもしれません。煙のたつかまど(ポット)と燃えるたいまつが、あの切り裂かれた動物たちの間を通り過ぎて行きました。煙のたつかまど(ポット)と燃えるたいまつは何を表しているのでしょうか。先ほど、アブラハムは神様から何を語られましたか。子孫のエジプトでの奴隷生活と約束の地への帰還についてです。ここで、約束の地に至るまでの荒野の40年間の事を思い出してください。神様はイスラエルの民をどのように守り導かれたでしょうか。出エジプト記13:21~22にその答えがあります。雲の柱と火の柱です。それは何を表しているのでしょうか。二つの画像を見てもらいましたが、比べると、大きさは違います。しかし、とても似ていると思いませんか。火と煙(雲)です。出エジプト記13:21~22を見るとそれらが何を表しているのかがわかります。「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。」雲の柱と火の柱は、共におられる神様を表しています。また、その神様が先頭に立って、イスラエルの民を守り、そして、導いておられたのだと言うことです。

■話を前に戻したいと思います。先ほど言いましたが、アブラハムは持ってきた動物を真二つに切り裂いて、その半分を互いに向かい合わせて、間を開けて置きました。これは、何を表しているのでしょうか。

  創世記15:18に、「その日、主はアブラハムと契約を結んで仰せられた」とあります。ですから、これは契約の儀式だと思われます。しかも、それはアブラハム自身が、これは契約をしているのだということがはっきりとわかる形をとっていたはずです。なぜならば、創世記15:8を見ると、神様が自分に約束したことが本当かどうかを知りたいとアブラハムは神様に訴えました。それに対する神様の答えが、あの切り裂かれた動物たちです。アブラハムは自分が持ってきた動物を真二つに切り裂いて、その半分を互いに向かい合わせて、間を開けて置きました。そこへ、煙のたつかまど(ポット)と燃えるたいまつがやって来て、切り裂かれた動物たちの間を通り過ぎて行ったのです。それを見た時、アブラハムは、神と自分との間の約束が本当であることを理解したはずです。

  これは、契約の儀式の一つの形です。以前にもお話ししましたが、神の契約(血の契約)と言われるものには、7つから9つの儀式があります。それらは、古くから世界の多くの地域で観察されてきたことです。そして、それらは聖書の中にも見られることなのです。今日の聖書箇所の他に、たとえば、創世記17:5・10・15(名前の交換)、17:10~14(割礼、傷跡をつける)、21:32・33(木を植える)、Ⅰサムエル18:3・4(上着とベルトの交換)、新約聖書ではマタイ26:26(食事を共にし祝う・主の晩餐)などです。これらはみな契約のための儀式であり、契約を覚えるためのしるしです。

■私は32年前にアメリカ・テキサスのダラスにあるCFNIという神学校で1年間だけ学ぶ機会がありました。その時に、「神の契約」または、「血の契約」という科目があって、非常に興味深い内容でした。日本ではまだ聞いたことのない内容でしたので、一生懸命勉強しました。私はその授業を受けて、長年の疑問が解けたのです。その疑問とは、「なぜ、十字架なのか」ということです。その答えを見出すことができた時、ジグソーパズルの最後のワンピ-スが見つかったような気がしました。これは私だけの個人的な体験かもしれませんが、そのワンピースが見つかったことで、私は自分の信仰が強められたと感じました。当時の写真があるので、少し、それを見ながらお話をしたいと思います。

■彼の名前は、Dr. Duane Weisと言います。CFNIの教授でした。彼はユダヤ人です。彼の授業では課題が毎回出ました。本もいろいろ読まされました。その中に、「The Blood Covenant(血の契約)」と言うのがありました。著者は、H. Clay.Trumbullと言います。今から130年前に出版された本です。彼は、中近東をリサーチのために旅をしたことがあります。その本によると、アフリカでも、アジアでも、ヨーロッパでも、アメリカでも、世界の至る所で、契約や約束事の時には、血が用いられたと書かれています。たとえば、アフリカの探検家として知られているリビングストンやヘンリー・スタンレーの報告によると、ジャングルで人に出会う時には、右手を上げるのだそうです。なぜ右手を上げるのかというと、右の手のひらには、契約を結んだ時の痕跡が残っているからです。傷跡が多ければ多いほど仲間が多いということになります。そういう人には手を出しません。なぜなら、後で仕返しされるからです。さらに、「握手」もその名残です。昔は、契約の印として手のひらに傷をつけてから握手することにより、血が混じることによって一つになることを意味しました。

  「血」に対する考え方は万国共通するものがあるようです。レビ記17:11に「肉の命は血の中にある。」と書かれてあるように、血というのは、人類の歴史の中でどの人種・民族にとっても特別なものであったようです。

■先ほどスクリーンに映したH. Clay.Trumbullの本に書かれてあることですが、木を植えるということが契約の儀式に含まれています。創世記21:32~33にそれに似たことが記されています。木は長寿ですから、長年に渡って残る契約の印として、木を植えるのです。そして、その木に動物の血を注ぎます。この儀式は契約の際の最後のステップであると書かれている本もあります。

  私は何とかしてこの事を確かめたいと思いました。私が受けた授業で、中東に住むベドウィン族の中にはこれらの習慣がまだ残っていると聞きました。自分の目で確かめたいと思いましたが、それはできませんでした。しかし、私がイスラエルに行った時に、ユダヤ人のガイドに聞いてみました。すると、そういった種類の契約を見たことはないけれども、聞いたことはあるという答えでした。実際に、イスラエルでは、結婚したり子どもが生まれたりしたときには、その記念として木を植える習慣があるそうです。また、エルサレムにあるホロコースト記念館、ヤド・ヴァシェムには、ユダヤ人を救った人々の業績を記念するために木が植えられています。そこには、多くのユダヤ人にビザを発行した日本人、杉浦千畝を記念する木もあります。

■私たちの十字架についての認識は、ローマ帝国時代の極刑であり、最も残酷な処刑の方法であるということです。犯罪者の中でも極悪人が十字架刑で処刑されました。旧約聖書に、「木にかけられた者は神に呪われた者である」と書かれています。十字架は木です。イエス・キリストはすべての罪を負って呪われた者として最も残酷な十字架の刑によって処罰されたのです。それにより、私たちの罪は赦されました。

  先ほども言いましたが、イエス・キリストの「十字架」が、単に「木」となっているところがあります。(Ⅰペテロ2:24、ガラテヤ3:13~14)イエス・キリストの十字架は神とアブラハムの約束の記念です。ここで、もう一つの十字架についての認識をお話ししたいと思います。十字架という木の上に小羊なる主イエス・キリストの血潮が注がれました。これは、ある意味、神とアブラハムとの間の契約の最後のステップと言ってよいでしょう。「なぜ、十字架なのか。」それは、神様とアブラハムとの間の契約の記念なのです。アブラハムが真二つに切り裂かれた動物を見て、神様の約束の確かさを知ったように、私たちは、神の御子イエス・キリストが十字架という木の上でご自身の血潮を流されるのを知らされて、神様の約束の確かなことを覚えるのです。

■話を一番最初に戻しましょう。アブラハムは自分が持ってきた動物を真二つに切り裂いて、その半分を互いに向かい合わせて、間を開けて置きました。人と人との間でこの種の契約を結ぶ場合、このようなことをします。切り裂かれた動物の間に契約を結ぶ二人は背中合わせで起立します。二人は逆方向に八の字になるように切り裂かれた動物の周囲をぐるっと回ります。そして、また同じ場所に戻ります。二人は顔と顔とを合わせてそこに立ちます。そして、互いに約束するのです。「もしも、自分が約束を破ったならば、神様が私をこの切り裂かれた動物のようにしますように。」と。

  アブラハムは動物を切り裂いた後、その周りを歩いたわけではありませんでした。アブラハムは眠気に襲われて、何もすることができなかったのです。切り裂かれた動物の間を通り過ぎて行ったのは、煙のたつかまど(ポット)と燃えるたいまつでした。煙のたつかまどと燃えるたいまつは何を表しているのでしょうか。先ほど少しだけ触れましたが、それらは神様を表しています。神様が契約のすべてを進めてくださったのです。それは、神であり人であるイエス・キリスト、神様の側の代表であり、人の側の代表であるイエス・キリストがこの契約を結び、そして、実行されたのです。神と人との間に立つ仲介者と呼ばれる所以がここにあります。神様は完全に約束を守られるお方です。けれども、人はそうではありません。人は神様との約束を守れなかったのです。守れない者はどうなりますか。切り裂かれた動物のように殺されなければなりませんでした。それを神であり人であるお方、神と人との間に立つ仲介者なるキリスト・イエスがすべてをその身に負ってくださったのです。

■「なぜ、十字架なのか。」イエス・キリストの十字架の出来事は、2000年前に急に現れた出来事ではありません。罪を犯してしまった人類の歴史の中で、神とアブラハムが契約を結んだ出来事から始まって、人類の救いの計画は進んで行きました。そして、契約の完結に至った出来事が十字架の出来事なのです。「テテレスタイ」それは、イエス様の十字架上での最期のことばです。これは法律用語で、「支払い済み、もう充分、完了した」と言う意味です。すべての罪の償いは、神の御子イエス・キリストの十字架の死によって償われました。神様の側がすることはすべて終わったのです。あとは、人の側がすることです。イエス・キリストの救いを知らされたお一人お一人が、この約束の中に入るかどうかを決めることなのです。

  イエス・キリストの十字架は、神様の約束が確かなことの記念であり、しるしです。そして、信じる者が与えられる聖霊は、イエス・キリストの流された血潮のしるしです。イエス・キリスト以外には救いの道は与えられていません。神様にとってこれほどの歩みよりはなく、へりくだりはありません。私たち人間はその神様のみ思いを知るべきです。そして、私たちは、イエス・キリストの救いがすべての人々に及び、すべての人々が真の神を神としてあがめ、平和の関係を回復することができるように祈り、福音を宣べ伝えて行きたいと思います。それではお祈りします。