旅人のための秘訣

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       マルコによる福音書  6章6節〜13節

 

                                        旅人のための秘訣

 

 皆さんお早うございます。オーストラリアへの24日間に渡る旅をした後皆さんとまたご一緒出来る事を嬉しく思います。北星学園大学の学生達と一緒にシドニー、ブリスベンで過ごした時間は、彼らが高いコミュニケーションの技術を身につけ、異なる文化を経験する過程を目の当たりにすることができるものでした。不在の間、教会の御用をして下さった方々、ありがとう御座いました。また、北海道の冬を逃れて私にとっても少し新しい文化を学べたという、リフレッシュの機会が与えられたことにも感謝致します。今や私はれっきとした(正真正銘の)ベジマイトイーター(食べる人)です。ベジマイトに我慢できない方々、心配しないで下さいね。今日のお昼には持ってきていませんから!

 

  オープンドアの皆さんに私が語る時はいつでも、旅をする方々にお話しをしているように思っています。旅をする方々から私が学んでいる多くの事柄の内の一つは、旅そのものをもっと便利に、面白くするアイディアなんです。ジェームズさんがオーストラリアの生活について沢山教えてくれました。それは、私が世界を知る機会(世界への窓)を楽しんでいるということであって、旅をする方々が与えてくれているものなのです。

 

  私達はよく、人生は旅であると言います。同じ所に閉じ込められて、変わることのない退屈な毎日を過ごしていると感じている人達でさえ、実際には時間と空間を通って動いているのです。

 人生の旅を最大限利用する(無駄にしない)ために、何が私達を助けてくれるのでしょう。

 私達が人生の旅の終わりに振り返った時に、良い旅(旅をする価値があった)であったと思い、満足する為には、どのようにして人生の目的地に向かって動いて行ったら、一番良いのでしょう? 今日のメッセージでは、これらの疑問に対する聖書の神様の答えを見ていきます。

 

 まず第一に、あなたは何処へ向かっているのかを知ることです。私は方向感覚に自信がありません。いきたい所を見つける前に迷ったことが多くあります。これは‘迷い’の一つの形ではありますが、そのことを言っているのではありません。私は、迷ってしまうことに対して、次第に平安のようなものを感じ始めてきています。何故ならば、時々、最も興味深いと思える場所を見つけたり、私が迷っている時に正しい道を教えてくれる(日本語の練習を兼ねて)親切な人々に出会うことができるからです。しかし、深いレベルにおける‘迷い’があります。それは、そもそも何処に行ったら良いのかはっきりとした意識を持っていないということです。もし、私が、飛行機のファーストクラスのチケットを買って乗り、頭の上にあるボタンを押し、キャビンアテンダントを呼んで、

  「欲しいものがあったらいつでも呼んでくださいと言ってくれてありがとう。実は、ずっとパリ

     を見てみたいと考えていたんだよ。もちろん、今我々は東京に向かっていることは知っている

     んだけれど、でもね、パイロットに飛行機をフランスに向かわせるようにお願いして貰えない

     だろうか?」

と言ったとしたらどうなるでしょう? 

  もちろん、知っての通り、そんなにうまいこと成功する訳はありません。そうですよね? 

 

   私達の霊的な生活においても、明確な目的地が必要なのです。キリストはよく旅をされていました。6節では ‘イエスは村々を回って教えておられた。’とあります。そしてイエス様はご自身の運命について明白な意識を持たれています。ヨハネによる福音書13章3節では、‘イエスは、ご自身が神の御許から来られ、神の御許に帰られると知っておられた。’とあります。この知識によってイエス様は、父なる神様によって権威を与えられたまま生活することができ、また、権威を

 

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損なうことなく他の人々に仕えることができる自由を得ているのです(これは、イエス様が仕える者として、弟子達の足を洗ったことに表れています。)。

  私達、キリストに従う者も又、私達の人生において基本的に同じ理解を持っています。それは

私達を創造した神様からの贈物であり、神様の家で神様と共に永遠に栄光の生活するため、その準備をして下さっている神様への贈物でもあるのです。

 

 この教えを基本として、キリスト教信仰には、霊的な訓練の一つの形として巡礼の旅に出るという長い伝統があります。人々はグループを作って、一つの有名な教会からほかの教会へ、長距離を徒歩で何日も、何週間も、時にはそれよりも長い時間かかって旅をします。仏教徒はお寺からお寺へと旅をし、イスラム教徒は生涯のうち可能であれば一回はメッカへ旅をします。最初のアメリカ人の多くはピルグリムと呼ばれ、感謝祭の仮装で見るように、背が高く、黒い帽子と大きな黒いバックルのベルトを付け黒い服を着ていたのでした。

  彼らはヨーロッパを出て北アメリカへと旅をしましたが、彼らは本当の家がその所にないことを理解していました。彼らは天国へ行く途中だと信じていました。キリストに従う者として最も重要な意識は、この世界は私達の家ではないということです。この世界は、私達の命がいつの日か終わるまで過ごす一時の(仮の)場所であり、神様は神様と共に永遠にいることのできる天の御国に私達を連れて行って下さるのです。

 

  わたしにはこのことを思い出させてくれたのは、ヒルソングチャーチ(Hillsong Church)というオーストラリアで有名な大きな教会を訪れた時でした(私達が教会で聴く現代的なワーシップソング『讃美』の多くは、とりわけこの教会が生み出したものです。)この教会の礼拝エリアに入ると、入り口ドアの上に「お帰りなさい(Welcome Home)という大きな文字が掲げてあります。私達が今、行なっているような同一の共同体(Community Worship)による礼拝は、特別な方法で神様と触れ合うひと時なのです。そしてそれは、そもそも私達が今、この世界にいる理由、すなわち、私達を創り、この世における人生を通して、喜びと平安に満たされて永遠に神様と生きる備えをして下さっている神様に讃美を捧げることです。私達は家に帰る途中なのです。私達はまだそこに到達していませんが、私達の何処に向かっているかを知っています。礼拝は、それを現実のものとして見る(知る)訓練を通して、内面的な力を得る為のものです。

 

  巡礼者達は、旅において、先へ進むための努力を続け、日々の終わりに休憩することを通して仕事と休養のリズムを学びます。彼らは、訪れるどんな場所においても、また、出会うそれぞれの人々から、学ぶ価値がある何かを発見し、そして旅が彼らを変えてくれると知るのです。学ぶ、成長する、相応しくなるという経験は徐々に彼らを変えていきます。旅の始めと終わりとでは、彼らは、いくつかの重要な点で、違う人です。これらは、巡礼者達が学ぶと言っている教訓の一つです。

  皆さん、私もですが、私達の霊的な生活において前に進み、進歩しているでしょうか? 私達は何を見つけていますか?キリストに従うことで、キリストに導かれ、形作られ、再形成されている私達は、人間としてどのように成長していますか?神様と共に神様のために、神様に向かって歩くという明確な目標を持つことは、私達が、これらの疑問に’対する最上の答えを見つける助けになります。

  熱気球で遠くの国へ旅をしようとした男の話です。彼は何週間も勉強し、お金を貯め、旅の準備をしました。しかし、実際に飛び始めたところ、強い風に吹き飛ばされてコースから外れてしまい、そして全く違う土地に着陸せざるを得なかったのです。しかし、その地で彼は初めて会う人々に接し、コミュニケーションを学び、人々の食べ物を喜んで食べ、そして、その土地に来てしまったことを、努力せず(自然と)段々と喜ぶようになりました。

  神様が人々を導く方法は、しばしばこのようなものです。それは、神様が私達の通り道に予期しない変更を加え、それを私達が受け入れることを学ぶということです。

 

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  私達の最上の目的が神様の導きに従うことだと心から理解するならば、私達は、驚きや中断といったものを歓迎すること、それらを通して神様のより良い導きを見つけることを学べるでしょう。 

  私は、オーストラリアに行くことで、これと同じような経験をしたと思っています。当初の計画では、引率の役目は他の先生でした。しかし、大学側は二人の先生を引率させる決定をしたのです。私といえば、行くのは喜ばしいこととしながらも、24日間という時間を作れるとは思えなかったので何週間もの間、抵抗し、その間、神様の導きを求めました。

 結局、他の二人の先生が、私のスケジュールに空き時間を作るため、私の担当する二つの授業を教えることを引き受けてくれたのです。その結果、私は行くことができ、私自身が大いに学ぶことができましたし、同様に、様々な方面で学生やその他の人達を支援することができて、本当に祝福されたのです。

 もう一度言いますが、物事は私が計画した通りではなく、神様が導いて下さったようになりました、その事を私は神様に感謝できたのです。信仰は、劇的なことだけではなく、このように実に現実的な状況においても、私達を助けてくれるのです。

 

 秘訣の二つ目。身軽(軽装で)に旅をすることです。

 イエス様は弟子達に言っています(8節、9節)。

   “パンも、袋も、お金、予備のサンダル、着替えを持たず、ただ「杖」だけを持っていきなさい。” と。イエス様がこのように言ったのは、単に、弟子達に困難を与えて、彼らを強く、たくましくするためではありません。かえって、彼らが、重くなっていく一方の荷物を抱えて、しまいには最良の働きをする妨げになってしまうことのないよう、自由に旅をさせるためでした。キリストのご命令は、私達は財産を持ってはいけないというものではありません。また、私達の持ち物が少なければ、それだけ神様が私達に満足されるといったものでもありません。しかしこれは、弟子達が特別な訓練をすべき時期に、弟子達が、彼らの必要を満たすため、直接的、肉体的にイエス様に頼ることを経験させるためでした。イエス様は、人々がいとも容易く、安全、平和、喜び、満足、その他のことを得るため、物質的なものに頼るという誘惑に陥るか知っておられたからです。イエス様は、それらのことが、神様との関係の代わりとして、いかに貧弱なものかを知っておられました。また、イエス様は、私達が、いかに早く、物を所有している状態から、物に所有されている状態に陥ってしまうか知っておられたのです。それで、イエス様は、弟子達に実際に “今回は少ない方が良い”と言われたのです。

 

  カプセルホテルで部屋を取っていると想像して見てください。皆さんは、その部屋が少し地味すぎると思いました。そこで、高価な油絵を買って壁の一つに掛けました。そして、次に高性能で高価なワイドスクリーンの薄型テレビを買って壁に掛けました。でも、まだ充分ではないと思い、天井に小さめのシャンデリアを吊るし、そして何年も昼夜分けなく働き、世界最高の性能を持つ音響システムと布団(マッサージ機能付き)、手縫いの絹のパジャマを買いました。

 皆さんが、もし全てこのようにしたとして、誠実な友人がいたら、きっとこう言うでしょう。

   「どうしてわざわざこんな面倒なことをするんだい?ここは結局、カプセルホテルに過ぎない

      のに。それにそもそも、ここは自分のものじゃないだろう。いずれ出て行かなければならな

      いのに、一体全体、こんなにどうするの? こんなことする必要あるの? 一体何をしたい

   の?」と。

 イエス様が、信じて従う者に軽装で旅をするようにと言う時、イエス様は、私達の人生に渡って、私達がどれだけ多くの物を集めようとも、結局のところ全て失ってしまうということを思い起こさせて下さっているのです。

  勿論、私達は皆全て死んでいく身であり、また、その時期は私達が考えているより早いかもしれません。物質的なもののほとんどができることは、限られた時間のための限られた方法で私達を助けるだけです。 それでも物を所有するのは悪いことではありませんが、私達が、その物の本来

 

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の価値以上にそれらを愛するようになることで、それらはいとも簡単に私達を害するものに変わってしまうのです。神様の約束を宝とする方が賢いのです。

“ 私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たして下さいます。”(ピリピ4章19節)

 

  旅行者への最後の秘訣は、決してひとり旅ではないということを忘れない(覚えておく)ことです。キリストは御自身を信じる者に、自分だけで仕えることを求められません。何よりもまず、キリスト御自身が私達といつも共におられます。キリストは、マタイの福音書28章20節後段で、そのように約束し、これを守っておられます。「私は世の終わりまで、あなた方と共にいる。」

  最も重要な観点として、私達の人生において私達がキリストを受け入れたならば、私達はもはや一人とはなり得ないのです。この真実には、多くの人々を落胆へと、またもっと悪い事へと追いやる孤独からの大きな自由(解放)があります。

 

    また神様は私達を、神様の存在が必要になるだけではなく、それと同様に他の人の存在も必要になる存在として設計(デザイン)されました。それで、(7節)イエス様は弟子達を二人づつ人々に仕えるために御自身の名前によって送り出したのです。それは、彼らに大きな安心感を与えたり、落ち込んだ時に勇気づけるためだけではなく、お互いに責任を持ちあう手段を与えたことになったのです。それによって、弟子達は、キリストが歩くように望まれる道に留まることをお互いに助け合い、それに外れそうになった時には、お互いに警告しあうことができるのです。これはキリストが私達にも求めておられることでもあります。私達はどのようにして、このことを行なっていますか? 私達は共に働き、お互いを高めあっていますか? そして、私達ができうる限り最も良い方法で、この道に留まるため、お互いに励ましあっていますか? 神様に対してです。これが最も大事です。

 

 私達は、自分達の教えの中で、そのように行動していますか?

  弟子達が送り出された大事な理由の一つは、イエス様のメッセージを告げ知らせるためでした。 

  それは何でしたか? 彼らは“神の御国” (ルカ9章2節)について説教することです。私達には、色々なスタイルやアプローチで話をする方々が多くいます。しかしその語られる全てにおいて、私達は“キリストのメッセージ”を語らなければなりません。そしてそれは、神様の御国と人の生活に関する神様のルールに、はっきりと焦点を置くべきものです。このテーマには大量の内部がありますが、キリストがされたように私達も焦点を絞っていきましょう。

 

  弟子達が送り出されたもう一つの重要な理由は、健康を回復させるといったような実生活上の助けのためでした。神様の愛の言葉は、神様の愛を示す行動と共に、相伴って(並行して)おり、イエス様は御自身の活動でこのバランスの取れた方法の模範を示されました。マルコ1章39節で、“イエスはガリラヤ全土を巡り、ユダヤの会堂で教え、悪霊を追い出された。”とあります。

 私達も、神様の言葉に焦点を当てるだけではなく、出かけていって、神様の力によって(力を頂いて、神様の力の支配によって)人々に仕えることで、御言葉を実現できるような人生をおくりましょう。

  私達は御言葉を受け取ることができるのですから、私達の成長の糧とし、他の人々に告げ知らせましょう。しかし、私達が本当に神様の言葉を受け取っているなら、御言葉は、神様のお名前による奉仕の行動へと私達を導いて下さいます。多くの教会は、御言葉を公にすることに焦点を当てているか、社会奉仕に焦点を当てているかのどちらかです。実際、キリストは、従う者達に、どちらもするように教えています。ですから私達は、霊的に成長する、御言葉を告げ知らせる、共に働いていくことを決心しましょう。それは結果として神様の栄光のためになり、私達の住む街やその周りで人々への善行を行うことになるのです。

 

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旅行者と真の旅人の違いとは何でしょう?ある人はこう言います「旅行者はいつか自分の家に帰ります」と。言い換えれば、真の旅人は常に旅をし、いつも発見し、学び、また、何者かになろうとする、これらのことの過程にあると言えます。クリスチャンの信仰の旅においても、似通ったことがあります。神様は、私達に、居心地の良い安楽な家を出て、私達の古い、罪深い自分を取り除き、人生を新しくする信仰の旅で神の御子イエス様に従うことを呼びかけておられます。私達は、仕事、遊び、休憩、そのほかの人生の全ての部分においてイエス様と共に歩むのです。イエス様は、ご自分と歩むことができるように必要なことを与えてくださり、これを難しくすること、スローダウン(減速)させることから自由にして下さいます。そして、イエス様は、あらゆる面において私達と共に歩んでくれるパートナー(仲間、同士)を与えて下さいます。そのことのため、今、感謝と賛美を携えてイエス様の許へ行き、メッセージの時から短い決心のための祈りの時に移っていきましょう。

 

  全ての時と全ての場所の主である神様、今日、私達は再び、あなたが、私達の信仰の旅の共として備えて下さった仲間(パートナー)と一緒に、あなたの力のみにただ信頼して、あなたが私達に示された方向へ歩みなさいという、あなたの呼びかけを聞きました。

  今日、今週の全ての日、そしていつでも、信仰によって、また、あなたの一人子イエス様の弟子達のように、人生の冒険において発見をしながら歩く経験を、もっと、もっとすることができますよう助けてください。キリストのお名前によって祈ります。アーメン