ヨナの子シモン

1                      

 

        マタイによる福音書  16章13節〜20節

 

                                        ヨナの子シモン

 

 昨年のイースター以来、英語礼拝のメッセージは、旧約聖書の中で、その生涯がキリストを暗示(キリストのタイプ・型・雛形)している登場人物の姿を通して、イエス様を見ていくというテーマで語ってきました。それは、そのような人物がやがて来られる救世主がどのようなお方か、前もって私達に教えてくれるからです。このテーマで9回のメッセージを語ってきましたが、今日は、これとは違うテーマに移ってメッセージをしたいと思います。

  しかし、最初に断っておきたいのですが、聖書には本当に多くのキリストへの暗示があるのです。 これまでアダムやモーセといったよく知られている人物について学んできました。しかし神様は、この世に来られるキリストについて、様々な目立たない人々を通して。またそのほかの様態を通して語られているのです。

   例えば、出エジプト記で神様が、神様に従ってきた人々が砂漠で喉の渇きで死に瀕した時、岩から湧水を生じさせて与えたという箇所では、新約聖書(コリント第1の手紙10章4節)で「その岩とはキリストです。」とあるのです。神殿も違った形でのキリストの暗示の例です。聖書の全体を通して神様は神殿を“神様の家” すなわち、神様が特別な方法でおられる場所として選んでいます。

  キリストの時代では、ヨハネの福音書2章18〜21節に、

  “ ユダヤ人達はイエスに尋ねて言った。「あなたがこのようなことをする権威を証明できます

    か?  そのためにどの様な奇跡をしるしとして見せてくれますか?」イエスは答えて言われた。

  「この神殿を打ち壊しなさい。私はこれを3日の内に建てあげよう。」ユダヤ人達は「この神殿

   を建てるのに46年かかった。それを3日で建てあげるというのか。」と答えた。しかし、イエ

   スが言われたのは御自身の身体のことであった。”

 

 聖書の後半部分(コリント第1の手紙6章19節)では“あなた方の身体は聖霊の神殿なのを知らないのですか? 聖霊はあなた方の中におられます。” とあります。

 

  もう一度言いますが、もし皆さんがキリストを知りたいと思われるなら、キリストを見つけるため神様の言葉を隅から隅まで探る必要があります。また、皆さんが神様に教えて下さるようお願いして、注意深く神様の言葉を読む時間を持つなら、そこにはもっと多くの発見があるでしょう。

 今まで何度も言ってきたことをもう一度ここで言いたいと思います。毎日神様と静かな時を持って、神様の言葉ー聖書ーを学び、神様と祈りで会話(コミュニケート)する習慣を作って、それを

実行して頂きたいと強くお薦めします。私は皆さんの牧師の一人として、皆さんをそのように導くことが最も重要なことの一つでると感じています。

  学びと祈りは二つの霊的な修養として全てのクリスチャンが日常的(規則正しく)に実践すべきことです。食物が身体を維持するために必要であると同様に、このことは魂にとって欠くことのできないものです。

  もし皆さんが、“食事をしましょう。でも、仕事が全部終わってからね。それと必要な電話をし終わってメールの返事を書いたらだけど” などと考えていると、バランスの取れたライフスタイルや健康的身体を維持するために必要な食生活を作ることはできないでしょう?規則正しい食事をする必要があるのと同じように、神様の言葉を通して神様の声を聞いて、皆さんの心の中にある ことについて神様と会話をするための特別な時間を作ることが大事なのです。

  ほかの修養もあります。何千年もに渡って、信仰を持つ人々が大変有益とであることを見つけたものです。それらは皆さんが個人的な必要を満たすため、部分的にでも用いることができるものです。例えば、ゴシップ(噂話)を避けたくて苦労しているなら、沈黙は有益という具合です。

2                      

 

  もし皆さんが自分の必要を満たすことについて神様に信頼するのに葛藤し、自分でその必要を満たそうして返って様々な問題を生じさせることになったら、断食が、必要なことを与えてくださるよう霊的に神様に信頼することを教えてくれます。もし皆さんが貧しい人を助けなければならないと思うものの、それが出来ないと考える時には、断食をすることで、食べるものがない人々の気持ちをいくらか理解する助けになり、施しへと導かれることになるでしょう。もし孤独が皆さんの生活にダメージを与えるのなら、クリスチャンとの交わりが皆さんの必要とするものかもしれません。また、もし皆さんが鏡を見て、そこに不愉快な喜びのない人の顔を見るのなら、祝福の習慣を作ることが、よりキリストのようなクリスチャンとなる助けとなるでしょう。どんな修養が皆さんの助けとなるのでしょうね?

 

  これまでお話ししてきたことは本日の聖書の話とは直接関係するものではありませんが、私はこれらの事を話す必要があると思い話しました。

  

   それでは、イエス様がヨナの子シモンと話をされたことに戻りましょう。

    ある日主は、シモンとほかの弟子達に非常に重要な質問をします。 それは「あなた方は私を誰

  だと思うか?」というものです。

    するとペテロは、”イエス様が神様の御子キリストである“と正しい答えを言います。イエス様はそれを聞いて「祝福された者よ。ヨナの子シモン。このことをあなたに示したのは人ではなく天にいます私の父です。」(マタイ16章17節)と言われます。

  ワァオ、救世主ご自身から祝福されるなんて、すっごく嬉しいことですよね。この時がペテロにとって最上の瞬間です。

  しかし、この短い会話は多くの疑問を提供しています。

  残りの時間でこれらの疑問五つについて見ていきたいと思います。

第1は、“イエス様の質問は御自身について、私達に何を伝えようといているのか?”

第2は、“ペテロの答えは彼自身について何を示しているのか?”

第3は、“イエス様が御自身に従う者が持つように求めている信仰とは何か?”

第4は、“何故、イエス様はペテロを「ヨナの子シモン」と呼ばれたのか?

第5は、”この会話がペテロの後の人生の道にどんな光を差し込むのか?“

そして、これらの質問への答えを通して、”キリストは、今日、キリストに従っている私達に、今、何を仰りたいのか?“

 

1番目、”あなた方は私を誰だと言いますか?“についてです。

神様は単なる”一連の教え“や”私達が到達しようとする素晴らしい理想“またはスターウォーズに出てくる”フォース(理力)“のようではありません。神様はそれらより、もっと人格的なお方です。だから、皆さんや私、また全ての人が御自身をどう思うのか、神様にとって重要なのです。なので、神様は私達の一人ひとりにこの質問をされ、私達は遅かれ早かれ私達自身の方法で、その質問に答えることになります。たとえ私達が何年間も深く考えた末に結論に至らないとしても、また、神様を信じるか否かを決める確信に至らなくとも、これら全ての反応そのものが、この質問への答え方になるのです。

 

 私達が信仰と愛によって神様に応答するようになる時、私達はペテロと一緒に”あなたは生ける神の御子キリストです。」(16節)と答えることができます。このようにして私達は神様の子供となると主は仰っています。

  ペテロは「子供の頃両親がいつも礼拝に連れて行ってくれた」とは答えません。「私には神様を信じている友人がいっぱいいますし、いつも信仰や宗教について読んでいます」とは答えません。そうではなく、もし私達がキリストに従う者であるならば、私達それぞれが自由に、キリストを救い主、主として心に受け入れる選択をするのです。

 

3                      

 

誰かが。“神様に孫はいない。”と言ったように、神様は私達に、神様こそが天におられる私達の父であると知ってもらいたいのです。

イエス様の質問は神様の御心を示しています。それは、私達が信仰によって自由に神様の家族に入ることを選択しなければならないことを神様は知って、神様がそれを深く望んでおられるという事です。

 

 第2に、ペテロの答えは、彼がすすんで(自分の意志によって)神様に導かれて従って行くことを示すものです。これはこれだけで十分です。この単純な選択で、ペテロは信仰の生活を始めることができるのです。

 

第3に、信仰とは本当は何なのか?ということ。イエス様の言葉はこれを理解する中心となる何かを、また、よく忘れがちな神様と私達の関係について教えてくれます。

 ここで主は、信仰の種を植え付けるためペテロの心に働かれます。イエス様は「これをあなたに告げたのは人ではなく、天におられる父があなたに示したのです。」(17節)と言われます。

 

 お分かりになりましたでしょうか?これはもっと深く理解するべきものです。イエス様は、信仰は神様と一緒に始まると言っておられるのです。

  私達は、人々が、信仰にたった偉大な男性や女性を賞賛するのを聞くことがあるかもしれません。 何年間もの学びや奉仕の結果、深い霊的で崇高なことを成し遂げたような人をです。しかし聖書で教えている信仰は全くそのようなものではありません。ヘブル人への手紙12章2節ではイエス様を“信仰の創始者であり、完成者であるイエス”とあります。信仰は神様から来るのです。イエス様は信仰を支え、守るお方であり、また、完成に向けて育てるお方でもあります。私達の信仰はこの世において決して完全となることはありません。しかし、イエス様は御自身を信頼する者の信仰を完全となるように成長の道筋を定められたのです。 そして、イエス様が私達を天の御国へ連れて行く時に、私達を完成へと形作るプロセスを完成させます。即ち、イエス様が絶えず私達がそうなるように望まれていた通りに、人を完全にされるのです。

  これが神様が私達を教える時に意図することなのです。エペソ人への手紙2章8節では、“なぜなら、あなた方が救われたのは、恵により、信仰を通してであって、これは、あなた方自身から出たものではなく、神の賜物であるからです。”とあります。

  人として、時に私達はこの信仰の‘基本的な事実を忘れてしまう傾向にあります。私達は“良い生活(私達が思うものなんであれ)”をおくるチャンスは全て私達ー正しい選択をし十分に頑張るー

にかかっていると思っています。聖書の時代に生きた人々もそのように考えました。それで、神様はパウロを通して、ガラテヤ人への手紙3章2〜4節で、そのような人をキリストにある本当の信仰へ戻るように呼びかけました。

 “ただこれだけを、あなた方から聞いておきたい。あなた方が御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰を持って聞いたからですか。あなた方はどこまで道理が分からないのですか。御霊で始まったあなた方が、今、肉によって完成されるというのですか。あなた方があれほどのことを経験したのは、無駄だったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょう。”

 

  一方で、私達の信仰による生活が基本的に私達(私達の行動)に頼っていないと知るのは、惨めで居心地が悪いことです。これを理解することは物事の中心から私を連れ出し、手に負えなくするのです。私は、私の内側で力いっぱい抵抗するかもしれません。しかし、最終的には神様がコントロールされると理解すること、これが平安への道を見ることなのです。神様にある信仰を持たせて下さった神様が、そもそも、その日その日の私達の信仰を支えることをいとわないと知ることは自由であること、そして大きな希望の根源なのです。それは自分達が誇るべきと考えるかもしれない私達の理由を取り去ってしまいます。そして同時に私達からプレッシャーを取り去ってくれるのです。これからの不確かな日々において例えどんなことが私達に起ころうと、私達はピリピ人への手紙1章6節で “あなた方のうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエス

4                      

 

の日が来るまでにそれを完成させて下さることを私は堅く信じているのです。”、神様が私達に与えて下さった素晴らしい約束に堅くしがみつくことができるのです。

 

  イエス様はペテロを”ヨナの子シモン“と呼ばれました(17節) 何故この名前を使われたのでしょう。当時の文化ではペテロをそのように呼ぶことは特異なことではなかったのです。ペテロの名前は ”シモン・ペテロ“ で父親の名前はヨナ、又はヨンでした。ですが、もっとあったようです。聖書のこの箇所の残りを読むと、ペテロは旧約聖書の預言者ヨナのような人だ、ということが様々な方法によって知るヒントを見つけることができます。

 

  先月の英語礼拝でペテロのことを学びましたが細かい部分までする時間がありませんでした。

 ヨナと大魚の物語の一つの鍵は、ヨナの過ちから学ぶという事です。神様は、預言者ヨナを重要な手本として見習うように語っておられないと思います。神様がヨナにメッセージをお与えになった時、ヨナが逃げようとしたからだけではなく、助けるために遣わされた人々に対して、ヨナがすごく心配してるふうではないからです。ヨナは最終的にニネベに到着し、いつの世でも最悪な事かもしれない、そんな説教をします。即ち ”40日以内にニネベの町は滅ぼされる“(ヨナ書3章4節)です。 でも明らかにたったこれだけです。全てのことが審判についてであり、神様のめぐみや赦したいという願い、ニネベの人々を神様の家族として迎えたい、こんな事には全く触れていません。しかし神様はとにかく、このメッセージを用いて、全ての人々(ニネベの)を悔いあらために導きます。その結果、主である神様は方針を変えニネベの人々を罰しません。なので、ヨナには、多くの新しい友人たちとこれを喜び、神様の愛の素晴らしさを分かち合う機会があったのですが、ヨナはそのようにはしません。そのかわり町の外でニネベが滅ぼされるのを待っていたのです。ヨナのいるところに木が生えて彼を涼しく快適にしてくれたことは喜んだのですが、神様がニネベの多くの人を赦し命を与えたことには全く喜んだ様子は見えません。そこで神様は、喜ぶべき当然の理由があるにもかかわらず、怒っているヨナを叱責します。そこでこの話は唐突に終わっています。

 

   えーと、このような一連の出来事をどうやって意味のあるものとすることができるのでしょう。ペテロの話が助けてくれます。ヨナの時代から何世代も経過していますが、ペテロはヨナと同じくらいn弱さ、不完全性、偏見を持っていると思えるのです。それでペテロは様々な意味で”ヨナの子“と見なされるのです。

  覚えていますか? ペテロは嵐の中、船から出てイエス様の方へ水の上を歩いて行き、怖くなり沈みかけ、イエス様が波の中から助け上げた、その人です。

 そしてイエス様を救い主と認識するという ”輝かしい瞬間“ のすぐ後、イエス様に ”十字架にかかって死んでしまうなどと話してはいけません。“と言った、その人です。この時イエス様はペテロに、”下がれ。サタン。“ (マルコ8章33節)と言われました。

 山の頂でイエス様が変わられた時には、ペテロが話し始めて止まらなくなり、まるでペテロを止めるかのように神様が来られ、彼やほかの弟子達にイエス様の話を聞く様に言われました。

  つまりペテロは物事を注意深く考える前に話してしまう癖があるのです。また、激情家でもあり、イエス様を守ろうとして、男の耳を切り落とすほどで、その結果、またしてもイエス様から叱られてしまいます。イエス様を明らかに

知っているのに、3回否定しました。それも、そんな事は決してしないと公に宣言した直後です。ペテロの最悪な瞬間です。ペテロはヨナと同様、信仰の手本には程遠いのです。イエス様の十字架、復活、そして教会のリーダーとして働き始めた後でさえ、ペテロはユダヤ人以外の人々に対する人種的な偏見を持っているように見えます。パウロがこのことの故に公に彼に反対しています。(ガラテヤ人への手紙2章11節)

 

 イエス様がペテロに話しかけられた今日の箇所(マタイ16章)で、ペテロの未熟な信仰がペテロ自身を困らせることになるとイエス様は確実に分かっています。

5                      

 

  イエス様はペテロに「ヨナの子」と呼びかけますが、きっとペテロに”私がなってもらいたいと思う者にお前が成長するには、もう少し長くかかる。が心配する必要はない。お前の成功はお前を離さない。神が多くの欠点があったヨナと同じようにお前の過ちを用いて偉大な事をなされる方法を既に見つけておられる。私もそのように、ありのままのお前を使おう。お前が私の用をする前に私がお前を助けよう。“と言い聞かせるためだったと思います。

  ペテロがこの呼びかけに答える選択をし、従う時、神様はペトロの人生と働きを偉大なことの為に使われます。そしてその働きはペテロが亡くなった後長きに渡り実を結び続けるのです。神様はそのようなことを私達の人生においてもされたいと思っておられます。

  私達は自分の信仰の弱さを知る時、この教えの中に大きな慰めを見つけることができるでしょう。これは、私達が、私達の目前の仕事を完成させるには、持っている力以上のものが必要であると思う時、明るい希望へと導いてくれます。

 

 第5、イエス様は続けて言われます(18節) ”あなたはペテロです。この岩の上に私の教会を建てよう。ハデスの門もこれを壊すほど強くはありません。“ と。

 またしても、イエス様がペテロを、どのような組織の、ましてや世界の人々に救いをもたらす神様の選ばれし道具である教会のリーダーとして、全くふさわしくないのに選ぶとは驚きます。しかし神様はそうなさるのです。

  多分、そのような人を選ばれるのは、神様が彼や私達のような不完全(壊れた)な道具を使って

御業を為される時に、神様の御業がそのものがよりはっきりと分かるためです。おそらく、神様がヨナやペテロのような人物に見ているものは、教えやすい(教えを聞く)心であり、素晴らしい技術や知識又はすでに持っている信仰ではなくて、知りたい成長したいという乾きだと思います。神様はそれらの人の中に、失敗しても何度も何度も起き上がろうとする、失敗を神様が良い事のために用いて下さると受け止める、そのような意志を認めておられるのではないかと思います。

 

 結局、神様だけが理由を知っているけれど、しかし明らかである事、それは神様には神様の教会を建てる御計画があり、完全とは程遠い人々を、その御業を達成するために日常的に使われるという事です。神様は、神様と離れ神様の加護と祝福を外れて生活しているこの世界のあり様に満足なさっていません。神様は皆さんや私の現実の生活に満足なさっていません。神様は、愛する、信仰を持つ人々のために神様の助けによって実現できる、もっと大きな夢を持っておられます。私達の壊れた世界に平安と健康、安定をもたらすための神様の御計画とは教会のことです。皆さんや私、オープンドア全体として、そして世界中の何百万の人々には、その働きのためにそれぞれが果たすべき役割があるのです。神様は、シモン、ヨナの子と呼ばれる同じ名前の私達やほかの多くの人達に、神様の群れに加わり神様の教会を建てあげようと呼んでおられます。私達が信仰と愛によって、その呼びかけに答えることができるように祈りましょう。

 

 全ての主である神様、あなたなしでは私達は失われた者で孤独です。しかしあなたが共におられれば全てのことが可能です。ですから私達の人生の旅の全てであなたが導いて下さるとおりに、あなたの側近くで毎日歩いて行けるよう助けて下さい。

 私達が、キリストの教会にあって、信仰によるあなたの家族として生きる中で、思い切って大きく夢を見て、深く愛し、大胆に行動できるように助けて下さい。聖霊の御力によって、生ける神の御子イエス様を知り、もっと似た者となることができるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。