一致のあるところに神の祝福

2018年2月4日主日礼拝「一致のあるところに神の祝福」詩篇133:1~3 佐々木俊一牧師

「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんという幸せ、なんという楽しさであろう。それは頭の上に注がれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れて、その衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じたからである。」詩篇133:1-3

■1節 この箇所はダビデによるものです。「兄弟」とは、ダビデの兄弟というよりも、イスラエルの12の部族のことをさしていると考えるのがよいでしょう。また、旧約聖書のことばは、クリスチャンにとっても神の言葉です。そういう意味では、「兄弟」とは、主にある「兄弟姉妹」と考えてよいと思います。「ひとつになって」は、ふつうのことばで言うなら、「仲良く」ということでしょう。ですから、私たちクリスチャンにとって、ここは、主にある兄弟姉妹が仲良く共に住むことは、楽しくて、幸せなことだと言うことです。

  このみことばから連想させる箇所が新約聖書の中にあります。それは、使徒の働き2:46~47のみことばです。

「そして、毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

  主にある兄弟姉妹が一つになって集まるところに主の祝福があるのがうかがえます。ところが、使徒の働き6章を見ると、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人の間にトラブルが生じたことも書かれています。実際のところ、「一つになって」を維持することは、言うのは簡単だけれども、やるのは難しいのです。一致を維持していくことは、初代教会においてさえ難しいことであったということがわかります。しかし、神様に聞き従う中でそのような問題は克服されていっていることも事実です。ですから、私たちは、今日のみことばを、ただ単に理想とすべきではなく、目標とすべきです。このみことばを、オープン・ドア・チャペルのものさしとし、このみことばによってズレに気づかされるときには、軌道修正すればよいのです。

■2節 どのようなときに頭の上に油を注ぐでしょうか。聖書を見てみましょう。

「これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油をそそぎ、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせよ。」(出エジプト記28:41)「そそぎの油を取って、彼の頭にそそぎ、彼に油そそぎをする。」(出エジプト記29:7)

「サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。『主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。』」(Ⅰサムエル10:1)

「エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。『さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。』サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。」(Ⅰサムエル16:12~13)

出エジプト記28:41と29:7は、アロンが大祭司職に任命されるとき。Ⅰサムエル10:1は、サウルがイスラエルの王に任命されるとき。Ⅰサムエル16:12~13は、ダビデがイスラエルの王に任命されるとき。 頭の上に油を注ぐときとは、神様の働きを担う者を任命するときに行う行為です。油そそぎによって、その働きを成し遂げるために必要な力が与えられたのです。

   私たちクリスチャンにとって、この箇所はどのような意味があるでしょうか。教会はキリストの体です。そして、キリストは教会のかしらです。キリストの意味は「油注がれた者」という意味であり、キリストは既に油注がれたお方です。油注がれたお方が教会の頭なのですから、教会は神様の働きを成し遂げるために必要な力をすでに与えられているのです。兄弟姉妹の間に愛があり、一致があるとき、キリストの力は発揮されます。反対に、兄弟姉妹の間に愛がなく、一致がないならば、そこにはキリストの力はありません。人の力に頼るしかないのです。

■3節 ヘルモン山はイスラエル北部にある2814メートルの高い山です。そこは、雪が積もるくらい雪が降るところです。リフトがあって冬にはスキーができます。ヘルモン山の周辺は、雨の少ない地域であるにもかかわらず、雪解け水による豊富な地下水とその地域特有の気象条件による露のしずくによって、肥沃な土地が広がっています。果物や小麦などの作物が豊かに実る場所となっています。これに似た水の恵みがダビデの町、シオンにもありました。ダビデの町、シオンとは、エルサレムのことです。エルサレムの山々にもヘルモン山に似た水の恵みがあったのです。ところで、みなさん、ダビデの町と言ったら、ベツレヘムですよね。ルカ2:11にそのように書いてあります。しかし、旧約聖書でダビデの町と言ったら、エルサレムです。Ⅱサムエル5:7とⅠ歴代11:5にそのように書かれています。シオンとは、エルサレムのことです。

   聖書の中で、「シオン」とは、エルサレム以外にも意味することがあります。それは、イスラエルという国を意味する場合があり、教会を意味する場合があり、そして、神の御国を意味する場合があります。

   いずれにしても、シオンは、神様の祝福が豊かにあるところです。何よりも、シオンには、キリストにある永遠のいのちの祝福があるのです。シオンは、主を信じる者たちが一つになって共に住むところです。そこは神様が共にいて、豊かな祝福を与えてくださるところなのです。教会もそうです。神様が共にいて豊かな祝福のあるところなのです。

■私たちが一致するときに神様の祝福が注がれることを表す聖書箇所をもう一つ読んでみたいと思います。

Ⅱ歴代誌5:13~14 「ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。』と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」

ソロモンの神殿が完成した後、ダビデの幕屋にあった神の箱(契約の箱)を神殿の至聖所に運びました。(※その箱にはマナの入ったつぼと芽を吹き出したアロンのアーモンドの杖とモーセがシナイ山で受けた十戒の書かれた2枚の岩が納められていました。) そして、ソロモンは、感謝と賛美と喜びとを神様にささげました。このとき、すべての楽器と歌う者たちはまるで一つであるかのように、つまり、一致して賛美を響かせました。そうすると、神殿の中に雲が立ちこめ、主の栄光が宮に満ちたのです。私たちが神様のみ前に思いを一つにして賛美をするとき、または、思いを一つにして神様の働きをするとき、神様が力強く働かれると言うことではないでしょうか。 

■一致するときの祝福を見てきましたが、一致を求めるときに気を付けなければならないことがあります。お互いに事情が異なりますし、お互いに考え方も違います。そのような中で一致をするのは難しいと感じるのは当然のことだとも言えます。難しいがゆえに、つい強制的な一致を求めてしまいがちな人間の弱さもあります。そんな一致は長続きしませんし、不健全で破壊的です。お互いに、相手の立場に立って考え、思いやりを持つことによっての方が、時間はかかりますが建設的で健全な一致をもたらすことができるでしょう。一致のために祈りましょう。そして、考えてみましょう。どのように行動することが一致をもたらし、どのように行動することが不一致をもたらすのか。どのように語ることが一致をもたらし、どのように語ることが不一致をもたらすのか。一致がなくなるくらいならやめてしまった方がよいこともあります。それほどに、一致は最優先に来ることです。一致を大切なこととして意識しましょう。一致のあるところには、神様の祝福が注がれるのです。教会はその祝福を受けることのできるところです。それではお祈りします。