神のみこころを行なうために

2017.12.17主日礼拝「神のみこころを行なうために」ヨハネ6:38~48佐々木俊一牧師 

■イエス・キリストがお生まれになったベツレヘムという町の画像を少し見てみたいと思います。ベツレヘムはエルサレムから南へ10キロメートル離れたところにあります。ユダヤ山地にあり、標高は800メートルほどです。現在、約3万人の人々が住んでいるそうです。ここはパレスチナ自治区で、その多くがパレスチナ人です。パレスチナ人の中には少数のクリスチャンがいます。ここは比較的クリスチャンの多いところで、約40パーセントがクリスチャンだそうです。以前はクリスチャンの数がもっと多かったそうです。イスラエルには、ベツレヘムやナザレのように、クリスチャンの割合が比較的多い地域があるようです。

  旧約聖書を見ると、この一帯は、ヨセフの先祖、イスラエルの12部族の一つ、ユダ族に与えられた土地であることがわかります。また、そこは、ヨセフよりも1000年も前にイスラエルの王様となっていたヨセフの先祖、ダビデの生まれた場所でもありました。ですから、ダビデの町とも言われています。ベツレヘムという町の名前はとても面白い意味があります。それは、「パンの家」という意味です。イエス様がご自分のことを、「天から下ってきたいのちのパン」と言っています。いのちのパンであるイエス様が、「パンの家」という意味の町、ベツレヘムに生まれ、そして、馬の餌箱である飼葉おけに寝かされたということには、何か神様の意図があるように感じます。

■38節~39節 イエス・キリストは神なるお方であるのに人となってこの地上に来られました。何をするためにこの地上に来られたのでしょうか。このところに、「自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」と書かれています。

  イエス様は、自分のこころを行なうためではなく、ご自身をこの地上に遣わした方、父なる神様のみこころを行なうために来たのであると言っています。イエス・キリストは完全に人であり、かつ、完全に神なるお方です。私たち人間と同じ肉体の欲求と弱さを感じていたと思います。お腹もすくでしょうし、喉も渇くでしょう。肉体の痛みを感じたり、苦しみを感じたり、弱さを感じたりしたことでしょう。十字架にかかって死ぬよりも、それを避けてイスラエルの王様の座に着く方がずっと楽だったに違いありません。しかし、そのような選択をしていたならば、神様のみこころが成ることはありませんでした。痛みや苦しみや弱さがある中、イエス様は人としてのこころではなく、神様のみこころを選び続けたのです。

  イエス様に与えられたミッションは、ご自分に与えられたすべての者、つまり、イエス・キリストを信じる者みなを終わりの日によみがえらせるということです。それは、イエス・キリストを信じる者みなが永遠のいのちを持つことであり、永遠のいのちを持つ人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせるのだとイエス様は言っているのです。

■41節~42節 それを聞いていたユダヤ人たちは、イエス様についてつぶやき始めました。イエス様が、「わたしは天から下って来たパンである。」と言ったものですから、それについて、「お前はなんて変なことを言う奴なんだ。」と言い返して来たのです。「お前はただの人間であって、それも、無学な大工のヨセフが父親で、地位があるわけでもなく、お金があるわけでもなく、お前だって父親同様、無学ではないか。そんなお前が、30歳を過ぎて、今になって天から下って来ただって。おかしなことを言うな!」彼らのつぶやきはこんな感じではなかったでしょうか。

  しかし、イエス様はこのようなことを言われても動じませんでした。イエス様の神の御子としてのアイデンティティは、人が何と言おうとも揺るがされることはありませんでした。それは、イエス様が人の思いやことばによってではなく、神の思いと神のことばによって導かれていたからです。これは、私たちにとって模範であり、適用できることです。イエス・キリストを信じている私たちは、神の子どもとされています。ですから、私たちも、人が何を言おうと、人がどう思おうと、関係ありません。それによって、神の子どもとしての立場が無くなってしまうわけではないからです。私たちが、私たちに対する神様の思いとことばをしっかりと受け取ることができるならば、人の思いやことばによって、自信を無くしたり、がっかりしたり、動揺したり、影響されたりしなくてよいのです。たとえば、自分が尊ばれなかったり、見下げられたりしたとしても、神様が自分ことをどう思っているのか、そのことをしっかりととらえているならば問題ありません。重要なのは、そこのところなのです。たとえ、あなたがないがしろにされ、見下され、愛されていないと感じたとしても、神様の見方は違います。神様にとってあなたは大切な存在であり、愛すべき存在なのです。神と人のどちらが正しいですか。人がどうであろうとも、真実は神様にあるのです。

■43節~45節 イエス様は本当に強いですね。イエス様の言うことには権威があります。イエス様は、イエス様の悪口を言う人たちに向かって言いました。「互いにつぶやくのはやめなさい。」と。「わたしを遣わした父が引き寄せられない限り、だれもわたしのところに来ることはできません。」もっと直接的に言うならば、「あなたたちがそんなことを言うのは、父なる神様があなたたちを招いていないからです。そんなことを言うあなたたちは、父なる神様のところ来ることはできません。」ということになるでしょうか。イエス様の悪口を言っている人たちは、自分たちこそが正しい者であり、神に選ばれた者であると自負していました。しかし、実際は、彼らのような人々は、神様に選ばれていなかったのです。イエス様のことばを聞いて、救い主を見出す人は、神様のところに招かれるのです。

■46節 誰も神を見た者はありません。神は肉眼では見ることができないのです。イエス様だけが父なる神を見たのです。なぜならば、イエス様は父なる神の元から遣わされた方だからです。ヨハネ1:18に、このように書かれています。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

  神の御子なるお方が人となって、この人間の世界に入って来られました。そして、そのお方をとおして、人は神がどのようなお方なのかを知る機会が与えられたのです。旧約聖書をとおして私たちが持つ神のイメージは裁きの神、ただ恐ろしい神ではないでしょうか。しかし、そのイメージはイエス・キリストによって取り除かれました。イエス・キリストは私たちに神の真実の姿を説き明かされたのです。今、私たちは、イエス・キリストをとおして神様がどのようなお方なのかを知ることができるのです。

■47節~48節 イエス・キリストは天から下られたいのちのパンです。そのいのちのパンを食べるならば、私たちは永遠のいのちを受けるのです。いのちのパンを食べるとは、イエス・キリストを信じることです。イエス・キリストを信じる者は永遠のいのちを受けるのです。

■終わりに、マリヤとヨセフのことを考えてみたいと思います。彼らも、自分のこころではなく、神のみこころに従いました。救い主イエス・キリストの誕生は、彼らが予想もしない形で起こりました。彼らに起こった出来事は、彼らの思いをはるかに超えていたことでした。特に、マリヤの夫であるヨセフにとって、救い主誕生の出来事は突然降りかかった災いのようなものでした。彼の葛藤と苦しみは非常に大きなものであったと思われます。しかし、ヨセフは、この出来事を神の導きの中で受け入れました。受け入れることができたのは、何よりも、ヨセフが神様を大切にし、神様のみこころを求め、神様に従いたいと願う人であったからです。彼は、自分のこころではなくて、神のみこころを選びました。彼は、ふつうの人でしたが、神のみ前にへりくだることを知っていたりっぱな人です。だからこそ、彼は、彼の思いを越えてその向う側にある神の備えた希望を、信仰によって見ることができたのです。災いと思われる出来事の中には、もしかすると、私たちの将来を作り上げ、本物の希望へと導く道が隠されているのかもしれません。そして、神様の計画は、このような人々によって前進していくものであることを覚えておきたいと思います。

  私たちの救い主、イエス・キリストは、自分のこころを行なうためではなく、神のみこころを行なうためにこの地上に人となって来られました。痛みや苦しみや弱さがある中、イエス様は神様のみこころを選び続けました。そして、神様から受けた使命をまっとうしました。イエス・キリストを信じる者たちのために、救いの道をつくられたのです。

イエス様は私たちの模範です。自分のこころではなく、神のみこころを行うことを、私たちも学んでいきたいと思います。それでは、お祈りします。